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駿河台座談・インタビュー


 

目次

 

インタビュー 大西竹二郎 氏 短編映画の世界

 

インタビュー 斎藤茂太 氏 現代の精神科医療について

 

今日出海先生を偲ぶ 大木直太郎・岡本勇・青沼一郎・林秀雄

 

渋沢孝輔・入沢康夫 両氏にきく -私の中の現代詩-

 

本多秋五氏にきく -戦後文学を中心とした 私の文学回顧-

 

柴生田稔先生にきく -読売文学賞受賞作品『斎藤茂吉伝 並に続篇』について-

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インタビュー 大西竹二郎 氏

     「短 編 映 画 の 世 界」

 

大西竹二郎(おおにし たけじろう)

      映画監督・脚本家。一九三一年、埼玉県生れ。明治大学文学部仏文科卒業。
  東映㈱教育映画部作品を主に、43年間に200本余の短編映画を監督。

 

聞き手 多田統一(ただ とういち)

 

――大西さんの子供の頃の映画体験は、どういうものでした。

大西 エノケンやロッパの喜劇映画をよく見ました。昭和15年頃で、国民小学校の4、5年生であったと思います。日中戦争が始まっていて、ニュース映画や文化映画も映画館で見ました。

 ――私も祖母が市川雷蔵や片岡千恵蔵のファンだったものですから、よく時代劇を見に連れて行って貰ったものです。

大西 時代劇は確か、終戦直後は一時禁止されていて、解禁されてからは私も見に行きました。あのころは映画が唯一の娯楽で、いつも立見席が出る程でした。

 ――大学生になってからも、よく映画は見られたのですね。

大西 当時は、フランス映画やイタリア映画がよく上映されていました。神保町には映画  館が数軒あって、休講の時などはよく立ち寄りました。

 ――私の学生時代は、日活ロマンポルノの時代でした。

大西 その頃は、もう助監督の下っ端で、走り回っていました。

 ――映像の世界では入社すると、どういうポジションに就けるんですか。

大西 私が映画の世界に入った昭和30年代は、松竹、東宝、新東宝、大映などが映画の製作・配給会社として知られていました。私は東映に新設された教育映画部というところへ、助監督見習いとして紹介されたんです。社員は事務系と営業課、企画制作課などが主です。撮影現場で働くスタッフはほとんどがフリーで、作品ごとの契約でした。監督の下にチームが編成され、その内訳は監督(演出)部、撮影部、録音部、美術部、衣装部などで、技師を頭にチーフ、セカンド、サードといった助手が3名くらい付きます。その他に、スクリプター(記録)、メイク、制作進行などの担当者がいるといった縦社会です。

 ――大西さんは脚本から監督の道に入られましたね。

大西 はい。興業のための長編劇映画、つまり、娯楽ものや文芸ものを製作する映画会社には脚本部が独立してありました。ところが、私が所属した教育映画部というところは、脚本も監督も両方こなせないと仕事にならないところでした。映画というと、長編も短編も同じだと思われがちなんですが、違うところが多いんです。特に戦後、GHQが視聴覚映画の推進を図ってからは、戦前、戦中に作られていたニュース映画や文化映画よりもジャンルが多様化しました。例えば、学校教材映画でも理科、社会科、家庭科といった教科ごとに作られました。社会人を対象とした短編でも、一般教養のもの、民主化教育のためのもの、火災や交通事故を起こさないためのものなど、社会教育映画と言う新ジャンルのものが生まれました。そして、高度成長期になると、企業もPR映画をつくるようになり、国や地方公共団体なども広報用映画を作ったりして、短編の世界は多種多様になっていったんです

 ――子供のころ、学校の講堂で文部省特選の映画が時々上映されていたように思います。大西 学校や公民館で上映される短編は殆どが無料です。制作された短編作品は都道府県のフィルムライブラリーに購入して貰います。利用者はライブラリーから無料で借り出し、活用できる仕組みです。ライブラリーの作品購入予算は税金ですから、短編映画業界の収益は、税収によって大きく左右されるんです。映画館なら、お客様が入場料を払って見に来て下さる。作品がヒットすれば、利益は大きい。短編映画では、収益が劇場映画のように大きく伸びることは、まず考えられない。こんなところにも違いがあります。

 ――映画作りに関わって来られて、最も印象に残っていることは何ですか。

大西 昭和54年にアメリカへ3か月間、ロケに行ったことです。まだ、海外ロケなんて稀  れな時代でした。私自身、初めての海外旅行でした。中学校社会科の教材映画です。「合衆国の農業の特色」と「都市の生活」をテーマにした2作品の取材でした。スタッフはプロデューサー、制作担当、監督の私とカメラマン、それに通訳の日系青年の計5名です。レンタカー1台に撮影機材と私物をひっくるめ、すべてが積み込める移動態勢です。長編の劇場映画でしたら考えられないような少数メンバーです。

 ――アメリカの後、カナダの小麦地帯の取材をされたんですか。

大西 いえ、カナダまで越境せずに、結局はアメリカ合衆国内で撮れたんです。プロデューサーがアメリカの小麦協会に連絡をとっていて、今が収穫期だからというので、指定された北部へ飛んだんです。ところが、小型旅客機の窓から大地を見下ろしたら、黄金色に輝いているはずの小麦畑が、トラ刈りどころか収穫後の赤土が剥き出していたんです。私達は青くなりました。モンタナ州の小さな空港に降り立ったら、迎えにきているはずの人影がない。非難の目がプロデューサーに集中しました。おまけに器材の一部が未到着で、空港の係員に抗議したら、「次の便で来るであろう」と、のんびりしたものでした。途方に暮れていたら、そこに、ポンコツの作業車が砂埃を巻き上げながらやって来て、アメリカの農協勤めといった感じの若者が降り立ったんです。通訳とのやり取りから、若者は、「協会のボスは収穫が終わったのでバカンスをとっている」と告げているようで、肩を竦めて見せました。私たちは打ちのめされました。余りの落胆ぶりに同情してくれたのか、若者は、「カナダならまだやっている」と慰めてくれたんです。アメリカの農業をカナダで撮影するなんて、許される話ではないですからね。まさに万事休すでした。

 取り敢えず、空港近くのモーテルに荷を解きました。気の毒がった若者が知り合いに問い合わせてくれて、「ヘレーナという田舎町から更に北へ、カナダの国境寄りで収穫をしているようだ」と農場の名前と電話番号を教えてくれました。早速、電話を入れました。しかし、呼び出し音が鳴るだけなんです。地図で調べたら、さして遠くないように思えたので、レンタカーを手配し、直接尋ねてみることにしました。小一時間も走れば着くだろうと思ったんです。ところが、平原の一本道はどこまでも続くばかりで、いつの間にか夕闇の中を走っていました。通訳の青年に代わって制作担当が左ハンドルに初挑戦、一台の車とも擦れ違っていない田舎道だったので誰も反対しませんでした。3時間くらい走ったでしょうか、ポツンと灯が見えてきたので、その一軒家に車を寄せました。通訳が一人で降りていったら家の中から犬の吠える声がして、チェーンのかかったドアーが少し開き、その隙間からショットガンの銃口を向けた男の姿が私逹の車からはっきり見えました。怖かったです。相手も得体の知れない東洋人グループが予告なしに現れたのですから怖かったのでしょう。教えられた方向に更に走っていたら、いつの間にか国境警備隊のパトカーが我々の後ろにぴったりと付いているんです。ショットガンの男が通報したんでしょうね。日本のアメリカ大使館が発行してくれた証明書と撮影協力依頼書を見せて説明したら、訪問先の農家まで先導してくれました。その農家では、大型コンバインのヘッドライトを灯して作業をしていました。家族総出でしたから電話に出ないわけです。翌日からの収穫作業を撮影させて貰えることになり、まずは一安心でした。ハプニングのことは、会報「駿河台」の9、101113号に「アメリカ撮影珍旅行」と題して載せて貰いました。未完で申し訳なかったのですが…。

 ――撮影は、地上からだけなんですか。

大西 アメリカの田舎では小型飛行機はタクシーでした。ですから、料金が安い。カメラ  マンがもっと撮影したいというので、時間延長を申し入れたらパイロットから断られました。彼は、「離婚して別々に暮らしている息子に会える唯一の日で、その時間に間に合わなくなる」と主張して、滑走路だけの小さな飛行場に私達を降ろすと、飛び去って行ってしまいました。アメリカの家庭生活の一面を垣間見た感じでした。

 ――もう一方の教材映画についてですが、アメリカは多種多様な人達が居ますね。

大西 ニューヨーク市で、人種のるつぼと言われる多民族の街も取材しました。黒人街のハーレムはまず外せないということで、警察に撮影協力を依頼したんです。ところが、危険だからと言って渋るんです。仕方なく、車の中から隠し撮りをしようとしたんですが、今度は劇映画出身のベテランカメラマンが渋るんです。三脚を据えて安定した画面で撮りたいんですね。その気持ちはよく分かるんです。万策尽きた感じでいたら、泊まっていたホテルの人が、「日曜日の教会風景なら撮影出来るのではないか」とアドバイスしてくれたんです。そこで、日曜日にハーレムに出掛けて行きました。そうしたら、道路両側に大勢の黒人たちが群がっていて、パレードがやってきたんです。なにかの記念日だったんですね。私は本能的というか、反射的にカメラの三脚を道路の真ん中に立てました。黒人の警官も群衆も私たちを咎めませんでした。パレードの取材班と思われたんでしょうね。思いっきりカメラを回しました。

 後日談があるんです。「危険なことなんかないじゃないか」と味をしめて、改めて町並みの撮影に出向いて行ったんです。そして、カメラマンが交差点近くの安全地帯にカメラを据えたんです。目立ち過ぎるところだなぁと思った私は、すぐに撮影するよう促したんですが、カメラマンは交差する人の流れを狙って、なかなかスイッチを押さないんです。そうこうしている内に、スーツを着た街の顔役風の黒人が反対側の歩道から私たちを指差し、声高に怒鳴っているんです。真っ先に逃げ出したのは通訳です。言葉が分かるのは彼だけですから。私も只事でないと感じて、カメラを載せたままの三脚を抱えて逃げました。カメラマンは不満顔で付いてきました。待たせてあった車に「エンジン!」と叫んで、みんなが飛び乗ったのを見て、フルスピードで発進させました。私は、群衆に取り囲まれて、カメラを取り上げられたら、その後の撮影が出来なくなることをなによりも恐れたんです。カメラマンもアメリカロケでは苦労が多かったと思います。劇映画でしたらカメラ助手が何人も付くのに、その助手を私がやったんですからね。

 そのことについて、イタリア人街の撮影でも印象的なことがありました。高い所から町並みが撮りたくて、角店のレストランの屋上に登らせて貰えないかと通訳に交渉させたんです。応対してくれた店の責任者は映画スターのような魅惑的なマダムでした。そのマダムに命じられて屋上へ案内してくれたのは黒スーツをビシッと決めたスマートな青年で、私の三脚の持ち方を見てニヤニヤしていました。青年が案内してくれたカメラポジションは的確で、我がベテランカメラマンも満足していました。後から聞かされた通訳の話ですと、レストラン周辺はイタリアンマヒィアの拠点だとのことで、ゴッドファーザーを始め、ギャング映画のロケが年中行われているところなのだそうです。撮影慣れした黒スーツの青年は、私を新米だと一目で見破っていたんですね。

 記録ものの場合は、予定していたものが撮れなかったり、予期せぬものが撮れたりします。現場で、シナリオは書き替えられていくんです。アメリカロケのシナリオも骨子や構成は出来ていましたが、取材しながら肉付けをしました。ですから、先に脚本と監督の両方の技倆が要求されると申しましたが、こういうことなんです。

 ――教育映画の配役は、どのように決めるんですか。

大西 配役を必要とするのは児童劇の場合と記録や解説方式にドラマ形式をミックスさせた新ジャンルの社会教育映画の場合です。後には、ドラマだけの社会教育映画も増えていきました。教育映画はスターの人気で集客力を高めようとする興業用映画とは違い、教材性、社会性などのテーマ重視の地味な作品作りなので、演技力中心に俳優座や文学座、民芸、その他の舞台俳優をキャスティングしました。ところが、その後、新ジャンルの社会教育映画に公共団体が注目し、自主企画で、その制作を東映教育映画部に依頼するようになりました。昭和40年代ころからでしょうか、関西以西を中心に部落差別をなくす運動が盛んになって、行政が人権尊重の精神を高めるための啓発映画を企画し始めたんです。形式は教材性に娯楽性も交えた50分位の中編ドラマという提示でした。おじいちゃん、おばあちゃんを始め、多くの市民に上映会や講演会場へと足を運んで頂きたい。その為には名前や顔の知られた俳優さん逹を少しでも好いから登場させて欲しいという要請でした。当初は部落差別とか同和問題の映画というだけで、俳優さんの事務所は警戒しましてね。出演したら偏見の目で見られるのではないかと言うんです。協力してくれる俳優さんを探すのが一苦労でした。新聞紙上にこの種の映画の紹介や作品評が載るようになってからです、出演交渉に応じてくれる事務所が増えて来たのは。

 ――脚本は大西さんが書かれたのですか。

大西 はい。地域の身近な課題を題材にして書きました。そして、取材した地域でロケを行いました。そのことが市民自らの課題として学習して貰えるのではないかという考えからです。それが企画した公共団体の制作意図なんです。ですから、現地へ出掛け、シナリオハンティングを行い、ドラマの構成案か検討用シナリオを作って、企画側の委員グループと討議を重ねます。おおむね良しということになったら、シナリオの全場面の撮影場所を決めるロケハンを行い、撮影用台本へと仕上げていくんです。そこまでで、半年以上は掛かります。ですから、クランクイン出来るのはどうしても秋口か年末近くになってしまいます。撮影期間は夜間撮影を含めて10日前後、オール地方ロケです。記録方式ではないので、スタッフ・キャスト40名近くの所帯になります。作品の完成は年を越します。その完成作品を持ってお世話になったロケ地で謝礼の試写会を開くと、もう年度末です。つまり、啓発映画を担当すると、一年一作に掛かりっ切りになりました。ですから、担当したがる監督も少ないし、長続きしないんです。私の場合は企画委員の指導者やスタッフに運良く恵まれたものですから、昭和55年度から平成12年頃まで30作前後担当させてもらえました。この間、私自身、ものの見方・考え方で教えられることが多かったです。

 ――初期のころの人権啓発映画は、どのような特徴がありましたか。

大西 心理的差別意識について見直す、人権尊重の精神を高めると言ったことが基本テーマでした。部落差別問題から、その後、男女差別、障害者の問題などが取り上げられていきました。学校でのいじめの事件が報道されると、いじめの問題が題材になりました。これらの底流には、差別意識との係わり、人権尊重の精神の欠如から起きる問題の共通性があるということで、人権全般の問題に広がりました。以前は、同和映画と呼ばれていたのが、今では人権啓発映画と呼ばれています。

 ――映像の流れとしては、映画の時代からテレビヘ、それどころか、現在では携帯の小さな画面しか見ない時代ですよ。若者に映画の魅力をどのように伝えて行けば良いのでしょうか。

大西 その辺のことが分かればよいのですが。テレビ受像機が各家庭、各教室、公共の諸  施設に一台ずつ置かれるようになると、16ミリ映写機は使われなくなって行きました。映写機は重いし、フィルムを掛けて操作する人には免許が必要ですし、面倒がられましてね。NHKの教育番組が始まると、それをVTRにコピーして授業に利用する先生が増えたという話をよく聞かされました。VTR普及の影響は大きかったです。電波が主力を占めていくと、フィルムは片隅へと追いやられ、フィルムを主力としてきた教育映画も片隅へと追いやられました。

 「映画」という言葉は長編の劇場映画では生きていますが、短編の世界では今や「映像」という言葉に置き換わっています。GHQが導入した短編の視聴覚映画、東映の大川博社長が企業化した教育映画は戦後の復興期、高度成長期を経て、その役割を終えたような気がします。しかし、映像文化そのものは発展し続けていますので、映像関係の仕事をしたいという若者は増えているようですね。

 現在活躍をされている長編劇映画の監督さんも、学生の頃、8ミリフィルムで短編映画を自主制作されていた方は多い。映像作家を目指す若者は、まず短編作りからステップを踏んで行くようです。短編は映像作家への登竜門として残っていくのかもしれません。

 ――映画の大学も出来ましたね。

大西 私らの時代は、現場で仕事を覚えました。職人さんの世界に似ています。教室で学べるのは、ほんの入り口だけのように思えます。

 ――最近は、ビジュアルアーツの世界に興味をもつ若者が増えていますね。実際、専門学校のメイク科に進んだ何人かの生徒を知っています。

大西 特殊メイクの分野は、日本ではこれからなんでしょうね。

 ――メイク科に進んだのは実は男の子逹なんです。

大西 私の知り合いにも、男性のメイクさんは居ます。映像表現が多様化して来ているので、メイク技術の需要はあると思いますが、収入面から見たら厳しいところがあるんじゃないでしょうか。

 ――そうですか。

大西 昔から知られている大手の映画会社は、配給を主とする業務の方が中心で、作品作りは個々のプロダクションが行う傾向にあります。独立プロの形態に似てきています。短編の世界では、元々、個人やグループが制作費を出し合って映像をつくるインディペンデントの作品が主流でした。アジア諸国でも同じではないでしょうか。福岡では、西谷郁さんという方を代表に、「福岡インディペンデント映画祭」というものを、韓国の釜山国際短編映画祭と連携して開催しました。アジアの若手映像作家が短編を出品し、集っています。そんな横との連携がとれている話を聞くと、短編の灯は、燃え続けているのだと感無量です。

 ――韓国の映画作りも精練されて来ているのではないですか。

大西 「韓流ブーム」ですからね。旧満州には「満映」といって国策映画でしたが劇映画もつくる日本の撮影所がありました。終戦になり、勤務していたスタッフ逹が帰国して、私らの先輩スタッフになったのですが、先輩逹は「満州では中国人を助手にして、映画作りを一から教えた」と話していました。韓国でも同様だったと思います。韓国が独立してからも、私ら教育映画のチームに撮影助手の留学生逹がきていました。一年間、ロケ先で同じ釜の飯を食い、チームの一員として働いていたのですから、技術をマスターしたことは確かです。昭和37年頃のことです。帰国後は韓国映画界でリーダー的存在になっていったと思います。

 ――逆に今は、韓国から映画作りを学ばなければならない時代になったんですね。

大西 好い刺激を受けていますね。アジア諸国の短編の世界が今どのような状況にあるのか、私には判断できる資料がなくて何とも言えません。しかし、東映教育映画部の同じデスクから育って行ったアニメが海外で受け入れられ、日本を代表する産業とまで言われるようになったことは嬉しい限りです。実写の短編が、今後、どのようになって行くのかを見守りたく思っています。

 ――長時間、貴重なお話をありがとうございました。

       (「駿河台文芸」第22号 20101130日より)


 

 

インタビュー 斎藤茂太 氏

「現 代 の 精 神 科 医 療 に つ い て」

 

斎藤茂太(さいとう しげた)

精神科医・エッセイスト。一九一六(大正五)年、東京都生れ。明治大学文科専門部文芸科卒業、慶応義塾大学大学院医学研究科博士課程。斎藤茂吉の長男、北杜夫の兄に当たる。著書多数。

 

聞き手 多田統一(ただ とういち)

 

自殺者が急増している。昨年中に三万一千四十二人が自殺している。未遂者はその十倍とされる。その中の多くが、長引く不況や、世の中の価値観の急変についていけない、いわゆる精神疾患に陥っている人と言われている。

駿河台文学会会員で、創設以来少なからぬ御貢献を戴いている斎藤茂太氏に、その周辺の事情について聞いた。

 

 ――斎藤先生は、今お幾つになられますか。

斎藤 八十六。

 ――ほんとにお若いですね。精力的に活動されておられますが。

斎藤 若いと言われてもねえ…。膝は痛いし、座敷に座れないの。

 ――長い間、精神科のお医者さんをやって来られて、患者さんが昔と違ってると思われることはありますか。

斎藤 今、リストラの時代ですから、それがはっきり影響していますね。七割位は鬱です。おやじの頃は、患者さんが六人来て忙しいと言ってたんですが、今は百人位は普通ですから。これを、三人のドクターでやってます。

 ――アルコールや薬物中毒も精神科なんですか。

斎藤 ええ、そうです。アルコール、麻薬、覚醒剤中毒の患者も扱ってます。深刻なのは覚醒剤ですね。アルコールは、専門の病院もできているほどです。

 ――アルコールや薬物は、高校生の間にも広まっていますね。

斎藤 困ったものですね。アルコール健康医学協会の会長を務めてますが、青少年にお酒を飲ませない運動を展開してます。そこで、一番頼りになるのが学校の先生ですね。高校の熱心な先生方とも、いっしょに議論したりしてます。日本だけなんですよ、お酒の自動販売機があるのは。それを全廃しようとしているんです。段階的にその方向に行ってますがね。

 ――ところで、先生はお酒を飲まれるんですか。

斎藤 僕は毎晩お酒を飲んでますが、日本酒だと八勺、焼酎だとお湯割りでコップ一杯なんです。僕が提唱しているのは、日本酒は二合まで、ビールは中瓶で二本まで、ウィスキーはダブルの水割りで二杯まで、ワインはボトル三分の一だけ。でも、僕の年になったら、それを減らさないと…。ワインは上手く飲めば薬、下手に飲むと害なんです。排泄が遅いために、ワインの国には中毒患者が多いんです。赤ワインは、日本薬局法にもあるんですよ。

 ――ポートワインってのがありましたね。 

斎藤 ワインは甘いものと思ってた人がいたんですね。ほんとのワインは甘くないんだから。高齢者の中には、まだポートワインをなつかしく飲んでいる人がいますよ。昔から、アルコール中毒の人はみんな早死にだ。毛利元就のおやじなんか立派な中毒で、四十二歳で死んでますから。今、百歳以上の人は一万七千人を越しましたが、そのうちの六割はお酒を楽しんで飲んでいます。泉重千代さんの場合は、焼酎のお湯割りをお茶碗に一杯だったそうです。

 ――患者の地域性というのはあるんですか。

斎藤 ええ、あります。日本はヨーロッパと違うんですよ。鬱病になりやすいのは日本では真面目人間、ヨーロッパではそうじゃなくて口八丁手八丁の社交型なんですね。日本には、百パーセント主義で、ストレスを解消する術を心得ていない人が多いんですよ。

 ――血液型とは関係あるんですか。

斎藤 直接の関係はないです。

 ――最近、日本人の自殺率が上がって来ていますが、鬱病との関係があるんですか。

斎藤 ええ、大部分がそうでしょう。

 ――かつては、ハンガリーの自殺率の高さが話題になったりしましたが…。

斎藤 やっぱり、経済問題でしょうね。患者さんの中に、失業してハローワークに通っている人がけっこういますね。でもね、希望を持ちなさいって言ってるんですよ。雨の後には晴れが来るんですから。躁鬱病は、躁の状態と鬱の状態が交互に来るんです。不況の後には、またきっといい時代が来るはずです。

 ――精神科では、どのような診察がおこなわれていますか。

斎藤 基本的には、こちらが優先的に喋っては駄目なの。患者さんの気持を聞いてあげることが大事なんですね。カウンセリングでは、こちらがうまい聞き役で、患者さんに喋る雰囲気を作ってあげることが一番ですね。

 ――精神を患っている人が、意外に多いですね。

斎藤 いろんなケースがあります。原因はさまざまですから。

 ――ストレス社会なんですね。

斎藤 十のストレスを一にしか感じない人もいれば、八に感じる人もいますね。やっぱり、その人の性格ですね。一番危ないのは百パーセント完全主義者。僕は、人生八十パーセントだって言ってるんですよ。この頃、だんだん低くなって、六十パーセント位になってるんですがね。家内が僕の誕生日にくれたバースデーカードには、「四十パーセントの妻より」と書いてあったの……。

 ――民間はもちろんのことですが、教育の世界もしだいに余裕がなくなってきていますね。

斎藤 まったく、そうですね。暇がないと、いい教育はできませんね。何年か前、僕の母校の小学校に招かれたことがあるんですがね。そこで、「ありがとう」が言える児童を育てて下さいということを話しました。国際化の時代ですから、心の中で思っているだけでは駄目で、自分の気持をきちんと言葉に出して言わないといけませんね。このままの状況が続けば、後十年で日本はアジアで最低の国になりますよ。学生を見ればそれがよく分かります。韓国や中国は、すでに日本の上を行っています。

 ――いろいろとお話いただいて、お疲れになりませんでしょうか。

斎藤 僕にとっては、これがありがたいんですよ。

 ――本日は、お忙しい中ほんとうにありがとうございました。先生のますますのご健勝と今後のご活躍をお祈りいたします。

                   (「駿河台文芸」第17号 2003年3月1日より)




今日出海先生を偲ぶ

   大木直太郎・岡本勇・青沼一郎・林秀雄(198414 日大木家にて)

 

 はじめに今日出海先生の生い立ちをちょっと申し上げますと、先生は明治三十六年函館の生れで、小学校は神戸、中学は東京の暁星と、各地を転々とされています。

青沼 お父さんが日本郵船の社員だったので、転勤が多かったせいでしょう。

 旧制高校はフランス語が第一外国語の浦和の文丙、大学は帝大(東大)の仏文学科で、卒業は昭和三年。それから次の一年間、法学部に在籍されています。中学一年の時から、セロを習うほどの音楽好きですが、大学時代には演劇熱が昂じて劇団の結成にも参加されます。

大木 それは大正十四年、河原崎長十郎、市川団次郎、池谷信三郎、村山知義、舟橋聖一、帝劇女優だった草間錦糸等が結成した「心座」に関係されたことでしょう。

  大学卒業後、永井龍男、井伏鱒二、中村正常、横光利一、堀辰雄、小林秀雄、河上徹太郎等と同人雑誌「作品」のメンバーに加わっています。(創刊は昭和五年五月)また、矢代幸雄氏が黒田清輝の遺産で創立した上野美術研究所に入り、西洋美術史を勉強されています。そこで宗教美術を研究していたのが、いまの奥さんです。

 ところで、明大文芸科は、昭和七年に創設されますが、先生は同時に講師として就任されたのですね。

大木 ぼくはフランス語の講義を受けましたが、それまでフランス語をやっていなかったので残念でした。

青沼 ぼくは初歩をならいました。

  二年生のとき、ボードレールの「悪の華」を教わりました。教科書を持って来られないときなど学生と並んで教えて下さいました。わたしなんかにはむずかしい詩を辞書も使われずに講読されました。

岡本 ぼくら一期生(昭和十年卒業)は初歩フランスだけを教わった。話は前に戻るけど、大正のおわりから昭和のはじめにかけては、お兄さんの今東光氏が活躍してましたね。

大木 そうそう。その頃、ぼくは塚原健二郎氏の世話で多恵文雄氏(元春陽堂編集部)が創刊したタブロイド版八頁の「文芸時評」の記者でしてね。作家から口述筆記したものに朱を入れてもらって、それを掲載しました。それで、今東光氏に会いましたし、佐藤春夫、上司小、葛西善蔵、本郷の菊富士ホテルで幾度か宇野浩二、広津和郎の諸氏にも口述筆記して貰いました。豊島、里見両先生も協力してくれました。とにかく、今氏に同行、新橋演舞場で吾妻徳穂の舞踊「時雨西行」を見せて貰い妙に感動しました。

  わたしの在学中に(昭和十五年文芸科卒業)、映画を監督されてますね。新興キネマで。

青沼 踊り子の崔承喜が主演の。

  「半島の舞姫」という作品。先生の文章によると、「病妻をかかえ、二人の子供を持っては、映画界から定収を貰うより道はなく、眼を瞑って」(「芸術放浪」)、全く経験なしに監督になられたのですね。収入といえば文芸科の「初任給は二十三円五十銭で、鎌倉から通っては足の出るような薄給」(「芸術放浪」)と安い翻訳料だけだったらしいので。しかし、映画会社も赤字続きで、大泉撮影所が閉鎖されてしまったから、先生も映画界と完全に縁を断って、フランスに旅立つのですね。

青沼 それは昭和十二年です。われわれ里見組の者が、正丸峠にハイキングに出かけて、その帰りに里見先生とぼくとが東京駅で先生をお見送りしました。

  先生は戦時中、軍報道班員として、フィリッピンに二度渡っておられますね。

岡本 その一度目の出発の朝、植草圭之助が、九段へ見送りに行って、逆に今先生から三十円の餞別を貰っちゃった。圭之助はその夜鬱積した情炎を抑えがたく、吉原へ繰込み、遊女夕子にぞっこん入込む次第となった。圭之助の名作「冬の花」はこうして今先生の温かい志から生れたわけです。時は昭和十六年十一月です。

  その時は、リンガエン湾に上陸して、それから約一年マニラに滞在されています。 先生の文章によると「独ZがPK部隊(宣伝部隊)を設けたのを真似しようとした小ざかしき机上計画」だったので、先生が属した宣伝班の活動は「文化工作隊の様相もなく、働く者は勝手に仕事を拵えて働き、怠け者は、二六時中炎熱に焼かれて無為のまま宿舎のホテルで寝そべっているのが実情だった」(「徴用記者」)そうです。それから、二年経って再びフィリッピンに渡り、その八日目にマニラ撤退という憂き目に遭い、その後五ケ月間山中を放浪されたんです。

青沼 その時のことは、『山中放浪』(昭和二十四年十一月、日比谷出版社刊。現在、中公文庫に再録)に活写されています。

  ええ、あんな悲惨な日々の生活を述べても、先生の筆は淡々というか、明るいですね。先生の持ち味でしょうか。

大木 桔梗五郎君(文芸科二期生、改造社編集部員)が登場しますね。同君の同期生には江口榛一、丸山金二、内田克己など多士才々でしたが早世で惜しまれました。

青沼 桔梗君は先生の世話をよくしたそうで、終戦後降伏を知らず、なお山中を彷徨し続けているうち、栄養失調のため歩行の自由を失い、断崖から転落して死んでしまったと今先生から伺いました。

  ところで先生は終戦の年の十一月、文部省に入って文化課長になられました。そして文化課という名称が気に入らないので、芸術課に変えさせます。

大木 いまも続いている芸術祭は今先生の提唱ではじまったんです。(昭和二十一年九月)それ以来、小生もキビにふして、今年も亦・・・・残念です。

  先生の文章によると、初めから役所通いを長い間するつもりはなかったようで、一年余りで止めます。

岡本 先生は蔵書をすべて戦災で失くしてしまったので、本のない部屋に一日中いると、空き家にいるようで落ち着かず、役人生活に入ったそうです。

  それから、勤めでくずした体調をいたわりながら、創作活動に打ち込まれます。手許にある中公文庫の『天皇の帽子』に所載されている短篇を年代順にあげると、「努力賞の女」「男色艦」「懇親会の果て」「孤立の影」「徴用記者」「天皇の帽子」「独楽」「駈落ち結婚式」の八編で、いろいろな雑誌に、いちばん早いのが昭和二十二年十月号、いちばん遅いのが昭和二十五年五月号に発表されています。

青沼 「天皇の帽子」は昭和二十五年上半期の直木賞受賞作ですね。それと「山中放浪」あたりが先生の代表作ではないでしょうか。

  随筆に面白いものがありますね。とくに人物論に。観察が行きとどいているうえ、ユーモアがあって。

青沼 阿部知二先生を偲ぶ会の席上の思い出は絶品でした。

大木 話術にもたけておられた。

  先生のお宅で話を伺っていると、帰るきっかけを失うほどでした。

岡本 そうだったね。

 昭和四十三年六月、佐藤内閣のとき、文化庁が設置され、その初代長官に就任されました。そのいきさつは、こんどの「新潮」(十月号)に丹羽文雄氏が書いていますね。

先生は伝統文化の保存、地方文化育成に力を入れ、歴史民俗博物館構想を訴えて、その後の文化行政の基礎を作ったといわれています。ミロのビーナスをフランスから借り出して、日本で公開し、その返礼に鑑真像をフランスに貸し出したりしたことは周知の通りですね。

長官は佐藤内閣が辞職と同時に退官し、その昭和四十七年十月に発足した国際交流基金の理事長に就任します。五十三年には文化功労者に選ばれておられます。そして、五十五年から亡くなられるまで国立劇場会長でした。

大木 文学、美術、演芸について造詣が深かったことは知られていましたね。ぼくのような無智な人間が、今先生とご一緒に文化庁主催芸術祭の役員を長年続けてこられたのも、先生のお蔭です。今年も企画委員としてご一緒にやることになっておりました。企画委員は牛原虚彦と小生等三人です。高橋誠一郎氏が健康のため出席されなくなってからは、今先生が全役員の支持で、会を円滑に運行してきました。

  先生の行動の源は、良識―ボン・サンスではなかったでしょうか。

青沼 『山中放浪』などもヒューマニズムに支えられていますね。

岡本 小林秀雄先生の思想活動を支えたのも今先生の友情だった。

大木 今先生と小林先生の交友はご近所でもあったが、もともと深かったですね。ご家族同志が―。

  晩年、お元気なときは、両ご夫妻で、九州の湯布院に行かれたようです。ところで、先生は作家としても、役人としても、誤解されている面が多いのではないでしょうか。

大木 そうでしょうね。

  そういう意味で、孤独だったですね。

岡本 近代文芸思潮の中で一時代を画した、小林秀雄、河上徹太郎師らによる批評精神の確立という大事業も、今先生を一角に交えた友情に支えられて成し遂げられたものだ。すぐれた文学活動の裏側にはすぐれた友情というものがある。

青沼 そうですね。

  戦時中、大政翼賛会の文化部長に就いた岸田国士先生と、戦後役人生活を送った今先生とには、おふたりを支えているものに、共通する点があるのではないでしょうか。とにかく、今先生を正当に評価するため、なによりも先生の作品をもっとじっくり読んでもらいたいですね。

一同 賛成。

      (会報「駿河台」第13号 19841031日より)

 

 

 

渋沢孝輔・入沢康夫 両氏にきく1982年12月17日 武蔵野市「吉祥寺近鉄百貨店 銀座アスター」にて)私の中の現代詩


 ――現代詩がかかえている諸問題について、お伺いいたします。

  (前略)

渋沢 ポエジイというものについての考え方というのは、ボクの場合でいえば、フランスの特に十九世紀の象徴派の詩人達や、それを巡る評論家達の考え方から学んだものが非常に多いわけなんですけれど、日本の場合だと、やはり象徴派の影響を受けている蒲原有明、中原中也、萩原朔太郎、それに小林秀雄さんとかいった一群の人達の作品や評論を読むことで、段々自分の中に形づくられてきたいろいろな知識や感じ方、考え方というものが基になっています。まあそういうものを踏まえたり、むろん生きている一人の人間としてのいろいろな欲求や問題を踏まえたうえではありますけれど、実際に書く場では既成の知識や観念は何の役にも立たないわけで、実質はその都度の作品で試しながら、手さぐりしながら書いているというのが正直なところです。

(中略)

入沢 私の場合、言葉をことさら奇矯に使うといったことはどっちかと言うとしないんですよ。詩人の中には、もっと烈しい言葉の繰り出し方をする人々もあるんですが、私の場合は、一行一行の中では割におとなしく言葉が繋がるように、一つのイメージというか、情景が浮んでくるような書き方、或いは一つの話が繋がるような書き方をしながら、それを一種の「口実」というか、手掛かりにして、それではない「別のもの」を狙っていくというやり方を今迄はしてきました。ただ、そのへんが難しいところで、余り表面の「意味」に義理立てをし過ぎますと、「形」としては整うけれども、(そして読者はある意味で喜んでくれるけれども)、本当に恐い読者は、かえって顔を顰めることにもなりかねないと思うんです。『死者たちの群がる風景』の前に今年出した私の詩集、『春の散歩』の中に入っている詩のいくつかは、どちらかというと、今迄ずっと日本の詩の世界で書かれてきたような、詩人が自分の思いを述べるような感じにことさら仕立ててある詩なんです。その方が何となく読者からの反応が強く帰って来ますね。まあ喜んでくれる人もいるわけです。然し、これはまたこれで、かなり危険な綱渡りで、一歩まちがうと、手段が目的を喰ってしまう。ミイラ取りがミイラになりかねません。世評に甘えてこれでいいんだと思ったりすると、大変なものをなくすことになります。この点は常に警戒を怠れないところですね。

――そうですか。

入沢 自分ではむしろ、ちょっと見ただけでは解り難い方へ常に自分をもってゆきながら、読者にも従いてきて貰うよう働きかける、呼びかける方がおそらく本当なんだというふうに思いますね。

(中略)

入沢 勿論、作品の表に出てくる一つの事柄が感動的であれば、それはそれでいいわけで、自分に切実なことならば、気が入ってうまくゆくことはあると思いますが、しかし、それは飽く迄仮の口実みたいなもので、それを書きたいから書いているのではなくて、それを手掛かりにして向こうへ飛ぶための台を作っているだけのことだという点を忘れてはいけない。

――飛ぶという意味では、両先生の詩作品と比べますと、近代詩はたしかに飛躍にとぼしいですね。もう一つの世界への暗示が不足しているような気がしますが・・・・

渋沢 向こうへ飛ぶための台をなるたけ沢山用意しようという思いはありますね。

(中略)

渋沢 偶々、私達の専攻したものがそうだから言う訳ではありませんが、十九世紀のフランスの詩は、芸術というものが、同時代として世界の最先端といいますか、世界性を一番もっていたという、あそこから出発するのが歴史的にいっても順序ですからね。

入沢 二十世紀文学というのは、皆そこから出ているんですよ。それは相変らず旧態依然たる作品もありますし、そうした中にもそれなりの傑作もありますが、でもまあ如何にも二十世紀的な作品というのはやはりそこを乗り越えてきたんだと思います。

――先生方のご努力は、二十一世紀へ向かっての飛び石といいますか、踏み台みたいなものになるんでしょうか。

渋沢 そうなるといいですがね。入沢さんもさっき言っておられましたが、十九世紀以後の詩で変わったことは、既にあるものを再現するのではなくて、未知のものを探究するための一つの手段としての芸術になってきたということと、もう一つは人によって違いますが、先程の「詩は言篇に寺」という話とも関連しますけど、どこかで或る聖なるものに触れてこざるを得ないのです。ただ、近代というのは聖なるものという言葉で言わない時代ですからね。一応、神が死んだとか何とかいうことの方が表向きの時代ですから、そういう言い方をすると、一寸古い、或は誤解されるかも知れませんが・・・・

――超越的なものという意味ですね。

渋沢 そうなんです。ボクなんかむしろ敢て聖なるものと言いたい気持があるんですが、圧えておいてせめて超越的なものというふうに言ってしまいますけど、詩というものはそれとの触れ合いの場であるということなんですね。小説というのは、そういう要素は当然含んではいても、もっと現実の具体的な人間社会というものに、俗なる世界に、悪い意味でなくて、主としてそっちの方へ眼を向けているかも知れませんね。詩はそっちの方はとりあえず括弧にくくっておいて、聖なるものへ、超越的なものへ主として眼を向けていると言えると思います。そのように自分に解っている形でここにあるものでなくて、その向うにあるものを手さぐりしながら、そこで何か超越的なものに触れ合いたいという思いですよね。

入沢 「超越的なもの」などと言うと、とかく評判わるいんですよね。しかし、それは結局現実と同じことなんですから・・・・

渋沢 ええ、同じことなんですよ。

入沢 現実そのもののことなんです。そこのところが中々わかっていただけないのですが、詩人が追求し定着しようとしているものは、日常生活の中では概念化し符牒化した言葉でもって覆いかくされ、ごまかされている現実の真実の姿なのです。その真実の姿をひたすら目指して、概念の壁に裂け目をつけようとする時、言葉はどうしても通常とは違った、いわばかなり無理な使い方をされることになる。日常生活の言葉から離れるのも、事の本質上やむを得ないことなのです。そのことをもって、詩人が現実から逃避していると非難するのは、全く見当ちがいです。もっとも、現在日本で書かれている詩(詩として世間で通用しているものでさえ)の、かなり大きな部分は、じつは詩でもなんでもありません。拙劣あるいは無神経のゆえん―もしくは単に解りにくくすれば詩らしくなるという錯覚のゆえに、奇妙な中途半端な物言いになっているケースは、掃いて捨てるほどあります。その意味で、読者も、十分に選択眼を養う必要があるようです。現実的であることを売り物にしている作品が、かえって最も概念的・観念的な境域に停滞してしまっているといったこともしばしばで、その点から言っても、読者は、世評や、一見した時の字面の印象にまどわされず、じっくりと繰り返し読み込んでいただきたい気がします。

(後略)

      (会報「駿河台」第8号 1983720日より)

        

 

 

本多秋五氏にきく1982 月3日鎌倉市「新田中」にて)

戦後文学を中心とした 私の文学回顧

 

 ――本日は駿河台文学会のために、お話をしていただくことになり、炎暑の中をわざわざお運び下さいまして有難うございます。

(中略)

 ――それでは、先ず戦後文学の問題から入りたいと存じます。

 

戦後文学に「近代文学」が果たした役割

 

 ――『物語戦後文学史』(正編)の中の「群雄割劇のジャーナリズム」の項で、「戦後における文学の再出発は、なによりもまず雑誌の続出に端的にあらわれている」という記述があります。敗戦の翌年、一九四六年の一月に「近代文学」が創刊されたことは知っていますが、その他どんな雑誌が発刊されたのですか?

本多 文芸雑誌では、一月に「人間」と「新小説」、三月に「新日本文学」、四月に「世界文学」、十月に「群像」が創刊されました。これに二月創刊の「別冊文芸春秋」(いまの別冊と違って純文学の雑誌)と前年末に復刊した「新潮」を加えたものが、まず戦後文学第一年の主要雑誌と言えましょう。

 そして、戦後の雑誌界に現れた特色のひとつは、教養雑誌と民主雑誌の輩出、とも言えそうです。教養雑誌では、四月に「科学と芸術」「黄蜂」「思索」、五月に「饗宴」、十一月に「プロメテ」が創刊されました。どれもかなり高級な読者を対象とした教養雑誌でした。これらのうち、あまり編集のすっきりしなかった「黄蜂」が、野間宏の問題作「暗い絵」を発表したことは、マグレアタリと言うべきでしょうか。

 ――敗戦直後の数年間、食料、衣料、燃料、住宅等すべての物資が不足、夜になると停電ばかりしていた記憶があり、精神的には廃墟の中の虚脱感が付きまとっていたような時期に、よくも空腹を抱えながら、そのように新刊雑誌が氾濫したものですね。その理由はどのようにお考えですか。

本多 社会的背景はたいへん違いますが、日清・日露の戦争のあとにも、第一次大戦のあとにも、新しい雑誌が続出したんです。当時の国民は、戦争に勝った、これから日本は世界の一等国になるんだ、そのためにはすべての点で諸外国を追い越さなければならないという意識が文化方面でも活力を産んだのでしょうか。

 文学の方面から見ますと、日露戦争のあとに自然主義文学が台頭し、それから五年後には白樺派の文学が現れたんです。このように見ますと、自然主義文学といい、白樺派の文学といい、いずれも戦後文学だと言えます。

 ――国敗れて山河ありと言いますが、その残された山河の上に、古来から人間は生活の営みの建て直しを宿命的に繰り返してきたんでしょうが、それにしてもスキッパラに文化的欲求が火の手をあげたということが不思議ですね。

本多 そうなんです。人間というものは、原始の昔から観念なしには暮らせないものです。日本が戦争に敗れて、敵国の占領下に置かれるという未曽有の事態が出現すると、明治維新以来積み重ねてきた日本の社会組織と、それと一体化した観念の諸体系とが一挙に崩壊し、その残骸が累々として横たわっている。そういうところに日本人が立たされて、ここに新しい生活を打ち立てていく以外にないという状態に置かれた。そこで、さまざまな観念体系再構築の試みが猛烈に湧きあがったわけです。戦後文学はそうした時代の文学ですから、どうしても観念的な性格を帯びざるを得なかったものと思います。

 ――先生も敗戦後いち早く、同志の荒正人、佐々木基一、埴谷雄高、平野謙、それから少し遅れて山室静、小田切秀雄といった方々と一緒に「近代文学」を創められたそうですが、やはり知的渇きというようなものを猛烈に感じられた集りだったのですか。

本多 私自身はそうでしたね。「近代文学」創立の経緯をお話をすると長くなりますので省きますが、当時、戦争が済んだとき、人々は嵐のあとの枯葉のように散り散りにちらばっていました。やがて、何十万、何百万となり、東京をさして集まった。その中の五枚か六枚の葉にも比すべき人間が、見えない線に結ばれて、互に牽引し、たちまちひとつの集合体を形づくってしまったという感じですね。これは私達の集りだけでなく、みんなそうだったと思います。しかし、私達も単に偶然集まったというのではなく、戦争中にも文学仲間が、大井広介邸に集ったりしていたのです。

 私は戦争末期に召集され、内地で敗戦を迎えたんですが、八月二十二日にはもう郷里へ帰り、九月四日には東京へ出てきたんです。それから散り散りになっていた仲間と連絡を取り合ったんです。

 ――「近代文学」を創められた方達の特色は、みな旧左翼出身で、埴谷氏をのぞいては東大グループということですね。そういう意味ではお互いに気心も知れていて、まとまりが良かったんではないですか。これ等の人達がそれぞれ戦後の文学界で活躍され、ある意味でのリーダーシップを取られたように見受けられるんですが、実際はどうなんですか?

本多 いや、それは過大評価かもしれませんよ。というのは、当時「人間」その他の商業雑誌を中心とした既成作家の復活は別として、共産党系の新日本文学会にも数多く作家、批評家がいまして、新しい文学活動をしていました。その中心は何といっても宮本百合子、中野重治といった人達でしょう。

それから、一九四六年には早くもわれわれの仲間である荒正人、平野謙と中野重治との間で烈しい論争が起こりました。その発端は、戦後批評家としての最初の時事発言とも見られる、荒正人の「第二の青春」、「民衆とはだれか」、「終末の日」(近代文学、四十六年二・三・四号)と、平野謙の「ひとりの反措定」、「基準の確立」、「政治と文学Ⅰ」(新生活、四十六年四・五、六・七月合併号)をとりあげて、中野重治が「批評の人間性Ⅰ」(新日本文学、四十六年第四号)を書きました。

 中野はその論文の中で、「荒や平野は宗匠根性におちている。人間の擁護、芸術の防衛を看板にした宗匠根性は非人間的であり、反人間的である。人間的にそれはいやしい」と論じ、また「不利な条件の下で伸びようと努力する民主主義文学運動を彼らは押し返そうと力んでいる。そして反革命の文学勢力に化粧をして流し眼をしている」と断じているんです。彼らは「旅愁」の横光利一や天皇擁護論者や膳桂光助の道を歩む者だとも言っているんです。

 この中野の論難に対抗して、荒は「晴れた時間」「なかの・しげはる論」その他多くの論文を書き、平野は「政治と文学2」その他を書いて応酬しました。

 中野はそれらの応答に対してさらに「批評の人間性3」(展望四十七年・三月)、「『珍説』とクルコフスキ将軍」(新日本文学、四十七年・九月)を発表し、再び手きびしい論評を加えたのです。中野はここで「荒や平野は日本革命、この民主主義革命の導きの力を、労働階級からプチブルジョアジーに移そうとする政治的流れの文学的代弁者である」と極めつけ、「民主主義革命の徹底をプチブルジョア的な限界におしとどめ、そのことで彼ら自身の利益を稼ごうとする“火事場根性”である」と難じ、結局彼等は「反革命」的性質を帯びたもので、ともに手をとって進むのでなく、その手を振り切って厳に監視すべきであると言っているのです。

一方荒の方は、「灰色のユートピア」や「二重感覚のヒューマニスト」について語ることによって、人間の本質を追及し、「民衆」とは彼等でなく、我々すらでなく、この「私」自身にほかならないと主張し、「私」とは、小市民インテリゲンチャの私であり、この「私」の生存とともに断ちがたいエゴイズムが、そのままヒューマニズムの大道に通じうるのだと、語っているんです。そこから「観点」と「移行」を結局は説くことになる合理主義的進歩主義者たちの道が、魯迅の嫌悪した「正人君子」の道、風向き次第でどうにでも変わる偽善者の道にほかならぬと語っているんです。この最後のものが、一方では主体性論の端緒になり、他方では三十代の世代論に結びつき発展するんです。

 平野の方は、小林多喜二と火野葦平とを、政治の犠牲という意味で「表裏一体」とみることによって、「政治と文学」の関係を回転軸とした昭和の二十年間の文学の特質が明らかにされることを語り、政治が目的のために手段をえらばぬことから、プロレタリア文学運動の批判におよび、かつての日本共産党の文芸政策そのものが、文学運動の壊滅に拍車をかけたのではなかったか、と転向問題にまで論及し、社会民主主義的観点から質的に区別さるべき共産主義的観点の具体化をみだりに芸術作品に要請すべきではない、一党派の当面している政治的課題をそのまま芸術活動の課題とするのは不当だ、文学芸術に「政治の優位性」を原理的に要請するのは誤りだ、と言っているのです。

 ――「政治と文学」に関する論争については、それぞれの考え方がたいへんよく分りました。今では平野氏のような考え方は常識のようになっていますが、当時としてはひどく新しかったのでしょうね。 ・・・・・・

 

   教壇に立つことになった経緯

 

(前略)

本多 戦後間もない頃、平野謙が逗子に仕事場を持っていて、毎日来ていたんです。ボクもそこへしょっちゅう行っていたし、葉山の斎藤正直も時々来ていたんです。それに、彼は「近代文学」の同人にも入っていたんです。

 ――そのようですね。それは後期ですか?

本多 いや、いや、第二次拡大の時です。あの頃は野間宏にしても、中村真一郎、木下順二にしても、講師として明治に出ていたわけです。その頃、斎藤正直からボクにも講師として来ないかと言われたことがあるんです。ボクは学校へ行くと、その方へ精力を取られて、自分の仕事が出来ないから、と言って断ったんです。それからずっと後になって、明治に出ることになったんです。もうその時は、新聞社へ入っていた友人達なんか停年になっていましたよ。停年は五十五ですからね。ボクは六十にはなっていなかったが、五十五と六十の間でした。あれは確か高度成長の関係で、文学部の志望者が増えて、日文、近代文学の聴講生が多くなって、教師を増員したんじゃないですかね。そんな時、平野が薦めてくれて出るようになったのです。

 ――先生の講義を聴講出来た学生は倖せですね。・・・・・・

              (会報「駿河台」第6・7合併号 19821215日より)

 

 

 

柴生田稔先生にきく198221日 柴生田宅にて)

読売文学賞受賞作品『斎藤茂吉伝 並に続篇』について

 

  ――今日は、お忙しい中を駿河台文学会のために貴重なお時間をお割き頂きまして、誠に有難うございました。先ず、読売文学賞おめでとうございます。

柴生田 いゃあ、どうもどうも。

(中略)

  ――時に、先生が『斎藤茂吉伝』をお書きになるに当ってのご苦心談を伺わせて下さい。

柴生田 私は運が良かったんですよ。誰か周囲に理解者がいて、書け、書けと云って薦めてくれる人がいないと、なかなか書けないもんです。私の場合、さいわい、「短歌研究」の杉山正樹さんに勧められて、同誌に発表させて頂いたのがきっかけです。同誌には昭和三十四年一月号から四十年十一月まで、六十九回にわたって発表いたしました。その中の一回から五十四回まで、即ち、茂吉の生ひ立ちから歌集『あらたま』の時期までが一巻となり、正篇になったというわけです。続篇は五十五回から六十九回までと、あと書き足したものです。

この篇では、就職のための長崎行から始まり、ヨーロッパ留学、火難のあと、青山脳病院長、と続き、転換期、豊熟期を迎え、晩年までを書いております。これには、私の個人的な事情により大分時間がかかりましたが、ようやく書き終えたという感じがいたします。従って、正篇は茂吉の歌道形成の時期、続篇はその展開の時期というふうに考えています。

  ――そうすると、筆を起こされたのが、昭和三十四年初めで、続篇を完成されたのが、昭和五十六年十月とすると、ざっと二十年の歳月を経たということになりますね。歳月のほうもさることながら、その間のご苦労の方を考えると、私達のような怠け者からみると、気が遠くなります。そんなご苦労もしらないで、続む方の側から申し上げると、私なんか貪るように、正続篇を何の抵抗もなく一気に読み切りました。というのは、このご著作がもつ不思議な文章のリズム感と、茂吉を取巻く人間関係の起伏の面白さが相俟って、まるで小説でも読んでいるような興味をそそられたからです。あとがきによりますと、先生は八千通を超える書簡を整理なさったそうですが、それ等の書簡の生きた資料との対話を通して、それぞれ関係人物の人間性を把握された上で、筆を運ばれたことが、読者をこのように魅了するのではなかろうかと、僭越ながら考えた次第です。特に正篇における長塚節、伊藤左千夫、島木赤彦、三井甲光、北原白秋等の記述には、たいへん深い感銘を覚えました。

柴生田 そのように丹念に読んで頂くことは、著者としても、大変嬉しいことです。私のこの度の著作の特徴の一つは、他の研究書と違って、書簡をフルに採用したことだと思っています。続篇では、書簡のほか、日記、メモ等も出来得る限り目を通した積りです。他の研究書の中では、中野重治さんの『茂吉ノート』が非常に参考になりました。

  ――話がすこし飛躍して恐縮ですが、先生にお伺いいたします。戦争中、内閣情報局が国民の志気作興のためとか言って、愛国百人一首の選定をしたことがあります。その選定委員の一人として茂吉先生も選ばれているのですが、委員会の席上自分が推奨している実朝の歌が一首も採られないようでは委員を辞退したいと発言したという話を聞いていますが実話でしょうか。

柴生田 その話は私も知っています。先生は非常な意気込みだったということです。その場におられた土屋先生が、斎藤さんの顔から光が差すような感動だったよ、と話されたのを覚えています。

  ――先生もこんどのご著作の中で、度々触れておられる茂吉の『金塊集私鈔』のことなんですが、私達のような歌の門外漢からみますと、実朝の「君に二心われあらめやも」という歌をみても、これは本心ではなく、将軍職としての単なる儀礼歌じゃあないかと疑ってみたくなるんですが、この点如何なものでしょうか。

柴生田 いや、あれは全く実朝の本心です。

  ――やはりそうですか。歌の真意の機微を掴むという点になりますと、私達素人は習練を積まれた実作者に適わない訳で、これで永年疑問視していたことが、先生の今のお言葉で氷解いたしました。

 それから、茂吉の性格のことなんですが、子供の頃から新しい着物に袖を通すことを嫌がったほど神経質はところがあった反面、養家先の対人関係の煩わしさなんか、意外と無頓着だったり、後年、一つの物事に異常なほど執心を示したりする性癖のことを先生はご指摘なさっておられますね。また、こんな点を土屋文明さんは子供みたいだといわれ、中野さんは『茂吉ノート』の中で、「茂吉にある分かりにくいもの」と述べられ、左千夫はそんな感受性の異常さを認めて、天才だとほめたという記述がありますが、先生は茂吉の晩年に親しく接しられたわけなんですが、それほど異常なところがありましたか。

柴生田 日常生活でも時々変わったところがありました。ご自分では、その異常性を知っておられ、常識的ということをいつも軽蔑していたところはありますね。

  ――いろいろ貴重なお話を承り有難うございました。又機会がございましたら、詳細を伺わせて下さい。この辺で終わりたいと思います。

      (会報「駿河台」第5号 1982年4月25日より)

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