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駿河台書評(21号~33号)


毎号の「駿河台文芸」書評欄に掲載された全書評を公開している。

毎号の書評対象書籍は、以下の選定基準に該当する、最近一、二年の本を採り上げている。

 一、校友の著作 及び 校友について書かれた本
 二、明治大学 若しくは 明治大学の施設について書かれた本
 三、明治大学の教職員 及び 教職員だった方の著作

 全体の構成。巻頭に最新号の書評を掲げ、次に「駿河台文芸21号」までの書評を遡る形で、新しいもの順に並べてある。

 書籍名、書評者名から探す場合は、「バックナンバー」の項の「目次欄」を検索のこと。著者名、批評対象者から探す場合は、以下の「人名索引」を参照のこと。

人名索引


あ行 秋田光彦→23号/阿久悠→36号,35号/荒木優太→40号,39号,32号/安藤貴樹→39号/
   安藤元雄→38号/猪谷千香→38号,27号/池田功→28号,24号/
   石津謙介→24号/石田波郷→24号/伊藤文隆→29号/伊能秀明→22号/
   猪瀬直樹→25号/今井昌雄→26号/植村直己→37号/枝元なほみ→37号/大井浩一→42号
   大岡信→42号,40号,34号,32号,30号/太田伸之→29号/大塚初重→42号,40号,30号,29号/
   岡本喜八→31号,24号/
   小川和佑→30号/荻原博子→40号,35号,32号,27号/尾佐竹猛→32号/小田切徳美→29号/
   小幡一→36号
か行 海沼実→37号/垣谷美雨→40号,37号/鹿島茂→33号,28号/片山修→37号/
   唐十郎→45号,34号,24号/川島雄三→37号/川村毅→39号,27号/菊田守→36号,32号/
   菊池清麿→42号,41号,39号,33号,31号,28号,26号,25号/北島忠治→39号,36号/
   北島治彦→36号/木下唯志→37号/木村礎→30号/熊崎勝彦→39号/
   黒崎敏→29号/刑事博物館→22号/小林広一→22号/近藤大介→37号/
さ行 西郷真理子→30号/齋藤孝→46号/斎藤真理子→46号/斎藤緑雨→22号/塩路一郎→25号/
   周恩来→33号/管啓次郎→46号/杉村冨生→30号/
   進一男→25号/須田努→37号/勢古浩爾→36号
た行 高倉健→25号/高野慎三→41号/田部武雄→28号/田宮寛之→34号/田村隆一→44号,43号,
   23号/張競→30号,46号/
   辻征夫→29号/土屋恵一郎→28号/寺島善一→38号/天童荒太→45号,27号/徳田武→30号/
   豊島与志雄→35号/鳥塚亮→26号
な行 中沢けい→27号/西田敏行→33号/西谷能雄→21号/根深誠→36号
は行 橋川文三→41号,37号,29号,27号/橋本正樹→23号/羽田圭介→30号/早澤正人→46号/
   藤原智美→28号,23号/布施辰治→46号/星野仙一→36号/堀口捨己→46号/
   堀口茉純→32号/堀越正雄→41号
ま行 丸川哲史→23号/三木武夫→38号/右山昌一郎→28号/溝上憲文→26号/
   宮嶋繁明→41号,29号/宮田輝→43号/明士会→28号/
   明治大学史資料センター→38号/明治大学博物館→38号/
   明治大学博物館 刑事部門→22号/明治大学平和教育登戸研究所資料館→22号/
   目黒考二→30号/盛田隆二→27号/森永康平→39号/諸富祥彦→40号
や行 山川博功→34号/吉田菊次郎→45号,43号/吉村武彦→38号,37号/米沢嘉博→38号,24号
ら行 陸軍登戸研究所→22号

わ行 若狭徹→42号/渡辺祥二→41号


「駿河台文芸 第33号」平成29年(20175月31日


譚璐美帝都東京を中国革命で歩く

白水社 2016年(長瀧孝仁)

 

駿河台、御茶ノ水、神保町界隈で学生時代を送った者の一人として、二十世紀初頭(明治末期から大正初期)この地に千人単位の中国の若者が群れていたとは驚きであった。卒業後に、周恩来が通っていた中華料理店・漢陽楼は今も駿河台下に健在という話を新聞の地方欄か何かで読んだと記憶するが、私はそれまで気に掛けたこともなかったのである。

 その後太宰治『惜別』を読んで、当時の中国人留学生について多くを知ることになった。太宰作品は、田舎者で落ちこぼれの架空の医学生が魯迅の思い出を語る形式の小説である。魯迅『藤野先生』を換骨奪胎し、太宰の分身であるその同級生を登場させることによって、日中関係への太宰自身の思いを真剣に語っているのである。タイトルの「惜別」とは、別離記念に藤野先生が魯迅に贈った先生の肖像写真の裏に書かれていた二字なのである。

 

   自分が東京に来たこの明治三十五年前後から、清国留学生の数も急激に増加し、わずか二、三年のうちに、もう中国からの留学生が二千人以上も東京に集まって来て、これを迎えて、まず日本語を教え、また地理、歴史、数学などの大体の基本知識を与える学校も東京に続々と出来て、………

   自分もやはり清国留学生、いわば中国から特に選ばれて派遣されて来た秀才というような誇りを持っていたいと努力してみるものの、どうも、その、選ばれた秀才が多すぎて、東京中いたるところに徘徊しているので、拍子抜けのする気分にならざるを得ないのである。………

   その秀才たちは、辮髪を頭のてっぺんにぐるぐる巻にして、その上に制帽をかぶっているので、制帽が異様にもりあがって富士山の如き形になっていて、甚だ滑稽と申し上げるより他は無かった。中にちょっとお洒落なのもいて、制帽のいただきが尖らないように辮髪を後頭部の方に平たく巻いて油でぴったり押えつけるという新工夫を案出して、………

(以上、『惜別』より抜粋。「中国」とあるところ、原文は「支那」となっている)

 

神保町、御茶ノ水界隈が中国人留学生のメッカであった理由は、中国人留学生向日本語学校の東亜高等予備学校や清国留学生会館、中華留日基督教青年会館があったからである。本書には、神田神保町と並んで早稲田や本郷も中国人留学生が集う街であったことが詳述されている。そして、留学生として日本の土を踏んだ若者たちの中には、魯迅(文学者/一八八一~一九三六)、周恩来(中華人民共和国首相/一八九八~一九七六)だけでなく、陳独秀(革命思想家/一八七九~一九四二)、蒋介石(中華民国総統/一八八七~一九七五)、郭沫若(文学者/一八九二~一九七八)、郁達夫(文学者/一八九六~一九四五)など多数の著名人が含まれていた。

         ○

予想数を遥かに超える中国人留学生の来日は、多分に清国の事情に因っていた。それでも、外交ルートによる要請を受け入れた日本にも留学生たちへの責任があったはずである。結果は惨憺たるものだった。二十歳前後の中国の若者の夢や志を打ち砕き、心底怒らせることになってしまったからである。

清国の事情とは、次のようなものだった。日清戦争に敗れ、自国も西洋流の科学技術を学ばねばならないと考えていた矢先、清でも約三百年、遡れば千三百年以上の歴史を持つ科挙制度が一九〇五年に廃止されてしまう。だからと言って、中国国内に近代的な高等教育機関が整備されていた訳でもなかった。中国の青少年たちは、留学先として自国より三十年先んじて積極的に科学技術を導入した日本に目を付けたのである。「日本は欧米よりずっと近くて旅費が掛からない上、漢字学習の必要もない。欧米諸国から日本が取捨選択して受け入れた西洋文化の精粋だけを一、二年の短期間で学習すれば好い」と安直に考えた学生もいたという。

一方、期待されたところで日本は未だ発展途上の国だった。日本語学校こそ、利益本位の怪しげなものまで含めて短期間で整備されたようだが、当時は大学進学率も相当低くて、限られた数の高等教育機関しかなかった。そこへ中国人留学生が大挙押し寄せても、入学出来る者は本の一部であった。大国の清に比べて所詮日本は小さな国で、中国人留学生の要望に充分応える能力は備わっていなかった。

加えて、時期が悪過ぎた。日本に中国人留学生が大勢いた期間は、日露戦争、韓国併合、辛亥革命、中華民国成立、袁世凱の反攻、第一次世界大戦、対華二十一カ条要求、シベリア出兵、五・四運動と、日本が東アジアの激動に乗じて侵略を推し進めた時代に重なっていた。特に二十一カ条要求には、在日中国人留学生の間で激しい抗議運動が起こった。一九二〇年以降は帰国者が続出し、その後は留学生も激減したのだった。

これは誠に残念なことだった。日中間の齟齬は大きく、思惑は全く噛み合っていなかった。近代に於ける日中関係の不幸の始まりと言うしかないであろう。本書の中に唯一救いを見出すとすれば、それは中国人留学生たちの向学心に真摯に応えようとした日本人、即ち西園寺公望、小村寿太郎、犬養毅という政治家や嘉納治五郎、松本亀次郎という教育者がいたことである。

         ○

 魯迅は一九〇二年に来日している。地下鉄江戸川橋駅東方にあった嘉納治五郎が校長を務める弘文学院に二年間在籍して日本語を習得し、仙台医学専門学校(現東北大学医学部)に進学している。その当時のことは自著『藤野先生』に詳しい。

 東北大学へ行ってみると魯迅が聴講した当時の階段教室が保存されており、本部前の植え込みには魯迅の胸像が、大学に面する下宿跡には石碑も建っている。これらを見て「魯迅は医学を修めた」と錯覚するのだが、実は在籍期間は一年半でしかないのである。この辺り、『藤野先生』には所謂「幻燈事件」を契機に医学を断念したとあるが、日清戦争後日本人の中国蔑視の風潮は中国人留学生が殆どいない仙台のような地方都市の方がより強く、魯迅にも確かな侮辱行為があったようなのである。

この経緯から魯迅は、仙台で啓蒙思想家、革命思想家となる決断を下している。また『藤野先生』を読むと、魯迅は帰国するために中退して仙台を去ったかのように感じられるが、小説と事実は別で、その後も三年以上東京に留まって文学活動を行っていたのだった。

 魯迅の来日から十五年後の一九一七年には、周恩来も来日している。神保町界隈にあった松本亀次郎創設の日本語学校・東亜高等予備学校に入学した。しかし、先ず周恩来には長期滞在するための資金がなかった。そのため、魯迅と比べても屈辱的、絶望的で切羽詰まった留学生活を送ることになった。当時の苦闘の軌跡については、周恩来『十九歳の東京日記―1918.1.112.23―』という著作が小学館文庫に収蔵されている。

周恩来は何とか早く中国政府給費生になろうと焦り、未熟な日本語のままで東京高等師範学校(現筑波大学)や旧制一高(現東京大学教養課程)の入学試験を受けて失敗している。経歴には「明治大学政治経済科に入学」とあるが、日本滞在期間が全部で一年半しかなく、恐らく日本語学校在籍のまま、距離的に近い明治大学の専門部にも籍を置いていたのだろう。

 滞在期間中には、シベリア出兵と米騒動が起こっている。周恩来が二十一カ条要求など中国の内政に干渉した日本の思い上がった愛国的風潮に強い怒りの感情を育んだのもこの時期であった。そして、抗日愛国運動であった五・四運動が母国中国で勃発すると、急いで帰国したのである。周恩来については魯迅ほど足跡が残っていないが、東亜高等予備学校跡地に当たる神保町愛全公園に石碑が建っている。

 ところで、私にとって周恩来首相は日中国交回復時の中国側立役者というイメージが強い。一九七二年七月に田中角栄内閣が発足、九月に田中首相が訪中して両国首相が共同声明に調印することで国交が回復されている。しかし、その国交回復の内情はもっと複雑だったらしい。

佐藤栄作政権の末期、次期政権を福田赳夫、田中角栄、大平正芳、三木武夫の四人で争うことになった。最有力の福田陣営に対して数で劣る田中陣営は、大平派と三木派を陣営に引き込むことで逆転勝利する。当時最後まで旗幟鮮明にしなかった親中派の三木が、田中に求めた条件は日中国交回復の実現。田中はこれを飲んで首相になった。大平は外相となり、三木は無任所の国務大臣兼副総理として入閣している。

 実は田中内閣発足から遡ること三箇月、この年の四月二十一日に三木は密かに訪中して周恩来と日中国交回復のための政治的意見調整を行っていたのである。周恩来は九つ年下の三木武夫(一九〇七~一九八八)が自分の在籍した明治大学出身で、専門部商科と法学部卒業であることをよく知っていたことだろう。恐らく雑談時には、神保町辺りの思い出話も出たのではないか。日中国交回復に、同窓の縁が多少とも寄与したと想像したい。

         ○

以上が、中国人留学生多数来日譚の顛末である。日本で余り語られないのは、皆がその結末を知っているからであろう。それは、田舎者で落ちこぼれから成り上がった芸能人や実業家がよく辿るコースである。成功体験が二、三回続いたことですっかり我を忘れ、身の程知らずの言動や事業拡大によって破綻、破滅して行くお決まりのパターンであった。

日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と続いて勝利した日本国内には、不敗神話や大和民族優越論という俗説が蔓延して行った。後は、止めどない領土の拡大から全アジア諸国と世界を敵に回し、原子爆弾二発を浴びて無条件降伏せざるを得なくなった一九四五年八月十五日へと到るのである。

著者の父親は、実は日本に滞在した留学生の一人だったそうである。そういう事情もあってか、本書では違った角度から中国人留学生たちの生活に光を当てている。著者の表現を借りれば、日本、特に東京は革命思想醸成の「揺りかご」だったのである。

当時の日本は大正デモクラシーと言われた時代でもあった。堺利彦、幸徳秋水、河上肇、山川均、山川菊栄などの著作が出回り、彼らの訳した社会主義文献も読めたのである。勿論ドイツ語等を習得すれば原書も読めた。因みに、滞在中に周恩来は幸徳秋水『社会主義神髄』と河上肇『貧乏物語』を読んでいる。

中国人留学生たちはそれらをテキストにして議論し、日本の社会主義文献を翻訳、欧米文献の日本語訳も重訳して祖国中国に紹介した。日本は場所と機会を提供することによって、結果として中国革命とその後の中国の行末に大きな役割を果たすことになった。本書のタイトルは、これらの事情に基づいている。

本書を読み終えた時、私の脳裏には『惜別』読了時の感動が再び甦っていた。著者は太宰治に全く触れていないが、中国人留学生への詳しい知識を得ると、この作品への理解が一層深まったように感じられたのである。新潮文庫の『惜別』を探し出して来て、早速繙いてみる。

巻末には奥野健男の解説があって、「太宰治は、戦争中に於いても日中友好を追求した少数派の知識人だった」旨記されている。確かに、作品としての『惜別』の根底には中国及び中国人に対する敬意と友情の念があって、その思いを表に出すことの出来ない日本人の含羞が巧みに描かれている。この気持ちは現代の日本人まで通低する普遍的なもので、だからこそ、この作品は感動を呼ぶのではないか。太宰の数作品は今なお多くの読者に読み継がれているが、『惜別』も再評価が待たれる名作である。


 

西田敏行『役者人生、泣き笑い』

 河出書房新社 2016年(原健太郎)

 

 俳優・西田敏行が書き下ろした、初の自伝である。

 劇団青年座に入団して二年目、主役に抜擢された『写楽考』(一九七二年初演)は、五年間で三百回以上もの公演を重ねたという、文字通り著者の代表作だが、作者の矢代静一にとってもエポックメイキングな作品だった。のちに矢代は、本作をふくめた「浮世絵師三部作」を発表し、劇作家としての地位を不動のものとした。

 その矢代に、初演から七年目の再演時、「写楽はもう、お前のために書き下ろしたみたいな本になっちゃったよ」と言われたそうだ。実際、別の俳優が演じた舞台を見たことがあるが、なぞめいた悲壮感が鼻につき、著者が演じた伊之という人物の軽妙さがいとおしかった。

『写楽考』の地方公演では、一般観客を交えての合評会がおこなわれた。そこで、ひとりの青年から、「妹にこの舞台を見せてやりたかった。もし僕の妹がもっと早くこの芝居を見ていたら、妹は自殺しなくてすんだと思います」、そう涙ながらに言われ、絶句したという。

 連続ドラマ『池中玄太80キロ』(日本テレビ・一九八〇年~)では、主人公のキャラクターと自分の「地」との間で苦しんだ。そんなとき、ファンから追い打ちをかけるように発せられた、「役の上の池中玄太が好きだったのか、西田敏行のファンだったのか、はっきりしない」という苦言は、胸にしみた。

 本書には、作者や観客、あるいは俳優仲間から投げかけられた、こうした温かくも鋭い言葉が多数書きとめられている。それらをやり過ごすことなく、真摯に受け止め、原動力にしてきた著者の「役者人生」は、わたしたち読者の心をふるわせる。人間、こんなにも謙虚になれるものなのか。しかし、著者にとっては決して無理のない、肩の力を抜いた態度だったようだ。

 命がけで撮影に挑んだことで知られる、映画『植村直己物語』(佐藤純彌監督・東宝・一九八六年公開)に賭けた思いも、本書には綴られている。植村直己がマッキンリーで消息を絶ったのは、一九八四年二月。その直後に、著者は、植村の妻・公子と会っている。二人が初めて言葉を交わす場面は、実に感動的だ。

 ちょうど同じ頃、わたしも、植村直己をテーマにした児童図書の企画で、公子夫人のもとにしばしばうかがっていた。だから、その描写に真実味のあることがよくわかる。ちなみに、わたしが編集担当した本『植村直己・地球冒険62万キロ』(岡本文良著)は、一九八五年八月に、勤務先の金の星社より刊行された。著者も舞台挨拶に立った映画の完成披露試写会には、わたしも出席させていただき、客席の隅から拍手を送ったことを懐かしく想い出す。

「僕の演技の質感みたいなものは、かなりジャック・レモンに影響されているはずです」とか、「台本が躍ってるコメディって、読む段階では面白いんです。でも、じっさいに演じてみると、大体はずすんですよ」「基本的にドラマと映画は違うと僕は思っています」などという文章に出会うと、本書が、すぐれた俳優の自伝であるばかりか、いくつもの問題が提議された演劇論集でもあることに気づかされる。「日本経済新聞」的な、功成り名遂げた人物の自伝=自慢話とは、わけが違うのである。

 著者は一九四七年、福島県郡山市生まれ。明治大学附属中野高校をへて、植村直己と同じ明治大学農学部に進学するも、演劇活動に打ち込み、授業は一日だけの出席で除籍。一九七〇年、劇団青年座に入団し、俳優の道を歩む。『敦煌』『学校』で、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞受賞、ほか受賞多数。現在、日本俳優連合理事長。



菊池清麿昭和演歌の歴史 その群像と時代

アルファベータブックス 2016年(海藤慶次)

 

 私の母親は大の演歌ファンで、その影響もあってか私もカラオケに行くと演歌を歌う方が得意であり、十八番は吉幾三の「雪国」である。そういうこともあって、演歌というものを遥か昔から概観するとどのようなものなのだろうと思い、興味深くこの本を読み始めた。

 演歌というものの起源が自由民権運動などを背景とした明治・大正期に遡ることを知ってはいたが、大正期の政治のうねりや時の内閣や政治的事件に逐一触れていくこの論は他に類型を持たないのではないだろうか。演説に対しての体制側からの規制が厳しくなったことを受けて、世事を歌に乗せて切るということが演歌の発端になったわけだが、その後の大正デモクラシーや昭和モダニズムという潮流に乗ってそれが見事に変容を遂げていくという論法は、実に清新な印象を与える。

 鳥取春陽、阿部武雄といった近代演歌の開祖のような人物のことも極めて丁寧に触れられているし、長い演歌の歴史の中で生まれてきた才能のことも、昭和モダニズム、満州事変、太平洋戦争といった時代の激動の中で勃興したり衰退したりといった叙述で語られている。近現代の日本史のうねりを目の当たりにするようで、リアル感があり生々しい。

 当時の封建制度からの圧力や、戦時中の時局の反映などで情緒的な演歌が締め出され、軍国調の演歌が流行していった。演歌というものが大正・昭和史の中にあっては時局を如実に表す表現形式であったということを想起させて、非常に迫真性を感じさせる。

 太平洋戦争終結後の演歌が、昭和モダニズムの頃以上にアメリカの演奏法やジャズの素養といったものを取り入れて、大衆的な娯楽として発展していくという論法も面白い。音楽用語を使って演奏法や歌唱法について触れていることから、著者の音楽についての博識さが伝わって来て目を瞠るものがある。

 戦後演歌の春日八郎の苦労話や一時期の田端義夫の呻吟など、芸能史の深い部分の話なども盛り込まれている。現代の章に入ってからは、ポップス、フォーク、歌謡曲といった極めて大衆的なものにのまれそうになりながらも、美空ひばりや三橋美智也や橋幸夫といった昭和のスターたちの活躍によって地位を維持してきた演歌というものの底力を感じさせる。

 現代に入ってから、六〇年代から八〇年代を章ごとに分けて、当時ヒットした演歌やその歌手のことに触れていくところは、極めてポピュラーで面白い。藤圭子が演歌のニューウェーブ的な立ち位置であるということはこの本を読んで初めて知った。

「北の宿から」「津軽海峡・冬景色」といった作品がヒットしてから、それまで陽の側面もあった演歌が、寒々とした悲しげなものというイメージになってしまったという部分を読んだ時、私は深く首肯した。ある意味、バブル期の演歌が陰のイメージを作り上げたこともあって、大衆迎合的なポップスが主流になってしまい、演歌が陰の側に追いやられていったということを示唆させる点で、この本の内容は深い。

 北島三郎も紅白歌合戦から引退し、演歌歌手は近年華やかな舞台から遠ざかっている面がある。この本は演歌の有為転変を政治的な事件に絡ませたり、その時代特有のムーブメントに絡ませたりなど内容は満載であるが、最後に美空ひばりについての章を持ってきたところに、巨星の再認識という点で著者が今後の演歌界に託す大きな何かが感じられる。巻末には主要ヒット曲一覧入りの日本演歌史年譜が付されている。

著者は一九六〇年生まれ。明治大学政経学部卒業、同大学院政治経済学研究科修了。日本の大衆音楽分野の評伝を数多く著わしている作家である。著書に「評伝 古関裕而」「評伝 服部良一」「評伝 古賀政男」「天才野球人 田部武雄」などがある。


 

鹿島茂『神田神保町書肆街考―世界遺産的「本の街」の誕生

から現在まで―』筑摩書房 2017年(多田統一)

 

本書は、六つの柱で構成されている。

 

       Ⅰ

神保町という地名、蕃書調所の設立、東京大学の誕生、『当世書生気質』に描かれた神保町に触れている。神田は、武蔵国の供米田があった所で、江戸時代には旗本・御家人が住む武家屋敷であった。地形的に見ると、太田道灌の時代に大池と呼ばれたように、周囲を小高い丘に囲まれた谷間に位置する。猿楽町生まれの永井龍男の回想が紹介されているが、新旧地形図の掲載で、もっとリアルに迫ることができたのではないだろうか。

 

       Ⅱ

明治十年前後の古書店、明治二十年代の神保町について述べている。坪内逍遥の『当世書生気質』が書かれた明治十年前後には、有斐閣、三省堂などの大手書店や大手出版社がすでにこの地で古書店として営業を開始していた。明治も二十年代に入ると、神田神保町も大きく様変わりし、古書街としての性格をいっそう強めていった。

 神田の書店地図が大きく塗り替えられたのは、明治二十五年の大火の時であった。この火災で徳大寺侯爵邸などが焼失し、ここに多くの学校が進出したため、教科書や参考書の需要が拡大し、相当数の書店や古書店、取次店、出版社が集まって来た。今日の古書街の防災対策に結び付くようなヒントが見つかればありがたい。

 

       Ⅲ

神田の私立大学、漱石と神田、神田の予備校・専門学校が紹介されている。神田は、学生の街である。古書店とは切っても切れない関係にある。フランス留学組の明治大学、イギリス留学組の中央大学、アメリカ留学組の日本大学といった法律学校の歴史を紹介しながら、それにつながる予備校や専門学校の歴史がまとめられている。 夏目漱石が大学予備門(現在の東京大学教養学部の前身)の準備のために通っていた成立学舎も駿河台にあった。

 神田が古書の街として発展したのは、言うまでもなく明治以来各種の学校が立地したためである。財政的余裕のない当時の学校が、時間講師を確保する目的で、神田地区に立地したと言う事情もあったようである。

明治十九年の中学校令公布以前においては、大学予備門受験の準備は、私塾的な私立中学が担っていた。府立一中が設立されたのは明治十一年のことであるが、東京府には二七一の私立学校があったと言われている。その多くが、現在の千代田区に集中していた。当時の学生の生活、特に本代への出費などについても知りたいと思った。

 

       Ⅳ

神田神保町というトポス、中華街としての神田神保町、フレンチ・クォーター、お茶の水のニコライ堂を取り上げている。中国共産党揺籃の地としての神保町という視点が興味深い。日清戦争後、留学生会館のある神田に、たくさんの中国人留学生が押し寄せた。

最初にあったのは、駿河台鈴木町(現在の神田駿河台)の清国留学生会館である。すずらん通りからさくら通りにかけては、現在も中華料理店が軒を並べている。中国人留学生にとって日本食は口に合わず、それが原因で脚気になったと言う話もある。医食同源の考え方が、中華街の形成に結びついたとする説は面白い。

周恩来の『十九歳の東京日記』には、神田に中国人専門の印刷所や質屋まであり、三崎町に下宿していた十九歳の彼は頻繁に古書店を訪れたと言う。中国共産党の歴史は、日本留学経験のない毛沢東を中心に書かれているが、実際にはそのかなりの部分が神保町で準備されたという指摘は貴重である。

 

       Ⅴ

古書肆街の形成、神田と映画館、神保町の地霊を取り上げている。神田は、勉強の街であると同時に娯楽の街でもある。授業料滞納で除籍された学生が、映画館で働いているという姿も見られたようである。明治・大正期には神田は劇場街として、昭和期には映画街として名を馳せていた。

現在の日大法学部周辺には、三崎三座の三崎座、川上座、東京座があった。明治末に帝国劇場が完成するまで、神田が演劇の中心となった。昭和二十六年の岩動景爾の『東京風物名物誌』には、神田日活館、東洋キネマ、神田銀映座、角座のことが記されている。劇場や映画館の分布図があると分かりやすい。

 

       Ⅵ

戦後の神田神保町、昭和四十~五十年代というターニングポイントについて書かれている。中央大学が八王子に移転して、そこにスキー用品店が進出したこと、古書マンガブームの到来でサブカル・オタク化した神保町の様子などがまとめられている。土地利用の変遷、商店街構成など、都市機能の変化を空間的に捉えることができる。

 

いずれにしても、本書は単なる神田神保町書肆街についてのエッセイではない。著者も言うように、近代日本の文化の発達を、神田神保町という特殊性にスポットを当てながら、それを明らかにしようとした社会経済史である。歴史の縦糸と地理の横糸を巧みに絡ませる中で、一般性を導き出そうとしている点が参考になる。これらの膨大なデータを、図表化して可視的に俯瞰してみたいものである。

著者は明治大学国際日本学部教授。『馬車が買いたい』『愛書狂』『職業別 パリ風俗』『パリ歴史事典』『フランス歳時記 生活風景12か月』『モンマルトル風俗事典』など著書多数。



「駿河台文芸 第32号」平成28年(201611月15日


堀口茉純『新選組グラフィティ18341868

―幕末を駆け抜けた近藤勇と仲間たち―

実業之日本社 2015年(長瀧孝仁)

 

 著者を初めて知ったのは、レギュラー出演されているNHKラジオ番組「DJ日本史」に於いてであった。当初は「やたら歴史通の女子アナウンサーがいたものだ!」と思ったが、掛け合いで進む番組中に著者の経歴に触れる場面があり、アナウンサーではなく女優さんで、大学の後輩であることも判ったのである。

その後大型書店を訪ねた折、歴史書の棚に「新選組コーナー」があって、主に新選組ファンの立場から書かれた著作が二十冊近く並ぶ中に、この本があったのである。

 著者は本書を上梓するに当たって、以下の三つの方針を掲げている。

 

一、幕末史に於いて新選組がどう関係したのかをより明確化するため、年代ごとに項目を立てて細かく対比させる。

二、芝居、映画、小説等で作り上げられた新選組の虚像に対して実像を追う。

三、新選組ファンの一人として、出来れば新選組再評価に貢献したい。

 

またこの本の体裁は、歴史書として斬新である。イラスト、図表、コラムを多用して、学習参考書、HOW TO本、少女漫画雑誌などの編集上の構成を大胆に取り入れているからである。私は新選組について、少しは知っているようで実は細かな所は知らなかったのだが、読後に何か一角の新選組通にでもなったような気になったのである。

          ○

 本書の読後感は、著者の願いとは裏腹に次のような惨憺たるものだった。

 

一、新選組の存在の有無に拘わらず、幕末史の大勢は何ら変わらなかった。

二、佐幕という大義名分を掲げたものの、新選組には「農民から武士になりたい」「人を斬ってみたい」「どでかい事を仕出かして一旗揚げたい」……という不純な動機が混在していた。

三、新選組の動きは一見ドン・キホーテ的である。ドン・キホーテは間抜けな行動を繰り返すことによって、世の真実を知らしめるが、新選組にそういう面はなくて、単なる間抜け集団だった。

 

 ところで、新選組をテロリスト集団として捉える見方がある。本書にそういう視点はないが、寧ろ私にはそちらの方面から教えられることが多かった。私の少年時代、連合赤軍事件が起こった。その後も、中核派VS.革マル派の内ゲバ事件が頻発。そして、青年となってからオウム真理教事件が起こる。現在は、IS=イスラム国が当面の問題である。自分の半生を振り返れば、時代的にテロ事件がニュースの巻頭を飾る頻度が高かったのである。

 新選組には、集団からの脱走は許さず、異論を唱えた者も処刑という「鉄の掟」があった。これは、連合赤軍、オウム真理教、イスラム国など共通のものである。また、この手の集団は「純化」を繰り返し、その過程で発生する分派には残忍な粛清で臨むものである。新選組では、芹沢鴨暗殺や伊東甲子太郎暗殺がこれに当たるのだろう。連合赤軍では酷寒の榛名山、妙義山等の山中でのリンチ事件、オウム真理教では教団内で日常化した修行という名の私刑が思い出される。……こうして当て嵌めて行くと、面白いほど類似性があって、新選組の行動一つ一つに、私と同時代のテロリスト集団を思い浮かべながら読んでいる自分に気が付くのであった。

 そして、何時もテロリスト集団に対して私が思うのは、次の疑問である。

 

一、なぜ若者は、世間で危険だと言われている集団にあこがれるのか?

二、昨日まで普通の青少年だったのに、なぜ急にかくもむごたらしい残虐行為を平気で行えるようになるのか?

三、なぜ若者は、命を粗末にするのか?

 

本書にある新選組の記述には、これら疑問への解答も含まれている。

          ○

 次に考えたのは、新選組の後の世への影響ということである。群馬県山中に潜んでいた連合赤軍の一部メンバーは、ラジオで県警の山狩り情報を入手して長野県側へと敗走する。これが「あさま山荘事件」となる。当時の左翼武装集団は、南米ゲリラ戦の教科書をよく学習していたと聞く。しかし、敗走中に頭をよぎったのは、明治新政府軍に追われる身となった新選組だったのではないか? 近藤勇の最期となる東京千住から千葉県の流山への行軍である。

また、オウム真理教では、山梨県の富士山麓にあった教団施設内で教祖が逮捕された時、マネジメントなどの本が大量に見付かっている。教団運営に当たって、過去の事件や社会運動、政治運動等を深く研究、模倣していたのである。麻原彰晃こと松本智津夫は私と同年生まれなのでよく分かる気がするが、新選組についてもよく知っていたのではないか? これらは刑事調書や裁判記録に出て来ない性質のものだが、日本人の心情として充分有り得ることだと私は思っている。

 「戦後七十年」とはよく聞く言葉だが、近藤勇が斬首されてその首が京都三条河原でさらし物になってから、満州事変まで六十三年。太平洋戦争開戦までは七十三年である。一連の新選組騒動が未だ生々しい事件だった戦前、新選組は明治新政府に刃向かった国賊とされていた。そんな時代に於いても新選組ブームがあって、講談となり映画も制作されている。戦後は小説となり、舞台、映画となって、何度かの大きな新選組ブームが起こっている。新選組の行状は、終始血塗られたる凄惨な事件に彩られている。それなのに、新選組は日本の国民にこんなに人気があるのだ。それは何故だろうか? 機会があれば、一度時間を取ってよく考えてみようと思う。

          ○

著者は、一九八三年東京都足立区生まれ。明治大学文学部演劇学専攻及び文学座附属演劇研究所卒業。二〇〇八年、江戸文化歴史検定一級に最年少で合格。女優、歴史解説者、著述家として活躍中。文中のイラストや漫画も著者自身が描いている。才人である。

著書に、『TOKUGAWA 15―徳川将軍15人の歴史がDEEEPにわかる本―』(草思社)『UKIYOE 17―江戸っ子を熱狂させたスター絵師たち―』(中経出版)『EDO 100 フカヨミ!広重「名所江戸百景」』(小学館)『江戸はスゴイ―世界一幸せな人びとの浮世ぐらし―』(PHP新書)がある。

 

 

荒木優太これからのエリック・ホッファ―のために

―在野研究者の生と心得―東京書籍 2016年(海藤慶次

 

 著者は1987年東京生れ。Web媒体で日本近代文学関連の研究活動を行っておられる方である。以前、私の大学院指導教授であられた宮越勉先生と電話でお話した時、「宮越ゼミの院生で群像新人評論賞を受賞し、大学院卒業後もバイトをしながら研究をしている人がいる」と伺ったことを覚えている。今回書評対象の本としてこの書籍を手に取った時、プロフィールを見て、「ああ、宮越先生が言われていた方だ」と思った。私は、明治大学大学院という自分と同じ場所で修士号を取った著者に興味をいだいて読み進めていった。

この本には、エリック・ホッファーをはじめ、谷川健一、高群逸枝、森銑三、小室直樹、南方熊楠といった総勢十六人もの「在野」の研究者でありながら業績を上げた人物が紹介されている。描かれているのは、いわゆる「大学」「研究所」といった権威には所属せず、労働をしながら、あるいは妻に食わせてもらいながら研究に従事した人々の「生」である。それぞれの項には、各人の簡単な評伝と、その人生から抽出される著者流の「心得」も端的に記されている。

私は読んでいく内に、「帰属先」「社会的肩書」がなければ「表現者」「研究者」として認められないのか、「やりたい」という意欲だけではアイデンティティになり得ないのか、という問いに直面した。この根源的な問いに対して著者は、「なりたい」ではなく「やりたい」ということの重要性や、傘の下にいないことにコンプレックスを持つな、といった啓発的な回答を見事に提示している。

この本は著者なりの研究活動という「現実」に立脚しており、自由主義の恩恵を享けながらも単独であることに悶々としている人々には有益な書物である。同人誌の同人にも動機づけとなり、励ましの書となり得る良書である。

 著者は、明治大学文学部文学科日本文学専攻博士前期課程修了。『反偶然の共生空間―愛と正義のジョン・ロールズ』で群像評論新人賞受賞。著書に『小林多喜二と埴谷雄高』がある。



荻原博子『隠れ貧困
中流以上でも破綻する危ない家計

朝日新書 2016年(多田統一)

 

 経済評論家としてテレビや雑誌で定評のある荻原博子氏が、貧困問題についての著書を出版した。サブタイトルにもあるように、中流以上にも隠れ貧困が忍び寄っていると警告している。全体を通して、家計経済の立場から実際に数字を示して、分かりやすく解説している点に特色がある。本書は、次の8つの章で構成されている。

 

第1章 高収入でも貧困が忍び寄る40代

第2章 「隠れ貧困」解消の基本心得

第3章 一見リッチな50代を蝕む「隠れ貧困」

第4章 お金の怖さを知る人、知らない人

第5章 「隠れ貧困」対策編 どうしてもお金が貯まらない

第6章 「隠れ貧困」対策編 ローン、借金を減らすには

第7章 「隠れ貧困」対策編 老後資金の不安に答える

第8章 「隠れ貧困」対策編 病気や介護に備える


 第1章では、年収800万円の内実が、中堅銀行の課長・長谷川二郎さん(仮名・42歳)の例で紹介されている。

「誰もが知る大学を出て、本部勤務でシステム部門を担当。専業主婦の妻(38歳)、小学6年生の女の子、小学4年生の男の子がいる。下の子どもが生まれた10年前に、都内の4000万円のマンションを35年ローンで購入。頭金200万円で、3800万円の住宅ローンを組み、返済額は月々9万円弱、ボーナス時に約20万円。年収800万円と言っても税金や社会保険料などを差し引いた手取りは、600万円ほど。手取り換算にして月々35万円、夏と冬のボーナスがそれぞれ90万円。しかし、実際の住まいの費用は、月々9万円では済まず、管理費、修繕積立金、固定資産税に加え、駐車場の2万円を支払わなければならず、月の出費は約13万円になる。残りの12万円で生活のやりくりをしなければならず、二郎さんの小遣い3万5000円、妻の小遣い5000円(主に美容代)。残りの8万円の中で、食費を月4万円に抑えたとしても、水道、ガス、光熱費、電話代などの通信費に4万円はかかるので、月々の給料はすべて消えてしまう。ボーナスは、手取りで年間180万円あるが、住宅ローンのボーナス払いが年間40万円かかり、生活費の赤字として約25万円が使われ、さらに生命保険料や自動車保険料などで年間25万円ほどが消えてしまう。残りは90万円であるが、年1回の二郎さんの名古屋の実家と北海道の妻の実家への帰省費用が20万円ほどかかる。さらに、子どものサッカーの応援や友人家族とのレジャーに10万円、家電や風呂の修理に10万円、衣装代や通院費用を合わせると、額面で800万円あったお金が限りなくゼロとなり、貯金どころではない。」

といった具合である。具体的に数字を示されると、ついつい納得してしまう。生活レベルの問題もあるが、中流以上の家庭がそうであるのだから、貧困の実態は実に根深いことが想像できる。

 第2章では、人生の三大出費、つまり住宅ローン、教育費、老後費用のハードルをどのように乗り越えていくかについて述べている。定年退職までに住宅ローンも教育費ローンも終わっていれば、退職金はまるまる老後資金として活用できることを勧めている。50歳で貯蓄と負債がプラスマイナス・ゼロなら、人生の勝ち組なのである。

 第3章では、40代、50代の高収入なのに貯蓄できない実態を紹介している。年収1000万円から1200万円の人の13・5%、1200万円以上の人でも11・8%の人が貯蓄ゼロである。住宅ローンなどのために、会社員なら部長や役員クラスの収入がありながら貯蓄できない現状がある。

 第4章では、ある程度の収入があるのにお金を貯められないという問いに答えている。お金を貯められない人に共通する特徴は、お金の怖さを知らないということである。行き過ぎた親の援助は夫婦間に溝をつくるし、親子の共依存は子どもをダメにする。誰かのせいにするのはやめ、しっかりと自己管理していくことを力説している。

 第5章から第8章は、「隠れ貧困」対策についてQ&A形式で纏めている。

 

Q こども保険は貯金にならない?

A こども保険は、お父さんが亡くなっても子供が勉強を続けられる保険。生命保険に加入していれば必要ない。

 

Q 住宅ローンはどうクリアする?

A 繰り上げ返済は早ければ早い方がおトク。老後の年金生活にまで住宅ローンを持ち込むと、老後の生活が危うくなる。

 

Q 老後資金は大丈夫か?

A 国が破綻しない限り、年金はもらえる。しかし、その額は次第に減る。

 

Q 個人年金は入った方がいい?

A 年金より現金。しっかり現金貯金を殖やす。


 庶民の立場に立って、ズバッと答えている点に共感を覚える。さすが、定評のある経済ジャーナリストと言う感じである。綿密な取材に基づいた客観的なデータの提示には、人を説得する力がある。家計経済の立場からの政策提言は、為政者だけでなくすべての人が耳を傾ける必要があろう。個人や家庭があって、はじめて社会や国が成り立つということを再認識させられた。

 著者は1954年長野県生まれ。明治大学文学部卒業。経済事務所に勤務後、1982年にフリーの経済ジャーナリストとして独立。家計経済の立場から経済の仕組みを分かりやすく解説する第一人者として、現在、テレビ、雑誌などで活躍中。

 

                            

菊田守『菊田守 詩集』砂子屋書房版 現代詩人文
2016年3月 再版(多田統一)


 菊田守氏による自撰詩集である。菊田氏の詩には、小動物がたくさん出てくる。その中でも、菊田氏本人は特にすずめとカラスに愛着があると言っている。しかし、作品を読んでみると、すべての小動物に自らの人生を重ね合わせ、自然への崇敬の念をやさしい言葉で表現している。ここでは、いくつかの作品を紹介し、菊田氏の詩作の特徴とその考え方を論評してみたい。

 

鋭い観察力


 菊田作品のすばらしさは、小動物に対する鋭い観察力とその生き生きとした表現力にある。それは、「イトトンボ」、「雀の舞踊」、「天道虫」などによく表れている。

 

「イトトンボ」

 

小学生の書く漢字の一のように

まっすぐ身体を伸ばしている

 

「雀の舞踊」

 

地面を踏み

つつつと小走りに歩き

地を軽く蹴り

空中で舞い踊る

 

「天道虫」

 

そっと原稿用紙を立てると

紙の縁をのぼっていき

原稿用紙のてっぺんを歩いている


   軽妙なユーモア

 

これは、菊田氏の人に対するやさしさが自然と詩に投影されたものであろう。特に、「まんぼう」という作品によく表れている。

 

「まんぼう」

 

飛行船みたいな魚だ

暢気な生き方が信条なので

逃亡に使うしっぽは捨てた

媚を売るしっぽも捨てた

 

大切にする子どもの視点

 

菊田氏は、幼児期の体験や子どもの感動・喜びを素直に表現している。「蝉時雨」、「鯉の握手」に、それはよく表れている。

「蝉時雨」

 

セミがおしっこを引っ掛けるのは

本当は

捕まえられそうになると恐怖で緊張して

ついおしっこを洩らしてしまうのだという

 

「鯉の握手」

 

一匹の真鯉が水中からすーっと上がってきて

わたしの右手の人差し指をぱくりと噛んだ

 

幻想の世界

 

小動物の世界は、実に幻想的である。「ニイニイ蝉」、「うさぎ」に、それはよく表れている。

 

「ニイニイ蝉」

 

その姿を見ていると

なぜか般若に見えてくるのだ

 

「うさぎ」

 

水槽の水をおいしそうに飲んでいる

水面に映った月が

生卵の黄味のように

うさぎの喉を通ってゆく

 

自らの老いと家族観・宗教観

 

詩作は、老いとの競争であるし、戦いでもある。「母のすずめ」と言う作品の中で、母親の知り合いの会話として表現されている。固有名詞がとても新鮮である。

 

「母のすずめ」

 

「老い、をむかえると何もかもいつものようにはいかなくなってくるのよ」

と母と同い年の武田隆子さんがいった

 

また、「変容のカラス」という作品にも注目したい。カラスは、不吉な鳥である。カラスがヒトになるのか、それともヒトがカラスになるのか。喪服姿の女性のグループが電車内で話している光景は、都会の日常と非日常を考える材料として興味深い。

 

「変容のカラス」

 

初夏の週末電車に

喪服の数人の女性が走りながら乗りこんできた

新鮮な季節が喪服のなかに秘められた

それぞれの白い肢態をまぶしく輝かせ

言葉は唇から軽やかにとびかった

 

限られた命を精一杯生きる

 生命の詩を書く菊田氏は、身近な小動物の目で社会に鋭く切り込んでいる。しかもその目線は低い。人の一生は実に短い。「蚊の生涯」では、自分の人生も蚊の一撃に過ぎないのかもしれないと言っている。しかし、小動物は限られた生命を精一杯生きている。小動物への愛着と自然への感謝があるからこそ、菊田氏の作品は生き生きとしてしかも力強いのである。人類の進むべき道も、このような身近な世界にヒントが隠されているのかもしれない。


  「蚊の生涯」

 

わたしの蚊のような生涯を

考えさせるに充分な

一撃だったよ

菊田守氏は、1935年東京都中野区生まれ。1959年明治大学文学部卒業。1994年、第一回丸山薫賞受賞。日本現代詩人会元会長。詩集『かなかな』他、多くの著作がある。

 

 

尾佐竹 猛著・吉良芳恵校注

『幕末遣外使節物語―夷狄の国へ―』

岩波文庫 2016年(長瀧孝仁)

 

 幕末の徳川幕府は都合五回、海外へと外交使節団を派遣している。一八六〇(万廷元)年の遣米使節・新見豊前守一行、一八六二(文久二)年の遣欧使節・竹内下野守一行、一八六三(文久三)年の遣仏使節・池田筑後守一行、一八六六(慶応二)年の遣露使節・小出大和守一行、一八六七(慶応三)年の遣仏使節・徳川民部大輔一行である。本書は、史料が整わなかった小出大和守一行の分を除き、残り四回分の使節団を順に追っている。

日米条約批准交換を目的に派遣された新見豊前守一行は、米国が差し向けてくれた軍艦ポーハタン号に乗組み、日本の軍艦・咸臨丸もそれに随行する形で太平洋を渡っている。ホノルル、サンフランシスコ経由でパナマに上陸し、カリブ海側の港からは米艦ローノック号を使ってワシントンに到っている。サンフランシスコまでの太平洋航海に何とか耐えた咸臨丸は修繕に手間取り、現地で改修後に帰国している。この咸臨丸一行には、船将として勝麟太郎(勝海舟)、通弁方として中浜万次郎(ジョン万次郎)、医師として福沢諭吉の名があった。

豊前守一行はブカナン大統領と謁見。ワシントンだけでなく、ボルチモア、フィラデルフィア、ニューヨークなどを巡って、議事堂、軍施設、造船所、造幣局工場、博物館等を見学、芝居見物もしている。どの地でも、群衆で身動き出来ないような歓迎を受けている。丁髷に羽織袴、帯刀という「侍装束」で近代都市の街路を闊歩したのだから、物珍しさから一目見ておこうと、夥しい数の見物人が集まったのであろう。侮蔑の言葉を浴びることもあった。遣米使節団は最も史料が多く、この文庫本の分量の三分の二近くを占めている。

遣米使節と均衡を保つために仏・英・蘭・露とプロシア、ポルトガルの六カ国へ派遣されたのが、竹内下野守一行である。英国が差し向けてくれた軍艦オーヂン号でスエズへ上陸し、アレキサンドリアから英艦ヒマラヤ号でマルセイユに到っている。スエズ運河が完成する少し前の話である。下野守一行は皇帝ナポレオン三世と謁見し、ロンドン万国博覧会も見学している。二百年来の交流があったオランダでは、予想外の歓待を受けて皆感激した。

遣欧使節の目的の一つは、開国の延期を各国に告げることであった。国内攘夷論の高まりを受けて、一旦決めた開国に躊躇したのである。しかし、英国からは逆に輸入税の減額を飲まされている。またロシアでは、日本から樺太境界問題を提起するも門前払いであった。更に、フランス滞在中に生麦事件が起こり、フランス政府の待遇が急に冷淡となって下野守一行はショックを受けている。生麦事件とは、横浜市の生麦村で薩摩藩の隊列を乱した騎馬の英国人を藩士が殺傷した事件である。随員中には語学力が買われて、若き日の福沢諭吉と福地源一郎(福地桜痴)がいた。二十九歳と二十二歳である。福沢は、使節団の経験を基にして『西洋事情』を著している。 

 事情あって急遽慌しく派遣された池田筑後守一行は、フランスに横浜港封鎖を伝えたものの、受け入れられずに帰国している。フランスが差し向けてくれた軍艦モンジュル号を使って上海まで行き、苦労の末マルセイユに到着している。香港、コロンボ、アレキサンドリア等で、フランスの郵船などを何度も乗り継がなければならなかった。途上、筑後守一行は船中や寄港地でアイスクリームやバナナを初めて味わっている。エジプトでは、ピラミッドとスフィンクスを見学している。

筑後守一行はパリで皇帝ナポレオン三世と謁見、フォンテンブローの大観兵式に招待されている。動物園ではカバやシマウマを見て相当驚いており、芝居見物もしている。

パリ万国博覧会への出品を目的に派遣された徳川民部大輔一行は、フランスでは皇帝ナポレオン三世と謁見、この後スイス、蘭、ベルギー、伊、英の五カ国を巡って帰国している。民部大輔即ち徳川昭武とは第十五代将軍・徳川慶喜の弟であり、当時は未だ十四歳であった。幕府は昭武の派遣で日仏親善の意を表したのだろうが、残念なことにその幕府が滞在中に瓦解してしまった。民部大輔一行には渋沢栄一が含まれていた。

         ○

この著作は今回で四度目の出版となる。一九二九年に万里閣書房から初めて上梓され、一九四八年に実業之日本社版『尾佐竹猛全集』第七巻に収録された。木村毅 校訂・解題による全集版は、一九八九年に講談社学術文庫で再刊されている。この文庫では、万里閣書房版を底本に現代の読者向けに校注を加え、写真や銅版画など掲載資料も新たに追加されている。

ところで、最初に万里閣書房から上梓された時は現在とは書名と副題が逆で、『夷狄の国へ―幕末遣外使節物語―』となっていた。「夷狄」とは『論語』にある語彙で、「中国周辺の異民族」転じて「未開の外国人」という意味である。幕末の攘夷論者が日常的に使っていたようである。全集版から書名が変更された理由は、当時は敗戦から間もなく、如何にも占領軍への「当て付け」だと誤解されることを恐れたようである。

著者自身が意図的に採用した「夷狄」という書名の漢語ついては、本書の内容を表す相応な用法である。幕末の攘夷論者の狭量を揶揄し、国富の蓄積と科学技術力で圧倒する欧米諸国へ東方の島国から身構えて乗り込んだ東洋人、日本人としての矜持をも示している。巻末の解説で校注者の吉良氏は「本書が初めて出版された一九二九年は世界恐慌の年であり、二年後には満州事変も起こっている」と、明言はしないが含みある指摘を行っている。「夷狄」がやがて「鬼畜米英」へと変質する過程に於いて、敢えて著者は、幕末の使節団の志の高さと謙虚さ、広量と寛容を言挙げしたかったのかも知れない。

 著者の叙述方法は、渡航者の航海日誌や日記、備忘録、欧米側応対者の日記、回想録、米国の新聞記事など広く関係文献を渉猟し、史料の抜粋を掲げながら自説を述べて行くスタイルである。因みに『福翁自伝』は何度も引用されている。

これら史料を読み込んで行くと、船酔いと口に合わない食事という使節団の苦労話の背後に、当時の世界情勢が垣間見えるのである。アジアの地で覇権争いを繰り広げる英仏両国は、薩長勢力と一枚岩とも言えない幕府それぞれに陰謀めいた複雑な外交を仕掛けていた。スパイもどきの怪しい輩も跋扈している。先述のように、使節団には外交面でめぼしい成果がなかったのである。

本書は寧ろ、「幕末の異文化体験記」として読まれているようだ。使節団の侍たちは途上の船中で議論し、外国語学習にも怠りなかった。訪問先では、近代都市の美しさ、スケールの大きさ、科学技術の体現である汽車、トンネル、地下鉄、気球などに素直に驚嘆している。少数ではあるが、病没により現地で荼毘に付された随員も出た。

著者は洒脱磊落な人柄だったようで、文章も性格そのまま、読者を厭きさせない。弥次喜多道中よろしく、赤ゲット的失敗談も織り込まれて読物風に仕上がっている。現在と違って、執筆当時著者が入手出来た史料は限られていたようだ。それでも、大局的な見地から国際関係を的確に把握出来ており、「今なお読む価値がある著作」と評価されている。

          ○

著者の尾佐竹猛(おさたけ たけき)(一八八〇~一九四六年)は石川県生まれ。明治大学の前身である明治法律学校を卒業後、第一回判検事任用試験に合格して判事となり、大審院(現最高裁判所)判事、衆議院憲政史編纂会委員長などを歴任した。

また著者は、著名な日本憲政史家でもあり、明治大学では法学部教授、後に戦中は文科(現文学部)部長を務めていた。著書に『日本憲政史大綱』『維新前後における立憲思想』『明治維新』『大津事件―ロシア皇太子大津遭難―』等多数の学術書がある。一般読者向けの読物風著作は、本書と『賭博と掏摸の研究』の二冊となる。

著者は吉野作造、石井研堂、宮武外骨らと明治文化研究会を主催しており、その業績は『明治文化全集 全三十二巻』に結実している。初代会長は吉野作造、第二代会長が尾佐竹猛、第三代会長木村毅。

私は在学中、著者の尾佐竹猛への言及を講義で一度だけ聞いている。それは憲法の時間で、和田英夫教授は「君たちの大先輩だ!」と言われた後、その業績や軽妙洒脱でユーモラスな講義の思い出を懐かしそうに話された。東京帝国大学で法学博士号を取った関係で、尾佐竹は四年間、日本憲政史の講師として東大の教壇にも立っていたのである。

               

 

大岡信『自選 大岡信詩集』岩波文庫 2016年(長瀧孝仁)

 

 過去「大岡信詩集」という書名で上梓された本は何冊もある。様々な雑誌に掲載された詩作品を集めて詩集が次々と出版され、それらの詩集の詞華集(アンソロジー) という形で節目に『大岡信詩集』が何度も編まれて来たからである。私の本棚にも、その内の一冊である思潮社の現代詩文庫№24『大岡信詩集』(一九六九年出版、一九七三年七刷)が並んでいる。それらの詩集と今回の文庫本『自選 大岡信詩集』の違いは、大岡先生が八十代半ばという晩年に来し方を振り返って、思い入れの強い作品、出来が良かった作品、思いの外高い評価を受けた作品を自ら選ばれたところにある。

大岡先生による教養科目・文学の講義は、テキストが『たちばなの夢』(新潮社)で新刊の『詩への架橋』(岩波新書)も副読本として活用された。この年は朝日新聞に「折々のうた」を連載される直前であり、大岡教授は法学部の教養部長という要職にも就かれていた。

先に述べた現代詩文庫の『大岡信詩集』は、詩人として大岡先生がどのような作品を書かれているのか知りたくて当時購ったものである。私にとっては、この後書店の棚で見つけた『悲歌と祝祷』『春 少女に』『水府 みえないまち』『草府にて』『故郷の水へのメッセージ』などが、同時代として知る大岡先生の詩集ということになる。こういう事情から、この文庫本への私の関心は、大岡先生の自選作品と私が折々読んで感じる所があって以前印をしておいたものとが、果たして重なっているのかという点になる。

今回読んでみて、大岡先生は若い頃の作品により強いこだわりを持たれているように思えた。また、講義中でもエッセイの中でも、大岡先生は家族のことなど私事にも少し触れられる方なのだが、この文庫本にある晩年の詩作品によって、それらご家族の輪郭がくっきりと浮かび上がった。そして、私の中で「水」のイメージが拡がったようにも感じられた。この書評では、当文庫本に収録されている詩作品を引用しながら、その「水」について述べてみる。

         ○

 大岡先生は静岡県三島市のご出身である。東海道新幹線の三島駅で降りて三嶋大社へと向かうと、桜川沿いに建つ石碑に大岡先生の詩「故郷の水へのメッセージ」より冒頭四行が刻まれている。

 

  地表面の七割は水

人体の七割も水

われわれの最も深い感情も思想も

水が感じ 水が考へてゐるにちがひない

 

この詩は、柿田川湧水群保護のために請われて詩作されたのだが、この「水」への感覚は既に三十歳代には形成されていたようだ。詩集としては未刊であった詩作品「水の生理」に「地表の七割以上を占める水」という詩句があり、更にその後半部分には

 

わたしたちの肉や骨は

地表面とほぼ等しい比例によって

水と水でないものにわかれる

すなわちわたしたちのからだは

七、八割方 水で占められ

ひとりひとりが

人類の生きる地球の形状を模倣している

ともいえよう

 

と続いている。

私は知識として、その昔古代ギリシアに「万物は水からできている」と説いた哲学者がいたことを知ってはいるが、自らの身体に水の組成を感じたことはない。血潮や鼓動を感じるのが精々である。これは、通常の人の感覚でもあるだろう。しかし、大岡先生は違うのである。この世に生を受けた時から、羊水の中で既に大地の「水」を感じていたようなところがある。この「水」への思いが、創作の動機の柱の一つになっているのではないか。

 七十歳近くになっての詩作品「三島町奈良橋回想」は、次のように完結している。

 

夢の中でも 伸びた藻草がゆらゆら揺れて、

坊やはやがて この奥の 水の都へ帰つて来るのさ、

ゆらゆらと頬笑んで 手招きしてゐた

 

幼少の頃から三島で見続けて来た富士山の伏流水に源を持つ豊富な湧水の記憶を辿る詩で、最後は不思議な感覚を伴う夢の中での話になっている。この詩句の中には、三島の湧水よろしく、汲めども尽きぬ創作の活力の源泉が隠されているように、私には思える。

         ○

 学生時代に大岡先生の詩やエッセイを読んで、その作品世界にある土地を一度訪ねてみたいと思った。それから月日は流れて、五十歳代に妻子同伴で初めて沼津・三島を歩いたことがある。今ならこの文庫本も含めて三冊と言いたいが、その時は大岡信著『若山牧水―流浪する魂の歌―』(中公文庫)と『詩への架橋』(岩波新書)の二冊を携行していた。

 先ず、二冊の本でも触れられている若山牧水の歌碑と若山牧水記念館を訪ねた。「幾山河こえさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく」の歌碑である。どちらも駿河湾沿いの千本松原と呼ばれる松林の中にあった。千本浜からこの黒松の防風林を望むと、雪に覆われた白い富士山も背後に見えて、正に白砂青松という景勝地であった。戦争末期のガソリン枯渇で困窮した日本軍は、テレビン油の一種である松根油を戦闘機用に開発するため、沼津辺りの松林でも松の伐根を掘らせていたという。大岡先生から講義中に、そんな話を聞いたことを思い出す。

 次に歩いて沼津港へと向かう。ここは漁港でもあって、漁船の向こうに春の海が光っていた。港の市場には桜海老や白子などの名物が並んでいる。ネタとなる地場の新鮮な魚介類が豊富な沼津では、鮨屋が「ぬま寿し」という共通の看板を掲げて売出し中であった。

旅の目的の一つは、沼津港深海水族館へ妻子を連れて行くことであった。この地にそのような施設がある理由は、駿河湾では漁師の網に浮上して来た深海魚が入ることが間々あるからである。網に入った珍客を買い付ける一方、水族館でも深海生物の捕獲を試みて、この施設は維持されている。地図を広げると、太平洋の底の深みが駿河湾の相当奥まで切り込んでいることが分かる。日本最高峰の富士山は駿河湾へと急傾斜を下り、海面下でも一気に太平洋の深海へと達しているのである。若山牧水に「海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり」という歌があることを思い出した。

 

 翌日は、三島の湧水群を出来るだけ水路に沿って巡ることにした。楽寿園、白滝公園、先に述べた大岡先生の石碑が建つ桜川、三嶋大社、源兵衛川などである。街中には何箇所もの湧き水があって、地図上では水色のリボンがそれらを結ぶように、迷路園を形作るように流れている。三島に湧水が集中するのは、富士山から流れ出た溶岩流によって形成された水をよく通す地層と関係がある。山麓の三島市付近はその地層の末端部に当たり、標高の高いところで降った雨と雪が富士山の地下水となって、それらが溶岩の切れ目から湧き出すのである。

桜が満開の三嶋大社境内には、人だかりが出来ていた。また、この地は鰻の蒲焼が名物らしくて、老舗の店頭に待合客が列をなしているのも見た。しかし、鰻は三島の産ではないと言う。浜名湖の鰻を一週間ほど三島の湧水に晒すと、泥を吐いて身が引き締まって美味になるのだそうだ。大岡先生からは講義中に、「戦後暫くは東京の食料事情が悪く、大学生になった当初は湘南電車で三島から遠距離通学していた」旨聞いている。ぬま寿しと言い鰻の蒲焼と言い、確かに土地の豊かさが伝わって来る。食物全般に恵まれているのであろう。

 湧水地の中では、柿田川公園のものが規模とその水量に於いて他を圧倒していた。先に引いた大岡先生の詩「故郷の水へのメッセージ」では、冒頭四行に続いて「この地下から奔騰する湧水群は」とあるが、確かに大地の奥から噴出するように感じられた。一方、楽寿園はその昔皇族の別邸だったようだが、肝腎の日本庭園の泉水が涸渇していた。伏流水の上流で工業用水として地下水を大量に汲上げるようになった頃から、季節によって小浜池と呼ばれるこの泉水は底を見せる。大岡先生が幼少年時代に経験された豊富な湧水は、その水量とほとばしり方に於いて、この日三島で見たものとは別物と考えねばならないだろう。

 最後に、目的二つ目として駅前にある大岡信ことば館を訪ねた。陳列されていた大岡先生の全著作を拝見する。この後、三島駅から東海道新幹線で東京へ向かった。現実と沼津・三島の土を踏むまでに頭の中で思い描いて来たものとが随分掛け離れていたことを思い知らされる旅であった。

         ○

大岡信作品を論じる切口は「水」だけとは限らない。「古今集」「日本古典文学」「仏蘭西文学」「窪田空穂」「折々のうた」「抽象絵画」云々。実に多面的な切口がある。

また、沼津、三島とも深海に臨む町、湧水の町というだけに止まらない。両市には古くからの歴史があり、共に東海道の宿場町である。富士の裾野方面や伊豆半島、箱根方面への起点にもなっている。それでも、この書評では「水」にこだわって述べてみた。

 ところで、何度も地図を見ている内に偶然であろうが、私が述べたかったことが地図の上に象徴的に描かれていることに不図気が付いた。文章にすると、次のようになる。

 

 東海道線で隣駅の沼津と三島の真ん中辺りに、御殿場線の大岡駅がある。御殿場線は、始発駅の沼津から三島駅近くまでを東海道線と平行に走る。そして、最初の駅が大岡で、その四つ先には岩波という駅がある。


「駿河台文芸 第31号」平成28年(2016715日

菊池清麿『評伝 古賀政男 日本マンドリン&ギター史』彩流社
2015年
(海藤慶次)


 私は音楽を好んで聴く方だが、楽器の詳細や音楽用語などについては殆ど知るところがない。本書の書評を書くことになった時、小学生の頃、病に冒されていた古賀政男がNHKの番組で一所懸命にタクトを振っていた映像を見て、子供ながらに感動して涙ぐんだ記憶が蘇った。当時は、自分がやがてその人の大学の後輩になることなど知る由もなかったのだが、…。明治大学出身の「音楽界の巨星」というざっくりとした知識しか持ち合わせていない私は、踏み込んだ部分を知りたく思い、興味深くこの本を読んでみた。

 本書の特筆すべき点は、古賀政男の偉大さと人生の有為転変に終始するのではなく、最初にマンドリンという古賀の代名詞となる楽器の来歴について掘り下げているところである。クラシックの時代、日本におけるマンドリンの伝来、古賀へと受け継がれる系譜についてと、端的に説明がなされている。鮮やかで巧みな時系列法だ。古賀が、バロック音楽やイタリア音楽の伝統を踏襲したモダニズムの楽器を選んだところに、彼の音楽に対する造詣の深さが感じられる。

 古賀政男は家柄もあって、年少の頃から様々な弦楽器を演奏する機会に恵まれた。そして、日本の伝統的な弦楽器を経て、マンドリンに強く惹かれていった。朝鮮の京城から上京して、明治大学商学部の予科に入学。マンドリン倶楽部に入部する。この時が、古賀メロディーの実質的な出発点となった。

本書では、古賀が当時の明治大学のバンカラで国士的なムードに物足りなさを感じ、マンドリンのモダニズムによって一石を投じようとしたことが綴られている。これは、後の明治大学の発展に有益なことであった。この本には、戦前の明治大学マンドリン倶楽部定期演奏会のプログラムが逐一紹介されているが、演奏された曲はクラシックだったのである。

 作曲家生活に入ってからの古賀政男を、日本音楽のジャンルによる勃興史、盛衰史を背景に据えながら辿っていく論法もまた面白い。古賀は、藤山一郎、ディック・ミネ、美空ひばりなど昭和歌謡界の大物に続々と楽曲を提供し続けた。本書には「丘を越えて」「影を慕いて」「湯の町エレジー」「柔」「悲しい酒」など、私でも知っている名曲が多数登場する。古賀は、昭和のスターの歴史と共にあった巨星なのだ。

 本書には、あまり知られていないエピソードも紹介されている。中でも、美空ひばりの「悲しい酒」が最初からヒットした作品ではなく、彼女が丹念に歌い続けたことにより評価が高まったという話は意外であった。

後にロック、ポップス、エレキギターという現代音楽が勃興し、マンドリンオーケストラという存在自体が複雑な立場に追い込まれて行く部分、古賀が呻吟を重ねる姿が行間から滲み出るように感じられた。そんな時でも、古賀は情熱を持って明治大学マンドリン倶楽部でタクトを振り続けたのであった。このあたり、著者の冷静な中に熱を帯びた叙述に瞠目させられた。巻末には、約千曲のディスコグラフィーと年譜も付いている。

 著者は一九六〇年生まれ。明治大学政経学部卒業、同大学院政治経済学研究科修了。日本の大衆音楽分野と野球の分野の評伝を数多く著わしている作家である。

 本書は、既に「駿河台文芸25号」で紹介した同著者の古関裕而の評伝、「駿河台文芸26号」で紹介した服部良一の評伝と併せて「国民的作曲家の評伝三部作」を形成している。

 

小林 淳『岡本喜八の全映画』アルファベータブックス
2015
(大西竹二郎)


 映画監督・岡本喜八氏が、今、若い人たちの間で静かなブームを呼んでいると言う。

特に、氏が監督をした戦争を題材にした映画を観た若い人たちが、「従来の戦争映画とは異なり、意外性や娯楽性を追及しながらも、戦争の本当の姿を伝えて…」「悲しくて、おかしくもある」「反戦という言葉では片付けられない、監督の伝えたい思いが伝わってきた」などなどのコメントを寄せている。

 著書「岡本喜八の全映画」は、題名どおり、昭和33年(1958)から平成14年(2002)に至る間の劇映画39本の全作品を取り上げている。

 目次は、次のようになっている。

 

序章  岡本喜八の肖像

 第一章 岡本映画の誕生     一九五〇年代

 第二章 岡本映画スタイルの確立 一九六〇年代前期

 第三章 岡本映画の百花繚乱期  一九六〇年代中期

 第四章 日本映画界中心監督のひとりとして

 一九六〇年代後期

 第五章 日本映画衰勢期の渦中で 一九七〇年代前期

 第六章 日本映画界の名巧時代  一九七〇年代後期

 第七章 岡本映画の新時代

 一九八〇年代~二〇〇〇年代

 あとがき

 

 そして、各年代作品ごとに、制作、公開年度、メインスタッフ・キャストの紹介、「解題」「梗概」「音楽概要」では簡明な解説がなされ、岡本作品をすべて回顧出来る案内書になっている。

 なかでも、「音楽概要」なる項目の存在が、本著書の目玉の一つにあげられそうだ。

 著者の小林淳氏は、佐々木淳氏の「刊行に寄せて」によると、映画音楽研究者で、「伊福部昭の映画音楽」「佐藤勝銀幕の交響楽」「ゴジラの音楽ー伊福部昭、佐藤勝、宮内国郎、真鍋理一郎の響きとその時代」などの評論、著述活動をなさっている。

 映画は、総合芸術といわれるように、撮影や照明、美術を始め、多くの部門からの共同作業で成り立っている。その仕上げの作業では、音楽の良し悪しが映画作品全体の出来栄え、イメージを大きく左右する。音楽は映画にとって重要な部門なのだ。

 評者のささやかな経験から言わせて頂くと、音楽家に映画音楽の作曲を依頼する時、前もってシナリオを読んでもらうのは当然、完成尺数に編集し終えたフィルム映像を音楽家に観てもらい、演出側の考え、希望などを伝えることになる。

 音符を読めない評者は、悲しいかな言葉のみの意思伝達になる。作曲家がどのように受け止めてくれたのかは蓋を開けてみないとわからない。音楽収録の当日、スタジオでの楽士たちの音合わせで、楽器から出る旋律で、初めて作曲家がどう受け止めてくれたのかを知ることになる。

 納得のいく音楽であれば良いのだが、そうでない場合でも少々のことなら目を瞑ってしまう。作曲のやり直しなど出来ないのが今日の制作状況だ。それに、作曲家のほうが観客と同じ目線で映像を客観視出来る立場なのだから、作曲家が考えた曲のほうが不特定多数の人々には受け入れられる率が高い。演出側は個人の思い込みが強すぎたりするものだ。

 結果オーライで、完成作品の評判が良いと、その作曲家とコンビが組まれたりする。次作での録音当日、ハラハラ、ドキドキしないですむからだ。

 岡本監督は、39本の全作品中、32本の作曲を佐藤勝氏に依頼している。よほど肌が合ったのだろう。佐藤勝氏は黒沢明監督の「蜘蛛巣城」「どん底」などの音楽を手掛けられているが、若き日のアシスタント時代は短編映画の作曲がスタートであったようだ。

 短編作品を主としていた評者がお世話になった作曲家は、売れっ子になる前の若手たちで、短編の作曲は難しいと言うのが口癖であった。確かに、医学や学術用映像の場合などオープニングとエンディングしか音楽の入れようがなかつたり、ドキュメンタリーでは音楽を入れると甘くなるとか、邪魔になるとかで、現実音効果を生かして音楽は外されたりもした。それに比べ、ドラマは起承転結、登場人物の喜怒哀楽がはっきりしている分、作曲での発想がしやすいとの話であった。

 佐藤勝氏とコンビを組んだ岡本監督の音楽センスはいかようであったのか?

 著書中では、岡本映画を〟フォビートのアルチザン〝と形容し、岡本映画の軽快なテンポとリズムを重視した演出手法から、〟喜八タッチ〝〟喜八イズム〝〟喜八ワールド〝等々のキーワードで表現されているが、更なる深層部分に触れていくのには、岡本監督のエッセイ集「マジメとフマジメの間」筑摩書房を推薦したい。(「駿河台文芸24号」に書評文掲載)

 岡本喜八監督(1924~2005年)は評者の出身大学の先輩で、さらに、その先輩には川島雄三監督がいる。岡本新監督の第1回作品「結婚のすべて」の試写会の時、筋萎縮症で手足が不自由な川島先輩が、岡本新監督の足にドスンとぶつかり、ドタドタと前の席に座り、観にきてくれた話。また、川島監督が山口瞳の「江分利満氏の優雅な生活」を撮る予定であったところ、急逝。その「代打」が後輩の岡本監督にまわってきた話。千葉泰樹監督が川島監督を「不健康優良児」、岡本監督を「健康不良児」と評したことなどなど、川島雄三監督とのエピソードがエッセイ集に収められている。このことからも岡本監督はかなり先輩監督を意識されていた様子が窺える。ふたりとも映画の表現テクニックでは巧者の誉れ高き鬼才でもあったので、先輩監督から学び取るところが多かったのではないだろうか。

 岡本青年は、明治大学専門部商科卒業後、東宝撮影所の助監督になるも、大東亜戦争の敗色深まる中、赤紙がきて、陸軍特別甲種候補生となり、豊橋予備士官学校へ分散疎開した途端、投下爆弾の爆風に叩きつけられた戦友のハラワタが飛び出すといった地獄絵を目の当たりにして、終戦の日を迎えたとエッセイに綴っている。その頃の評者は中学生。学徒動員で成増飛行場の塹壕掘りや東京下町での焼け跡清掃中に天皇の「戦争終結」の詔書を聞かされた。

 戦後、岡本助監督として復帰出来た東宝撮影所では、昭和21年から3年間に及ぶ〟来なかったのは軍艦だけ〝といわれる大争議が起きている。その結果、大量の解雇者が発生、スタッフ・キャストも会社に残る者と独立していく者とに二分されていった。

 評者が昭和31年、助監督見習いに就いた東映の短編映画部門では東宝撮影所の大争議で独立し、フリーになった先輩スタッフたちが出入りし、映像制作に関わっていた。外地の戦場から引き揚げて来た人たちが主で、多くのことは語りたがらないが、赤いレッテルが張られていたようで、フリーになったスタッフたちが、やがて、大手企業の映画会社とは異なる独立プロダクションを立ち上げていった。

 岡本助監督が東宝撮影所に残るほうを選ばれた理由については不明だが、結果はオーライで、昭和33年に監督昇進となる。大手映画会社の社員監督となればまずは会社の企画物を担当させられる。その作品の興業成績次第で監督の評価が決まる。

 東宝といえば〟明るくて楽しい娯楽映画〝が企業イメージゆえ、岡本監督は受け手が観ていて〟面白い映画〝〟楽しい映画〝をとことん追求なさったようだ。岡本監督の感性と会社のカラーとが合っていたということなのか、東宝撮影所は水を得た魚のごとき職場であったようだ。

 岡本監督がデビューした時代は、映画館への観客動員数史上最高といわれた年で、映画界も戦後最も元気のある時代であった。それが、40年代後半にはTV普及の影響を受けて、映画興業は下降線をたどる。結果、大手の映画会社は従来の自社制作を縮小、プロダクションが制作した映画の上映と配給を主体とする路線に切り換える。そうなると、社員監督、スタッフたちがどうなるかは改めて言うまでもない。

 本著書の目次、「第五章 日本映画衰勢期の渦中で 一九七〇年代前期から第七章 岡本映画の新時代 一九八〇年代~二〇〇〇年代」の時代に相当する。

 岡本監督も、東宝以外の「ATG1千万映画」「テレフィーチャー」「自主映画」の制作にも着手、監督ご自身のプロダクションも立ち上げられた。

 評者がお世話になった戦場帰りの先輩スタッフは、「戦争映画」の参加には二の足を踏まれていた。どう頑張っても、所詮、フィルム上での仮想の世界、リアルにはならないというのだ。俳優さんだつて、軍服を着せても様にならない。体付き、顔付きからして戦時中の兵士にはなり得ない。隊列を組んでの行進なんて、体験のない俳優さんたちに、おいそれとは出来っこないと手厳しかった。先輩は、体験者でないと戦場の本当の姿なんてわかりっこないと言いたかったのであろう。

 報道では内戦と表現する戦闘が今、現実にシリアなど中東で起きている。空爆などの戦闘場面がリアルタイムで茶の間のTVに飛び込んでくる時代だ。画面に映し出される兵器などは評者が知る一昔前のそれとは格段の差があり、驚くほどの近代化だ。無人の偵察機や攻撃機、ミサイル、火器、火砲もモニターを確認しながらの電子機器による遠隔操作でボタンを押し、ピンポイント攻撃、あるいは、無差別攻撃!そこには相手の兵士の表情などはわからない。まさに、バーチャルゲーム感覚の電子戦争時代に突入しているとしか思えない。半世紀前の戦闘とはすっかり様変わりしている。

 アニメ、TVゲーム、電子玩具などに囲まれて育ったきた若い人たちが、岡本作品の戦争映画からなにを受け止めているのか、より詳細な情報を知りたく思った。



「駿河台文芸 第30号」平成28年(2016131

曲亭馬琴著・徳田武校注『近世物之本江戸作者部類』岩波文庫
2014年
(長瀧孝仁)


面白い本である。馬琴にこのような著作があろうとは知らなかった。書店の棚前に平積みされている文庫本を手に取ってみた時は、目次に羅列された人名から人物事典のようにも思えた。解説に拠れば、十八世紀中頃から十九世紀中頃までの江戸の小説家列伝ということである。当時の小説即ち物語本は、江戸前期の仮名草子・浮世草子から黒本・青本・赤本・黄表紙・洒落本・滑稽本・合巻・人情本・読本などへと発展したのだが、馬琴の手によって当時の作者が分類され、一刀両断されている。馬琴はパトロン筋の家老や豪商数人間でのみ閲覧可能な「秘書」を意図したようで、主観的で鋭い舌鋒は終始一貫したものがある。


 丈阿「今より百年ばかり已前の赤本に、この作者の名号あるものあり。大抵、享保の季より宝暦までの人とおぼし。何人なるや詳ならず」。通笑「岡附塩町の表具師なり。実名を忘る。安永中より寛政の比まで、くさざうしの作年々出たり。滑稽の才なしといへども、ふるき作者なれば、世の人に知られたり」。一返舎白平「一九が戯作の弟子也。文化四年の春、書賈東邑閣が板せし『戯作者画番附』に載せたり」。志満山人「何人なるをしらず。たづぬべし」。笠亭仙果「種彦の戯作の弟子也といふ。実名未詳。厚田仙果ともあれば、厚田氏歟、たづぬべし」。・・・・・

 

流石に戯作者は、森羅万象、七珍万宝、五返舎半九、田螺金魚などと奇天烈な筆名が多い。落語家、歌舞伎役者の名も見えるが、歌舞伎役者については、売らんがために一見有名人の作であるかのように偽ることが流行ったようである。

         ○

 この文庫本の七割を占める『近世物之本江戸作者部類』は、江戸の小説家列伝としてはむらがあって中途半端な作品である。巻の一赤本作者部、洒落本・中本(滑稽本・合巻・人情本)作者部、中本作者部、巻の二 読本作者部の上までで、巻の三、四は結局書かれなかったからである。加えて、右に引用した箇所のように一、二行で片付けているかと思えば、馬琴自身や山東京伝、風来山人こと平賀源内については多くの頁を割いて詳述しているのである。特に読本作者部の曲亭主人の項は、独立した作品としても扱える「著者自身による馬琴執筆史」となっている。

また、文庫本には表題作以外に次の四作品も収録されている。馬琴による山東京伝の評伝『伊波伝毛乃記(いわでものき)』と同じく馬琴作『著作堂雑記抄』の内から山東京伝の伝記該当箇所の抄録、京伝の弟・山東京山が『北越雪譜』の著者・鈴木牧之に宛てた書簡に付せられていた馬琴略伝『蛙鳴秘鈔(あめいひしょう)』と京山の随筆『蜘蛛の糸巻』の内から馬琴関連箇所の抄録である。

編集者の意図は、江戸後期小説から見た当時の出版史、出版事情、文壇事情が一目瞭然に分かる文献を一堂に集めたということだろう。先に述べた赤本・黄表紙・洒落本・合巻云々の出版用語と出版界事情については、『近世物之本江戸作者部類』中に馬琴自身による解説がある訳だし、この文庫収録の作品を続けて読むだけで、作者と出版社に当たる板元、印刷所に当たる彫工の力関係が手に取るように分かる仕組みである。戯作者には皆生業があって副業として戯作を書いており、潤筆料(原稿料)が支払われるようになるのは、京伝、馬琴の時代を待たねばならなかった。また、当時の出版検閲過程にも詳しく、類書がないこの分野の貴重本だそうである。

        ○

 私は後ろからというか、先ず京山の随筆抄録、次に『蛙鳴秘鈔』と読み始めて、敵対する馬琴・京山の人間関係を頭に入れた上で、逆の立場から書かれた京伝の伝記抄録、続いて『伊波伝毛乃記』と読み進めた。この二つの抄録は真に有り難く、馬琴・京伝の端的な略伝が頭に入っていると、随筆の本旨を摑み易いのである。それから、巻頭の『近世物之本江戸作者部類』に戻って、分類された各作者部から馬琴・京伝と平賀源内の箇所を拾い読みして行った。重複はあるが、馬琴・京伝・源内の人物像がくっきりと浮かび上がって来る。再び巻頭に戻って、読み飛ばした戯作者の項目を最初から走り読みしたのである。ルビ、下段の訳注、巻末の人名・書名索引等、「読み易さ」第一の編集になっている。

 収録作品中では、『伊波伝毛乃記』が白眉である。馬琴は若い頃に六つ年上の京伝に弟子入りを断られるのであるが、終生互いにその実力を認め合う仲であった。京伝は述作以外に小唄を作詞したり、煙管をデザインしたりもする、根っからの粋人肌の人であった。時代の風を読む才能があって、書画販売会を企画したり、銀座に煙管店、薬店を開いたりもして、その並でない商才を見せ付けた。

対するに馬琴は、幼少の頃から書物の読み書き以外に興味が無く、そのかたくなな性格故に人付き合いも苦手であった。しかし、馬琴には四書五経等の学識があった。自分の無学をいたく気にしていた京伝には、それが鼻に付く。このことが原因となって馬琴との確執もあった。やがて馬琴は、実力で京伝を凌駕して行くのである。・・・・

 洒落本・中本作者部、読本作者部両方で触れられている平賀源内についても感想を一言。多方面に才能を開花させながらも、疑り深い性格故に人をあやめ、獄中で憤死するに至った経緯が淡々と語られている。資料に依拠しており、文章を読む限り馬琴は源内とは面識がなかったようである。それでも、その奇才を惜しむ叙述が切々と心を打つのである。

        ○

校注者の徳田武先生は明治大学法学部名誉教授。私が入学した当時、法学部の教養課程国語科教授陣は、西垣脩(詩人・俳人)大岡信(詩人)川崎展宏(俳人)という錚々たる方々であった。徳田先生は若くて、未だ助教授になられる前であったのではないか。

この後、法学部の学生に教養科目の「文学」を講義され、同時に文語文読解や論文作成の演習科目を担当されながら、馬琴及び江戸漢詩の研究、或いは江戸後期文学と中国文学の交流の研究で業績を挙げられている。この文庫本の校注によって、また一つ大きな仕事を追加された。

 

明治大学史資料センター編『木村礎研究

戦後歴史学への挑戦』日本経済評論社 

2014年(多田統一)

 

 本書は、近世村落史研究で知られ、明治大学の学長も務めた木村礎について、学説史上の位置付けだけでなく、人間性そのものについて紹介している点で大変興味深い。

 次の6つの論文が掲載されている。

 

第1章 『新田村落』の成立過程(藤田昭造)

木村礎・伊藤好一編の『新田村落―武蔵野とその周辺』の成立過程について検討している。小川家文書の調査で、明高中歴研の生徒が関わった点で、歴史教育の立場からも注目される。

第2章 木村藩政史研究の到達点と課題―佐倉藩・内藤藩を中心に(森朋久)

木村藩政史研究について、佐倉藩・内藤藩を中心に研究の足跡を論じている。木村藩政史研究の成果について、幕府と譜代藩の関係、譜代藩の特質を明らかにしたことを挙げている。また、課題としては一揆と転封の関係性、飛地領の課題を挙げている。

第3章 「村歩き」の研究―資料調査から見た木村史学について(鈴木秀幸)

「村歩き」とは、フィールドワークのことである。木村がこれを重視した理由の一つに、理論先行からくる形式・教条主義からの脱却にあるという指摘は興味をそそる。

第4章 木村礎の下級武士論―日本近代への視座(長沼秀明)

木村礎の下級武士論は、実証性を重視する明大歴史学の学風そのものであるが、現在の明治維新史研究に繋がっている点で評価している。

第5章 木村の歴史資料保存法制定への運動(森朋久)

木村礎が、後の公文書館法の基になる歴史資料保存法制定に向けて、積極的に働きかけたことが紹介されている。今日のデジタル社会におけるアーカイブ化を考える上にも、大変参考になる。

第6章 木村礎と大学史―編纂からアーカイヴズへ(村松玄太)

木村礎は、『明治大学百年史』の編纂に、その中心メンバーとして関わった。この論考から、彼が大学史を研究対象としてどのように確立させるかという課題にも取り組んだことが分かる。

補論 明治大学という大きな<>を歩いた一教員の軌跡(山泉進)

木村礎は、研究者でありながら、明治大学の学長ほか大学内外の多くの役職を歴任している。「木村礎という人は、一人の研究者としては村々を歩き、日本の村落民の生活の日常性と連続性を探りあてようとした。そして、一人の大学教員としては明治大学という大きな<>を歩いて、教育・研究の本質的なあり方にこだわった。」と述べている。人間・木村礎の真摯な姿が浮かんでくるようである。

 

 木村礎先生は、私が大学院在籍時の研究科委員長でもある。専攻が違っていたので、直接指導を受けたことはないが、旧大学院棟や駿台史学会等でお会いしていることと思われる。改めて、その重厚な研究業績と大学や社会に対する大きな貢献に感謝申し上げたい。

 

張競『詩文往還―戦後作家の中国体験―』

日本経済新聞出版社 2014年(長瀧孝仁)

 

この文芸評論は元々「日本経済新聞」日曜版に連載されていたのであるが、擱筆後に一部加筆されて新聞社の出版部門から上梓された。日本の戦後作家十八人を取り上げて、「戦前・戦中の日中関係が不穏な時代」「中華人民共和国との国交がなく、隣国が厚いヴェールで被われていた時代」「国交回復後の日中友好時代」に中国及び中国人作家とどう付き合ったかを実に詳しく調べている。

正直なところ、私は新聞の連載を読んでいて或る種の興奮を覚えることが何度もあった。面白いものが少ない最近の文芸評論の中で、切り口を変えるとこうも新鮮なものかと感心したのである。谷崎潤一郎、川端康成、堀田善衞、井上靖、開高健、・・・・。みんな略伝は知っているが、中国及び中国人作家とこういう接点があったとは寝耳に水、初めて聞く話ばかりなのである。

 谷崎潤一郎や川端康成については流石に文豪だけに、この文章に引かれた事例や挿話だけでも、人物の器の大きさを感じた。草野心平と堀田善衞については、その少年時代からのコスモポリタン振りに舌を巻いた。二人とも慶応義塾に籍を置いていたことにも興味を覚える。

山崎豊子と有吉佐和子の行動力には「たまげた」としか言いようがない。確かに私の少年時代、山崎と有吉には社会的な影響力があった。文芸欄ではなく、新聞、テレビの社会面で大きく扱われることが幾度かあった。この作品に引かれている事例や挿話については、山崎、有吉ご本人だからこそ出来たことで、真似ることは誰にも不可能である。現在、女性作家の数は以前より相当多いが、ご両人に匹敵する行動力の持主は皆無である。

         ○

 加筆されたこの本を今回読み直してみて、新聞紙上で読んでいた時に見落としていた点に気が付いた。それは、日本の戦後作家十八人と会った中国人作家たちについてである。最初は既知の日本人作家ばかりに興味が向かい、邦訳作品がある郭沫若、茅盾、老舎、巴金などを除いて、姓名すら知らない中国人作家については殆ど頭に残らなかった。しかし、二度目の読書ともなると、その辺りが気になり出したのである。

 中国人作家について書かれた箇所を追って行くと、批判、自己批判、失脚、党籍剥奪、吊し上げ、迫害、逮捕、強制労働、投獄、獄死というような言論弾圧を思わせる言葉に行き当たる。日中文化交流協会主催の日本作家訪中団は、一九五六年から始まっている。訪中団に参加して大陸へ渡った日本人作家に比べ、この時期の中国人作家は艱難辛苦の立場にあった。抗日戦争、中華人民共和国建国、文化大革命と続く中で、何度も思想上の批判キャンペーンが展開されて来たからである。到頭作家たちは、本音のところは貝のように沈黙するしかなくなったのである。 

考えてみれば、同じ材料を使ってこの作品の表裏を反転させた作品もまた可能であろう。日本や日本人作家と関係を持った中国人作家を主役に、中国人作家側から描くのである。張先生ならば、お手の物とも思えるが、・・・・。

著者は明治大学国際日本学部教授。『恋の中国文明史』『近代中国と「恋愛」の発見』『海を越える日本文学』『張競の日本文学診断』など著書多数。今年、岩波書店から刊行される『日中の120年 文芸・評論作品選』全5巻 に於いて、分野、テーマごとに150篇余りの文芸作品のアンソロジーを共同で編まれるようである。期待したい。

 

大岡 信『私の万葉集 四』講談社文芸文庫

2015年(長谷川福次)

 

 本書は元々月刊雑誌「本」に連載されたものですが、編集して1997年に講談社現代新書として刊行されました。改めて今年、講談社文芸文庫に収められました。『私の万葉集』は一から五まであり、この巻では万葉集の巻十三から十六までを取りあげています。

 筆者自身も強調していますが、注目されるのは巻十六で、多くの紙数を費やしています。本文171ページの内、69ページを使って、この巻の歌を取りあげています。巻十六は巻一に続き、万葉集中二番目に歌数の少ない巻で、掲載されている歌数は104首です。歌数が少ないのに、論評する内容が多いことに、アララギ派がいうような万葉集観とは違った、筆者の万葉集への思いがしっかりと伝わってきます。

 巻十六は「有由縁と雑歌と」(多田一臣氏などは「由縁ある雑歌」としています。)と詞書きがあるように、伝承的・物語的な背景が語り伝えられている歌を集めています。中では三部に分類され、1物語的な題詞や左注をもつ歌、2宴の場を主たる背景にもつ戯笑歌、3地方の歌、芸謡、呪歌などの特殊な歌などで構成されます。これらの歌は島木赤彦氏のような「歌の道は、決して、面白をかしく歩むべきものではありません」というような人たちからは遊戯的逸脱であり、おふざけで評価できないとされていたものです。近年、巻十六を取りあげる人は出て来ましたが、評価されることが少なかったのは事実です。

 大岡氏は巻十六から「浅()()香山(かやま)」(3807)の歌を取りあげます。左注では葛城(かつらぎ)(おう)(橘諸兄)が東北に派遣されたとき、待遇がよくなかったのを怒ると、都にいたことのある女性が、左手に酒盃、右手に水を持って王の膝をたたきながらこの歌を歌ったとなっています。大岡氏は、この歌は浅積香山地方で伝承されていた民謡ではないかと考え、平安時代に「難波津に咲くやこの花」とともに貴族の子女の手習いの材料にされた文化史的意義を評価します。聖武天皇の紫()()楽宮(らきのみや)と推定される宮町遺跡の木簡の中から、2007年に「浅積香山」と「難波津」の歌の書かれた木簡が発見されました。このことは古代史にとっても、万葉集研究にとっても大発見で、宮中の公的な宴会(現代人にとっては奇妙な表現ですが)でこれらの歌が、歌い継がれていたことを示しています。

 「さし鍋(なべ)に」(3824)の歌では、遊戯としての和歌の流行を指摘し、日本の詩は「きわめて早い段階において、いわゆる言葉遊びだけに関してだけでも、一流の域に達していたのだ」と評価します。また、「我が背子(せこ)が 犢(たふ)(さき)にする 円(つぶれ)(いし)の 吉野の山の 氷魚(ひを)そ懸(さが)れる」(犢鼻=ふんどし)(3839)のようなナンセンスの極みであり、シュルレアリスト詩人たちが大喜びするような奇想の追求をした歌があり、葦蟹の歌(3886)で「乞食者(ほかいびと)」と呼ばれた職業歌謡集団が卓越した詩的技術によって、皮肉にもそのために滅んだことに同情します。これらの歌のある巻十六は、その多様性と知的興味をいちじるしく刺激する性質のため、歌数のずっと多い巻を凌駕するほどの内容のある巻といえます。

 巻十三は長歌だけで編集されており、巻十四は「東歌」を集めます。巻十五は遣新羅使人の歌と中臣朝臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌だけで構成されます。まさに「万葉集というアンソロジーは、各巻にそれぞれ違った側面を見せて私たちを驚かせ楽しませてくれる歌集」「その多様性に」「尽きることのない魅力」があるのです。

 大岡信氏は詩人・評論家で、1931年生まれの84歳。1965年に明治大学法学部助教授、1970年から同教授、1987年に退官されました。1979年から2007年まで朝日新聞に連載された「折々のうた」が有名です。昨年から「大岡信研究会」が発足し、活発に活動しています。

 

目黒考二『昭和残影 ―父のこと―』

KADOKAWA 2015年(小林英実)

 

 著者の父は神奈川県川崎市生まれ、旧制県立横浜第一中学校(現・県立希望ヶ丘高校)中退、享年八十二歳。生前古本めぐりが趣味で、寡黙な人であった。

その父の蔵書は各国語の辞書、俳句関連、自然科学の入門書と三つのジャンルの本しかなく、著者は風変わりに思っていた。ところが、著者が両親とともに札幌に住む母の兄弟を訪ねたとき、山岸一章『聳ゆるマスト(副題・日本海軍の反戦戦士)』に父について著されていることを知り、父の秘められた過去を知る。著者は父の青春を知ろうと、その足跡をたどっていく。父の青春を知りたいというモチーフのもと、三十年という歳月をかけて粘り強く膨大な資料を収集し、深く解析していくのである。

 著者の父は、一九二八(昭和三)年十九歳のときに「三・一五」弾圧を契機として、無産者新聞川崎支局を立ちあげる。翌年の「四・一六」検挙で横浜刑務所へ投獄されるも保釈となり、判決前に最初の結婚をし、夫人とともに地下活動に参加する。一九三三(昭和八)年一月、十五名の特高警察に自宅へ踏み込まれて、夫人とともに検挙される。父は八年の懲役刑となり、宇都宮刑務所に服役する。病弱だった夫人は、特攻の虐待により病気が悪化して釈放されるものの、二十四歳の若さで没した。

父の投獄期間は二十三歳から三十歳までの八年間。愛妻を失った絶望と孤独に耐え続ける独房での日々は過酷をきわめたはずだが、父は多くを語らない。しかし、一九八三(昭和五八)年、俳句同人誌「雲母」に父の句が秀作として掲載された。この「蟻地獄流人の夢を真昼より」という句がすべてを物語っている。

 著者は、父の手記や日記はもとより、関連する幾多の書物を紐解き、父の後ろ姿を追っていく。ところが、データ量が膨大であるゆえに、横道へ逸れてばかりいる。結局、肝心の父の生涯を手繰りきれずに終わるのだが、この横道が実に興味深く、面白い。厭きずに引き込まれていく。

そして、その横道こそが、著者が主題とした「大正・昭和の残影」であることに気づく。巻末に著者がそのことを述懐するくだりがある。やはり、本書は著者自身が歩んだ昭和の残影への回顧録であると理解できた。

 

著者の父は川崎で成育し、横浜の旧制中学校へ通った。横須賀市で地下活動を行い、刑期を終えて出所したのちは、再婚して池袋に近い山手通り沿いの板橋区幸町、豊島区高松に居を構える。著者はこの町に生まれて成長した。

私は現在川崎市に居住している。しかも住まいは、著者の祖父が勤めた京浜急行沿線であり、著者の父が卒業した川崎小学校は我が子たちも同窓である。私の川崎居住は四半世紀を超え、もはや地元である。

また、一九七五年に上京したときは、著者が成育した近隣の板橋区南町に住んだ。本書に登場する池袋の風景―池袋駅西口から山手通りを横切った先の板橋区までの道のりは、私もよく歩いた街であり、私の青春の一部でもある。

そして、著者の父が逮捕された横須賀は、私の父が召集されて在籍した海軍の町。私自身も父の青春を追った経験がある。

偶然にも、本書は私の道程がオーバーラップする舞台である。だから私は、本書で紹介される町並が即座にイメージでき、非常に愉しく読むことができた。しかし、果たして東京や神奈川に住んだり、訪れたことのない読者が、饒舌に語られるこれらの町の歴史や地理、文化を理解し、興味を抱くことができたであろうか? いささか不安である。

しかし著者は、地球のどこにでもいる、名もなき人間の、誰もが胸に秘める生涯の苦楽を、彼の父の残影に重ねてみごとにフォーカスした。まさに、「事実は小説よりも奇なり」と感じ入る著書だった。

 著者は一九四六年東京生まれ、明治大学文学部卒業。編集者、評論家、エッセイスト。一九七六年に椎名誠氏らとともに「本の雑誌」を創刊、二〇〇一年まで同紙発行人を務めた。

 

大塚初重『古代天皇陵の謎を追う』新日本出版社

2015年(長谷川福次)

 

 大塚初重氏は、1926年東京生まれの89歳。1957年に明治大学大学院研究科博士課程を修了し、明治大学文学部専任講師、助教授、1968年に文学部教授、1997年に定年で退官されました。明治大学名誉教授であり、現在も、明治大学リバティアカデミーなどで講師として活躍されています。戦中は、海軍気象部に勤務し、そのときの体験などを語った五木寛之氏との対談集『弱き者の生き方』(2009年)が評判となっています。

本書は2011年1月に東京新聞に連載した「陵墓の謎を追う」(20回)をもとにして、その後の考古学的成果を反映させ、あらたに書き下ろしたものです。神武天皇や応神天皇、仁徳天皇、継体天皇、欽明天皇、崇峻天皇、斉明天王、天武・持統天皇と陵墓の関係を考察しています。

神武天皇は、今では明らかなように伝説上の人物です。ところが、奈良県橿原市に「神武天皇陵」が存在しています。『日本書紀』によると天武天皇元(673)年七月壬子(みずの)(えね)に、「神(かむ)日本(やまと)磐余彦(いわれびこの)天皇(すめらみこと)(神武天皇のこと)の陵(みささぎ)に馬及び種種(くさぐさ)の兵器(つはもの)を奉れ(たてまつ)」という記事がありますから、壬申の乱の頃には当時の人々が認める「神武天皇陵」があったということになります。ところが、次第に忘れられ、江戸時代のはじめには、どこが神武天皇陵なのか、分からなくなります。(平城京は大きな前方後円墳を壊してつくられており、このことからも、当時の人々の古墳に対する意識がうかがわれます。)蒲生君平の『山陵志』(1808年)では「丸山」が「神武天皇陵」に比定されます。ところが、1863(文久3)年に山陵奉行が孝明天皇の「御沙汰書」により「神武田ミサンザイ」を、「神武天皇陵」と決定します。ここが、現在の「神武天皇陵」です。

この古墳は文久の修復以来、明治時代の日清戦争の勝利などを契機に多額の経費を投入し整備されてきました。この「陵墓」は形状や規模から見ても、古代の大王の墓でないことは考古学的に明らかなことです。

 綏靖天王から開化天皇までを欠史八代といい、彼らも伝説上の人物です。この8人にも「陵墓」がありますが、その多くは自然地形か、江戸時代からの人工的な手の入ったもので、大塚氏は考古学的には大王の墳墓とは認められないと明確に否定しています。

 大阪府堺市にある「仁徳天皇陵」は、学問的に仁徳天皇の墓と裏付ける根拠はないので、同志社大学の森浩一氏によって、地元で呼ばれている地名を使った「大仙古墳」という呼称が提唱されました。現在の学会では定着しています。「天皇陵」に治定されている古墳は、発掘調査はおろか、学者でさえ立ち入ることはできないので、考古学的な証明は難しいのです。現在では、限定した期間、限定された研究者の立ち入り調査は認められています。森氏は、日本書紀にこの陵に馬形埴輪があったという記述があり、馬形埴輪がつくられるようになるのは6世紀なので、5世紀に亡くなった仁徳天皇とは年代が合わないとしていました。

大塚氏も、馬の日本列島への登場を考えて、6世紀代と考えていたようです。しかし、最近の考古学研究の進展により、馬形埴輪や馬匹文化の登場がもっと古くなることが分かってきました。また、1998年に大仙古墳の東側の造り出しの裾部濠際近くから須恵器の大甕2個体分の破片が発見され、この須恵器が5世紀前半頃の特色を示すこと、円筒埴輪には誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の埴輪に続く特徴があることが分かりました。

これらのことから大塚氏は「応神陵(誉田御廟山古墳)と仁徳陵(大仙古墳)は五世紀における大王陵として認識しなければならない。」としています。考古学は、事実を積み上げ、考古学的な研究法により、歴史を解明していきます。考古学は、思い込みでは無く、歴史に対する真摯な態度が必要とされる学問です。

 

羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」

文藝春秋 2015年(小林英実)

 

 作品の舞台は二〇一三年。主人公は一九八五(昭和六〇)年生まれの二八歳で、祖父は一九二五(大正一四)年生まれの八八歳である。しかしこれらの設定は、主人公が二八歳である点を除くと、「八八歳の祖父がハリウッドのスーパースターであり、名監督であるクリント・イーストウッドより五歳年上である」という表現ですべてを察することができる仕掛けになっている。

このような仕掛けが作中随所にちりばめられているうえ、ユーモアある軽妙な筆致で表現されているから読者は愉しい。また、祖父と孫のビヘイビアが非常に似通っていて、しかも主人公はその「血筋」に気づかないので尚更に愉快だ。

 主人公は父が遺したマンションに、母とその父である祖父と暮らす。就職浪人中の身であるがゆえに、生活費を入れない。単発のアルバイトで稼いだ金で律儀に年金を納め、彼女とのデート代にも事欠かないというニートな生活は、経済的に成熟した現代日本社会の縮図を顕わにしている。

 平和で安穏とした現代日本の若者は、鬱積した憤懣を自らの内面へと発する。かつての若者たちのように、社会や体制へ反旗を翻したりはしない。ある意味、「早う死にたか」を口癖とする祖父の、無味乾燥とした余生と共鳴している。豊かさが常態化した日本の将来は、良くも悪くも彼ら若者たちの舵取りに託されている。この作品は、そんな不安を暗示している。

 一九二五年生まれの祖父は、海軍特攻隊の生き残りという設定である。一九二二年生まれの私の父は、海軍の通信兵であった。そこから鑑みると、作中の祖父も海軍へ召集されたのだから、徴兵検査は当然「甲種合格」で、人並み以上に頑健な肉体を有していたのだろう。八八歳でも体力十分なことから推し量ると、杖をついて歩く祖父の行為は、早い段階から「偽装工作」であると読み取れてしまう。

 また、私の父は海軍通信学校同期中唯一の生存者であり、作中の祖父同様に、補聴器をつけながらも九三歳で健在である。ここから鑑みると、特攻隊の生き残りである作中の祖父は、生への並々ならぬ執着心の持ち主だと推し量ることができる。「早う死にたか」という常套句は、裏腹な心理の表現なのだろう。

太平洋戦争終結時、一九二五年生まれの祖父は満二〇歳である。作中の祖父と同い年の私の叔父二人は、国内で教練中に終戦を迎えている。というのも、当時は召集令状が届くと、数え年一九歳で徴兵検査を受け、翌年二〇歳で徴兵されるのが一般的であった。そこから鑑みると、作中の祖父は兵役一年に満たないはずで、特攻隊と名乗るのには飛行時間が足りず、教練中に終戦を迎えたのではないのかと思えた。

こう疑念を抱きつつ読み進んでいくと、やはり特攻隊ではなくて、飛行士としての適性検査に落ちて砲兵だったのだ。作者は、これらの事情を計算尽くしで創作したのか不明ではあるが、仮に計算のうえの布石であるならば、きわめて非凡な作家だと思う。

私は実のところ、最初は平凡な題名に購入意欲を覚えなかったのだが、読み始めるとすぐさま巧緻な文体に引き込まれた。気負いも、衒いもない。説明すべき事柄を描写によって表現する筆力は見事である。戦争の生き残りである祖父の生と死の葛藤と、閉塞感にさいなまれる主人公との対峙という陰湿な題材にもかかわらず、ウィットとユーモアに富んだ明るい作品に仕上げている。この作品は、芥川賞に相応しい秀作である。

 作者は一九八五年東京生まれで、附属明治高校、明治大学商学部を卒業。二〇〇三年「黒冷水」で、第四〇回文藝賞を受賞してデビュー。二〇一五年夏、本作で第一五三回芥川賞を受賞した。

 

西郷真理子『まちづくりマネジメントはこう行え

 NHKラジオテキスト 仕事学の すすめ』

NHK出版 2015年(多田統一)

 

 本書は、NHKラジオテキストとして出版されたものであるが、都市計画家である著者が、まちづくりマネジメントについて示唆に富む提言を行っている。

 一つ目の提言は、「住民主体のまちづくり」である。具体的には、次のようなものがある。

 

  1 まちづくりはチームで行え。

  2 住民たちがディベロッパーになる。

  3 中小企業の経営者の感覚を活用する。

  4 みんなの意見を引き出す接着剤になる。

  5 徹底的に話し合い、合意形成する。

  6 「まちづくり会社」で公共性と事業性を両立させる。

 

 著者が最初に関わった川越でのまちづくりが、その原点になっている。本人も言っているように、女性ならではのコミュニケーション能力を生かしている。

 二つ目の提言は、「快適な空間をつくれ」である。具体的には、次のような点である。

 

  1 都市をコンパクトにすると商店街は復活する。

  2 伝統的な町家の心地よい空間。

  3 人の集うあいまいな共有空間が大事。

  4 既成概念にとらわれずに発想する。

  5 中心となる象徴的な空間をつくれ。

  6 実際に人が住むまちづくりが活性化を生む。

  7 デザインコードでイメージを共有化する。

  8 ヒューマンスケールにあったまちをつくれ。

 

 言うまでもないことであるが、街づくりの基本は「人が快適に住む」ということである。この人間に立脚した空間づくりが、実に興味深い。

 三つ目の提言は、「地域の強みを生かせ」である。具体的には、次のようなことである。

 

1 小さな成功体験を積み重ねる。

  2 やる気のある人からスタートする。

  3 地元独自のよいものに注目せよ。

  4 ライフスタイルをブランド化する。

  5 プロデュースできる人材を発掘せよ。

  6 全体の成功のために時には業態替えも必要。

  7 変えていくマネジメントの仕組みをつくれ。

 

 まちづくりの三段階として、ビジョンの共有、事業計画の策定、運営の仕組みづくりを挙げている。ここでは、困難を乗り切り、成功に導くのは地元の人たちの熱意であることを強調している。

 四つ目の提言は、「人を巻き込むコミュニケーション能力」である。ここでは、女性の力が大いに生かされることになる。具体的に、次のようなポイントを紹介している。

 

  1 信頼を得るには説得よりも納得。

  2 協力してくれる味方をつくれ。

  3 できない言い訳をせずできる手段を考えよ。

  4 まちづくりは官と民の二人三脚で歩め。

  5 百貨店と商店街は共存できる。

  6 持続可能なまちづくりを目指せ。

  7 震災復興でもコンパクトなまちづくりを。

  8 自立したい気持ちを応援する。

 

 まちづくりの成功のカギは、女性特有の粘り強さにあるという点が実に興味深い。

 四つの提言を通して、まちづくりの基本は人間であること、地域性を生かすことが成功に繋がること、専門家は素直であることなど、都市計画家の仕事哲学を学ぶことができた。

 著者の西郷真理子氏は、1975年明治大学工学部建築学科卒業。1990年まちづくりカンパニー・シープネットワークを設立し、代表取締役に就任。川越、長浜、沼津、高松、山口などで、まち並み保存や商店街の活性化に取り組んできた。「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2010」の大賞受賞。2011年「MIPIM(国際不動産投資・都市開発マーケット会議)アワード」未来プロジェクト部門で最優秀賞受賞。東日本大震災の復興に向けた提言も、積極的に行っている。

 

小川和佑『詩の読み方 -小川和佑近現代詩史-』笠間書院

2015年(多田統一)

 

 本書は、2014年に死去した日本近代文学研究者、文芸評論家の小川和佑の論考を、鑑賞書のスタイルで出版したものである。同じ日本文学を研究しているご子息である小川靖彦氏が、編集に当たった。

 登場する詩人は、次の14人である。

 

1 萩原朔太郎 「天景」

2 三好達治 「雪」ほか

3 堀辰雄 「天使達が-----

4 立原道造 「爽やかな五月に」ほか

5 伊東静雄 「わがひとに与ふる哀歌」ほか

6 逸見猶吉 「ウルトラマリン 第二・兇牙利的」

7 津村信夫 「抒情の手」

8 能美九末夫 「冬の黄昏に」

9 野村英夫 「司祭館、Ⅲ」

10 大木惇夫 「椰子樹下に立ちて」

11 大木実 「おさなご」

12 鮎川信夫 「喪心のうた、Ⅰ」

13 秋谷豊 「読書」

14 吉本隆明 「佃渡しで」

 

これらの中で、特に注目したいのは、能美九末夫である。小川和佑は、彼について「ひそかに独自な詩風を見せながら、ついに一冊の詩集も持つことなく『四季』とともに消えていった詩人」として紹介している。

能美の詩に最初に注目したのは、三好達治だったらしい。「夏日」という作品が『四季』第11号(昭和10年9月)に掲載された時には、能美はまだ早稲田大学の学生であった。「冬の黄昏に」という作品は、『四季』13号(昭和1011月)に掲載されたが、三好達治が選評で特にこの作品を推奨している。

小川和佑は、「-----能美の詩は、その若さに似ず完成された風韻を持っている」、「-----『四季』ではまったく小さな存在であった能美の詩は皮肉なことに最も『四季』的な特質を持っている」と高く評価している。その「冬の黄昏に」を、次に紹介したい。

 

冬の黄昏に

能美九末夫

 

薄い茜に染つた雲

庭石の上に散つた竹の葉にも映つてゐる茜

風は私に友情を持つて来た

 

その儘風は

庭のおもての黄昏になつた

 

 『四季』28号(昭和12年6月)には、能美の「夜明け前」「鳩」という作品が、田中克己の「丘の上」「松の木陰で」、立原道造の「石柱の歌」、津村信夫の「魚を喰べる」という作品と並んで掲載されている。能美は、『四季』終刊までに28篇の詩を発表し、「その完成度は、他の投稿者の群を抜いて高いものであった」と小川和佑は述べている。

また、「その28篇の中に1篇も、時流に乗った他の投稿者のような愛国詩を書いていない」と述べている点にも注目したい。小川和佑のこの詩人への思い入れは、特に「せめて遺友の誰かが『四季』に発表された28篇のみでも1冊の詩集にまとめることによって、能美九末夫の『四季』におけるその詩の位置の再評価の機会を与えてくれないだろうか」という文章に表われている。

 小川和佑は明治大学専門部文芸科卒業後、栃木県の公立高等学校の教員として、高校生に現代詩を教えることから出発した。編者のあとがきにもあるように、難解な近現代詩に対する作品解説の明快さは、その職歴から来たものであろう。

昭和5年生まれというと、少年兵として出兵した最後の世代である。そのためか、戦時下の作品や戦争に関する作品についての論評も多い。激動の時代を生き抜いた詩人たちの貴重な記録であり、行間から彼らの苦悩がひしひしと伝わってくる。

 この後、昭和女子大学短期大学部助教授を経て、文筆業に専念。明治大学文学部兼任講師も務めた。

 

杉村富生『これから10年 株で「一億」つくる!

 ―死ぬまでお金に困らない! 杉村流「株式貯蓄」のススメ―』

すばる舎 2015年(長瀧孝仁)

 

恐らく、出版社主導で決まったのであろうこの仰々しい書名は、或る一冊の古い本を思い出させた。『私の財産告白』実業之日本社という書籍である。著者の本多静六(一八六六~一九五二)は、日比谷公園などの設計者として名を残す造園家であるが、二十代から始めて東京大学農学部教授を退官するまでの公務員生活中に、株式投資で巨万の富を築いたことでも有名である。その額、現在の貨幣価値に換算して数百億円に上るという。その方法は、倹約生活を心掛けながら毎月の俸給の四分の一を充てて、将来有望そうな会社、社会に意味あることを行っている会社の株をこつこつと買い増して行くのである。長い間には戦争も恐慌もインフレもあったが、それでも結果的に投資した資産は膨らみ続けた。そして退官と同時に、ほぼ総ての資産を教育施設と公共団体に匿名で寄附したのだという。

この杉村氏の著作では「株式投資で資産を作って、社会に還元せよ」とまでは言っていない。老後破産、下流老人などという言葉が流布する時代には、現役時代から定年退職後の長い余生を視野に入れて、せめて周りの人に迷惑掛けないように生涯経済的に自立しようと、新しいライフスタイルを提案している。名付けて「株式貯蓄」。

その意味は、長寿時代となった今日、六十歳の定年退職後も、場合によっては三十年という余生がある。この期間は決して短くなく、毎日の生活費の積重ねで貯えが費えて困窮し兼ねない危険を孕んでいる。それ故、現役時代に貯蓄に励んで一定額の資産を持っておかねばならない。しかし、低金利が長く続いており、虎の子の預金が殆ど増えないのである。そこで、預金感覚で長期安定の株式投資を行って「銀行預金を株券に代えてみてはどうだろうか」という提起になる。

 ここから先は、杉村氏の十八番の領域である。株価の上昇と配当の増額が期待出来そうという観点から、優良銘柄と数万円でも購入出来る低位妙味銘柄を組み合わせた「杉村富生選30銘柄」のケーススタディが掲載されている。そして、去年・今年のような波乱含み相場こそ、本当は資産形成のチャンスであるとも主張している。

 杉村氏は一九四九年熊本県生まれ。明治大学法学部卒業後、当時は数紙あった証券専門紙の一つで二十年間記者生活を送り、管理職を経てフリーの評論家となられた。現在、大正大学客員教授。

「常に個人投資家側に立つ」をモットーにした株式評論は、鋭い市場分析・株価分析と相まって人気があり、全国に熱心なファンを持っている。新聞・雑誌の連載、ラジオNIKKEI『ザ・マネー』へのレギュラー出演の他、全国を巡って講演活動を行っている。既に著書は100冊を超えており、直近の一年間でもこの書評対象本を含めて5冊が上梓されている。



「駿河台文芸 第29号」平成27年(2015715

 橋川文三『西郷隆盛紀行』文春学藝ライブラリー

2014年(長瀧孝仁)

 

 橋川先生は「西郷隆盛の評伝執筆の締切りが迫っている」と、この本に収められた講演内で語っておられる。また、本書の巻末には「朝日新聞社出版局の担当者には、足掛け八年も付き合わせてしまった」旨ある。推測するに、当時同じ版元からシリーズ化されていた「朝日評伝選」の中で、橋川文三『西郷隆盛』が予定されていたのかも知れない。しかし、結果としてその評伝は出版されず、代わりに西郷に関する橋川先生の短文と対談と講演を一冊に纏めたこの著作が、一九八一年秋に同じ朝日新聞社から上梓された。そして、一九八五年朝日選書に収められ、昨秋には文藝春秋の学藝ライブラリーにも収められた。
 橋川先生が評伝を書けなかった理由は、私は当時学生だったが、その頃渡欧、渡米などが重なって忙しく、また体調を崩されたこともある。しかし、この本の文中で度々述べられているように、何故だか西郷については事跡が明瞭でない箇所が多く、推測でしか評伝は書けないのである。著作中に於いては、過去余りにも多くの西郷隆盛伝が書かれて来た中で、自分が敢えてまた評伝を書く必要があるのかと、自問もされている。勿論、それら数ある西郷伝は推測で以て断定された著作なのである。

         ○

 西郷隆盛については平成の世になっても、「新たな写真」が発見されたという新聞記事が出たりする。それ程に、西郷の真の顔形は知られていない。上野公園の西郷像を家族が見て、「全く似ていない」旨言ったのも有名な話である。生涯を通じて敵対勢力に命を狙われる可能性があったため、写真撮影や肖像画を厳に拒んだからだと言う。

 それでも、アーネスト・サトウなど西郷と会見した人たちの著述にその風貌に触れた箇所がある。それらに拠れば、身長は170cm台半ばから後半、体重は100kg近かったのではない
か。当時の日本人としては大男であり、欧米人と並んでもそれほど遜色ない体格だったのだろう。その黒くて愛くるしい大きな目玉は、アーネスト・サトウに強い印象を残している。人を惹き付ける何かがあったようだ。人となりは天真爛漫、度量の大きさを感じさせた。身体全体にエネルギー充ち溢れ、土俗的な一面も覗かせた。何より情に生きる人で、忠義心は篤かった。

 西郷はまた、日記、随筆の類は遺さなかった。事跡の手掛かりは、西郷の教えを綴った『南洲翁遺訓』に漢詩、書簡等の遺文となる。しかし『南洲翁遺訓』とて、後の世に庄内藩士によって編纂、刊行されたものなのである。戊辰戦争で敗れた庄内藩に対して西郷が採った措置が寛大だった故、庄内藩には西郷の熱狂的崇拝者が多かったのである。

 西郷伝説とは、死後に西郷星となったり、フィリピン生存説が流れたりしたことなどを一括して言う。伝説化されるほどに国民的人気を得ている理由は、その特異な経歴とロマンを感じさせる八面六臂の活躍にある。今一つ不明瞭な事跡と人物像が、一層の想像力を掻き立てるのであろう。

 西郷は下級武士の出自であったが、参勤交代により江戸詰めとなっていた。ここで薩摩藩主の島津斉彬に見出されて引き立てられる一方、他藩との人脈作りにも励んでいた。この後、三十一歳から奄美大島で三年間の潜伏生活、三十五歳から徳之島へ三ヵ月、続いて三十七歳まで沖永良部島への島流しを経験している。西郷はこの流謫中、陽明学の書籍を読み耽ったという。

 本土に戻ると薩摩藩代表として東奔西走、薩長同盟や江戸開城で成果を出したことは広く知られている。一見ラジカルに振舞うようで、相手の心情を汲む形で問題を円満に処理する巧みな交渉術が活きたようである。明治天皇の信頼も得ていた。そして最晩年の五年間が、諸説入り乱れる征韓論と西南戦争になる。西郷にとっての悲劇である。

 本書に拠れば、西郷ほど毀誉褒貶の激しい人物も珍しいようである。内村鑑三は『代表的日本人』に於いて、西郷を革命家的な行動力の持ち主としてクロムウェルに比している。民主主義者で唯物論者であった中江兆民も、西郷が革命家になるよう期待していた。福沢諭吉も高く評価していた一人で、西南戦争で叩かれっぱなしだった西郷を「丁丑公論」で擁護、弁護している。北一輝、大川周明らは尊敬する余り、西郷を右翼の始祖へと祭り上げてしまった。

 結果として戦後、反動と侵略のシンボルとして西郷は強く非難されることになる。それらの批判論文を読んで、E・H・ノーマンも西郷を否定的に見ている。一方、木戸孝允、大隈重信ら同時代人による西郷批判文も残されている。要するに、「西郷は幕藩体制の古い時代感覚の持主であり、近代的な知識や思考というものを理解出来ない輩である。なかんずく、行政能力が欠けている」というものであった。

         ○

 この著作は論文集ではないので取っ付き易く、比較的短時間で読み終えた。橋川先生は、随所で分からないことには「分からない」とはっきり言っておられる。だからと言って薄い内容では決してなく、易しい言葉遣いの内に西郷が生きた時代の内外事情がくっきりと浮かび上がって来るようになっている。

 中でも、明治維新は大久保利通、岩倉具視らの明治新政府が成立した時点で、一九四五(昭和二十)年夏の破滅へと至るプログラムが既に組み込まれたと言う鋭い指摘が注目される。島尾敏雄、或いは安宇植との対談では専門知識を駆使しながら、その辺りへの言及を巧く引き出している。私が見るところ、この著作には三つの事柄が暗示されていると思う。

 一つは、既に決まっていた遣韓使節としての西郷の訪朝が、後に岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らの策謀により引っ繰り返され流れた件である。西郷は内勅まで得ていたのである。それが、明治天皇が弱冠二十歳だということ付け込んで、岩倉は容易に翻して見せたのである。そして、この天皇と政権との関係は一九四五(昭和二十)年の敗戦まで続いたようである。時の政権は反対派を封じるため、また、出自の低い場合には己の身分を権威付けるために、天皇を傀儡化して名前を利用したのである。そこには、西郷のような忠誠心はない。

 二つ目は、大久保利通等が岩倉使節団で見て来た「近代」とは、飽くまで表面的なものに過ぎなかったという指摘である。大久保が整備を急いだ官僚制は、一旦決めた方針は破滅するまで実行し続けるという非合理な組織であった。勝海舟、横井小楠の清国・朝鮮・日本連帯論がある中、佐藤信淵、吉田松陰、橋本左内、或いは木戸孝允、大村益次郎の大陸侵略論が優勢になると、この方針は一九四五(昭和二十)年の敗戦まで続いたのである。原子力発電政策、首都移転論などを見る限り、戦後もこの傾向が続いているのかも知れない。

 この著作に引用されている吉田松陰の膨脹論とは、「朝鮮を責めて質を納れ、貢を奉ずること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋諸島を収め、進取の勢を示すべき」というものである。

 三つ目は、薩摩藩による奄美・琉球支配の経験が、明治新政府に入った薩摩藩士により、朝鮮半島、台湾などの支配で活かされたという指摘である。現地人を蔑み、武力で抑圧しては収奪を繰り返すのである。奄美については三百五十年間の歴史があり、薩摩藩には植民地行政のノウハウが蓄積されていた。

         ○

 島尾敏雄や安宇植との対談には、「新しい西郷像」に向けて空想を発展させて行く箇所がある。それは、「日本を代表して大使として隣国に赴き、平和的な交渉で開国を直談判しようと考えていた西郷の訪朝がもし実現していたなら、交渉術に長けていた西郷故に、或いはその後の日本とアジアの歴史が違ったものになっていたのかも知れない」というものである。そうなれば、「西郷は奄美大島、沖永良部島の流刑生活で支配される側の庶民の気持ちが充分に分かっていたので、恐らくアジア諸国民に日本人がむごい仕打ちをすることもなかったであろう」ということになる。

 先ず朝鮮を説得して、次に朝鮮を通じて清国も説得する。そして、早急な開国や理不尽な要求を付き付ける欧米諸国に対して、清国、朝鮮、日本三国の政治的連合体で当たる。西郷は明治天皇の信頼も得ていたので、恐らくこの件では国内を纏める事が出来たであろう。この場合、日本の近代化は漸進的なものになったであろうが、幕藩体制を徐々に変革しながら近代化も進めて行こうというのが西郷の立場であった。薩摩の血を引く一人として、私はこの辺りに果てしない希望を感じた。これも推測に過ぎないのだけれども。

 

黒崎敏『新装ワイド版 最高に楽しい家づくりの図鑑』

エクスナレッジ 2014年(多田統一)

 

 本書は、次の7つの柱で構成されている。

 

  1 住宅設計の基本

  2 自分だけの極上空間を求めて

  3 空間を構成する要素

  4 究極の細部をデザインする

  5 進化する住宅素材

  6 ワンランク上の住環境をつくる方法

  7 都市で心地よく暮らすには

 

 1では、住宅設計の基本を、動線、視線、手法の3つの観点から解説している。キーワードになるのは、家事動線、快適な眺望、多様性であろう。密集地・狭小地での空間解決法も面白い。やはり、採光の確保が問題になってこよう。

 2では、住宅を内部空間と外部空間に分けて解説している。プライバシーある快適空間、街並みのリズムが、キーワードになるであろう。プライバシーを保ちながらの居心地の良い空間、周辺環境を考慮したデザインといった点に納得がいく。

 3では、空間を構成する要素を、見える要素と感じる要素に分けている。ここでは、空間のアクセント、ダイナミズムといった視点が注目される。「吹き抜けは決して無駄な空間ではない」という思想に、プロ意識を感じる。

 4では、建具、照明、家具、階段、その他のデザインが紹介されている。特に、「階段はオブジェとしても機能する」という考え方がすばらしい。

 5では、外壁、床材、建具・庇、キッチン・バス、その他の住宅素材について説明している。フローリング材も、健康志向や本物志向の時代である。アレルギー体質の人には、ムク材がいいらしい。

 6では、敷地特性から、住環境をグレードアップする方法について述べている。北側接道のメリットという、既成概念を覆した発想に驚く。北向きの土地は、価格が安く、手に入りやすい。勾配屋根を利用し、トップライトで光を供給すれば、作業空間には最適である。

 7では、都市住宅の設計の工夫がまとめられている。現在の都市住宅は、賃貸、店舗併用などの複合型へと進化している。生活だけにとどまらず、資産価値を高める方法が必要である。「スモール・イズ・ビューティフル」は、哲学的な言葉である。著者の「大きく煌びやかなモノへの憧れが消えた今、人々はささやかで当たり前のものを大切にする暮らしを求めるようになるだろう」という美意識には共感を覚える。

 本書は、何よりも見て楽しい家づくりの図鑑である。しかし、読み進めていく内に、「家には人が住む」という基本的なことについて、突き詰めて考えざるを得なくなった。住宅の機能性や快適性、価格や立地環境、家族構成に至るまで、建築家はすべての要素を考慮しなければならない。そこに住む人の顔を思い浮かべながらの仕事になるということであろう。家づくりは、モノをつくるだけではない。モノを通して、人々の幸せをつくるのだということを教えられた。

 著者は、一九七〇年石川県金沢市生まれ。明治大学理工学部建築学科卒業。積水ハウス㈱東京設計部などを経て、現在㈱APОLLО一級建築士事務所 代表取締役。建築家として、多くの著訳書、受賞歴がある。最近の主な受賞歴は次の通り。

 

  2012年度日本建築家協会優秀建築一〇〇選

  2013年度東京建築賞奨励賞(戸建住宅部門)

  平成25年度第57回神奈川建築コンクール(住宅部門)優秀賞

  GOOD DESIGN AWARD 2014(住宅)

 

太田伸之『クールジャパンとは何か?』ディスカヴァ携書

2014年(小林英実)

 

 「クールジャパン」とは、最近よく聞く言葉である。「日本ブームを創出」し、「海外で稼ぐためのプラットフォームを構築」し、「外国人を日本国内に呼び込んで消費を促」そうという政府の戦略から来ているようだ。このクールジャパンを司る株式会社 海外需要開拓支援機構、通称「クールジャパン機構」の責任者が本を書いた。著者は次のように説く。

 

 モノが溢れる時代には、モノがいいのは当たり前。ヒットさせるには、「クール(かっこいい)であること」「きちんと宣伝すること」「むやみに値引きしないこと」が重要である。

 

 では、「クール」なものとは何か? それは日本の「技」、広義には「文化」である。その特色を活用して儲けようではないかと提唱しているのである。

 営業戦略はなかなかユニークだが、的を射ている。「中抜きの排除」と「値引きの排除」。いいものはブランドで勝負すべきだと言う。ブランド力を高めるためには、効果的な宣伝が重要である。地方→東京→世界という既成概念を捨てて、東京を飛ばして世界へ発信し、国内へ逆輸入するのだと訴える。

 日本「文化」は儲けを度外視し、「技」を追求することを美徳としてきた感がある。しかし、儲けを度外視した「商売」は、やがてその「文化」の担い手がいなくなって衰退していく。低利益ゆえの低所得が原因で、その仕事に就く魅力が削がれている。

 株式会社海外需要開拓支援機構は、二〇一三年設立の官民ファンドである。設立目的は、日本のポップ・カルチャーのブランド化推進である。特に「海外で稼ぐためのプラットフォーム構築」の領域では、長期的にリターンを目指すが、リスクマネー(投資資金)も供給する。

 政府の特別会計(財政投融資)から出資を受けて、目先の利益を追うことなく、長期的視野に立って「かっこいい日本」を世界へ発信できるようだ。投資対象は、「メディア・コンテンツ」「食とサービス」「ファッション・ライフスタイル」における「クール」を大枠とする。

 我が国の産業支援を振り返れば、「まずハードありき」だった。鉄鋼、造船から始まり自動車、電機へと変遷してゆくが、ソフトやコンテンツが重んじられたことはなかった。デザインやブランド化も怠り、日本の工業製品は存在感が薄れ、いまや国際的な競争力を失いつつある。

 反面、ファッション、料理、アニメ、漫画、ゲームソフトや映像という大衆文化の人気と国際的評価には目を見張る。いまや「日本ブーム」なのである。

 著者はブランド化の成功事例として、岩国の「獺祭(だっさい)」、富山の「能作(のうさく)」を語っている。台湾、香港には随分前からの日本の大衆文化崇拝もあるのだろうが、昨今の中国や東南アジアの「メイド・イン・ジャパン」信奉には凄まじいものがある。生活にゆとりが生まれると、多少高くとも良質を好むようになり、「メイド・イン・ジャパン」は彼らの生活へ静かに浸透していったのである。

 また、本書で「天池合繊」「第一織物」といった化学繊維メーカーの高度技術による高品質製品を知り、やはり日本の「技」は卓越していると素直に驚いた。これらは、「クール」というよりも「エクセレント」の領域の商品である。「クール」という言葉もいいが、日本の「匠」はもっと次元の高いところに在るような気がする。

 本書を楽しく読みながら、「モノづくりの大国」日本は、いまや「ポップ・カルチャー」と「食」と「おもてなし」の大国へ変貌を遂げようとしているのだと、感慨ひとしおだった。

 著者は、一九五三年三重県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京ファッションデザイナー協議会議長、松屋常務執行役員などを経て、現在、株式会社 海外需要開拓支援機構代表取締役社長を務めている。

 

宮嶋繁明『橋川文三 日本浪曼派の精神』弦書房

2014年(長瀧孝仁)

 

この著作を読み出した当初は正直言って、余り好い気持ちはしなかった。私は法学部四年の時に他学部履修届を出して、週に一時間、政経学部の講義に寄せて貰っただけの学生であった。それでも、一人の恩師のプライバシーをここまで赤裸々に公にして良いものかと戸惑った。それでなくても、昨今は個人情報保護が言われる時代である。この著作には、橋川家の本籍地や家族、職業、民事訴訟を抱えていて負けたことや、後に破産状態となり一家離散したこと、橋川先生個人の学業成績や恋愛相手、借金先、病歴や生活保護を受けていたことまで、実に詳しく触れられているからである。

 こういう違和感を抱えながらも、読み進めて行く内に私の考えは百八十度変わったのである。在学時橋川ゼミに居られた方であるが、著者は恩師というよりも、橋川先生を「思想家」と捉えている。この態度は、著者の前著『三島由紀夫と橋川文三』から一貫したものである。一人の思想家の思想が、幼少年期、青年期を通じてどのように形成されたのか、それらを明らかにしておく意味は大いにあるのである。

 また、著者の著述手法にも好感が持てた。主観的な著述は避けて、橋川先生ご自身の著作を丁寧に読み込み、近親者の回顧、証言や関係著書を広く集めて、その中から客観的事実だけを選り分け時系列に配列し直してある。しかも、それらには根拠として逐次数字の「註」を付し、巻末にその出典を明示するという周到さである。

 読了した後、著者の今回の仕事は時宜を得た真の労作に違いないと思うに至った。というのも、ここ数年橋川先生の著作が次々と文庫本に収録される中、若手や中堅の政治思想史研究者には橋川先生を誤解している面があると思えたからだ。雑誌「世界」二〇一四年三月号などを見てそう思った。本著作は一九六〇年に処女作『日本浪曼派批判序説』を出版、結婚式を挙げた辺りで終っているが、前半生だけでも出典・資料を明示した客観的事実だけで橋川先生の実像を描いておく意味は大きい。

 ここでは、今まで私が頭に描いて来た人物像をこの著作で得た知識で大幅に補い、ポスターの四隅を画鋲で止めるように要点を絞って、以下に橋川先生の肖像を描いてみた。

 

   一、対馬生まれで、広島育ちという不思議

 

 橋川先生の著作の巻末にはどれにも著者紹介として「長崎県対馬生まれ」とあり、韓国との国境近くの辺境から出て来た特異な人との第一印象を持つ。しかし、離島育ちかと言えばそうでもなくて、小中学校は広島市なのである。今までこの辺りの事情の説明を目にしたこともなく、私には長年の不明点であった。これは、この著作を繙いて氷解した。

 広島駅から山陽本線で岡山へ向かって二つ目の駅、向洋(むかいなだ)近くの漁村が橋川先生の郷里である。この地と対馬との縁は、百九十年前の江戸時代にまで遡る。藩主の息女が対馬守に嫁する海路、向洋の漁師の一人が船方を務めたのである。ところで、その漁師が対馬の海を観察していると、在来の鰤漁より寧ろ烏賊漁が有望だと気付く。向洋の漁師には烏賊漁が盛んになった対馬への移住者も現れて、スルメ製造、運搬業に従事するようになる。橋川先生の祖父もその内の一人であった。

 橋川家は父親の代に財をなしている。海産物、木炭用の貨物船を一隻所有して、対馬・広島間を往復したのである。そんな中、橋川先生が幼少の頃に橋川家が向洋に戻った理由は、子供たちの教育環境を考えてのことだった。

 

   二、橋川文三神童伝説

 

 橋川先生が亡くなられた半年後の一九八四年六月に、臨時増刊号として刊行された雑誌「思想の科学―橋川文三研究―」には、旧制中学時代の同級生が語る「伝説めいた証言」が載っていた。「一年の十三歳時に竹取物語を原文で読み、三年の十五歳でニーチェを論じて教師たちを煙に巻いていた」という内容のものである。本書も、橋川先生が稀に見る秀才であったという叙述にかなりのページを費やしている。

 小学校時代から利発な児童であったらしいが、地元の広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属中学校、高等学校)に進学してからその本領が発揮される。橋川先生は教師の指名により、中学の五年間ずっと級長を務めている。

 卒業後は、駒場にあった第一高等学校文科乙類(現・東京大学教養課程)に進学した。この年の一高の合格者は文理科全体で三九〇人、競争率六・八倍という狭き門であった。広島高等師範附属からは三人合格したが、現役合格は橋川先生一人であった。この時既に日独防共協定が成立しており、後に敵国言語となる英語、フランス語クラスに比べて第一外国語がドイツ語の文科乙類は特に人気が高かった。成績下位者は、第二志望の文科甲類か丙類へと回されたそうである。

 秀才揃いの一高でも目立つ存在だった。文芸部員として自治寮機関紙に寄稿し続け、学内で文名を轟かせた。橋川先生について、「ニーチェを原文でスラスラ読む男がいる」との噂が立ったことがある。この噂は、当時既に東大助教授だった丸山眞男にまで届いたようだ。

 生涯での習得外国語は五つに及ぶ。得意の英語、ドイツ語に加えて、後に述べる結核療養中に必要に迫られて、フランス語とロシア語を独習したのである。長引く闘病生活に於いては、病床で翻訳本の下訳をして医療費と生活費を稼がねばならなかった。中国語は、五十歳近くなって親しかった竹内好から教わった。

 

   三、文芸書への親炙とその読書遍歴

 

 一九六八年の「中央公論」七月号に掲載された三島由紀夫「文化防衛論」について、同誌上で橋川先生と三島の間で論争が行われた。九月号の批判に対して、十月号には三島の「橋川文三氏への公開状」なる反批判が載っている。その巻頭には、「社会科学の領域で現下おそらくみごとな『文体』の保持者として唯一の人である」とある。三島由紀夫も認めたその文章力は、早熟な読書によって培われたようなのである。

 橋川先生は小学校時代に、夭折した叔母の遺品である改造社版現代日本文学全集を読破している。明治大正期の主なる作家を網羅したこの全集は、俗に言われる「円本」の先駆けとして三十数万部のベストセラーとなったものである。略称は、「一冊一円で予約出版」という廉価を訴求した販売方法から来ている。文学史のテキストに出ているので私も「円本」なる存在を知ってはいたが、実際に読んで育ったという話は初めて聞いた。

 中学三年の夏休みには、アンデルセン『即興詩人』を森鷗外訳で読んで衝撃を受けている。そして、ジイド、ランボオに夢中になる。四年から五年に掛けては、岩波文庫等で文学・哲学に広く親しんでいる。ニーチェ、シラー、ゲーテ、オイケン、プラトン、デカルト、ボードレールなどである。

 一高に入学すると、先に卒業した福永武彦、中村真一郎、加藤周一等のマチネ・ポエティク派が強い影響力を持っていた。橋川先生もヴァレリーと無縁ではなかった。萩原朔太郎を介して日本浪曼派、ことに保田與重郎に接近するのは二年生以降となる。この頃、ドストエフスキーも読んでいる。

 東大法学部に入学する前年の暮れ、真珠湾攻撃により対米英戦争が開戦している。そして、卒業したのが一九四五年九月という敗戦直後で、学生時代は正に戦争の最中ということになる。学生が続々と出征して行く中で、大学も講義どころではなくなって来る。橋川先生は結核の胸部疾患により出征せず、大学での勤労動員となっていた。

 当時、身辺整理した学生たちの古書が店頭に山積みされていて、時節柄六国史や八代集などの日本の古典を読むしかなかった。このあと橋川先生は、学内で未整理の外国論文を仕分けする内、バクーニンの『神と国家』を読む機会を得て衝撃を受けたのである。

 

   四、戦中の旅愁と敗戦後の空白期間

 

 橋川先生は戦中に二回の一人旅を試みている。先ず、一九四三年秋に学徒出陣の臨時徴兵検査で郷里の広島市に帰省する途中、京都で下車して奈良へ回り、『古事記』歌謡に詠まれた生駒山麓の平群(へぐり)の田舎道を歩いている。既に戦場で死ぬことを覚悟し、魅惑された保田與重郎の作品世界を生前に追体験しておくつもりであった。

 しかし、その悲愴な覚悟は現実とはならなかった。先に述べた胸部疾患が見つかり、丙種合格の徴兵免除となったのである。これは、戦場での玉砕以上の苦痛であり、生涯のトラウマとなった。他の学生が、他の日本人が次々と死んで行く中、自分だけが戦争から一人疎外されたような感情であった。こうして一年後の一九四四年秋には、信州の野尻湖畔に居た。無用者の烙印を押された屈辱感と焦燥感に駆られ、湖の周囲を彷徨ったのである。

 橋川先生の少年時代は戦争拡大の事跡と軌を一にしている。九歳の時に満州事変、十歳で上海事変と五・一五事件。十一歳の時に国際連盟脱退、十四歳で二・二六事件と日独防共協定。十五歳で支那事変、十六歳で国家総動員法、十七歳で第二次世界大戦が勃発。後は先に述べたが、十九歳で太平洋戦争が開戦となり、学徒出陣から本土空襲、原爆投下に到って、二十三歳で敗戦を迎えている。何時も優等生であった文三少年は、こんな時代に育って自然と「皇国少年」になっていた。

 戦争に対する思いは少しの年齢差で大きく異なったようである。橋川先生の戦中派としての感情は、一高先輩であるマチネ・ポエティク派の福永武彦、中村真一郎、加藤周一たちだけでなく、浪人して年上の同級生だった神島二郎にも理解出来ないものであった。寧ろ、一高ではないが学年が三年下の三島由紀夫、吉本隆明と共振したのである。

 空ろな日々は、大学内での勤労動員の内に過ぎて行った。一九四五年になると、動員先が貴族院事務局に変わった。他の東大生十数人と共に議事の筆記係を担当した。ここで橋川先生は、図らずも小磯国昭首相以下の閣僚と貴族院議員の体たらくを見てしまうのである。議会の閉会により、今度は動員先が農林省食糧管理局となった。戦時下の食糧難で国民が皆飢えに苦しむ中、ここには贅沢なほど食べ物があった。横流しも行われていた。橋川先生が頭の中に描いて来た戦争のイメージは、こうした内情を知って完全に崩れてしまった。

 この年の八月六日、橋川先生の郷里の広島市に原爆が投下される。九日には長崎市にも投下され、敗戦が決定的となる。十五日の「玉音放送」は、目黒区大橋のアパート隣家のラジオで近所の人たちと一緒に聞いている。そして、この後に半年ぐらいの「空白期間」が続くことになる。この著作で「空白」と言っているのは、年譜に橋川先生が何をしていたのか全く記載がないからである。後に座談会で、ご本人は「当時は何もしていなかった」という意味のことを述べておられる。私はこの「空白期間」にこそ、以後書かれる文芸評論及び政治思想史論文を執筆する動機が醸成されたのだろうと考えている。

 

   五、橋川家の没落と結核療養、そして赤貧生活

 

 橋川家には七人の子供がいて、男は三番目の橋川先生と四番目の弟・敏男の二人だけである。二人は、漁民から一代で財をなした父親の意向に沿うように、東大法学部と隣の県にあった山口高等商業学校(現・山口大学)に進学している。成功者だった父は想像するに、兄を弁護士にし、弟を後継ぎにして事業を一層拡大させたいと願っていたのである。それほどに父親が弁護士にこだわった理由、それは喉に刺さった小骨のように対馬の事業で民事訴訟を抱えていたからである。

 遡れば対馬藩宗家の許可があるとは言え、橋川家など向洋漁民の事業は、対馬の島民からすれば面白いものではなかった。本土の広島くんだりから見知らぬ漁民が遣って来て、人家から程遠いところで原生林を伐採して炭を焼く。跡地に漁師小屋とスルメ製造の作業場を建てる。対馬の海と山からの授かりもの総てを、本土に持ち帰ったのである。

 橋川先生が未だ十八歳、一高の二年生になる直前のことであった。対馬と広島間を往復する過酷な日常が身体に堪えたのか、胃癌により父親が四十八歳で急死する。主を欠いて、事業の継続は困難であった。橋川家が傾く切っ掛けになる。以後は、兄弟五人の学費を工面するため、家財を整理しながら食い繋いで行くというような生活になった。そして、山の所有権を巡る民事訴訟も敗訴に終わるのであった。

 橋川家没落の過程は、日本が無謀な戦争に突入して行く時期と重なっている。向洋の漁民としては破格の資産も、山林、作業場、船を処分し、自宅、家作、田畑、蜜柑山が人手に渡る中で、貯えも次第に底を突いて行った。戦時インフレと戦後のハイパーインフレの影響は甚大であった。中でも、敗戦二ヶ月前に強行された橋川家屋敷の取り壊しが決定的な打撃となった。父親の事業の成功を受けて昭和元年に当たる一九二六年に新築され、後に増築した橋川家自慢の邸宅が、近隣民家数十戸と共に土蔵の壁だけ残して解体、撤去されたのである。残された母子は借家住まいとなったが、爆心地からは遠くて被爆だけは免れた。

 橋川先生の実家だった所は、今も自動車メーカーのマツダ株式会社本社工場と隣接している。当時は、マツダ前身の東洋工業の軍需工場であった。一九四五年に入ると全国の都市で空襲が激しくなる。焼夷弾による民家の火災から軍需工場への類焼を恐れた政府は、工場隣接地にある木造家屋を強制的に解体して緩衝地帯を造った。これは、隣接地の住民側に立てば強制疎開という立ち退きを強いられたことになる。突然夫と子供たちの思い出が詰まった屋敷を奪われて、橋川先生の母親は精神的に大きな打撃を受けたようだ。五年後に四十七歳で脳出血により急死している。

 戦中戦後の食糧事情と衛生状態の悪さから、結核は国民病とまで言われる程に日本全国に蔓延していた。この結核が、戦後になって橋川家を蝕むのだった。一九四九年に弟が、続いて上の妹にも発病する。翌年には前述のように母親が急死する。一九五一年になると橋川先生自身にも結核の胸部疾患が再発、肋骨六本切除する大手術を受けたのである。一九五四年には介抱空しく弟・敏男が死去。この間に東京、広島の借家、広島の嫁ぎ先、広島の療養所、呉の嫁ぎ先と、到頭一家は離散状態になってしまった。

 この時期の「赤貧洗うが如し」という生活については、亡き弟の思い出を綴った橋川先生ご自身の「私記・荒川厳夫詩集『百舌』について」に詳述されている。生活保護費は長くは貰えなかった。本と身の周りにあるあるもの総てを売り尽くして、それでもなお医療費が払えず、返せる当てもなく周囲から借金を重ねたのだった。

 

   六、一高・東大法学部人脈

 

 以上述べて来たように、大学入学までの順調な少年時代に比べて、以降二十代全期間と三十代半ばまでは、著者の表現に拠れば「暗澹たる苦難の時代」となった。丁度それは戦争末期から敗戦後の混乱期に当たり、日本全体が皆同様であった。橋川先生の場合は、結核で長期療養を強いられた分だけ戦後が長くなった。そして、本書にあるこの時期の出来事を細部まで追って行くと気付くことがある。それは、橋川先生が困難に直面した時には随分と一高・東大人脈に助けられて来たことである。

 広島市に原爆が投下された八月六日、実は橋川先生は九死に一生を得ている。勤労動員先は農林省食糧管理局だったが、実家が強制疎開中という境遇からか、一高先輩に当たる上司の配慮もあって、橋川先生は広島食糧事務所へ長期出張となっていた。爆心地に近いこの勤務先も母校の広島高等師範附属中学も、原爆により吹っ飛んでいる。ところが橋川先生には農林省入省の話があって、当日は面接試験で上京していたのである。原爆投下と敗戦によりこの件は雲散霧消となったが、恐らく先の上司からの線だったのだろう。

 また、橋川先生は勤務先の出版社に給与の前借りを申し出て、随分と失礼なことを言われて嫌な思いをしている。結核患者の家族を抱えながらも、未だご自身の胸部疾患が再発する以前のことである。橋川先生の借金は、困窮する生活の当座をしのぐ少額のものであったはずだが、それでもおいそれとは誰も貸してくれなかった。結局、二つ返事で貸してくれたのは、一高時代の学友と原稿を依頼して知り合った八歳年上で一高の先輩に当たる丸山眞男であった。この借金は、回数を重ねる内に思わぬ額にまで膨らんでしまう。備忘録として日記に借用先と一部返済後の残金額を記して行き、十数年掛けてやっと完済した。それは、橋川先生が明治大学の講師から助教授に昇格した頃になる。

 前章で触れた「私記・荒川厳夫詩集『百舌』について」は、何度読んでも涙をそそられる掌編である。その中に、結核の再発前、先に結核を発病し療養していた丸山を東京多摩川の病院に訪ねる話がある。見舞いと挨拶に行ったつもりが、逆に励まされて帰って来たのである。母親を失い幼い妹たちと結核重病患者の弟を抱えて貧乏のどん底にあった橋川先生の境遇をおもんぱかって、丸山は「橋川君、辛いだろうが弱気になっちゃあいけないよ。じっと耐えていれば、浮かぶ瀬もあるから!」とでも言って激励したのであろう。頭の中が裂けそうだったこの時期の橋川先生は、精神面でも一高時代の学友と先輩筋の丸山に支えられて生きていた。

 就職の面でも周囲には世話になりっぱなしであった。戦後雨後の筍のように誕生したが経営が安定しない零細な新聞社、出版社を転々とした橋川先生は、後に丸山の斡旋により出版社・弘文堂に入社している。法政大学の時間講師というアルバイト先を紹介してくれたのは、後の法政大学総長・中村哲であった。一高出身ではないが、東大法学部の先輩筋になる。また、高校を出た妹が総理府に就職出来たのも一高時代の学友の献身による。

 中でも、明治大学の教壇に立つことになった経緯は、橋川先生にとっては瓢箪から駒が出たような出来事であった。『橋川文三著作集』月報にある丸山眞男へのインタビュー記事と橋川文三『柳田国男 その人間と思想』講談社学術文庫の巻末にある神島二郎による解説文を併せて読むと、恐らく次のようなことだったのだろう。

 丸山助教授宅では、毎年正月に助手や大学院生など弟子筋が大勢集まって新年宴会を開催するのが恒例だった。丸山とは一編集者として知り合ったのだが、後に橋川先生もその仲間に入れて貰っていた。一九五八年の新年宴会の席上、一高時代の同級生であり当時明治大学で講師をしていた神島が呟く。「来学期は立教大学へ移ることになったので、明治大学の講師の口が一つ空くよ。橋川君も応募してみては?」と。

 それを横で聞いていた藤原弘達は、自分の勤め先のことなので間に割り込んで来た。藤原は橋川先生と同学年だが旧制六高(現・岡山大学)の出身で、当時既に明治大学の教授になっていた。そして、宴会出席者の全体を見渡しながら宣言した。「ここは、丸山先生に推薦状を書いて貰おうじゃないか。それを今度の教授会に必ず持って行くから。俺に任してくれ!」と。学究肌で大人しい性格の弟子たちが多い中で、藤原は出しゃばりでお節介で行動力がある異色の研究者だった。藤原は後に政治評論家に転身、テレビ番組への出演も多かった。藤原の熱意を買って丸山も推薦状には真剣に取り組んだようだが、その脇で橋川先生は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたことだろう。

 橋川先生は三十八歳の時、三十四歳だった古茂田純子と結婚している。この成婚も、一高文科乙類時代の同級生が夫人の兄と旧制中学が同窓だったという縁による。結婚式は丸山眞男夫妻が仲人を務め、出席者には橋川先生在学時の旧制一高校長・安倍能成も名を連ねていた。安倍は夏目漱石門下の哲学者で、戦後直ぐ幣原内閣で文部大臣を務めている。

 夫人の父親、兄とも旧制一高理科、東大の出身で、それぞれ安藤ハザマの前身の安藤建設社長、会長と川崎製鉄専務を務めている。橋川文三家と古茂田家は経済面で相当な格差があったと思われるが、終生夫婦仲は良かった。国内だけでなく海外までも、取材や講演旅行は夫人同伴であった。死後も慕い続ける夫人の姿を見て、丸山が亡き橋川先生を羨んだという話もある。

 

   七、政治学と文学の間で

 

 橋川先生の著作が扱う対象分野は、政治思想史から文学、歴史までとかなり広い。これは該博な知識を有し、テーマを専門領域に限定しなかったからであろう。文学に於いては、一高在学時から相当に深入りしていた。卒業時には同級生の誰もが、橋川先生は文学部へ進学するものと思っていたようである。また、編集者として社会人をスタートしたことも大きい。大学や学界での地位や名誉を重んずる必要もなく、第一に自分が興味ある対象、第二に読者が興味ある内容を選んで執筆した。大学の研究者とは、著述の目的が少し違っていたのである。編集者の経験を活かして、読み物的な著述手法も用いている。

 著者はまえがきで「橋川文三研究者が余りにも少ない」と嘆いておられる。理由は、前述した対象分野の広さ故であろう。現在の大学の細分化された学部学科編成では、橋川文三研究だけのために、敢えて専攻分野以外の予備知識を習得することに二の足を踏むのである。

 橋川先生については、「政治学者までの経歴の迂回」が問題にされることもある。これは、正統な進路を辿りながらも「大学在学中に充分に政治学を学べなかった。学ばなかった」ということに尽きるのではないか。

 「学べなかった」というのは、在籍期間が一九四二年四月から一九四五年九月までと、戦火が最も激しい時期に重なったからである。就学期間は短縮されるし、学徒出陣で学生が減り続ける中、講義は充分に行われなかった。橋川先生は出征せず、都内での勤労動員が日課となっていた。しかも先に述べたように、日本人が次々と戦死して行く中での徴兵免除は辛い立場であった。少年時代から脳裏に描いて来た国体や聖戦のイメージも崩れ出していた。勉学には、精神的にも万全の状態ではなかったのである。

 「学ばなかった」というのは、私の想像になる。橋川先生は大学時代の講義について何も書き残さなかったからである。そこで思い出したのが、私が法学部の学生時に憲法の和田英夫先生から聞いた話である。「学生時代は戦時下で、自分も何時出征して死ぬかも知れず、真剣に勉学に励む気にならなかった。復員して、大学院に入ってから真剣に勉強した」というものである。和田先生は旧制山形高校(現・山形大学)の出身で、東大法学部では橋川先生の三年先輩に当たる。丸山眞男が八年上級なので、その中間になる。

 また和田先生からは、筧克彦東大教授の神がかった憲法講義について「教科書で『天皇』という単語に行き当たる度に、先ず柏手を打って、次に『嗚呼、陛下!』と声を張り上げておられた。……」と聞いている。日本の学界に強い影響力を持っていたドイツの学界がナチス色一色に染まる中で、日本の学界も鏡に映したようになった。恐らく、政治学でも神がかった内容の講義があったのではないか。丸山眞男関係の資料には、戦時下の政治学研究の困難さが記されている。果たして橋川先生は、その種の講義で積極的に学ばれたのだろうか?

 先に和田先生が大学院に入り直した旨書いたが、橋川先生とは一高の同級生である神島二郎も復員後大学院に入って勉強をやり直している。戦時下の大学の講義が充分でなかったため、研究者志望の学生の多くはそうしたのである。しかし、先に詳述した経済的な事情により、橋川先生にはそれが不可能であった。代わりに、社会人でも編集者の道を選択した。

 編集者の特典は、多様な知識人と接点を持てることである。橋川先生は早速、丸山眞男、大塚久雄、中村哲らと知り合っている。その知識人には太宰治も含まれていた。新聞社、出版社を転々とした橋川先生は、この時期に交際範囲と視野を随分と拡げている。大学の研究者一筋だったら、そうは行かなかったであろう。

 この後、編集者として知り合った丸山眞男に私淑、独学で政治学に本格的に取り組んだ。結核療養中も、この傾向は一層加速されている。丸山の指導の結果、橋川先生は社会科学的な方法で論理的に著述する作法を身に着け、政治思想史論文などの学術書を世に問うことになる。そして、三十六歳で明治大学の講師となり、政治思想史研究者の仲間入りを果たした。

 橋川先生の著作中、文芸評論に当たる作品についても一言触れておく。定評ある日本浪曼派、三島由紀夫についての評論だけでなく、石川啄木、太宰治についての作品も小論ながら鋭い指摘に満ちている。啄木、太宰、三島など幼少の頃から文芸作品の読書に勤しんだ早熟の秀才には、ご自身同じ立場であった橋川先生の解説が説得的である。これら三作家については、政治思想と作品が不即不離の関係にあるとも言われており、橋川先生の政治思想史の立場からの批評が意味を持つ。

 更に付け加えれば、貧困という啄木の苦難については、実際に究極の貧困を味わった橋川先生にしか分からないものがあるし、北端と西端の違いはあるにせよ、橋川先生は太宰の辺境意識を体験から理解出来る人であった。三島とは育った環境が違うとは言え、少年時代の読書傾向に重なるものがある。しかも同世代で、大学学部も同じなのである。

 

   八、旧蔵書の行方

 

 週に一度、橋川先生が毎日新聞夕刊の「視点」欄を担当していたことがある。そこに、「伝記重量考」という短文が載っていた。本の整理の最中に、明治期政治家の伝記の余りに荘重な装丁が鼻に付いて来る。「それなら、内容でなく装丁でもなく、いっそ重量で順列を付けてやろうじゃないか」という茶目っ気あるエッセイである。

 ヘルスメーターで計測の結果は、『大西郷全集』伝記の巻(二・五キログラム)が一番重かった。以下、岩倉具視(二・二キロ)、山県有朋(一・九五キロ)、木戸孝允(一・九キロ)、……というものである。橋川先生はこの他にも多数の政治家、思想家の伝記及び全集を所有されているようで、その蔵書量は半端なものではないと想像された。

 今回この著作を読んで、私は初めて橋川先生旧蔵書が慶應義塾福澤研究センターに所蔵されていると知った。橋川先生には子供がなく、夫亡きあと橋川夫人は、竹内好旧蔵書同様に慶應義塾大学が引き取ってくれることを望んだようだ。同センター編『近代日本研究資料7 橋川文三旧蔵書籍目録(通称・橋川文庫目録) 』に拠れば、蔵書数は約六千四百冊に及ぶ。橋川夫人没後には、ノート・草稿類など蔵書以外の関係資料が入った段ボール箱十二箱も同センターに収蔵されている。

 尤も、これら蔵書は橋川先生が生涯で読んだ全書籍と合致するものではない。敗戦直後の極貧生活の糧へと、戦前の蔵書は殆どがその時に売り払われたからである。一九五〇年代になっても極貧生活は続く。この著作には、妹を実家へ帰す旅費捻出のために、結核で病む弟の薬代支払のためにと、相当数の本を売り払う話が出て来る。当時は洋書も買えなくて、丸山眞男から借りて読んだのである。また、借りたままの百冊近い雑誌を、十五年を経て伊良湖の杉浦明平へ返却に行くエッセイもある。入手困難な資料は、橋川先生は親しい人から借りていたようなのである。

 著者はこの著作を書き上げるに際して、慶應義塾福澤研究センターに赴き、関係資料を点検されている。その結果は、後から寄贈したノート・草稿類の関係資料は段ボール箱に入ったままで、特にノートやカセットテープの劣化が激しいようである。このような現況を打開出来ない理由として、著者は盛んに後藤総一郎明治大学教授の早世を惜しまれている。読了後私は、「宮嶋さん、橋川先生にはあなたが居られるじゃないですか!」と不図言いたくなった。

 

小田切徳美『農山村は消滅しない』岩波新書

2014年(多田統一)

 

 私のような農山村出身者にとって、とても心強い本が出た。あちこちで、地方消滅論が話題になっているが、本書は真っ向からそれに異論を唱え、実態調査に基づく詳細な資料で論証している。内容構成は、次の通りである。

 

  はじめに

  序章  「地方消滅論」の登場

  第Ⅰ章 農山村の実態―空洞化と消滅可能性

  第Ⅱ章 地域づくりの歴史と実践

  第Ⅲ章 地域づくりの諸相―中国山地の挑戦

  第Ⅳ章 今、現場には何が必要か―政策と対策の新展開

  第Ⅴ章 田園回帰前線―農山村移住の課題

  終章 農山村再生の課題と展望

  あとがき

 

 序章では、元総務大臣の増田寛也氏を中心に作成された「増田レポート」を紹介している。「地方消滅」を投げかけ、社会に衝撃を与えているこのレポートは、市町村の消滅を必然のものとし、消滅可能性市町村を公表している点に特色がある。著者は、そのことが農山村に与える影響を危惧し、消滅の可能性が最も高いとされている農山村の実態を明らかにすることを本書の目的としている。

 第Ⅰ章では、農山村の空洞化が高度経済成長期以来段階的に進んだが、一方で山口県東部山間地域のように、農山村の集落は強靭で強い持続性を持っていることを紹介している。それは、集落に居住する人々のそこに住み続ける強い意志によって支えられているが、このような農山村コミュニティーの性格は、日本的特徴であろうと述べている。

 第Ⅱ章では、地域づくりの歴史を振り返っている。新潟県旧山北町のリゾート開発に抗する地域づくり、鳥取県智頭町の「ゼロ分のイチ村おこし運動」などを紹介している。著者は、今後の農山村の地域づくりにおいては、都市農村交流に大きな期待が持てると述べている。

 第Ⅲ章では、中国山地の実例を紹介している。地域づくりの先発事例として山口県山口市仁保地域開発協議会、新しいタイプの地域づくりの例としてコミュニティーによる住宅整備を行なう広島県三次市青河地区、新たな村の創造に取り組む岡山県津山市阿波地区などである。

 平成の大合併は、ちょうど「むら」の空洞化が始まった時期でもあり、これらの例は地域自治組織の構築でその副作用をできるだけ少なくする動きでもあった。中国山地が空洞化のトップランナーになった要因に、中国山地の地形条件、瀬戸内の臨海工業地帯の存在を挙げているのが興味深い。

 第Ⅳ章では、地域づくりの政策支援には「内発性」「総合性・多様性」「革新性」という視点が必要だと言っている。鳥取県で実施された、中山間地域活性化推進交付金の支援は注目される。「カネ」だけではない。資金の利用を含む地域づくりを準備し、企画し、そして実践する地域サポート人材が必要である。「補助金から交付金へ」「補助金から補助人へ」というスローガンが面白い。中越地震の復興過程の教訓から、非専門家の補助人の役割も重要である。

 第Ⅴ章では、都市住民の農山村への関心が高まっている中で、農山村移住の課題について述べている。若者や女性の関心が高まったこと、多彩な移住実態がみられることなどの新しい動きも見られ、選ばれる地域への取り組みが必要であることが述べられている。仕事、家、コミュニティーという三大問題も、移住者の意識の変化や地元の取り組みなどで解消されつつある。

 終章では、農山村はけっして消滅しないこと、農山村の再生を図りながら、国民の田園回帰を促進し、都市も農村も個性を維持しながら共生社会を構築することの重要性を訴えている。そのためには、ていねいな地域づくり支援や農山村移住支援、そして国民の田園回帰志向の醸成が必要であることを力説している。

 あとがきで著者は、「本書の執筆は、農山村の歩き屋として、繰り返したずねる地域での人々の顔を一人ひとり思い浮かべながら進めた作業であった」と述べている。私は、血の通った農山村再生論にたいへん共感を覚える。地理教師の立場から言えば、土地利用や土地所有関係や集落立地など、データの地図化の作業を通して、より視覚的に農山村再生の現状と問題点が示されるとよかったと思う。

 それにしても、アベノミクスは、競争原理による弱者切り捨てに他ならない。この市町村消滅論にも、そこに人が住んでいるという意識がまったくない。憲法で保障された居住の自由や国土保全の思想が欠如している。財政の効率化のみで事を進めようとするならば、地方はますます疲弊していくであろう。

 本書は、私のような農山村をふるさとに持つ者にとっても、一筋の光を与えてくれる良書である。著者は、明治大学農学部教授。『日本農業の中山間地帯問題』『農山村再生「限界集落」問題を超えて』『農山村再生に挑むー理論から実践まで』など著書多数。

 

大塚初重『歴史を塗り替えた 日本列島発掘史』

中経出版 2014年(多田統一)

 

 本書は、戦前・戦中考古学の反省から、科学的な研究姿勢を貫いた著者の戦後考古学の記録が収められている。月刊「歴史読本」に掲載された記事が基になっている。

 構成は、次の通りである。

 

 はじめに

 第1章    列島の黎明期

  岩宿遺跡への挑戦

  岩宿に続く武井遺跡

  夏島貝塚の発見

  よみがえる登呂遺跡

  荒神谷・加茂岩倉遺跡の青銅器

 第2章    権力の誕生

  平原墳丘墓の鏡

  ホケノ山古墳の年代

  椿井大塚山古墳の三角縁神獣鏡

  稲荷山古墳の鉄剣

  三昧塚古墳の危機

  龍角寺古墳群と大和政権

  虎塚古墳の壁画

 おわりに

 

 第1章では、まず日本列島初の石器時代の遺跡発見で知られる群馬県の岩宿遺跡への挑戦がまとめられている。批判的な論調もある中、杉原荘介ら明大考古学のメンバーが、昭和二十四年頃のまだ交通や食糧事情の悪い中、すさまじい気概で取り組んだことが紹介されている。著者も、測量などの調査に従事した。

 また、同じ年、日本海軍の要塞で米軍基地のある夏島貝塚(横須賀市)を調査した記事も興味深い。明大調査団が、米軍兵士に取り囲まれるという珍事件も発生した。この貝塚からは、縄文時代早期の土器が発見されたのだが、ミシガン大学に依頼して、放射性同位元素による年代測定が行なわれたことはたいへん注目される。

 第二章では、昭和四十三年に発掘調査が行われた稲荷山古墳(埼玉県行田市)の謎に惹かれた。昭和五十三年、保存処理のための鉄剣さび落とし中に、金錯銘文が偶然発見された。鉄剣銘一一五文字の解釈を巡っては、今なお多くの議論を呼んでいる。東国古墳時代の社会構造、中央政権との関係などを巡ってたいへん興味深い。東国出身の豪族が任務の終了とともに北武蔵に帰任し、死に際してその栄誉を称え、遺骸に添えて副葬したであろうとする著者の考えには無理がない。

 また、昭和四十八年に発掘調査が行なわれたひたちなか市の虎塚古墳では、石室調査で彩色壁画が発見されている。北部九州からの技術の伝播が考えられるが、今後類例の発見が待たれるところである。

 戦後考古学には、いくつかの問題点もある。平成十二年の考古学会を揺るがした旧石器ねつ造事件、昭和十六年に衝撃的な事実が明らかとなった高松塚古墳の壁画劣化事件などである。研究者の資質や遺跡の保存体制が問われる。

 輝かしい遺跡発掘の陰には、考古学に関わる多くの人たちの苦悩の歩みがあったことを本書は教えてくれる。考古学には夢がある。考古学は、遠い過去の時代の人々の生活を大地から掘り出した遺物によって明らかにしていく学問である。研究者は、モノに謙虚であらねばならない。情報が錯綜する現代社会においても、私たちは真実を見極めるしっかりとした目を養っていきたいものである。

 著者は、一九二六年東京生まれ。明治大学名誉教授。明治大学大学院文学研究科考古学専攻博士課程修了後、講義の傍ら、登呂遺跡や綿貫観音山古墳など多数の遺跡発掘調査に関わって業績を挙げられる。日本考古学協会会長、日本学術会議会員、山梨県立考古博物館館長、文化庁文化財保護審議会専門委員などを歴任。著書多数。

 

谷川俊太郎編『辻 征夫詩集』岩波文庫

2015年(多田統一)

 

 谷川俊太郎は、辻征夫のことを「魂から言葉を取り出す魔術師」と表現している。本書には、第一詩集『学校の思い出』思潮社(1962年)から、死後出版された『辻征夫詩集成 新版』書肆山田(2003年)までの作品が掲載されている。私の好みから言えば、『隅田川まで』思潮社(1977年)や『俳諧辻詩集』思潮社(1996年)を挙げたい。

 辻征夫については、すでに「駿河台文芸」24号で一度取り上げている。ここでは本書に掲載されている単行詩集未収録作品の中から、あえて次の二篇を紹介したい。

 1972年3月に、「朝日小学生新聞」に掲載された〝海〟という詩がある。

 

  海が 小さな波の手で ぼくの 足にさわりにくる

 

で始まる。何と生き生きとした表現なのであろうか。1972年と言えば、詩集『いまは吟遊詩人』が高見順賞の候補になり、原稿依頼が舞い込むようになった頃である。

 また、「流行通信」1977年2月号に掲載された〝野球場で〟という詩は、

 

  詩はどうやって かくのだったか 冬の日暮れの江戸川の 草ぼうぼうの野球場で
  わすれてしまっている

 

で終わっている。1977年は、長女葉子が生まれ、江戸川区春江町の団地に引っ越した年である。谷川氏が、「穏やかな家庭生活を送りながらも、労働と詩の相克を生きた」と評しているように、辻征夫は実生活も詩もいい加減にできない性分である。その誠実さが、実によく作品に表われている。

 素直な言葉が詩のリアリティーを生み、無邪気なのにどこか成熟し、テイスティーなのに野生を潜める辻征夫の詩人としての魅力は、きっと現実の世界をしっかりと生きる中から生まれたのであろう。

 辻征夫(1939~2000)は、台東区浅草生まれ。主に墨田区で育つ。明治大学文学部仏文科卒業。

 

伊藤文隆『小説 オランダ坂、あす』書肆アルス

2015年3月(多田統一)

 

 

 著者が、文芸同人誌「四人」に発表した作品を、自ら一冊の本にまとめた。その中でも、郷里長崎を舞台に、原爆投下前後の出来事を描いた「火炎の道」が印象的である。爆心地近くに住んでいた著者は、たまたま母親の田舎に疎開していて命が助かる。母親の生家は、島原半島にあった。しかしここでも、深夜ほぼ決まった時刻に上空を圧する爆音が、長崎の時よりもひどくて不気味であった。半島全体を覆いつくす大編隊は、ずっと低空を飛行し、しかも頻度が高かった。この時すでに母親は、女学生であった姉や幼い妹たちと一緒に、長崎の空襲で亡くなっていたのである。

 著者が長崎に戻って見たものは、原爆投下で廃墟となった浦上、焼けただれた周辺の山々など、変わり果てた郷里の姿である。勤労動員の女学生たちが這いずり回ったであろう野っ原の生臭い血のにおいとともに、その惨状が痛いほど伝わってくる。黒焦げの人体らしきものを眺めているうち、これは誰か自分と縁のある人ではないかと思える著者の気持は、人が死を前にした時の共通のものであろう。私小説ならではの詳細な表現によって、時代の空気や風土のにおい、そして人間関係に至るまで、場面の展開をリアルに感じ取ることができる。戦争の惨禍は、広島や長崎での原爆の被害に代表されるが、その前の空襲の被害で多くの人たちが亡くなったことも事実なのである。

 著者は、様々な同人誌に数多くの小説を発表している。また、旅好きであり、紀行文も多い。郷里を客観的に捉えることができるのも、そのためであろう。著者は、戦争体験について語れる最後の世代である。駿河台文学会会員の一人として、この本の出版を心より歓迎したいし、より多くの若い人たちに読んでもらいたい。


「駿河台文芸 第28号」平成26年(20141220

バルザック 鹿島茂訳『役人の生理学』

講談社学術文庫 2013年(長瀧孝仁)


 この著作は今回で三度目の出版となる。行政改革が政治課題だった一九八七年に出版社・新評論から初めて上梓された。そして、十年後の一九九七年にちくま文庫に収められ、今回の出版に到っている。この間も、行政機構のスリム化は引き続き強く訴えられていた。それにも拘らず、日本国民は遅々として進まない現実を目の当たりにして来たことになる。

 ところで、この著作が書かれた背景には、ナポレオン皇帝時代にバルザックが少年期を過ごしたという事情がある。第一共和制から帝政へ、王制が復古したかと思えば二月革命が起こり、また第二共和制へと移行したのである。政体が目まぐるしく変わる中でフランス国民は、一見同じように見える行政機構でも、家臣団と官僚制ではその性格が全く異なることを見せ付けられたのである。そして慧眼バルザックは、民主制下の官僚制に内在する根本的矛盾を見逃さなかった。既に、官僚制の本質を看破していたのである。

 バルザックは言う。

 

 国家に仕えるということは、賞罰を心得た君主に仕えることではない。国家とは、「すべての人々」のことである。「すべての人々」に仕えるということは、「誰にも」仕えないに等しい。

 

 つまり、一役人が「すべての人々」に献身しようにもそれは不可能で、実際「すべての人々」から信頼されることもあり得ない。このような抽象的命題を前に役人は嫌に現実的になり、貰った俸給の分しか働かなくなるのである。その結果として行政事務は滞り、「お役所仕事」という現代社会の病弊が生まれるのである。

         ○

 本著第一部の「役人の生理学」に於いて、バルザックは皮肉な眼を以て、大胆にも役人を、洒落者役人、能なし役人、ゴマすり屋、商人、猛勉家、貧乏役人、……と分類、類型化している。とは言うものの、残念ながら当時のフランス国民が見れば誰でも笑える諷刺でも、事情に通じない現代日本の読者では総てが理解出来る訳ではない。中には、時代を超えて現代日本にも共通する笑いも幾つかあるので、以下に抜粋してみよう。

 

 冗費とは、緊急でも必要でもない土木工事をさせたり、 (中略)戦争をしもしないのに戦闘準備をしたり、他国の借金を払ってやりながら返済も求めず、担保も要求しないといったことを指すのである。こうした冗費は役人には関係がない。(中略)責任は政治家が負うべきものである。

 

 筆者は役人たちの置かれた立場に深く同情している。 (中略)役人はジャーナリズムからは恐ろしい脅迫を受け、国会からは攻撃され、しかも至る所で「中央集権主義」「お役所仕事」といった非難を浴びせられている。

 

 どんな役人も役所で九時間は働くことを義務付けられているが、この内、優に四時間半は、おしゃべりや噂話や口論、或いは鵞ペン削りや陰謀などに費やされている。ということは、国家は行政事務の五十パーセントを失っている計算になる。

 

 俸給は仕事の難しさに少しも比例していない。千二百フランの俸給の千人の役人よりも、一万二千フランの百人の役人の方が遥かに質の良い仕事を迅速に行えるはずである。

 

 官僚機構という利害関係の世界には共謀というものが存在していることを忘れてはならない。(大臣に)改革案があっても、絶対に見付からないように水面下の根回しを行ってからでないと、実行に移してはならない。役人というものは、下っ端から課長まで、それぞれひとかどの意見を持っており、(中略)全員が政府の考え通りに働くとは限らない。彼らが政府に反対する(中略)可能性もない訳ではない。

 

 成り上がった愚物を称賛し、才能ある人間の失脚を喜ぶというのは、我々の受けた悲しむべき教育の結果であり、才人を嘲弄に、天才を絶望へと駆り立てる我国独特の風土の産物である。

 

 二十一世紀になってから日本国民は、小泉内閣の構造改革、年金記録消失騒動、民主党政権の登場と瓦解などを立て続けに経験することになった。これらのかまびすしい過程で、普段は余りマスコミに取り上げられない役所の内部が詳らかに報道されたこともあった。江戸期の文学、浮世絵、歌舞伎などを挙げるまでもなく、恐らく日本人にもフランス人張りの諷刺と諧謔の精神は宿っているはずである。ここは役人を肴にして、大いに笑いのめそうではないか。

         ○

 本著第二部に於いて訳者は、役人を題材とした三つの文学作品を訳出して並列させている。「役人文学アンソロジー」と題されている。即ち、バルザック『役人』であり、フロベール『博物学の一講義・書記属』であり、モーパッサン『役人』である。訳者に拠れば、毎日が単調な仕事の繰り返しである平役人の一生は、極めて「十九世紀的な題材」として当時は重視されていたようである。この題材を、十九世紀を彩った大作家たちがどう捉えていたのか、大変興味あるところである。

 訳者は明治大学国際日本学部教授。と言うよりも、フランス文化・文学への該博な知識を基にした痛快な「教養読み物」で多くの読者を持つ著述家であられる。著書多数。私にとっては、空路を利用した時に毎度繙くことが楽しみな連載作品の著者でもある。全日空機の座席前のポケット内には、機内誌「翼の王国」が常備されている。ここに、鹿島先生の「稀書探訪」が載っている。

 

菊池清麿『天才野球人 田部武雄』彩流社

2013年(小林英実)

 

 本書は、野球黎明期の快速野手であり、軟投派の投手でもあった田部武雄の波乱に満ちた野球人生と、終戦間際に沖縄の海岸に散った姿を活写している。

 田部は、満州大連の社会人野球で活躍後、復学した広陵中学で甲子園準優勝。東京六大学野球では明治大学のスター選手として人気を博し、東京倶楽部(藤倉電線)を経て、創設時の大日本東京野球倶楽部(現読売巨人軍)に入団した。巨人軍最初の背番号「3」をつけ、翌年に「1」をつけた。いまとなっては「ON」の永久欠番となった「1」と「3」を背負った唯一の選手であり、初代主将でもあった。また、一九六九年には、特別表彰枠(アマチュア部門)で野球殿堂入りを果たしている。

 私は、大学二年生になる息子が神奈川大学野球リーグで投げている関係上、少年軟式、高校、大学の硬式野球をグランドの間近で見続けてきた。そして、日本の「野球」は米国の「ベースボール」と異質なものではないかと思うようになった。私見ではあるが、明治時代に伝来された「BASEBALL」は、本来ならば他の洋式スポーツ同様に「塁球」と直訳されても不思議ではなかった。しかし、何故だか「野球」=「FIELDBALL」と命名された。米式「ベースボール」は、一つでも前の塁を狙って点を取るスポーツだと思うが、日本においては、野に白球を追って躍動するスポーツと捉えられたのではないか。

 こういうことを書いてみたのは、田部の華やかな外づらと、それに相反する不遇ののちの悲運な野球人生が説明できないからである。

 東京六大学では、出塁すれば本盗まで狙うほどの盗塁王であり、二枚目で女性ファンが多かった。それでも、明大時代の打順は二番だった。マイペースなまでに次の塁を狙うプレースタイルに対して、監督が二番打者というチームプレーの要に据えて、釘を刺したのではないか。

 大日本東京野球倶楽部でも、疾風脱兎のごとく駆け抜ける稀代のスター選手であった。ベース一周一三秒台前半は、現代野球においてもなお韋駄天といえる。第一回米国遠征において、一〇五試合で一〇五盗塁を記録している。加えて捕手以外の守備はどこでもこなすし、スローボールを駆使して快投を演じる小兵には、日本人はおろか、本場の米国人さえ喝采したのである。

 しかし、大日本東京倶楽部が職業野球東京巨人軍としてスタートする際に解雇された。そして、職業野球界からも追放された。巨人軍は、他の球団で暴れてほしくないという思いから権謀術数を巡らせた。

 田部は、「ベーススボール」の申し子であった。どのチームに所属しても、唯我独尊に振る舞った。職業野球、そして日本球界の盟主を標榜する巨人軍は、「ベースボール」よりも「野球」を選択せざるを得なかったのである。

 

 読後感。私は、沢村栄治を始め、数々の伝説的名選手に彩られた日本野球黎明期の光輝に魅せられた。そして、世界の最高レベルにある現在の日本野球は、彼ら精霊が天から支えているのだと感じ入ったのである。

 著者は田部が出場する試合の細部までを濃密に記述している。相当量のデータを収集しているようだが、記録に偏りすぎたきらいがある。もう少し田部の人間臭さを描いていれば、伝説の名選手の実像が浮き彫りになったのではないかと残念である。

 著者は、一九六〇年岩手県生まれ。岩手の古豪、県立宮古高校元硬式野球部員。明治大学政経学部卒業後、同大学院博士前期課程を修了している。日本の大衆音楽分野の評伝を数多く著わしている作家である。

 

土屋恵一郎『能、ドラマが立ち現れるとき』

角川選書 2014年(海藤慶次)

 

 私は小学校、中学校時代に狂言に読み耽ったことはあるが、往々にしてそれと一緒にされがちな「能」という芸能について殆ど知るところがない。だから能の本を読むのはいささか心もとない感じだった。しかし本書を読み進むに連れて、自分が大学で学んだ日本文学の「幽玄」の系譜を地で行ったものなのだな、と感得するに至った。

 能というものは、本書で当然の知識とされているように、「亡霊」を主体としたものである。著者は稀代の天才である世阿弥の作品を丁寧に紐解きながら、能の持つ幻想美や幽玄性の迫真を論じていく。日本文学の独特の表現世界、表現形式を勉強してきた私としては、そこに何かアンテナに引っかかるものがあり、霧中に分け入るような不思議な感覚を覚えた。

 具体的には、「伊勢物語」の世界と世阿弥の世界との校合、つまり古典文学がいかにしてバックボーンとなり得るのかという問題についての考察が、日本の「曖昧さ」の文化、それに付随する文芸の世界を俯瞰しているようで興味深い。また、世阿弥が源融などのスキャンダルを題材にしていたということも、三島由紀夫の「宴のあと」ではないが、表現の源泉は現実世界の情念にあるということを再確認させられて面白い。源頼政や「平治物語」についての校合や夢幻能についての解釈も、「能」という古典芸能の持つ時代性やスピリチュアリティを雲のように浮かび上がらせて文学的な書だと思った。

  一見難解な本書には敬遠する向きもあろうが、著者の目指すところは明瞭であり、初学者が古典芸能の枯淡の世界に容易に入っていける一冊だと思う。文芸世界のソースを知りたい人にも、うってつけの書物である。

 著者は明治大学法学部、同大学院出身。現在、明治大学法学部教授。専攻は法哲学。能楽評論家でもある。

 

藤原智美『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』

文藝春秋 2014年(小林英実)

 

 本作の内容は、〈まえがき〉と〈結び〉にすべて著わされているといっても過言ではない。その〈まえがき〉を引用してみよう。

 

 実際に書くきっかけとなったのは、ぼくの体験と自省です。/本書のテーマはつぎの三点です。一つ目は、ネットの普及によって紙に記される「書きことば」が急速に衰退していること。二つ目は、それによって国や経済のあり方はもとより、ぼくたちの人間関係と思考そのものが根本から変わろうとしていること。三つ目は、だからこそ人はネットをはなれて「読むこと」「書くこと」が必要なのだということです。

 

 そして最後は、次のように自省と自らを勇気づけて結んでいる。

 

 というより書きことばが、「残る、消える」などという議論はどうでもいいのです。ぼくたちは書きことばの力が、自己対話力、思考力にあるということを知っているからです。/問題は自己のことばを支える軸足をどこに置くかということです。それは思考するさいの立ち位置といっていいでしょう。自分にとっての書きことばとは、自己を支え考えるためのすべてである。そのように規定して日常をあらためて生きていくしかない。これが本書の結論です。怖いものは何もありません。

 

〈まえがき〉と〈結び〉の間には、本作の論旨を展開する〈序章及び一~四章〉が挟まれている。〈まえがき〉にその部分の見取り図を説明した箇所があるので、そこも引用してみよう。

 

 序章では自分自身の混乱と、言語というものが、大きく変化したり、消滅するものであることを書いています。/一章は二一世紀に入ってからは「話しことば」が中心の時代になり、ネットというモンスター・メディアがその推進力になっているということを、政治、司法、憲法などの混乱と動揺を通して見ていきます。/二章はことばの歴史をふり返っています。中世までが「話しことば」の時代であり、近代は活版印刷技術による「書きことば」の時代だったこと。それが国家と個人を支えていたことについて考えました。/三章は将来訪れる日本語の終わりについて書きました。/四章はネット上のことばが人の思考を揺るがし、大きな不安をともなう社会がつくられようとしていること。しかしぼくたちは、ネットから独立したことばである「本」と「読み書き」を捨てることはできないという理由を書きました。

 

 右の端麗で軽快な語り口によって端的に自作を説明す

る作家の手腕は、さすがのものである。しかし、三十年余情報通信業界に身を置いてきた私には、各章の内容の詳細に同意し兼ねるところがある。

 巧緻な筆力とは裏腹に、「インターネット」と「IT」という用語に混同が見られるのである。著者の造語である「ネットことば」への警鐘は、情報工学的にも裏打ちされたものでない限り説得力に欠けるのではないか。

 著者が語る通信とコンピュータ、「産業のコメ」といわれる電子部品技術の歴史に対する私の理解は、次のようなものである。

 

 直接対面できない相手への連絡方法は、通信(コミュニケーション)という手法によって、「ことば」を直接相手へ伝達できるようになった。自ずと目に見えない相手との距離が縮まった。最初は手紙だった。次に電信による電報、ファックス(複写電送)という「書きことば」が開発され、そして、電話、映像(映画、テレビ)によって「話しことば」がマジョリティを得た。それらを普及させるために、機械の迅速な処理と小型化は必須だった。電脳(コンピュータ)を駆使し、電子部品が凄まじい進化を遂げた。

 そして電脳は、自らパソコンへと変貌を遂げて大衆化した。タイプライターやテレックス(電信機)を使い慣れた欧米人は、何ら抵抗なく新しい「書きことば」の機械に打ち解けた。日本人を始めとする手書き文化の人々は、キーボード操作に戸惑った。言語の変換ソフトが操作向上を助力した。

 ITが浸透し、米国は満を持して、五十年以上も前に軍事や学術用通信網として実用化したインターネット(電脳間通信網)を、一九九五年にタダ同然で一般開放した。WWW、即ちワールド・ワイド・ウェブ(世界中に広まるクモの巣)上に、「ネットことば」としての英語が生成した。

 同時に米国は、湾岸戦争の勝利に大貢献したGPS(全地球測位システム)をも開放した。車はカーナビで、徒歩はスマホの地図情報によって、迷子になることから解放された。しかし、思考力の減退は否めないし、自分の現在位置を捕捉されている不安を、当初誰もが感じたことだろう。

 その時分、米国会計基準を説く三万人近くの米人公認会計士が、世界各地に飛び立った。いまや米国会計基準による企業の決算は平準化した。

 英語は、ネット社会ばかりかビジネスにおいてもマジョリティを獲得している。掌中に収めたともいえる。言語の統一が、起こり得るかもしれない。実際私も海外出張に赴くとき、英語が通じる国は気楽に感じるものだ。しかし著者が悲観するほど、意外にも「米国語」はグローバルに浸透していない。欧州、アジア、アフリカは昔ながらの「英国語」なのだから。

 また、著者が危惧する「ネット」は思考力を衰退させるとも思えない。「ネット」に適した新しい思考力が誕生しつつあるだけだと思う。彼はそれを十分理解したうえで憂いているのだ。そして、「怖れるな。自らを貫け」とおのれを叱咤激励している。

 しかし、一見「軽い」印象のネット社会は、コミュニケーション手法を「話しことば」から「書きことば」へ逆戻りさせた。著者同様に、私も「知情意」が衰退することを危惧してやまない。いまテレビ電話が安価になり普及しつつある。やはり人と人のコミュニケーションは、「フェイス・トゥ・フェイス」が最上だ。内なる世界にこもるネット社会のいまこそ、「話しことば」を大切にしたいと痛感した。

 

 本作の題名は、チェコ出身の作家ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』をもじったのであろう。その点に惹かれた。ある意味、ここに著者の真意が隠されていると思う。また、ひらがなの多い文章は、あえて「軽さ」を強調し、現在主流になりつつある「ネットことば」を皮肉っているとも受け取れた。

 著者の藤原智美氏は、一九五五年福岡市生まれ。明治大学政経学部を卒業後、一九九〇年「王を撃て」で文壇デビュー。一九九二年「運転士」で第一〇七回芥川賞を受賞した。主な著書に『「家をつくる」ということ』『暴走老人!』など。

 

池田功『石川啄木入門』桜出版

2014年(海藤慶次)

 

 書評を書く立場で改めて書名を見た時、自分にとってはあまり新鮮味がない対象かも知れない、と感じたことは告白しておかなければならない。

こと啄木に関しては、私は小学校、中学校の多感な時期に歌集や小説作品を耽読して関連の文献も読んだし、明治大学の大学院時代には近代文学のゼミで作品の専門的な解釈やそのバックボーンなどについても学んだ。だから、これは初学者向きの入門書として飽くまで客観的に読まざるを得ないだろう、と構えたのである。

 しかし、読み進むに連れてその先入観は良い意味で裏切られた。この本では、啄木の出自から具体的な就職歴、借金についての詳細、詩、短歌、小説、評論、書簡について、微細な事柄に立ち入った研究に基づく解釈が成されている。自分はここまで「極める」ほどに啄木に通暁していた訳ではなかったのだな、と少し恥ずかしくなり、それと同時にある新鮮な興奮を覚えた。

 この本には実にユニークで、ある意味通俗的な興味をそそるアプローチも網羅されており、読み物として非常に面白いのである。小説作品「赤痢」についての当時の社会学的趨勢からの考察、評論作品のトルストイ、ニーチェ、或いは自然主義と国家への反発という観点からの考察、書簡の啄木独自の書き方の法則性と借金を頼むに際しての書き方についての考察、更に極めつけは短歌作品の現代歌謡曲との照合、つまりどのように現代のポップなものに影響を与えたかについての考察、といったものである。これは、初学者にとっても、ある程度知識がある人にとっても、耳目を引く内容である。

現代社会の有り様と重ね合わせた時に痛快に感じる論法は、啄木研究家ならではのものであろう。啄木という源泉は、決して涸れることはないのだと再認識した。

 著者は私と同じ新潟県生まれ。明治大学文学部、同大学院出身。現在、明治大学政治経済学部教授。

 

右山昌一郎監修 明士会(七士業)編『相続問題に必要な実務

の基礎知識』()大蔵財務協会 2014年(長瀧孝仁)

 

 来年二〇一五年の一月一日から相続税及び贈与税の税制改正が施行されるようである。基礎控除額が大幅に下がり、税額によっては税率も上がる。事業承継の税制も少し変る。既に新聞、雑誌、テレビ等で何度も取り上げられているように、年内に亡くなるのと来年亡くなるのでは、一日違いで相続税が相当違って来る場合がある。

 一番問題にされているのは、基礎控除額を引き下げることで、課税対象者が増える点である。現在は日本の死者の内、約4%の家族だけが相続税を支払っている。国は、対象者6%を目標に増収を狙っているようだ。新たな課税対象の2%は首都圏の小規模土地所有者で、今まで辛くも相続税を逃れていた階層ではないかと言われている。心当たりある人たちの間には不安が拡がり、来年になると蜂の巣をつついたようになるのかも知れない。

       〇

 本書は、現在書店に何冊も並んでいるこの問題を扱った書籍の一冊であるが、七士業による明士会によって分担執筆された点に意義がある。七士業とは、弁護士、税理士、公認会計士、行政書士、社会保険労務士、司法書士、不動産鑑定士をさす。明士会とは、明治大学士業会の略称である。七つの専門分野別に大学ОBで構成された校友会支部の連合体なのである。序文によれば、全国には八百近い大学があるが、全分野をカバー出来るこの種の会は、明士会が唯一無二の存在らしい。

 明士会の目的は、相続を始め法律・税金問題で悩む全国の校友に、七士業連携してワンストップ・サービスの解決策を提供することである。今回本書を市販に踏み切った理由も、明士会の宣伝もあるが、実務サービスを校友会だけに留めず、世間一般にも資したいという意気込みがあるようだ。

       〇

 さて、本書を繙いてみると、意外に相続は煩雑なものなのである。税理士、司法書士さんに頼んで、税額を計算して納税、土地の登記を変更してお終いとは行かない場合がある。遺産分割で揉めると弁護士さんの出番、遺言の問題もある。非上場株式の価額算定には公認会計士さんの、崖地や都市計画予定地など特殊な土地評価には不動産鑑定士さんの、それぞれ専門知識を借りなければならない。また、被相続人が建設業や飲食業ほか許認可事業を営んでいた場合、監督官庁への書類の提出義務が発生する。これが業種によってまちまちで極めて複雑、行政書士さんの出番となる。遺族年金、寡婦年金などの問題もある。社会保険労務士さんの専門知識を借りなければならない。……

 本書では、実務の基礎知識が一目瞭然、相当数の図表が使われ、解説文も簡潔明瞭に綴られている。相続が発生してからではなく、事前に読んでおきたい一冊である。


「駿河台文芸 第27号」平成26年(2014630

川村毅『4 FOUR』論創社 2012年(大西竹二郎)

 

 かわった題名だ。装丁をよく見たら、大きな4の数字の中に英字の横書きで「FOUR」のデザイン…「フォー」とはなんだ。題名からは内容が察知出来ない。帯の文字から死刑制度にかかわることがテーマのようだと思い、頁をめくった。

 〝登場人物 FOUR男〟と、右から左への横書き… 続いて、〝1〟とあり、

  〝黒い箱がある

   五人の男が出てくる。

   箱から紙切れを取り出し

   紙切れを開いてみる。

   一人の男が去り

   四人が残る〟

 とのト書き…ここから著書は戯曲であり、1は場面の始まりであることがわかる。

 2の場面では、ト書きに、

  〝四人は黙ったまま、それぞれの位置につく〟

 とあり、Fのアルファベットの下に日本文が続く。読み進んでいくと、Fのモノローグ(独白)であり、Fが裁判員に選ばれた会社員であること、裁判所からの帰り道であることなど、Fの人物、生活背景、状況設定などがわかってくる。

 Fに続いて、Oのモノローグ、Uのモノローグ、Rのモノローグで、それぞれの立場が語られていく。

 舞台上でのモノローグとしては長文にも思えたのだが、評者は短編の私小説を読んでいるような気分になり、惹き込まれていった。

 それぞれのモノローグによって、

   F…裁判員制度で選ばれ、裁判員になった会社員

   O…死刑執行命令の権限を持つ法務大臣

   U…拘置所の刑務官(未決囚の世話係)

   R…未決囚(死刑確定囚)

 四人の登場人物を表したアルファベットであり、それが題名になっていることがわかった。

 3の場面になると、F・O・U・Rの四人がそれぞれの立場から、裁きについての討論劇が展開され、行き詰まると、男が黒い箱を持って再登場、立場を入れ替える籤引きでロールプレイが続行される。

   FがOの役で…

   OがRの役で…

UがFの役で…

RがUの役で…

 舞台上でなら、キャスティングや衣装などの工夫で、登場人物像が労せずしてインプットされるのだろうが、印刷物でのアルファベツトの入れ替え表記は、老化が進んでいる評者の頭脳では、理解するまでに時間を要した。

 立場を代えたものの、最初の役の残像に引きずられ、再び、もとの役に戻るなどして、未決囚が犯した罪を巡ってのモノローグと討議でフォーそれぞれの人生が浮き彫りにされていく。その詳細は本著を読んで頂くことがなによりだが、6の場面で処刑台が現れ、Rの処刑がF・O・Uによって執行される。

7の場面で、処刑後のF・O・Uのモノローグがあり、そこで、エンデイング…かと思ったら、8の場面が後に追加されたそうだ。黒い箱をもって現れる「男」の場面だ。つまり、FOUR+男。男のモノローグから、R同様、死刑囚として、かつて、処刑された息子を持つ父親であったことがわかる。

 〝あとがき〟に「『劇作家の作業場』の記録」がある。こちらを先に読んでいたら、アルファベットの入れ替わりで、評者の頭が混乱することはなかったのかも知れない。舞台ではともあれ、書籍では〝あとがき〟を読まれてから、本編をよみかえしてみることをお薦めしたい。その文中に「日常の時空間のリアリズムを超えて…」云々とあるように、人格を入れ替えての表現構成は、幽界の亡霊、怨霊、化身の登場で構成される能、狂言、即ち謡曲や説教、浄瑠璃本を思い起こさせる。

 著者の経歴によると、一九八〇年明治大学政治経済学部在学中に「劇団第三エロチカ」を旗揚げ、八五年「新宿八犬伝第一巻 ―犬の誕生―」で、若くして第三十回岸田國士戯曲賞受賞。二〇〇二年には自作プロデュースカンパニー「ティーファクトリー」を設立、「AOI/KOMACHI」の上演、現代能楽集シリーズ「春独丸」「俊寛さん」「愛の鼓動」を書き下ろし…とあり、評者は〝納得!〟といった気分。

 多数の戯曲の他、小説、エッセイ、評論、テレビドラマの脚本・監督など、幅広く活躍されていて、現在は、京都造形芸術大学教授でもある。

そして、本著『4 FOUR』は、二〇一三年第十六回鶴屋南北戯曲賞、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞している。

 著書を閉じて、ふと気付いたことは、FOURの中に女性がいないことだ。女性が登場していたら、展開は変わったのだろうか? また、殺害され、残された親族の、被害者側からの視点がなかったように思われるのだが…偶然にも、新聞やテレビでオウム事件関連の裁判が、連日、報道されていた。

 

荻原博子『老後のマネー戦略』集英社文庫 2013年(多田統一)

 

本書の構成は、次の通りである。

 

第1章  老後が待ち遠しくなる意識改革のススメ

第2章  資金準備は「現金をコツコツ貯める」が基本

第3章  出費のカットと収入のアップで貯蓄をグンと

加速

第4章 「終のすみか」をどこにするかという大問題が

ある

第5章  老後に向けて今から始める生活改革

 

 第1章では、「老後は第二の青春時代」と紹介しているように、老後への意識改革について述べている。たとえ景気が回復したとしても、給料が上がらない時代、当面はデフレ基調が続くであろうし、将来的に物価高騰の危険性もある。老後の生活設計が今こそ大切であることを思い知らされる。著者は、「やり過ごす」から「生ききる」への意識改革を提唱している。老後への準備は、まず生きる目的についてじっくり考えてみることから始まる。第二の青春時代が待ち遠しくなるような文章が続く。

 第2章は、老後への資金準備について書かれている。現実的な話であるが、「現金を貯める」ことこそが一番であると結論付けている。株は当面乱高下、外貨預金もリスキーな投資商品であるし、地価はこれからまだまだ下がる。やはり、デフレの時代には現金主義を貫くことが大切なのである。過去の常識が通用しない時代、家計収支を見直すことが基本中の基本であることなど、主婦の力を改めて見直すことができる。家計を重視するのも、著者ならではの視点であろう。

 第3章では、家計支出を効率よく減らし、貯蓄を増やすための具体的な方法について書かれている。デフレ期は、無借金が原則。「支出カットは保険料から」という記述が目を引く。死亡保障は最低限でよいこと、保険会社の経営破たんも要警戒であること、保険料の大幅カットで老後への貯蓄余力が高まることを分かりやすく解説している。

 第4章では、「終のすみかをどうするか」という身につまされる問題にせまっている。粗大ゴミになる恐れのある中古マンションは危険であること、田舎暮らしも新たな人間関係を築かなければならないこと、人生をよりよく生きるための心構えが何よりも大切であることを教えられる。人間最後は一人、介護の不安はあるが、皆がいずれは通らなければならない道、しっかりと自分の人生を見つめ直す必要がある。

 第5章では、ハッピーな老後を迎えるために、今からやっておかなければならないことについて書かれている。人間関係こそが一番の財産であること、助け合える友だちを見つけておくことの重要性について述べている。健康が一番であること、スキルを磨くこと、趣味やボランティアに生きがいを見つけることなど、老後に向けての生活改革のススメが紹介されている。インターネットも使いよう、「孤独な高齢者」ほどダマされやすいのである。

 著者は、テレビでも有名な経済ジャーナリスト。明治大学文学部卒業。複雑な経済や金融の仕組みを分かりやすく解説することで定評がある。

本書は、高齢者問題を考えるための文献として若い人に読んでもらいたいが、退職前後の人にもたいへん役に立つ内容である。ぜひ、一読をお薦めしたい。

 

橋川文三『昭和維新試論』講談社学術文庫

2013年(長瀧孝仁)

 

 この著作は今回で四度目の出版となる。橋川先生が亡くなられた一九八三年暮から半年後に朝日新聞社が残された原稿を纏めて上梓し、そののち朝日選書、ちくま学芸文庫に収められたものの増刷されず、今回の出版に到っている。今また、新しくもなければ大して売れもしなかったこの本を上梓する意図は、ヘイトスピーチやネット右翼など現代の風潮に対する警鐘なのだろう。右傾化する昨今の若者に、基本的な文献を提供しておく意味はある。

 橋川先生は、三島由紀夫とその著作『文化防衛論』を巡って論争を繰り広げたことから声名轟き、私も高校生時代にはそのことをよく知っていた。そして、法学部四年の時に政経学部へ他学部履修届を提出して、「日本政治思想史」を教わることになった。テキストは、橋川文三『ナショナリズム―その神話と論理―』紀伊國屋書店であった。この著作は、当時の講義と内容が一部重なっている。

 昭和維新=超国家主義への橋川先生のアプローチは、橋川先生が個人的に世話になっていた先輩筋の丸山真男東大教授の躍動的な研究方法とは明らかに異なっている。丸山教授がファシズムの本質を明晰に分析した後、ドイツ、イタリアなどとの比較で日本での形態を理論化、類型化したのだとすれば、橋川先生は自らの体験を踏まえて、戦前、戦中に青少年の心を多少とも共鳴させた「昭和維新」の思想の本質を、分け入った反古の山から断片に切り出して見せるのである。この手法は、より文学的とも言えるだろう。

         ○

 先ず、渥美勝(一八七七~一九二八)と朝日平吾(一八九〇~一九二一)が俎上に上せられる。渥美勝を知っている人は稀であろうが、母親の遺骨を食べたというエピソードがこの著作でも紹介されているように、一言でいうと奇人、き印の類の人だった。朝日平吾は、金融財閥の総帥・安田善次郎を刺殺したテロリストである。

 渥美は、代々武術師範という彦根藩士の家柄に生まれた。旧制一高から京都帝国大学法科に進むも「神政維新」という独自の理念が芽生え、実践するために中途退学。「神政維新」「桃太郎」と書かれた旗や幟を立てて、毎日のように神田や上野で街頭演説をし、日本神話に基づく日本人の生命観、使命観を説いて、維新の断行と高天原の地上への建設を訴えていた。この頃から大川周明、頭山満、内田良平、北一輝、上杉慎吉、井上日召、赤尾敏ら主なる右翼の活動家と知り合う。四十三歳の時突然、神道の修道錬成を行うため宮崎県の高千穂峰に入る。以後二年間みそぎの修錬に努める。五十一歳で長年の身体の酷使により急死、死後は右翼の方面で「伝説の人」となる。

 朝日平吾は性格に問題があって、入学した学校は総て中退。満州の馬賊隊に参加するも落伍して帰国、大陸浪人仲間からも非難されていた。本来名もなきチンピラで一生を終えるところ、刺殺した相手が有名人だったが故に歴史に名を残した。というのも当時、手段を選ばない強引悪辣な安田商法が世間の顰蹙を買っていたからである。みずほ銀行に合流した富士銀行、安田信託銀行であるが、戦前は生命保険、損害保険会社と併せて安田財閥と言われ、度重なる地方銀行の乗っ取り、株価操作などで肥え太った側面があった。一部マスコミは、暗殺事件について平吾に好意的であった。また、刺殺後その場で自らの喉あたりを剃刀で搔き切って自害した姿は、右翼方面に共感者を生んだ。十八歳少年による原敬暗殺、大杉栄・伊藤野枝虐殺、血盟団事件と続いたのである。

 橋川先生は、渥美勝の遺稿や関係文書、朝日平吾については遺書「死の叫声」及び本人の日記・書簡、この暗殺事件についての世評や有名人の事件当日の日記などを駆使して、二人の心の奥底に潜む共通した「ある心情」を探っている。それは、家庭内の不幸や失業、貧困という自ら直面する不遇を「不運だ」「不平等だ」と、被害妄想的に疎外感、挫折感へと膨らませる感傷であった。

 ままならぬ青少年があまた存在する社会に於いて、悲哀感のメロディーで奏でられた音楽は大衆の心の奥底までよく響くものである。ナチスに支配されたドイツがそうであったように、戦前、戦中の青少年たちは「昭和維新」の曲に共鳴させられたのだった。そして、贖罪羊(スケープゴート)が掲げられた時、大衆はしばしば威圧的、暴力的に出る。ナチスにとってのユダヤ人は、現在欧州に跋扈するネオナチでは移民となっている。そして、日本のヘイトスピーチは、在日を敵視するようけしかけている。

         ○

 この著作は、全十五章の内の最初の三章を丸々渥美勝に割いている。第四章は「私は渥美のことにあまりながくかかわりすぎたかもしれない」という文章で始まっている。橋川先生がそこまでこだわった理由は、旧制一高で先輩に当たる渥美が、高いレベルの学力と教養が具わっているはずなのに、なぜ非科学的、非論理的な方向へと逸れてしまったかに疑問を懐かれたからなのだろう。橋川先生は、渥美在学時の一高についても詳しく調べている。日清・日露両大戦間の一高在籍者には、渥美の三年先輩に柳田国男(一八七五~一九六二)、一年後輩に広田弘毅(一八七八~一九四八)と田辺治通(一八七八~一九五〇)がいた。

 広田は既に、一高在学中から頭山満の薫陶を受けていた。外交官となってソビエト大使などを歴任したのち外務大臣となり、二・二六事件を受けて内閣を組織した。首相在任一年弱の間に日独伊防共協定締結などの戦争政策を強行、東京裁判のA級戦犯として処刑された。城山三郎は『落日燃ゆ』で広田の死刑を同情的に描いているが、少し違うのではないか。この著作から受ける印象では、「確信犯」だったように思える。連合国側検事は取調べ時の広田の態度をよく観察していたし、過去の言動もよく調べていたということなのだろう。

 田辺は逓信官僚となり、東京逓信局長などを歴任したのち逓信大臣も務めている。しかし田辺は、平沼騏一郎の秘書役のような側近として、国本社運動推進の功績で知られている。国本社の淵源は、一九一九(大正八)年に東大で結成された右翼学生団体にまで遡る。ここに平沼が関係していた幾つかの保守系団体を糾合して、一九二四(大正十三)年に国本社は発足している。平沼等司法官僚を中心に、陸・海軍人を含む保守的官僚層に一大勢力を形成したのである。田辺はこの団体の理事の一人であった。

 のちに国本社は海外から「日本ファシズムの総本山」と見られるようになり、一九三二(昭和七)年には、代表の平沼自身がフランスの通信社に対して「ファシズムとは何ら関係がない」との声明を出した事実がある。しかし、海外の研究者の見方は現在まで一貫している。

         ○

 平沼騏一郎(一八六七~一九五二)についても二章が割かれている。平沼は江戸幕府最後の慶応三年の生まれで、生地は多数の洋学者を輩出した岡山県の津山藩。その洋学者の一人である箕作秋坪に就いて幼少から漢学、英語を学んだ。一高の前身に当たる大学予備門から東大法科に進み、首席で卒業して裁判官になっている。この後順当に職歴を重ね、検事総長、大審院長(=最高裁長官)、司法相(=法相)、貴族院議員、枢密院議長、首相(一九三九年一月~八月)と登り詰めている。最後は、東京裁判のA級戦犯・終身禁固刑として巣鴨拘置所に四年近く収監され、病没している。

 平沼の人物像は非常に分かりづらい。明治新政府での出世頭だから近代的な司法、行政を推し進めるのかと思いきや、生涯その反対のことばかりを行っている。この著作にある表現を使うと、「どこか暗いかげをもち、奇怪な思案をめぐらせている不気味な老人」というものになる。西洋の学問を学びながら西洋思想を受け入れることが出来ず、封建教学としての儒教に一生固執したのである。また、裁判官になったものの不平等条約の改正前で、司法省、外務省には権威がなく、必ずしもエリートでなかったことに心情が屈折している。しかも、当時は藩閥、元老、枢密院などにも権限があって、現代から推し量るに権力構造が余りに複雑であった。

 橋川先生は、平沼の組閣までの経緯について『回顧録』から興味ある箇所を抜き出している。平沼の本音は、大審院長を最後に定年で退きたいと考えていたのである。日比谷事件、大逆事件など公安事件を取分け厳しく裁いたのだが、大浦事件、シーメンス事件など政界贈収賄事件にも職務に忠実に対処した。このため、平沼は政財界で蛇蠍のごとく嫌われていた。このことは、本人が一番よく自覚していた。

 ところが五十六歳の時、第二次山本権兵衛内閣の司法大臣に請われて受託してしまったのである。ここから、政界の潮流に巻き込まれた晩年が始まる。戦中は短期間で内閣が総辞職を繰り返して人材を浪費、枯渇させてしまった。平沼にもお鉢が回って来たのである。広田弘毅の推挙により、七十一歳で組閣。「欧州情勢は複雑怪奇」との意味の妄言を残して、八箇月持たずに首相の座を投げ出している。

 平沼の思想、行動の根底にあるもの。それは、平沼が「明治新政府は盤石ではなく、何時崩壊するかも知れない」と常々危惧していたことである。その原因となり得る外来思想には、特に畏怖を懐いていた。大逆事件(一九一〇年)、ロシア革命(一九一七年)、関東大震災(一九二三年)、虎の門事件(一九二三年)と起こる度に、平沼は懸念を一層強めた。

 のちに唱えられたスローガン「八紘一宇」もそうなのであろうが、平沼が懐く優秀民族思想には、白色人種への警戒心とコンプレックスが複雑に絡み合っている。加えて、平沼は人種差別主義者でもあった。この著作に引用された平沼の著述から「ユダヤ陰謀説」の部分を孫引きしてみる。

 

「世界の動きについて自分の考えを言いたい。先年国本社の運動をしている時からである。真相に就いては色々いうが、ユダヤの陰謀が主であるのは争うことができぬと思う。……ユダヤ人の考えは英米では成功している。ドイツはヒットラーが排斥したので失敗したことになろう。イタリーもムッソリーニがいる間は自由にさすまい、ムッソリーニが出る前はユダヤに潰されていた。資本主義、自由主義でその国を支配しようとしても、日本のような国では成功しないことは明らかである。……」

 

こんな平沼ではあったが、心服した高級官僚、軍人が少なくなかったのもまた事実なのである。

 この著作では、他に地方改良運動、北一輝、国家社会主義などについても一章が割かれている。しかし、橋川先生にはそれぞれのテーマについてもっと詳しい別の論文もあり、ここでは敢えて触れないことにする。

         ○

 読後感として、空しく哀れで、次いで怒りが込上げて来た。「昭和維新」の思想については様々な解釈がある。明治維新までは中国の法制を理想として来たものを、急に欧米モデルに舵を切ったがための副作用だとか、明治も末期になって漸く近代精神を纏った若者が育って来たのに、国家と支配層は旧態依然、これに対する抗議だったのだとも言う。

 体系的な纏まった思想があった訳でもない。それでも時系列で並べてみると、この著作のようにグロテスクな異形の思想となって現れる。「昭和維新」に関係した一人一人が勝手な空想を膨らませて、「その根拠は?」と問い質せば、「夢の中で神のお告げがあった」とぐらいにしか返せないのである。誰も彼もが、安物の新興宗教の教祖みたいに見えて来る。

 この著作では触れていないが、拘置所内での平沼騏一郎の奇行が漏れ伝わっている。敗戦を待たず、勲一等旭日桐花大綬章の勲章と男爵という名誉の内に亡くなっておけばよかったのである。長く生き過ぎたのである。栄誉の末の大どんでん返し、八十歳を超えての獄中生活は殊の外身体にこたえたようである。フリッツ・ラング監督に「死刑執行人もまた死す」という反ナチ・レジスタンス映画の名作があるが、この題名に倣えば、牢獄内で「裁判官もまた裁かれる」「検事総長もまた刑罰に処せられる」「最高裁長官もまた判決に従わねばならない」「元総理大臣もまた檻の外には出られない」という劇が繰り広げられたことになる。

 深夜皆が寝静まった拘置所で、格子の中に一人子供のように泣き叫ぶ平沼の姿が度々目撃されている。看守はこの叫び声をどう聞いたのか? 現代日本人はこの泣き声をどう聞くべきなのか? 昭和維新や戦争の過程の一部分を取り上げて美化し、国防力の不足を煽る風潮を前に、私の胸にはこう去来するのだった。

  こんな馬鹿馬鹿しいことは、二度としてはならない!

 

盛田隆二『いつの日も泉は湧いている』日本経済新聞出版

2013年(小林英実)

 

 一九五六年生まれの私にとって、一九五四年生まれの著者は同世代だ。七〇年安保闘争が佳境の、一九六九年当時中学生だった我々は、マスコミに、無気力、無関心、無感動の「三無主義」と揶揄された「シラケ世代」だったはずである。

 しかし著者はあえて、この作品の主人公を自分自身より一歳年上の、大人を意識し始めた早熟な高校生に設定している。著者自身、背伸びしてでも闘争に参加したいと思うようなませた中学生だったのかもしれない。

作品は、闘争後幾つも書かれた「僕小説」の構図になっている。「怒れる若者の、熱き血潮の青春群像」とでもいうべきか、一九六九年当時の安保闘争が自己体験として語られている。

ところが、読み進むにつれて不思議な気持になってくる。この作品の主題がはっきりしないからである。一つ上の世代へのオマージュかと思ったが、それにしては、闘争に対して斜に構えたところがある。闘争シーンの描写からも、いま一つリアルさが感じられない。真生子というヒロインへの鎮魂歌にしては、彼女は影絵のようで、回顧シーンにおける存在感が希薄だ。

読了して、読み始めた時から薄々感じていた「どこかシラケた感覚」が、頭の中に増殖していた。多すぎる登場人物、一見平易ではあるが読点が少なく饒舌な文章。これらが輪をかける。

 「シラケ」を否定したくとも、「シラケ」に共感せざるを得ない感情。何事にも完全燃焼できない世代のゆえの宿命なのだろうか。我々が「シラケ世代」であることを再確認した点で、私には貴重な作品であった。

 著者は、明治大学政治経済学部卒業。「ぴあ」の編集者などを経て、現在、大学広報誌「明治」の編集委員。

 

中沢けい『動物園の王子』新潮社 2013年(海藤慶次)

 

 この小説は、高校時代の同級生である三人の五十代女性の日常を、淡々とした時の流れの中でユーモアやペーソス、そしてほんの少しの不安を織り交ぜながら描いた作品である。殆ど事件らしい事件は起こらない。三人の女性の中でユキさんという夫と成人した子供を持つありふれた人物を軸に、五十代という人生の半ばまで生きた女性のふわふわと揺らぐような心理、それでいて確かな人生経験に裏打ちされた落ち着きを静かな生活の中から浮き彫りにする。

 私には五十代の母親がいるので、その年齢特有の感情の疼きや、それと共にある一種の諦観に毎日のように接している。それだけにこの小説の根っこにある「年齢を重ねたがゆえにやって来た精神面での岐路」という問題を興味深く読んだ。作中のユキさんとチョウ子さん、サッチンという三人の女性は昔からの固い交情で結ばれているが、若い時にあるような互いの顔色をうかがいながらの未熟な関係ではなく、人生のあらゆる場面を潜り抜けてきた女性同士の、悪びれたところのないオープンな間柄として描かれている。忌憚のない会話文が練達した大人をリアルに想起させるところが、この経験豊富な女性作家の才智を感じさせる。一般人女性の三人と対極にある立場の小野蘭という女優を、作品のテーマに則ったあるイメージ上の材料として描いているところも、ジェンダーの面や大人として社会に関わっていく姿をじわりと浮かび上がらせて上手いと思った。

 その小野蘭の突然の死、ユキさんの夫への疑念と娘の同棲に対するもどかしさ、三者三様の成熟した女性性の探り方、これらが内容に事件のような起伏はないながらも、錯綜しつつも穏やかな時の流れの中で解決のない一つの観念へと収斂していく。そのまとめ方と気取りのない文体、感傷を拝した表現法が「五十代」という「成熟した揺らぎ」を立体化させる。そのことからこの作者の内側から溢れ出る何かが感じられて、興味深く読んだ。

 この作品のタイトルにもなっている「動物園の王子」とは、彼女たちが小野蘭と行ったことのある動物園で遭遇した、親や祖父母や曽祖父母に手厚くされていた幼児のことである。年齢を重ねたがゆえの連綿とした「血」の系譜、それに対して時には抗い、時には甘受する五十代女性の情緒的な人生の分岐点がやはり本作の軸になっているように感じる。

 サッチンに孫ができたことと彼女の感情の変化、ユキさんの藤田君という男性への感情、サッチンが倒れて入院したこと、チョウ子さんに双子の孫ができていたこと、それらが成熟と変化という豊かなタペストリーのように織り成されているところが、この作者の構成上の上手さ、換言すれば時系列の組み立て上の上手さのように感じた。

 私は現在母親が体感している世界を垣間見るような気持ちで読んだが、やはり五十代の人に見える世界というのは一律のものではなくて、ある一定のルールに則って十人十色に展開されるものなのだなと思った。「五十代女性あるある」という一般論ではなく、そこらへんの多様性をきっちりとつかまえているところが、やはり本作の魅力の一つとなっている。

「五十代」というのは私にとってはこれからの話なのでこの本を読んで想像をめぐらすしかないのだが、作中でのユキさんの「あたしたちって、そろそろ人生が終わりだって考えるにはまだ早過ぎるのよ。夏の日暮れみたいなものね」という台詞からは、社会的な可能性はともかく、生活上の可能性は年齢を重ねても生きつづけているという真理が感じられた。現在三十代の私にとっても、もっと年齢を重ねた人にとっても、読むことが意義深い秀作である。

 著者は、1959年生れ。明治大学政治経済学部卒業。現在、法政大学文学部教授。高校在学中の十八歳の時に書いた「海を感じる時」で第21回群像新人文学賞を受賞。

代表作に「水平線上にて」「豆畑の昼」「楽隊のうさぎ」などがある。

 

天童荒太・文 荒井良二・絵 『どーした どーした』

集英社 2014年(海藤慶次)

 

 この絵本の主人公である小学三年生のゼンは、どこにでもいるような男の子だが、家族や人々に向かって「どーした」という言葉を連発する。この作品ではその「どーした」をお節介や干渉の範囲に留まらせず、高年齢向けの絵本なりに一つの広がりのある世界観へと発展させていく。絵本というものは抽象的な事柄を大人の鑑賞にもたえ得るように洗練されたふくらみを持たせていくものであるから、こうした表現形式に挑んだ天童氏の心意気というものは高く評価されるものである。

 この作品の内容を簡単に言うと、お節介めいた「どーした」を連発するゼンの家族との絡み、そして街中にいる他者との「どーした」を介した絡みなどを序章として、それから一つの絵本らしからぬドラマへの発展というものである。他者に「どーした」と執拗なぐらいに語りかけるゼンに対して、そうした相手たちは間接的に情緒面の手助けをされたような形になっている。彼らは多かれ少なかれ人生に負荷をかけられているありふれた人々であるが、ゼンの「どーした」という関心が再出発していく際の一助となったように描かれている。

子供の純真無垢な興味関心、そこから観念の世界を広げていって大人の社会にも横たわっている問題を抉り出すところが、絵本ながらも著者が重厚な小説を書いてきた「大人向けの」作家であることを感じさせ、平易な言葉で現代の深い問題意識をふくらませていくという力量に瞠目する。それは取りも直さず、「どーした」という本来あるべき純粋な形での干渉、大人の世界で言うなら心遣いの問題である。

 そのような日々の中で、ゼンはミツという同い年の男の子と出会う。彼は同居している母親の交際相手の男から虐待を受けている。今日的な問題である「虐待」を背負っているミツに、ゼンは例によって「どーした、どーした」と訊くが、大人の事情が横たわっている話だけに、その干渉には壁が立ちはだかる。

児童虐待という現代の病理、介在する相談所や教師などが思うように機能していないという問題、それらを絵本らしい噛み砕いた言葉で表現していく技術というものは一朝一夕でできるものではない。いや、そもそも技術云々の話ではなく、こうした作品を生み出す元になっているものは、作者の内側から滲み出る純真な創造の芽であり殆ど皮膚感覚のようなものであろう。そうしたことからも、天童氏の内奥に流れる温かな創造性が看取され、思わず唸ってしまう。

 前述したような問題解決のための「壁」は、ゼンの純粋な関心である「どーした、どーした」によって打破されることになる。大人の世界では気遣いなどと言われるそうした言葉も、小学三年生の子供にかかっては単純に目の前にあるものにぶつかっていく何物かでしかない。しかしそうした余計な思慮や打算のない姿勢が作中では街中の人々を「どーした、どーした」とミツのアパートまで付いて来させ、虐待を受け食べ物も満足に与えられていなかったミツを救い出すことになるのである。こうした一種の社会へのアイロニーとなっている描き方が、全く余分な要素を排除しており、極言すれば問題を問題と感じさせない天童氏の作品としての昇華法なのだろう。

 ゼンがその後見た夢の中では、今まで「どーした」を介して関わった人々が妖精の姿をして「どーした」と言って戯れてくる。こうしたファンタジーがやはり絵本としての温もりとイノセンスを感じさせ、ほっと一息つかせる効果を持っていて上手いと思った。

最後の場面、ミツからの「元気だよ」という手紙を読みながら電信柱にぶつかったゼンが、女の子の「どーした」という言葉で痛みが半分になり、彼はそれを「まほう」と表現する。こうした冒頭部のイノセンスに戻るような帰結法にもほろりとさせられる。秀逸な絵本である。

 著者は、1960年愛媛県生まれ。明治大学文学部卒業。「家族狩り」「永遠の仔」などの長編作品がある。2009年「悼む人」で直木賞を受賞された。

 

猪谷千香『つながる図書館―コミュニティの核をめざす試み』

ちくま新書 2014年(多田統一)

 

本書は、次の6つの章で構成されている。

 

第1章  変わるあなたの町の図書館

第2章  新しい図書館の作り方

第3章  「無料貸本屋」批判から課題解決型図書館へ

第4章  岐路に立つ公立図書館

第5章  「武雄市図書館」と「伊万里市民図書館」が選んだ道

第6章  つながる公共図書館

 

 第1章では、指定管理者制度の導入で、いま大きく様変わりしている町の図書館を紹介している。1階フロアにカフェが入り、コーヒーを飲みながら雑誌や新聞を持ち込んで閲覧できる武蔵野プレイスの例が紹介されている。まさに、人が集まる広場である。1階のギャラリーではコンサートも開かれ、にぎやかな図書館でもある。

 第2章では、知の集積地が実現させた千代田図書館、公募館長のもとに町民が作った小布施町のまちとしょテラソなど、知識や情報を生み出す場としての公共図書館の改革の道筋が纏められている。千代田図書館は官庁や大企業が集中する地域ならではのガバナンスがあり、一方、小布施町のまちとしょテラソには地方の町づくりのための演出がある。

 第3章では、無料貸本屋批判から課題解決型図書館へ脱皮を図った鳥取県立図書館の例が紹介され、地域へのビジネス支援とそのための司書の育成について述べている。司書が、本を管理するだけでなく、全国に人脈を作り情報集めに奔走している様子が伝わってくる。

 第4章では、二重行政と批判されがちな県立図書館と市立図書館の問題に踏み込んでいる。神奈川県立図書館が、より高度な調査や研究に対応することによって差別化を図り、生き残ろうとしている姿を描いている。貿易関係の資料が揃っている神奈川県立図書館、科学技術・工学や社史のコレクションを持つ神奈川県立川崎図書館は貴重である。

 第5章では、代官山蔦屋書店が入り本を売る図書館となった武雄市図書館、市民が図書館の誕生日を祝う伊万里市民図書館が紹介され、指定管理者制度の是非が問われている。小泉改革による公営組織の民営化の流れで創設されたものであるが、専門性の高い図書館職員の雇用が大きな問題となっていることが分かる。指定管理者側から見たこの制度の問題にも触れている。

 第6章では、電子図書館、東日本大震災のデジタルアーカイブ、地域のコミュニティを育てるふなばし駅前図書館、島まるごと図書館にしてしまった島根県の海士町中央図書館など、盛りだくさんの内容である。特に、ふなばし駅前図書館は、小さい子どもから高齢者まで、世代を選ばず全ての人が集まれる空間として機能している。

 ところで、学校図書館は、思ったほど改革が進んでいないのではないだろうか。子どもたちの活字離れが指摘されているが、携帯電話の影響か、図書館そのものに足を伸ばさないようである。人付き合いが苦手な子が図書館に集まり、本や友だちと出会う切っ掛けができる、そんな学校づくりを期待したい。

 著者は、明治大学大学院博士前期課程考古学専攻修了。産経新聞長野支局記者、文化部記者を経て、ドワンゴコンテンツでニコニコ動画のニュースを担当。ハフィントン・ポスト日本版でレポーターとして活躍している。著書に『日々、きものに割烹着』筑摩書房などがある。



「駿河台文芸 第26号」平成25年(20131230

ジョルジュ・クラマレンコ著 ゲ・ア・クラマレンコ監修 松本高太郎訳 今井昌雄編

『十五歳の露国少年の書いた カムチャツカ旅行記』新函館ライブラリ 2013年

(長瀧孝仁)

 

 一九一八年という微妙な年ではあったが、横浜在住の十五歳のロシア人少年が夏季休暇前からカムチャツカを旅行した。弟と共に父親に連れられ、父の知人が所有する鮭缶詰工場を訪ねたのである。

 行程は横浜から青森まで鉄道を使い、そこから函館までは連絡船、函館で石炭を動力とする貨物船に乗り込んだ。函館を出港した船は津軽海峡から太平洋へ出て、北海道、千島列島の海岸を見ながら北上、カムチャツカ半島に達してからはロパトカ岬、ペトロパブロフスク港、シプンスキー岬沖を通過した。雪を被った円錐形のクロノツカヤ火山が姿を現すと、目的地も愈々近い。クロノツキ―岬を経て、カムチャツカ河口のウスチ・カムチャツクに入港した。出港から八日後のことであった。

 父子三人は、漁舟に乗り換えて砂浜に上陸する。行き来の船中では、イルカの遊泳や鯨の潮噴きを観察し、強い船酔いに悩まされ、そして帰路には台風にまともに遭遇し、生きた心地もしない程の恐怖も味わっている。

この旅日記について、私は先ず、二十世紀初期に書かれた「地誌」として興味を持った。カムチャツカ半島は寒冷地であるが、太古からの活発な火山地帯で地震が多い。富士山の一・三倍もの高さがあるクリュチェフスカヤ山は、絶え間なく火を噴いている。氷河を頂くシェヴェルチ山ほか、峻険な山々も連なっている。

 少年が滞在した六月末から九月半ばまでの二箇月半は比較的穏やかな天候に恵まれた。半島には未だ手付かずの自然が残っていた。沿岸にはラズベリー、ブルーベリー、コケモモなどが自生し、河口ではカモメやアザラシに遭遇した。野生動物の宝庫でもあった。乱獲から既に絶滅したとも言われるヒグマも繁殖していた。大空に鷲、鷹が舞うかと思えば、奥地には狼、狐、鹿、雷鳥も生息していた。

 カムチャツカは当時、日露のみならず世界的に鮭・鱒などが豊富な漁場として注目されていた。日本にとっても、北洋漁業の漁獲を原料とする鮭缶詰の欧州向け輸出は後に外貨を稼ぐ手段となる。

 この日記には、ロシア人、先住民 (コサック)、日本人、中国人、朝鮮人、英国人、フランス人、ノルウェー人、フィンランド人など多様な国の人々が訪問地ウスチ・カムチャツクで働く姿が描かれている。距離的にアラスカと近く、米ソが角突き合わす軍事上の要所として、東西冷戦時はずっと外国人立入禁止地域であっただけに印象的である。

 その後ユネスコの世界遺産に登録され、今は日本からも観光客が訪れている。最近の注目点として、欧州とアジアを最短で結ぶ北極海航路の現実味がある。地球温暖化で海氷が減少し、ベーリング海からロシア沿岸を伝って北極海を横断、北海到達への可能性が出て来た。こうなると、ペトロパブロフスクは東アジアからの最初の寄港地となる。

 次に私は、この日記を「冒険譚」として楽しんだ。ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』のように少年主体で危険を冒す訳ではない。だが、この短い期間中に少年は生まれて初めての実に多くの体験をしている。銀鮭、虹鱒、イワナの釣りであり、熊、野羊、兎の狩りであった。鴨、雁、シギ、ウズラも沢山撃ち落とした。これらは後に食卓に上った。

 事前に父は、カムチャツカ行きを念頭に十五歳の兄には米国製四十四口径の十一連発ウィンチェスター銃と弾薬二百発を、九歳の弟には子供用の小さい口径の日本製ベルダン銃と散弾及び銃弾を買い与えた。何れも狩りで使用するためである。滞在中の兄弟は釣り、狩り三昧の毎日を送る。両方とも次第に腕が上がって行く。楽しくも危険な時間であった。時折、この地の厳しい自然が顔を覗かせる。突然の濃霧と降雨。油断をすると、アブ、ブヨ、蚊の大群が襲って来た。

 文中では、透き間もない程に砂地の川底を埋め尽くした紅鮭の川の遡上の場景が圧巻だ。父親と父の知人である先住民猟師が同行した熊猟の描写も秀逸である。カヌーを使って湿地帯へと静かに漕いで行く。鮭を食べに来た熊を狙うのである。親熊に先ず一斉射撃し、仕留めたことを確認してから子熊二匹も撃った。眼前に倒れた三体を前にして、少年は憐憫の情を催す。撃たれた熊は毛皮を剥がれた後、舌と後足の足の裏を切り取られ、肝臓、心臓、胆嚢も抉り出された。ロシア人は食べないが、先住民は好んで熊の肉を食べる。特に、足の裏は美味なるものとして珍重される。胆は薬剤として高価に売れた。

 

 この本は、今年一月に発刊されるまで数奇な運命を辿った。聖ヨセフ学院(二〇〇〇年に廃校)に通っていたジョルジュ・クラマレンコは、水産業投資家であった父親のゲ・ア・クラマレンコの勧めもあって、カムチャツカ行きに際して旅日記を付けることにした。現地では、父の知人であるアルセーニエフから日記への助言も得ている。アルセーニエフは探検家で、黒澤明監督の映画『デルス・ウザーラ』(一九七五年)の原作『デルス・ウザーラ -ウスリー地方探検記- 』を書いた作家でもあった。

 文頭に「微妙な年」と書いたが、一九一八年はロシア革命勃発の翌年である。この年、日露戦争終結からは十三年経っていたが、日露とも参加した第一次世界大戦は未だ終結していなかった。父親は息子の書いた日記に手を入れた上で、モスクワ等ロシア内での出版は無理と考え、ロシア文のまま四年遅れでベルリンにて出版した。

 クラマレンコ父子が訪ねたアルフレット・ジョージ・デンビーは、一族で水産会社のデンビー商会を経営していた。デンビー商会は北洋漁業の先駆者として当時は北洋漁業の中心地だった函館に事務所を構え、ウスチ・カムチャツクに工場を設営して鮭缶詰を製造していた。しかし、次第に革命の影響が及んで来ると、デンビー商会ウスチ・カムチャツク工場は三菱資本の北洋漁業株式会社の手に渡り、後にその北洋漁業株式会社も合併して、最終的に日魯漁業株式会社ウスチ・カムチャツク工場となった。

 翻訳者の松本高太郎はハリストス正教会の司祭であったが、ロシア語に極めて堪能で、多くの宗教書を邦訳する一方、文学の邦訳にも手を染めていた。ゲ・ア・クラマレンコは高太郎とも知合いだったようで、高太郎が訳したジョルジュ・クラマレンコの旅日記とアルセーニエフの探検記は、このルートで初めて日本に入ったと想像される。これらは出版の翌年、富山県の地方新聞「高岡新報」(現在の北日本新聞に合流)に邦訳連載された。

 ところで、編集者の今井昌雄氏にとって、松本高太郎は母方の祖父に当たるそうである。今井氏は高太郎の翻訳の労作を現代に紹介するべく、二〇〇三年からインターネット上に「司祭の本棚」というホームページを開設されている。そして今回、それらの訳業を順次書籍で復刻しようと計画され、その手始めの第一冊が本書となった。本書には新聞連載文を書籍にする段階で、現代かな遣いに改めるなどの改訂が行われている。また、市立函館博物館等が所蔵する当時の参考写真も多数追加転載された。

 今井氏は二〇〇三年まで明治大学職員で、図書館勤務も長かった方である。現在第二段として、先に述べたアルセーニエフ『デルス・ウザーラ -ウスリー地方探検記- 』を続いて上梓出来るよう再編集中と聞く。

 

溝上憲文『非情の常時リストラ』文春新書

2013年(多田統一)

 

 希望退職のような一時的なリストラではなく、「常時リストラ」の時代がやってきた。しかも、採用選別に始まり、入社後の給与や昇進に至るまで、ごく一握りの社員だけが恩恵に浴する選別主義が強化されている。安倍政権が推し進めようとしている解雇規制緩和の動きとも連動しているように思えてならない。もはや、社員はコストでしかないのか! 働くとはどういうことかについて考えさせられる本である。

本書は、次の5つの章で構成されている。

 

    はじめに

第1章  「常時リストラ」時代に突入

第2章  学歴はどこまで有効か

第3章  富裕社員と貧困社員

第4章  選別される社員

第5章  解雇規制緩和への流れ

あとがき

 

 第1章では、「常時リストラ」が密かに進んでいる現状を紹介している。この手法は、外資系だけでなく、今後の日本企業の主流になっていくことが予想される。管理職に限らない。入社まもない若い社員も、肝に銘じる必要がある。社員をコストとしか見ていない企業経営者、そして何よりも株主(=投資家)の存在を考えなければならない。

 第2章では、新卒一括採用方式の崩壊、ハードルが上げられた新卒即戦力人材、変わる大学の教育内容などについて述べている。企業活動のグローバル化の中で、国境を越えたコミュニケーション能力、異文化受容能力がいっそう求められる時代になったことを、いくつかの大学を例に紹介している。

第3章では、下がり続ける給与、資格給から給与を下

げるための役割給の導入について述べている。給与格差が拡大し、富裕社員と貧困社員という所得の階層化が進み、日本は欧米型の格差社会に突き進んでいくことが懸念される。

第4章では、深刻なポスト不足、激増する無役社員、

配置転換、グローバル賃金制度などについて述べている。日本の企業も、グローバル人材の育成が急務となっており、現地法人の外国人社員も含めた人事制度の統一に着手している。削減のターゲットになるのは、日本国内しか移動できないナショナル社員である。日本企業の社員であっても、世界戦略に基づいて、予期せぬ悲哀を味わうことになるのかもしれない。

第5章では、解雇規制緩和に向けて着々と時代は動い

ており、アメリカ流のドラスチックな仕組みが導入されてくることを予見している。外資系企業の団体が日本政府に解雇規制緩和を求めてきており、日本独自の雇用慣行の時代は終焉を迎えつつある。

著者は、締め括っている。

 

自分の人生を切り開くのは会社でもなければ経営者でもない。何かを実現したい、何かになりたいと思う自分しかいない。その覚悟を持つことがいま最も求められているのだ。

 

本書は労働問題についてまとめたものであるが、経済、

社会、法律、教育など、複合的な視点からの論及に努めている。何よりも、その裏付けとなる取材力に圧倒される。本書を通して、私自身もキャリア教育について考える材料やヒントが得られたことは幸いであった。ぜひ、一読をお薦めしたい。

著者は、1958年鹿児島県生まれ。明治大学政治経

済学部卒業。人事、雇用、賃金、年金、採用問題に詳しいジャーナリスト。

 

鳥塚亮『ローカル線で地域を元気にする方法』晶文社

2013年(多田統一)

 

廃止寸前の赤字ローカル線を生き返らせた男がいる。千葉県は房総半島を東西に走るいすみ鉄道の公募社長として着任した鳥塚亮である。英国航空の運行部長の職を捨て、49歳で小さな鉄道会社に転職した彼は、次々と斬新なアイデアで経営を立て直し、全国に知られる路線に育て上げた。その経営哲学を見て行きたい。

 本書は、次の5つの章で構成されている。

 

まえがき

第1章  いすみ鉄道は「乗らなくてもよい」鉄道です

第2章  ローカル線で地域を元気にする方法

第3章  いすみ鉄道式昭和流ビジネス論

第4章  空と陸ではこうもちがう

第5章  ムーミン谷から世間を見れば

あとがき

 

 いすみ鉄道は、地域密着型の路線としてその役割を果たしてきた。昭和63年に旧国鉄木原線を引き継ぎ、第3セクターが運営するようになるが、苦しい経営を続けてきた。まず鳥塚氏がやったことは、「乗らなくてもよい」鉄道の提唱である。東京に近く、自然が残る地域の特色を生かした。「ハードルは下げるが間口は広げず」をモットーに、あえて鉄道ファンにターゲットを絞り込んだことが功を奏したといえよう。

 社員の掌握力もさすがである。全社員を平等に扱い、やる気を起こさせることは、外資系企業での勤務経験が生きているのであろう。乗客や地域の人たちとの関係は、なおさらのことである。父親が房総の出身ということもあるが、東京生まれの筆者が、地域にとけ込むにはそれ相応の努力があったに違いない。ローカル鉄道の経営は、まさに地域の人たちの支えが必要なのである。

 一度は空に身を置いた経験も大きい。進んだサービスを持つ航空業界の視点を、鉄道にも取り入れたようだ。ひとりひとりの乗客を大切にすること、すなわち常連の客を増やしていくことこそが大切なのである。この「集団(マス)」から「個」へのサービスの転換は、観光や交通に限らず、教育や医療などの分野でも浸透しつつある。

 全体を通して、鳥塚氏の経営哲学の根幹は、鉄道好きであること、そして何よりも人が好きであることにあると思われる。ローカル線を元気にすることは、それに関わる人々を元気にすることであるのだから。

 著者は、1960年東京都生まれ。明治大学商学部卒業。学生時代の交通論の講義内容が、いま役立っているそうである。本書は、ネット上に公開されている「いすみ鉄道 社長ブログ」に加筆、再構成されて上梓された。

ところで、本書に掲載されているいすみ鉄道を走るディーゼル気動車キハ52の写真は、背景の景色を含めて、私の郷里徳島に実によく似ている。安房と阿波、他人とは思われない気持ちで本書を一気に読み終えた。

 

菊池清麿『評伝 服部良一 日本ジャズ&ポップス史』

彩流社 2013年(多田統一)

 

本書の構成は、次の通りである。

 

Ⅰ 大阪時代―道頓堀ジャズ

1 苦難の少年時代

2 日本のジャズの創成

3 日本のジャズエイジ

Ⅱ 苦闘の時代

1 昭和のジャズエイジ

2 タイヘイレコード

3 モダニズムとポピュラー音楽の隆盛

Ⅲ ブルースからブギへ

1 コロンビアレコード

2 別れのブルース

3 スウィングジャズ時代の到来

4 映画主題歌黄金時代と服部メロディー

5 夜来香ラプソディー

Ⅳ ブギウギの熱狂

1 平和のブギの叫び

2 戦後のジャズ・ポップス界

3 服部良一の転機

4 永遠の音楽人生

エピローグ 遥かなる山脈

服部良一拾遺

服部良一 ディスコグラフィー

服部良一 年譜

 

 服部良一は、大阪道頓堀でジャズの感性を磨いた。明治40年に大阪で生まれた。父は砲兵工廠の臨時工であったが、温厚で浪曲が好きであった。母も民謡が好きだった。良一は、このような両親の影響を受けながら育った。

 日本におけるジャズの先駆は、明治45年東洋汽船の地洋丸に乗り込んだ5人の青年たちによって始まる。服部はその一人である田中平三郎から、出雲屋少年音楽隊でヴァイオリンを習った。道頓堀の出雲屋で結成されたこの音楽隊に一番の成績で入り、これが服部の音楽人生のスタートとなる。

 しかし、ジャズの中心は、外資系レコード産業の進出と相まって、大阪から東京に移っていった。服部は、しばらく大阪を拠点にマイナーレコードの作曲の仕事をしていたが、ディック・ミネの助言もあって東京に出ることになる。

 上京した服部は、ダンスホールのサックス奏者をしたり、マイナーレコードの音楽監督をしながら、音楽理論の勉強を続けた。服部にコロンビアへの移籍の話が来たのは、昭和10年夏のことであった。翌年、その入社作品

〃おしゃれ娘〃が、淡谷のり子の歌唱で吹込まれた。当時は、流行歌・歌謡曲が花開き、作曲家では古賀政男、歌手では藤山一郎や東海林太郎の時代であった。服部のスウィングジャズはヒットになりにくかった。

 ところが、〃別れのブルース〃が満州で火がつき、上海を経由して神戸・横浜に入って来る。このヒットで、淡谷のり子はブルースの魂を歌うため、ソプラノを捨てアルトに転向する。著者は、「服部良一は、すでに戦前においてワールドミュージック的なリズムに着目した日本のポップスの創成者である」と述べている。

 戦前、服部はレコードのコロンビアをホームグランドに、松竹のステージや東宝の映画音楽にも携わった。大陸への慰問旅行を通して、中国メロディーにも興味を持った。

 第二次世界大戦によって国民生活は破壊されたが、服部は昭和21年の春から音楽活動を再開した。昭和22年には、ブギが爆発的に流行する。服部が作曲し、笠置シズ子が歌う〃東京ブギウギ〃である。同じく服部作曲で高峰秀子の歌う〃銀座カンカン娘〃もヒットする。

 昭和も三十年代に入ると、歌謡界は哀調趣味を基底に置く演歌路線へ切り替わり、服部は校歌・社歌の創作や香港の映画音楽に熱意を注ぐようになる。

 低迷していた日本のジャズ界に大きな影響を与えたのは、ビートルズの来日である。服部は、新たな音楽のコンセプトの構築を目指し、演奏活動に精力を注ぐ。服部は、音楽の国際交流という夢を持っていた。これが、東京音楽祭となって実現した。昭和47年5月には、フリオ・イグレシアス、リック・スプリングフィールドなどの海外アーティストが来日している。

 著者は、エピローグで服部良一について次のように述べている。「服部は西洋音楽技法と日本情緒を音楽創造の冒険のテーマにしながら、国民愛唱歌を樹立したのである。それはジャズに始まり、ブルース、ブギを追求する一方でシンフォニックを最後まで持ち続けていた所産でもあった。」服部が作曲した〃青い山脈〃は、梅田から京都に向かうすし詰めの列車の中で、六甲山脈をイメージして浮かんだメロディーであるが、昭和の日本人の愛唱歌となっている。服部は、日本のジャズ史を歩んだポップスの創始者と言われているが、ブルース歌謡や中国メロディー、それに日本人が好んで歌う歌謡曲も残している。

 著者のこの評伝には、膨大な資料の裏付けがある。音楽だけでなく、音楽産業や社会的背景に至るまで、実にきめ細かな記述がされている。音楽が専門でない者に対して、音楽のジャンルや演奏形態などが、分かりやすく解説されている。ジャズ発祥の地・大阪の地理や歴史的背景、戦時中に置かれた文化的状況なども興味深い。

 学生時代、私は服部良一宅のすぐ近所に住んでいたことがある。見かけたことはなかったが、そのことが友だちへの自慢であった。私にとっても、服部良一は偉大な音楽家の一人である。

 

※本誌前号は菊池清麿著『評伝 古関裕而 国民音楽樹立への途』を書評に取り上げました。今号の著作は、それに続く同じ版元からの評伝シリーズとなります。



「駿河台文芸 第25号」平成25年(2013615

進一男『詩集 その人のこと』沖積舎

2012年(多田統一)

 

 著者は、ずっとイエズスのことや聖書について考えたことなどを、詩作品に書きとめてきた。

既刊の詩集に『ジーザス彷徨』があるが、今回の詩集は、その詩集に掲載されている作品以外のものを抜粋してまとめたものである。今回の詩集に収められている詩作品から、その一、二を選ぶと、「その人が」と「その人と」ではないだろうか。この二作品は、平成22年1月に発行された詩集『小さな私の上の小さな星たち』に発表されたものである。著者と「その人」との関わりがよく表れた作品といえよう。

   その人が

一冊の書物となって

  その人が私の中に住みついたのは

  その人の仲間たちが迫害されていた時だ

  全く関係ない私の中に

  何故に入り込んできたのか

  何だかよく分からぬままに一緒にいるが

  今は時々 その人の歩いた丘への道を

  私も歩いてみたい気になることがあるのだ

 

  その人と

 

  私はあなたに向き合っています

  随分永い時間 向き合ってきました

  遠くにいるあなたは定かでなく

  近くのあなたは目の前に蔽い被さるようで

  何が何やらさっぱり分からないのです

  あなたのことを少しでも知りたいものと

  私はあなたにこうして向き合っているのです

 

 この他、「その人」(初出・詩集『歪んだ自画像』平成4年5月)、「その人は」(初出・詩集『聖ピエロあるいは黄昏の道化たち』平成14年3月)、「その人を」(初出・詩集『素描もしくは断片による言葉で書かれたもの』平成18年1月)という作品も収められている。その人が「私の中に住みついた」、その人と「私は向き合っている」、その人は「彼の中に住み始めていた」、その人を「私が信じる」とあり、著者がイエズスをどのように思ってきたかが作品としてまとめられている。

著者はあとがきで、次のように述べている。

「今後イエズスのこと、また聖書のことを自分がどのように考えていくかはともあれ、これまでどのように考えてきたかを、一応まとめて考えてみたかったのである。何はともあれ、そこには過去の自分探しのような多少の愉しみがないではない。」

 著者とキリスト教との関わりは、七十年近くになる。初めて聖書に接したのは昭和17年、日米開戦の翌年のことである。防空演習が行われ、カトリック排斥運動の激しかった頃である。それ以来、聖書は著者の人生にとって大切な一冊となった。著者がこれまで刊行してきた五十冊余の詩集の多くは、イエズスに関するものである。

今回の詩集収載作品「村はずれ」(初出・詩集『かつて光があった』平成23年2月)に、「もしかして あの人に会えるのではないか」という一行がある。これは、長年著者を支えてきた厚い思いであるし、著者が今後も詩を書き続けていく信念のように思えてならない。

 

猪瀬直樹『天皇の影法師』中公文庫

2012年(伊藤文隆)

 

われわれが普段忘れていること、もともと関心のなかったことが、刻明に描かれている。

明治、大正、昭和、平成――と、日本独特の年号、また、天皇の葬儀のときに棺を載せる車を誰が担ぐか、そのことをよく調べて書かれている。

 

 天皇崩御の朝に――スクープの顛末

 柩をかつぐ――八瀬童子の六百年

 元号に賭ける――鷗外の執着と増蔵の死

 恩赦のいたずら――最後のクーデター

 

本書の部立は以上からなるが、読み進むうちに、各章とも読み捨てがたい緊張を覚える。

 本書は著者の処女作らしいが、その粘り強さ、探求心、取材力、どれをとっても一流である。

 全体がわが国の天皇の逝去にまつわる話なので、一部の読者にとって、後味が良くないかもしれない。しかし、先入感を持つ必要はない。天皇制はこの国に厳然と存在するのだし、どのような出版物も許容され、評価される表現の自由もまた厳然と存在するのだから。

 各章のデジメを一部掲げてみる。「柩をかつぐ――八瀬童子の六百年」では、天皇崩御と、大葬で棺を担ぐ京都郊外の大原三千院に近い八瀬村のことが詳しく描かれている。

「元号に賭ける――鷗外の執着と増蔵の死」では、かつて文豪森鴎外はおのれの死期が近づくと、歴代の元号、また未来の元号がどうあるべきかにこだわった。日本国の将来を思ってのことと思われる。

元号については、次のことを心得て命名すべきと、時の宮内大臣から関係先に伝えられた。

 

一、元号は、本邦はもとより言うを俟たず。支那、朝鮮、南詔等の年号、その帝王、后妃、人臣の諡号、名字及び宮殿、土地の名称等と重複せざるものなるべきこと。

一、元号は、国家の一大理想を表徴するに足るものとなるべきこと。

一、元号は、古典に出拠を有し、その字面は雅馴にして、その意義は深長なるべきこと。

一、元号は、称呼上、音諧調和を要すべきこと。

一、元号は、その字面簡単平易なるべきこと。

 

大正天皇崩御――新時代の元号をめぐって新聞各社が特ダネを競う中、東京日日新聞がいち早く報じた元号は〃光文〃であった。「元号光文事件」である。

巻末の帯の文が、本書の全容を表している。世紀の大誤報「元号光文事件」の真相とは? そして天皇の柩をかつぐ伝統を持つ八瀬童子とは何者か? 森鷗外が死の直前まで書き続けた「元号考」に隠された本意とは?

 この著書は、天皇崩御から始まる知られざるドラマを克明に追った、スリリングなノンフイクションである! 

 著者は、明治大学大学院政治経済学研究科修士課程修了。政治思想史の故・橋川文三教授門下。現在、東京都知事としてオリンピック東京大会招致等に奮闘中。

 

野地秩嘉 文・構成『高倉健インタヴューズ』

プレジデント社 2012年(大西竹二郎)

 

 帯に、「ほとんど取材を受けたことのない高倉健が認めた貴重なインタヴュー集」と記されている。また、「日本最後の映画俳優を追い続けた著者の集大成が一冊に。健さんの仕事観、人生観、好きな映画まですべてがわかるインタヴュー集」とも紹介されている。

 そのインタヴューは、一部を除いて、一九九五年から二〇一一年までの撮影現場で行われたとあるので、平成の時代に入ってからのものだ。つまり、東映株式会社を退社後、独立して、各社の映画作品に出演してからのインタヴュー集ということになる。

 従って、本著で触れられている出演作品は、仁侠映画後の、「君よ憤怒の河を渡れ」「八甲田山」「幸福の黄色いハンカチ」「冬の華」「居酒屋兆治」「駅ステーション」「南極物語」「夜叉」「あ・うん」「四十七人の刺客」「鉄道員(ぽっぽや)」「ホタル」「単騎千里を走る」「あなたへ」など、近年のものが中心になっている。

 構成は、高倉健本人のインタヴューの他に、高倉健の出演作品を最も多く手掛けられた降旗康男監督、元東映社長の高岩淡、カメラマンの木村大作、録音技師の紅谷愃一、後輩の俳優小林稔侍など、スタッフ・キャストの話も織り込み、要所を著者が纏めるかたちでつくられている。

 近年の作品中心のインタヴュー集なので、東映時代の「網走番外地」「日本侠客伝」「昭和残侠伝」シリーズなどの健さんファンには、少々、当て外れかもしれない。しかし、その分、熟年に達してからの俳優高倉健の世界が語られている。

 高倉健は、一九三一年(昭和六年)、福岡県生まれ、明治大学商学部に進学、卒業後、東映の第二期ニューフェースに合格する。

 評者も同年生まれで、同大学の文学部へ進学、卒業後、同じ東映の助監督見習いに就いた。同期に当たるのだが、大学のキャンパスでも、撮影所でも顔を合わせたことはない。

 俳優の卵とはいえ、当時のニューフェースは、興業映画部門でのドル箱的存在で、アッという間に孵化して、高倉健の芸名は知れ渡っていった。

 評者が就いた職場は、本社内の短編映画部門で、そこは、興業映画部門の上がりで、なんとか賄ってもらっているような小さな制作部門だったので、劇場用長編劇映画をつくる撮影所のスタッフ・キャストには頭が上がらず、常に引け目を感じていた。

 高倉健の芸名は、評者が助監督見習いで地を這いずりまわっていたころには、すでに、スター街道をまっしぐら…雲の上の存在になっていった。

 スターとなった高倉健だが、本社内でも撮影所内でも、彼のことを悪く言う人には出会わなかった。陰口も耳にしていない。本著の「映画俳優の本当の生活」の項で、高倉健の人柄について、「礼儀正しい」「スターとしてえらぶらない」とあるが、お世辞での記述ではなさそうだ。

 スターのイメージというものは、脚本の役柄、演出家を始め、スタッフたちの総合力によって、撮影現場で育てられ、つくられていく。映画が総合芸術といわれるゆえんでもある。ましてや、シリーズで、主役を連続して演じていけば、つくられたスターのイメージは定着し、固定されていく。演技上の多少の優劣などはあまり関係ない。カットを割って撮っていく作業のときにはわからないのだが、編集して、フイルムを一本に繋いで、通しで見ると、その俳優さんから、なんとも言えない味が出ていたりすることがある。それは、計算してそうなるものではなく、本人にもよくわからない、持って生まれたもののようで、天性ともいうべきもののようだ。女優さんでも、華のある人とない人とがいる。天性にめぐまれた俳優さんは、いつの間にか、スターと呼ばれるようになっていったりする。本著「スターと名優の違い」の項に、そのことに類する記述があり、興味深く読ませていただいた。

 スターと呼ばれるようになると私生活のことが、とかく詮索されがちだ。スクリーンのイメージと私生活とは違いがあって当たり前だ。私生活を覗き見して、スクリーン上の夢を壊すようなことは、まさに、愚の骨頂といえる。

 高倉健は、私生活についてはほとんど語っていないそうだが、本著では、後半の箇所で、離婚された今は亡き江利チエミとのことに触れている。東映の短編映画部門では、離婚後のチエミさんに五十分物のドラマに主演してもらっている。亡くなられる数か月前のことだ。その後の他社出演がなければ、遺作に当たるのではないだろうか。

 「日本最後の映画俳優高倉健…」という文言には、ちょっと引っ掛かり、いろいろな想いが駆け巡った。

 しかし、「高倉健その演技の特徴」の項で、「脚本えらびを重視している。気に入った脚本でないと簡単には出演しない、〃これならばやる〃という映画がくるまで、じっと待っている」という。そのような生き方が出来る俳優さんは、今日では数少ない。多くの俳優さん、タレントさんは、声が掛かればどんな役でも引き受ける。あるいは、売り込みに努めている。そうしないければ本人の生活も事務所も成り立たない。役者として生き残れないかもしれないのが実情だ。

 じっと仕事を待つことの出来る俳優…そういう意味では、「日本最後の俳優高倉健…」と冠したことも納得出来る。同時に、旧き良き映画の時代が遠のきつつあることも改めて実感させられた。

 

塩路一郎『日産自動車の盛衰―自動車労連会長の証言―』

緑風出版 2012年(長瀧孝仁)

 

 塩路一郎(一九二七~二〇一三)は、神田生まれのちゃきちゃきの江戸っ子だった。近くの第一東京市立中学校(現都立九段高校)、明治大学法学部に通った。江戸っ子だから、喧嘩好きだったのかも知れない。一方で、海軍機関学校に学んだサムライでもあった。法学部に学んで法律で武装すると、特攻隊長として戦後の激しい労働争議の修羅場へ突入して行った。

 その後の戦果に目を見張るものがあったのだろう。私が法学部学生の時、著者は既に所属する日産自動車だけでなく、自動車業界、労働界(同盟)、政界(民社党)に隠然たる影響力を持っていた。私は当時、三木武夫(一九〇七~一九八八)元首相、富塚三夫(一九二九~)総評事務局長に並ぶ大物ОBと認識していた。

 そして、私が三十歳を過ぎた頃、新聞・雑誌業界挙げての「塩路一郎バッシング」が始まった。「塩路天皇」「労働貴族」等のレッテル貼りの下、有ること無いこと書き立てて私生活まで執拗に暴いたのである。この本によれば、英国進出計画を巡って対立した石原俊(一九一二~二〇〇三)社長の指示の下、日産自動車広報室主導で意図的な情報が流されたようである。講談社、新潮社、日本経済新聞社の媒体が関与した。それは、無防備な著者の手足を拘束したまま市中引き回しの刑に処したようなものだった。公衆面前の私刑(リンチ)であった。

 著者は役員等全ての職を辞して、四半世紀の蟄居生活に入る。一切の反論もせず訴訟も起こさず、この間沈黙を守った。著者によれば、「日産自動車のブランドイメージが傷付くことを恐れた」のだった。そして、昨夏この著書を著し、今年二月一日食道癌のため逝ったのである。享年八十六だった。

 著者は毎日詳細に日記を付けていたのだろうし、メモ魔でもあった。500頁近いこの分厚い著作を繙くと、全てのバッシング記事に対して証拠を挙げて、当時の状況を説明しながら事細かに反論が加えられている。それは、他人には関係のない余りに個別的な事柄なのだが、……。

著者は不遇な晩年に自らの生涯を振り返り、四人の恩人に充分に報えなかったと悔いている。ここでは、著者とこれら恩人との関係を説明することにより、著者の労働組合人生と問題のバッシングの実相をなぞって、この著作の書評に代えることとする。

       ○

一、川又克二日産自動車社長

著者は、飛び級して旧制中学四年修了で入学した海軍機関学校が敗戦で消滅したため、焼け野原の東京に投げ出された。終戦直後は辛酸をなめ続ける。中学卒業の肩書で、日本油脂王子工場の倉庫番をしていた。ここで共産党系組合のオルグを受け、また彼らがレッドパージされるのも目の当たりにした。また、学歴による賃金格差に矛盾も感じていた。その時著者が得た結論は一つ。階級闘争は決して労働者の生活を豊かにしないということだった。

著者は倉庫番をしながら、明治大学の夜間部に通っていた。途中、昼間部への編入試験を受けて合格、卒業後は当時国内最大の自動車メーカーだった日産自動車に入社した。そして、共産党が主流の第一組合に対する労使協調路線の同盟系第二組合の立ち上げで頭角を現す。臨時工の正社員化制度を創設するなどして、社内を纏め上げたのである。

一方、川又克二(一九〇五~一九八六)は後の社長含みで日本興業銀行から落下傘候補として常務に着任した。日産上層部が戦争協力の責任を問われ、パージされたからである。しかし、川又は日産自動車には不案内で基盤もなかった。

そんな時、塩路一郎は頼りになる男だった。経営側の意向に沿って、組合と社内を纏めてくれたからである。川又は著者を寵愛し、川又の経営基盤が固まるに連れ、著者の権力も増して行った。そして、著者の力量を決定付けたのが、難航したプリンス自動車との合併話であった。著者が労組レベルで話を纏めてしまい、大きく進展させたからである。

著者は後に労使代表による経営協議会という制度を創設、労働組合の経営参加を実現した。しかし、組合が反対すると経営者は何も決定出来ない事態に陥り、権力の二重構造と社外から批判された。

 

二、下請け部品メーカー労働組合員の人々

 著者が社内で強大な権力を持ち得たのは、著者が組織した労組形態の独創性にある。会長を務めた自動車労連は、日産自動車とその関連会社労働組合の連合体であった。「自動車メーカー、販売会社、下請け部品メーカーの労働組合が連帯すれば、日産自動車本体への交渉力はより強大になる」というのが、著者の考えであった。

 実際著者は、この連帯により労組主導による労働生産性の向上に成功しており、部品メーカーの労働条件引き上げも実現した。

コストカッターとの異名を持つカルロス・ゴーン現社長の下では皺寄せは弱い所へ凝縮し、日産の下請メーカーの労働条件は悪くなるばかりである。こんな状況下、不遇を託つ老いの日々を送る著者のもとへ、かつて連帯した下請け労組の幹部達が遣って来た。栄光の過去を懐かしんでくれた時、著者は「あなた方が連帯してくれたからこそ、自分は強く出ることが出来た」と返し、下請け労組の人々に感謝することを忘れていないのである。

 

三、ウォルター・ルーサー

全米自動車労働組合会長

 米国は戦後政策の一環として、世界各国の将来のリーダー候補たちを自国へ招いて大学で学ばせた。一九五九年九月、米国大使館から自動車労連へ「米国長期研修生」一名を募集するとの案内が来た。この対外政策に乗る形で、著者はボストンにあるハーバード・ビジネス・スクールで米国の労働組合幹部九人と机を並べて学習することになる。内容は、UAW(全米自動車労組)闘いの歴史、フォード争議ケーススタディー、リーダー論など。土、日曜日も講義というハード・スケジュールだった。半年という短い期間ではあったが、著者は英和辞典と首っ引きで寸暇を惜しんで深夜まで勉強した。そしてこの後、自ら日産のブルーバードを運転して広大な大陸を移動し、米国全土の主な自動車工場と労働組合事務所を訪ねている。

著者にとって、講義に遣って来たウォルター・ルーサーの知己を得たことは大きかった。米国、西ドイツほか、世界の著名な労働運動家を紹介されたからである。この人脈が、十年後大きく作用することになる。一九六九年六月、著者はILО(国際労働機関)の労働者側理事に立候補して当選、ジュネーヴ暮らしが始まった。

 

四、藤原弘達明治大学政治経済学部教授

先に述べたバッシングでレッテル貼りされた「塩路天皇」「労働貴族」の意味は、次のものである。著者は、日産自動車取締役に割り当てられた労組出身者枠や三年ごとに改選される自動車総連推薦の参議院議員候補一名を自ら行使せず、腹心を送り込んで長らく実質的労働組合最高実力者の地位を維持した。このキングメーカー的な遣り方が「天皇」と揶揄された。

また、この著作には組合費からの給与が幾らとも書かれていないし、日産自動車からの給与、賞与があったのかも不明だが、著者の年収が日産自動車取締役や参議院議員を上回っていたことはほぼ確実である。実際ヨットハーバーには所有するクルーザーが繋留されており、休日には沖へと航海するのが日課であった。著者は青春時代を海軍機関学校で過ごしており、海と船には人一倍こだわりがあった。

この著作にも、政財界人がよく使う料亭で会合を持ち、そのあと銀座の高級クラブへ繰り出す様子が描かれている。これらの移動には、運転手付きの組合所有の黒塗りの大型車が使われた。車種はプレジデントで、当時日産がVIP送迎用に生産していた高級車である。この辺りを「貴族」と諷刺されたのである。

 「労組幹部は清貧に生きなければならない」という価値観の下、世間を敵に回して四面楚歌となった著者に、ある日講談社の「週刊現代」から藤原弘達(一九二一~一九九九)と対談しないかという話が来た。藤原は既にテレビ番組を何本か持っていた当代の人気政治評論家であったが、著者には法学部学生時代に政治学を教わった恩師なのである。藤原は対談記事の中で、「いま世論の袋叩きに遇っている本人と会ってみて、認識を新たにした。この人は、働く者の連帯で社会問題を克服しようという役割を担っている」と、批判一色のマスコミの中で孤軍奮闘、著者擁護の論陣を張ってくれた。地獄で仏、著者は師弟愛を感じて感涙にむせんだ。藤原は独自の政治的勘から、突然起こったバッシングの不自然さに、如何わしさときな臭さを感じ取っていたのではないか。

しかし、この後収まるどころかバッシングは尚一層エスカレートした。この本によれば、日産自動車は講談社雑誌全体への広告掲載額を倍増させたのである。日産広報室からは、著者のスケジュールも漏れ出ていた。料亭の玄関脇や銀座の露地やクルーザーの中にまで著者が赴くところ何処にでも、当時隆盛だった写真週刊誌の契約カメラマンが潜んでいた。著者は様々な姿態や表情を盗撮された。そして、これら写真に面白おかしいタイトルが付されて雑誌掲載された。……

著者には、直面する事態の本質が理解出来た。謀略の黒幕が誰かも分かっていた。自ら三十三年の労組生活に幕を引くことにした。労働法と組合規則に則ってトップの座にあったが故、組合員の支持がなくなれば失脚は早いのである。そして、以後復権が叶うことはなかった。

石原社長が強行した借入金に依存する英国進出は、直に頓挫した。著者が指摘した通り、無謀な計画だったのである。しかし、宿敵が自滅したからと言って、著者の憂いが晴れることはなかった。かつてトヨタのライバルだった日産は以後業績が低迷、著者が一生を賭した労働条件も悪くなる一方であった。周知のように、日産自動車は四兆円の有利子負債を抱えて経営破綻、フランスの国営企業ルノーの傘下に入るのである。この間、著者は何度思ったことだろうか。「いま自分が労組内におれば、……」「もっと影響力が残っていれば、……」と。

最晩年には追い撃ちを掛けるように、一層の憂鬱が待ち構えていた。自動車総連にはUAWから「日本車輸出を自粛するように」と再三依頼が来ていた。著者は米国の労働運動を手本とし、日本の自動車産業労働者の賃金、年金を米国、ドイツ水準に近付けることを長らく目標として来た。その日本の自動車産業のトヨタ、ホンダ、ニッサンが今や米国ビッグスリーを苦しめ、米国自動車産業労働者の生活を脅かし出したのである。

自動車総連はUAWの要請を一切無視した。この時もし著者が当事者だったならば、別の選択肢もあり得たのだろうか? 二〇〇九年六月、前の年に創業百年を迎えたGMは、連邦破産法第十一章の適用を申請して経営破綻した。

 

菊池清麿『評伝 古関裕而 国民音楽樹立への途』

彩流社 2012年(多田統一)

 

本書の構成は、次の通りである。

 

プロローグ

第一部  故郷福島―音楽への目覚め

第二部  作曲家・古関裕而―苦闘の時代

第三部  古関裕而―哀しき名歌の時代

第四部  平和への祈り・希望・抒情と叙情

第五部  放送・舞台・映画・創作オペラの世界

エピローグ―国民音楽樹立への途

あとがき

古関裕而 ディスコグラフィー

古関裕而 年譜

 

 第一部では、国際コンクール入選の快挙までの、古関裕而の生い立ちと風土、音楽との出会いについて書かれている。古関は、明治42年福島市大町に生まれた。生家が呉服問屋で、蓄音器から流れる浪花節や近くの教会の賛美歌を聴いて育った。小学校では、音楽教育に熱心な担任の先生の影響を受けた。母が買ってくれた卓上ピアノで作曲をするようになった。商業学校に進んだが、学業より音楽に熱中した。3年の頃にはオーケストラ作品を作曲するまでになったが、音楽を愛好する英語の教師の影響を受けている。

古関メロディーの真髄は、故郷福島の美しい自然、恵まれた人間関係に、その源泉があるのであろう。著者は、詳細な資料で、そのことを裏付けている。

第二部は、国際コンクール入選によって、コロンビアに入社したが、その後の苦闘の時代を描いている。昭和5年の秋、古関は日本コロンビア専属作曲家となり、妻とともに上京した。悶々とした生活を送っていた古関が知られるようになったのは、昭和6年春のリーグ戦を前にした、早稲田大学の応援歌「紺碧の空」の作曲からである。音楽とスポーツの関係が注目される。しかし、古賀メロディーのヒットやその他の新鋭作曲家の登場で、専属契約解除の危機もあった。クラッシックに拘る古関の窮地を救ったのが、古賀政男である。この頃、古賀は、明治大学マンドリンオーケストラの指導者でもあった。後、古賀は、コロンビアからテイチクに移籍する。古関と古賀の関係は実に興味深いが、著者は多くの資料を駆使して当時の状況を再現している。古関は、コロンビアに残り、最初の大ヒット曲「船頭可愛や」、「大阪タイガースの歌(六甲おろし)」などが生まれる。しかし、時代は戦争の時代へと向かっていく。

古関のクラッシックへの拘り、江口夜詩などの新鋭作曲家の登場、コロンビアとビクターの販売競争の中で、古関自身が苦悩する姿が浮き彫りになっている。音楽産業全体の趨勢を見事に解説した、著者の力量が光る。

 第三部では、軍国歌謡という戦意高揚の音楽を作る使命が、古関の肩に覆いかぶさってくる。古関の軍国歌謡最大のヒットと言われる「暁に祈る」、土浦海軍航空隊に一日入団して作ったと言われる「若鷲の歌」など、多くの作品がある。「決戦の大空へ」の映画では、藤山一郎が「若鷲の歌」を歌っている。西條八十の作詞で、古関は、西條とともに土浦の航空隊を訪ねている。西條は、航空隊の応接室にあったポスター(軍服の七つボタン)をヒントにしたらしい。古関自身は、この時代のことについて多くは語っていないが、著者は、プロローグの中で「愛国心が当然の時代とはいえ、音楽を純粋に創作する古関にとっては、愛国の情があったとしても、それは大きな哀しみでもあり、苦悩に満ちた日々であった。」と述べている。

 音楽が、軍国主義体制に組み込まれていった暗い時代であるが、著者は、古関メロディーの国境を越えた普遍性、戦争の悲惨さを伝えるヒューマニズムを評価することで、作曲家・古関の苦悩を描いている。まさに、悲しき名歌の時代であったことが、読者に伝わってくる。

 第四部は、戦後の古関の活動が纏められている。音楽関係者に限らず、戦争のない平和な時代が、いい時代であることをつくづく考えさせられる。古関は、戦前の国民歌謡時代にできなかった音楽性のある曲作りに励んだ。クラッシックの芸術性と格調を持つ古関の音楽は、映画やラジオによって、国民の大衆歌とし展開していく。「夢淡き東京」、「バラ咲く小径」、「鐘の鳴る丘」などがある。全国高校野球大会の歌「栄冠は君に輝く」、NHKスポーツ番組のオープニング・テーマ曲「スポーツ・ショー行進曲」戦後日本の復興を担う青少年に夢と希望と力を与えた。銭湯の女湯が空っぽになったと言われるラジオドラマ「君の名は」の主題歌、健康的な青春の抒情歌謡「高原列車は行く」などは、戦後と言う時代にひとつの区切りがされようとしていた頃で、古関の豊かな芸術性に裏付けられたものである。「高原列車は行く」は、岡本敦郎の明るい歌声にマッチし、日本経済の復興、そして高度経済成長へと離陸しようとしていた時代に、受け入れられた。

 敗戦による米軍統治、そして復興へと、世相の変化の中で、いかに音楽が人々の心に大きな希望を与えたかが分かる。「歌は世に連れ-----」と言う言葉があるように、著者の豊富な資料とその詳細な分析が、そのことを物語っている。

 第五部は、ラジオからテレビの時代に移り、古関が舞台音楽やオペラの世界に傾斜していく姿を追っている。コロンビアは船村徹、遠藤実の時代になり、歌手も美空ひばりが登場する。ミュージカルの舞台へと活動の場が移った古関は、菊田一夫とコンビを組んでたくさんの作品を上演している。「舞台音楽からミュージカルへと、古関の音楽芸術が日本文化を豊かにしたといえよう。」と、著者も評価している。

 菊田一夫が演出し、芸術座初のミュージカルとして成功を収めた「マイ・フェア・レディー」(古関が編曲)、「サウンド・オブ・ミュージック」(古関が音楽監督)などは、私が小・中学生の頃で、とても親しみを感じる。

 本書には、年譜とともに、古関裕而のディスコグラフィーが掲載されている。その中に、県民歌や市民歌が多いことが分かる。古関は、郷里の風景を回想しながら作曲することが多かったと言われる。「高原列車は行く」のように、ヨーロッパのアルプスの自然をイメージしたり、古関の作風は、空間を自由に行き来できる魅力がある。ヨーロッパ音楽と日本の伝統、福島と日本各地を繋ぐ音楽性は、ただ分野が広いと言うだけでなく、古関メロディーの普遍性と生命力の高さに基づくものであろうと思われる。

 テレビで育った私にとっては、歌合戦の審査員として出演していた頃の古関裕而の、素人に対する優しい眼差しが忘れられない。やはり、「人が曲を作る」ということなのであろう。

 

 著者は、明治大学大学院政治経済学研究科修了。故・橋川文三教授、故・後藤総一郎教授門下。現在、音楽評論家。著書に『藤山一郎 歌唱の精神』『評伝古賀政男 青春よ永遠に』『流行歌手たちの戦争』『中山晋平伝』『日本流行歌変遷史』『私の青空 二村定一』『流浪の作曲家 阿部武雄』など。

明治期になって流入した西洋クラッシック音楽と日本の俗謡が相剋する姿に、西洋近代思想Vs在来封建思想との相似性を見出し、日本政治思想史の研究者から、近代日本の大衆音楽研究者へ転じたのである。学生時代は、マンドリン倶楽部で活躍。



「駿河台文芸 第24号」平成24年(2012111

米沢嘉博『戦後エロマンガ史』青林工藝舎 2010年(多田統一)

 

本書は、著者の米沢嘉博氏が、雑誌「アックス」(青林工藝舎)に連載したものを中心に纏めたもの。昨年、第24回大衆文学研究賞(大衆文化部門)を受賞している。

 著者は、1953年熊本市生まれ。明治大学工学部在学中からマンガ評論を始め、『戦後少女マンガ史』『戦後SFマンガ史』『戦後ギャグマンガ史』の三冊の単行本を出している。1980年からコミックマーケット準備会の代表にも就任し、マンガ文化への貢献度は大きい。残念ながら、2006年10月に急逝。

2008年、母校の明治大学は数十万冊に及ぶ蔵書の寄贈を受け、まんがとサブカルチャーの専門図書館・米沢嘉博記念図書館を大学付属施設として神田駿河台本部近くに開設した。

 本書の内容は、年代別に整理されている。1954年~1965年では外国漫画・大人漫画、1966年~1968年では青年劇画、1969年~1972年ではエロ劇画の誕生、1973年1974年ではエロ実話、1975年~1977年ではエロ劇画ブーム、1978年~1979年では三流劇画ブーム、1980年~1988年では美少女劇画、1989年~1991年では「有害」コミック問題などについて論評している。

 著者は「はじめに」において、次のように述べている。

「そうして、デフォルメ、風刺を身上とするマンガも、性、エロティックなものと不可分なまま歴史を創り続けてきた。大衆の支持を受けながらも、時に糾弾され、圧殺され、また甦ってくるその在りようは、時代を超えて繰り返される社会と個の戦いではないのか。」

 これは特に、「有害」コミック問題に対する論評に顕著に表れている。表現規制と作者、出版社も巻き込んだ当時の世相に、具体的な資料を提示して鋭く切り込んでいる。著者は「有害」コミック問題について、それは単なる過去の問題ではなく、児童ポルノやゲームに繋がる「愚かにも同じ形で繰り返されていく戦いの一つのエピソードでしかないのかもしれない。」と述べている。

印刷媒体から電子媒体へと、世の中が大きく変化し、また情報の国際化が進む今日において、何一つ変わらぬものは性への妄想である。それも、一部のテクノクラートではなく、一般大衆が享受できている点に救いを求めることができよう。時を超えて流れ続けるエロマンガの水脈は、けっして太陽黒点によって熱死してしまうことはないであろう。

 

石田修大『我生きてこの句を成せり ─石田波郷とその時代─』

本阿弥書店 2011年(長瀧孝仁)

 

 この著書はご子息による石田波郷論で、『わが父 波郷』『波郷の肖像』に続く三作目となる。読み終えて、一つの回答を得たように私には思えた。何故波郷が俳句界で一家を成し、激動の時代を生き抜き、数いた俊英を押さえて文学史に名を残せたのか。これらの問いに対する答である。それはこの著書のタイトルにもある通り、左記の三つの「生き方」にあったのではないか。①無欲であること。金銭醜聞や異性問題に無縁で、自ら徒党を組んで党派の争いをしなかった。②自然体で生きること。若き日に悩んでも、一度己の道を定めてからは俳句以外のことはやらなかった。③寡黙。無駄口がなく、敵も少なかった。

波郷(一九一三~一九六九)は、決して豊かでない農家の次男として愛媛県松山市に生まれた。その松山が子規、虚子、碧梧桐等、近代俳句の指導者を輩出した土地柄だった為、旧制松山中学(現・松山東高校)在学中、自然と俳句に親しんでいる。教員に俳人も多く、師には事欠かない環境であった。

昭和四(一九二九)年十月のニューヨーク株式市場の大暴落を皮切りに、在学中既に世界大恐慌が始まっていた。波郷は卒業したものの、松山市内で就職するのも困難、経済的に上の学校へ進学するのも更に困難という境遇へ追い込まれた。結果、家の畑作を手伝いながら隣村で肺結核自宅療養中の俳人・五十崎古郷の弟子となった。そして、この古郷の人脈が波郷を東京の水原秋櫻子の下へ送り届けることになる。

秋櫻子(一八九二~一九八一)は当時一大勢力を誇った虚子主宰の俳誌「ホトトギス」で四Sと並び称された有力俳人で、東大医学部血清化学教室に在籍した医師でもあった。水原家は千代田区猿楽町、三崎町で代々病院、産婆学校を経営していた。ところで、秋櫻子は元々虚子とは反りが合わなかった。次第に俳句観の違いも顕著となり、昭和六(一九三一)年自ら主宰の俳誌「馬醉木」で決別宣言して虚子に反旗を翻していた。

上京した波郷は、新興俳句運動に邁進する秋櫻子に弟子入りした。千代田区神田小川町にあった「馬醉木」発行所で働きながら、後には秋櫻子の学費援助も得て、神田駿河台の明治大学文芸科で学んでいる。波郷が大学へ進学した理由は、俳句以外の文学も学んでみたかったからである。文芸科では、久保田万太郎から俳句実作の手ほどきを受けている。また、終生の精神の師となった横光利一との出会いの場ともなった。

波郷の学生生活は、実に充実したものだった。直ぐに頭角を現して「馬醉木」三羽烏の一人に数えられ、学生のまま「馬醉木」編集長に就任。昭和十 (一九三五)年には、第一句集『石田波郷句集』も上梓している。尤も、波郷は単に「馬醉木」発行所と大学と秋櫻子邸を往復していた訳ではない。この時期の記述には、珈琲の共栄堂、ビアホール・ランチョン、神田神保町にあった神田日活館等、戦災で焼ける前の駿河台下を行き来していた様子が生き生きと描かれている。

時を置いて三羽烏と謳われた内の二人が無季俳句へと走り、「馬醉木」を去って行った。一人残された波郷は、今度は八つ年長の加藤楸邨と「馬醉木」発行所で机を並べて三年間仕事することになった。楸邨は代用教員をしたのち臨時教員養成所を出て、旧制中学で国語・漢文を教えていた。三十を過ぎて妻子ある身であった。それでも、秋櫻子の援助を得て、東京文理科大学(現・筑波大学)国文科へ入学したのである。その頃波郷は酒も覚えて着流しで夜の巷を彷徨、すっかり俳人の風格が身に付いていた。

昭和十二 (一九三七)年七月蘆溝橋事件が勃発、日中戦争、太平洋戦争へと拡大して行った。これ以後の波郷は、軍靴の足音が聞こえる時代との闘いになる。昭和十七 (一九四二) 年六月、楸邨に続き波郷も「馬醉木」を去っている。俳句も大政翼賛会傘下の日本文学報国会に組み入れられたことが理由。昭和十八 (一九四三) 年九月、召集令状が来て出征。戦地で胸膜炎等を発病、大陸と内地の陸軍病院を転院しながらの闘病中に終戦を迎える。

戦後の波郷は俳誌の復刊等に邁進するのであるが、昭和二十二 (一九四七)年九月に肺結核を再発。東京都江東区砂町に病臥。これ以後の波郷は、昭和四十四 (一九六九)年十一月に亡くなるまで、壮絶な闘病生活を続けながらの俳句活動となった。感動的なのは、昭和二十三 (一九四八)年二月に、波郷が秋櫻子の許しを得て「馬醉木」に復帰したくだりである。結社の離合集散が激しい俳句界に於いて、心温まる話なのである。

最後に、駿河台下で繰り広げられた俳句の青春時代と自分の青春を一気呵成に駆け抜けた時期の秀句を掲げておく。

 バスを待ち大路の春をうたがはず  石田波郷

 

岡本喜八『マジメとフマジメの間』ちくま文庫

2011年(大西竹二郎)

 

映画監督・岡本喜八(一九二四~二〇〇五)のエッセイ集。監督は島根県出身。代表作は、「独立愚連隊」「江分利満氏の優雅な生活」「日本のいちばん長い日」など。

武井崇は巻末の「解題」で、「岡本監督は生涯39本の映画を世に送り出したが、エッセイストとしても一流であった」と記す。このエッセイ集は第1部に「映画と戦争」のものを中心に18編、第2部に自らの「作品」にふれているもの31編、第3部に「半生記」を中心としたものを収録。内容は、身辺雑記から映画、趣味、家族のことなどに及んでいる。

 分厚い文庫本だが、一気に読み終えた。監督は寄席通いが頻繁であったようで、文章に片肘張ったところがなく、軽妙で、行間にウイットが感じられる。評者には、現場スタッフが日頃喋っているような口調に感じられ、読み易かった。

 岡本青年は昭和十六(一九四一)年、十七歳の春に上京し、明治大学専門部商科へ通ったが、その年の十二月、大東亜戦争が勃発、「自分の寿命を掴みで23歳と踏み、学問をひとまず横において、映画館通いが病みつきになった」と記す。戦況が逼迫する中、兵隊にとられる前に、映画の作り手側にまわりたいと、〃駅馬車〃のテーマ音楽に急き立てられて、東宝撮影所の助監督になる。ところが、間もなく、応徴、三鷹の中島飛行場でB29の東京初空襲の猛爆に遇う。敗色深まる中、赤紙がきて、陸軍特別甲種候補生に…豊橋予備士官学校へ分散疎開した途端、投下爆弾の爆風に叩きつけられた戦友のハラワタが飛び出すといった地獄絵を目の当たりにして、終戦の日を迎えたという。

 昭和二十(一九四五)年のその頃、評者は中学三年生…学徒動員で、成増の飛行場で塹壕掘りをしたり、東京下町の焼け跡清掃に駆り出され、「生と死」が脳裏から離れなかったのは岡本青年同様で、当時は誰もが似たり寄ったり…ゆえに、戦争についてのエッセイは共感できる。

 岡本助監督として復帰出来た東宝撮影所では、昭和二十一(一九四六)年から三年間に及ぶ〃来なかったのは軍艦だけ〃といわれる大争議が持ち上がり、その結果、スタッフをはじめとする大量の解雇者が出た。

 評者が明治大学卒業後の昭和三十一(一九五六)年、助監督見習いに就いた東映の短編映画部門は大争議でフリーになった東宝のスタッフたちが占めていた。

 東宝撮影所に残った岡本助監督は、昭和三十三(一九五八)年に監督昇進。第2部「活動屋殺すにゃ…」には、明治大学卒業の先輩監督・川島雄三との出会いのエッセイが収められている。岡本新監督の第1回作品「結婚のすべて」の試写会の時、筋萎縮症で手足が不自由な川島先輩が、岡本新監督の足にドスンとぶつかり、ドタドタと前の席に座り、観にきてくれたこと。また、昭和三十八(一九六三)年に、先輩の川島監督が山口瞳の「江分利満氏の優雅な生活」を撮る予定であったところ、急逝、その「代打」が、後輩の岡本監督にまわってきたこと…まさに奇縁。千葉泰樹監督が川島監督を「不健康優良児」、岡本監督を「健康不良児」と評したそうだが、言い得て妙。評者は、川島監督の「江分利満氏の優雅な生活」も観てみたかった。

 岡本監督の時代を振り返ってみると、昭和三十(一九五五)年の「神武景気」、三十三(一九五八)年は映画館への観客動員数史上最高といわれた年であった。翌三十四年も「岩戸景気」といわれ、映画界も戦後最も元気のある時代であった。それが、ベトナム戦争が始まり、四十年代後半にはTV普及のボディー・ブローが徐々に効いて来て、映画興業は下降線をたどる。岡本監督も、撮りたい映画のために、低予算の「ATG1千万映画」に手を出している。「テレフィーチャー」というTV用劇映画も担当し、「劇場用映画作りと変わらないのに、撮影日数が11日しかもらえない」「35ミリフィルムで撮影していたのに、16ミリになった…」等々、ぼやかれている。評者が就いた短編業界は、最初からそんな時代であった。

 後に、岡本監督ご自身のプロダクションをたち上げられたようで、「5060の頃には4年に1本というベース作品のほとんどが、あっちこっちからの借金をかき集めて作る、いわゆる自主映画…」と書かれている。

 東宝大争議でフリーとなったスタッフの多くは、当初より自主映画の制作に関わってきた。収録エッセイの最後、「終戦!そして…」に「東宝の大争議が始まり、月給が出なくなり、アメの行商をしたり、ドサ回りをしたり…」と少しはふれているが、もっと、争議について記述されたエッセイはなかったのだろうか。読んでみたく思った。

 

佐山一郎『VANから遠く離れて ─評伝石津謙介─』

岩波書店 2012年(伊藤文隆)

 

石津謙介という名前をご存知だろうか。かつて日本のファッション界をリードしたひとである。洋装を受けいれ取り込んだことで、石津は戦後最大の功労者(同著はしがきより)といわれている。このひとの評伝を、作家でジャーナリストの佐山一郎氏が描いている。その道のひとたちには伝説的な石津の一生が、330頁に亘りくわしく語り継がれている。

石津は明治四十四(一九一一)年に岡山県岡山市で生まれた。生家は三代つづく紙問屋。次男坊だが小学生当時から人目を惹くファッションに目覚め、当時としては先端的な服装で通学した。

昭和四(一九二九)年四月、明治大学専門部商科(三年制)に入学。間もなく同好の学生仲間四人とオートバイ部を創設、毎月の送金をもとでに三つ揃いのスーツでバイクにまたがり遠出を愉しむ。この年十九歳で自動車免許を取得、オートバイ部を自動車部に発展解消して二十日間の日本一周ドライブに出発する。翌年の二年進級後、こんどは航空部を創設。軍の協力を得て陸軍立川飛行場で赤トンボ(九三式練習機)を初操縦して、周囲を驚かせた。後年、明治大学にグライダーを寄付している。

昭和七(一九三二)年に大学を卒業、石津は当然のように男性ファッション界に進出した。謙介の発散する若若しさは際立ち、終生、リーダー的な役割を果たした。

 石津の終生の主張は次のものである。この持論を、機会あるごとに日本の各種ファッション雑誌で展開した。

「男の装いには信念と哲学と、そして頑とした自信がほしい。クラシックかモダンか、英国調でゆくか、ラテン調か、それともアメリカ風か、東京ファッションか。……それには、それぞれが持っている歴史と文化とそれにまつわるストーリーがあることを考え、自分のライフスタイルに合わせて選びたい。男は自分の着るものを、自分自身で判断するくらいの見識は持ちたいものである。」

石津はまた、ファッション界をリードする会社 VANも立ち上げた。後年、倒産の憂き目にも会うが、くじけることはなかった。挑戦の精神で晩年まで活躍、九十三歳の長寿を全うした。

平成十七(二〇〇五)年五月二十四日、肺炎のため死去。同年六月、母校明治大学が特別功労賞を贈呈。「石津謙介の世界 VANコレクション展」が、千代田区神田駿河台の明治大学中央図書館一階ギャラリーで開催された。

 

池田功『啄木 新しき明日の考察』新日本出版社

2012年(多田統一)

 

本書の構成は、次の通りである。

 

はじめに

1 労働と文学との葛藤―天職観の反転

2 『一握の砂』―「海」のイメージの反転と反復

3 日韓併合に抗する歌―亡国の認識

4 「時代閉塞の現状」―社会進化論の受容と批判

5 辛亥革命という希望―啄木の中国観

おわりに

 

著者は、「はじめに」において、啄木人気の高さの理由として「平易な表現による普遍的で理解されやすい内容」を挙げている。啄木の文学活動は、十六歳から二十六歳で亡くなるまでの十年間しかない。この短い期間での啄木の成長の秘密を、反転と反復のイメージを使って説き明かし、啄木が最終的に辿り着いたメッセージ「新しき明日の考察」について考えることが本書の目的である。

 第1章では、啄木の中の天職観の揺れ、実労働や生活を否定し詩人文学者になることから、生活の手段としての文学へと大きく反転したことが述べられている。

 第2章では、啄木の創作の秘密に迫っている。短期間に多くの優れた作品を生み出すことができたのは、自ら書いた過去の作品を上手に再生産しながら、次の作品に結びつけ生み出していく仕方にあると著者は述べている。

 第3章では、啄木が「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」の歌を詠んで百年、実に日韓併合から百年を経て、啄木が示したお互いを思いやる心、憐憫の情が必要であることを著者は訴えている。

 第4章では、啄木が急速に反転し、社会主義思想を受け容れていく過程について解説している。つまり、時代閉塞の現状を打破するために、社会進化論を乗り越えていく根拠をクロポトキンらに求めている。適者生存から相互扶助の考え方への反転が、啄木に理想の社会を夢見させたと著者は述べている。

 第5章では、辛亥革命に希望を見出す啄木の中国観について解説している。そのベースに、啄木の中国古典文学(特に『水滸伝』)の教養があったということは、興味深い。

 「おわりに」において、著者は、3・11の衝撃からの精神的な立ち直りや復興を、啄木の作品から探っている。「百回通信」に見られる一小農村の自覚的行動の必要性、相互扶助の大切さにそのヒントを求めている。著者は、それをボランティア活動に置き換えている。阪神・淡路大震災以降定着してきたボランティア活動に、日本の将来への明るい展望を見出すことができるとする著者の思いが伝わってくる。

 池田功氏は、明治大学政治経済学部教授、国際啄木学会副会長。同じ著者の『啄木日記を読む』新日本出版社2011年 と合わせて、一読をお薦めしたい。

 

唐十郎『わが青春浮浪伝』日本図書センター

2012年(大西竹二郎)

 

「紅テント」を仮設劇場とした唐十郎氏は、劇団「状況劇場」の主催者で、劇作家、俳優、演出家、そして芥川賞の小説家でもある。年譜によると、昭和十五 (一九四〇)年十一月、東京の下谷の生まれ。父は映画監督、プロデューサーの大鶴日出栄。前妻は女優の李麗仙、息子は俳優の大鶴義丹とある。芸能一家ならではの記載だ。

昭和三十三(一九五八)年、明治大学文学部演劇科入学。同三十七年卒とあるので、評者が十年ほど留年したならば、明治大学キャンパスで顔を合わせていたことになる。専門部文科文芸科には演劇評論家である大木直太郎先生が教鞭をとられていて、芝居狂いの同窓生たちが、教室にはあまり姿を見せないのに、学内公演が迫ると、どこからともなく現れては、連日、芝居に打ち込んでいたのが忘れられない。専門部から新制大学になり、演劇科が新設された頃の初期在校生であった唐十郎氏の学生時代についての記述が、本書に見当たらなかったのが残念だ。

 書籍の構成は、第一章・地獄、第二章・漂泊、第三章・襲撃、第四章・犯罪からなる。第一章・地獄は、産まれ育った東京・上野界隈での見聞、体験が綴られている。「下司な屑屋部落の末裔が僕の棲家で、その頃は、どこの家にもオカマが群棲しており、ヒロポンに頭をやられて、真昼間の小路をひっきりなしにかけずりまわっていた」とあることから、生活環境は推察できる。評者も、青年期、家業の手伝いで、上野のアメ横へ駄菓子の仕入れに出向いていたので、周辺の状況が目に浮かぶ。たしかに、夜の上野の森にはオカマが出没していた。

 話中には、「豆腐屋一家の悲劇」や「指輪のダイヤで背中を切りつけた16歳のストリッパー」、「死産した二児の骨をすりつぶし喰う結核女」「コロッケ屋の看板娘が女屠殺人」「ネギを首に巻く梅毒の女」などなど…おどろおどろしい住人が登場する。随筆とはいえ、演劇の粗筋、原案といった類いの文を読んでいる印象だ。

父の子を孕んだ豆腐屋の娘が、上野の山の銀杏の樹で首を吊った話では、死体が二週間、ぶら下がったまま、誰にも気づかれずに腐乱する。季節は晩秋…黄葉に覆われ、銀杏の実が熟れていたので、異臭にも気づかれず、発見されなかった。ある日、大風が吹く。葉が散り、首吊り娘の姿が現れ、銀杏の実の落下と一緒に女が人々の頭に降ってきた。と描写してある。演出効果満点の舞台をみせられているようだ。

読者にとっては、やや、非日常とも思える登場人物の行動に加え、唐氏独特の字句を駆使しての抽象表現に、誇張なのか現実なのか、その狭間に幻惑され、唐ワールドに誘い込まれていきそうだ。凡例に「本文中に、現在では不適当と思われる表現がある場合も、歴史的背景を考慮して底本通りとした」とのことわり書きがあった。

 第二章・漂泊は、キャバレーなどの金粉ショー・ダンサーとして、李麗仙らと全国をまわり、芝居の資金づくりをしていた頃のエピソードを中心に綴られている。ここでも、「オカマのストリッパーが万引した話」や、唐十郎のことを「五郎と呼ぶ義足麗人の話」、「ミトキンという浅草ストリップ劇場の寸劇役者の話」などなど、登場人物は多彩、その行動は、やはり、非日常だ。だが、この章での文章表現はおどろおどろしさが薄れてきている。

 第三章・襲撃は「紅テント」をひっさげて、国内はもとより、韓国へも巡演したさいの出来事が主に綴られている。章内の見出しを掲げておくと、☆「ホテルも燃えている。ー 河原を求めてソウルへ。名づけて『反骨日韓親善大会』。しかし強烈な反日家が取りもっての野外上演にも黒い影がつきまとう… ー」、☆「岐阜の万引女 ー 川ひとつへだてた韓国から下関、京都、岐阜へと川っ原を求めて夢遊病の旅 メンス無宿の永遠の乙女との因果な出合い ー」、☆「海ゆかば月も吹き出す美少年 ー 仙台の河原のテントをたたんで札幌めざす青函フェリー。事故を予言するトラックの中の魔女 ー 」、☆「馬・紅色を見て、暴走すること ー 生きた馬を出演させて…と迷案に飛びついたものの、馬上豊かな美少年、いざ本番になるや ー 」、☆「犬は人間の最良の友か ー 折りからの集中豪雨…進退極まったオンボロトラックの二十人、毒をもられんとするの記 ー 」、☆「蚊取り線香が主役になること ー 名古屋の古寺で、蚊の大群を相手に芝居を打ったのはいいが…蚊取り線香が命取りになるとは ー 」等々…唐ワールドを想像させる見出しの上に、変人奇人といわれる座員たち(不破万作、根津甚八、大久保鷹、李麗仙、十貫寺梅軒ら)が絡むエピソードの数々は、笑いを誘う。会話体が多く取り入れられ、読み易い章だ。

 第四章・犯罪は、唐十郎氏と赤瀬川原平氏、若松孝二氏との対談集。唐十郎氏についてはもとより、赤瀬川原平氏の著作をよく読み、若松孝二氏の映画をよく観てからでないと、対話の行間にある思考を汲み取り、理解していくのは難しそうだ。初めての読者にとっての第四章は、唐ワールドに酔わされた果てに、ゴツンと頭をぶつけられた壁のような章だ。

本書は、さまざまな分野で活躍した人物の自伝や評伝を集める「人間の記録」シリーズ№197として刊行された。



「駿河台文芸 第23号」平成23年(20111130

丸川哲史『東アジア論 ―ブックガイドシリーズ 基本の30冊―』

人文書院 2010年(長瀧孝仁)

 

 著者の丸川政経学部准教授は文学部在学時、詩作品「人間の終焉の為の八篇」によって、本誌主催の一九八七年度「駿河台文芸賞・奨励作」を獲得している。その詩は「駿河台文芸 第4号」に掲載された。更に一九九七年には、「『細雪』試論」により群像新人文学賞優秀賞(評論部門)も受賞。現在、主要著作だけで十五冊を超えるなど、実に精力的な仕事振りである。また本年は、昨年度のノーベル平和賞受賞者で中国の反体制活動家である劉暁波の詩文集『最後の審判を生き延びて』を共訳して、岩波書店から上梓されている。

私は著者に、期間を置いて過去二、三度会ったことがある。その度に、台湾の大学へ留学とか植民地史の研究とかしていて、失礼ながら奇異な印象を受けた。正直なところ、「学問と言えば独仏英米」という古い概念に凝り固まり、著者が何を志しているのか最近まで理解出来なかったのである。逆に言えば、著者は早くから、若くして時代の先が見えていたのだろう。

この著書の出版と相前後して、和田春樹ほか編『岩波講座 東アジア近現代通史 全10巻・別巻1』岩波書店や、東アジア出版人会議編『東アジア人文書100』みすず書房も出ている。世は「東アジア」という枠組みへと思考のパラダイム転換が進んでいるのだ。正にこの分野の基本文献紹介者として、著者はうってつけの方なのである。

本書では、著者選定の基本書30冊が深く読み込まれて、四部に分けて独自の見解を加えながら丁寧に解説されている。その部立は、私の言葉に置き換えて言うと、「中国の近代化アジアの植民地化アジアの冷戦右翼と満州とナショナリズム」というような内容になっている。そして、各書に「参考・関連文献」が掲げられている。総計140冊。これは大変な作業である。量的に大仕事である。先ず著者の労をねぎらわねばなるまい。

選書の印象として、文芸書が一定数取り上げられているのが目を引く。特に、台湾と韓国・在日の作家詩人達の作品が多い。後者は、金芝河、黄晳暎、金達寿、金石範、金時鐘というよく知られた方々である。

また全体として、E・H・カー『歴史とは何か』、石母田正『歴史と民族の発見』という評価の定まった基本書から、近年話題となった山室信一『キメラ 満州国の肖像』中公新書、渡辺京二『逝きし世の面影』平凡社ライブラリーまで、満遍なく掬い上げているように見える。尤も私は、台湾のこと総てと中国、韓国の近現代史の詳細に通じてないので、選書について喋喋する立場にはない。

特に興味深く読ませて貰ったのは、北一輝、大川周明、石原莞爾等への言及がある第四部である。かつて法学部学生として聴講した政経学部・橋川文三先生の日本政治思想史の講義を思い出したからである。テキストは、橋川文三『ナショナリズム』紀伊國屋書店。橋川先生の研究対象と重なって見えた。

「竹内好研究」分野でも実績を上げている著者は、この本では『魯迅』『アジア主義』と二冊の関連図書を挙げている。竹内好さんは、私の在学中に亡くなられた。同氏と橋川先生は個人的に親しかった。橋川先生は竹内好さんをエッセイに綴るだけでなく、後に講義中に幾つかのエピソードを披歴された。

 

『田村隆一全集 全6巻』河出書房新社

2011年(多田統一)

 

 待望の田村隆一全集が出た。第1巻は2010年10月、第2巻は2011年2月、第3巻は2010年12月、第4巻は2011年1月、第5巻は2010年11月、第6巻は2011年3月に発行された。1956年の第一詩集『四千の日と夜』から1998年の『帰ってきた旅人』までの全詩集、および未発表の詩を中心に、評論やエッセイなども収録されている。

 戦争体験をベースに、戦後詩の世界に華々しく登場した田村隆一、その鋭い感性は、多くの読者に支持されてきた。詩人としての田村隆一を短い文章で語ることはきわめて困難であるので、ここでは地名を手がかりに田村作品のいくつかを紹介するにとどめたい。

 田村の詩には、地名をテーマにした作品がいくつかある。

 

・第1巻 「保谷」、「西武園所感―ある日 ぼくは多摩湖の遊園地に行った」、「秋津」

・第2巻 「三浦海岸にて―光晴先生に」、「桜島―黒田三郎の霊に」、「東京望景」、

・第3巻 「上野のためのソネット」、「夜の江ノ電」

・第4巻 「夢の島―住吉神社奉納詩」

・第5巻 「五日市」

・第6巻 「二人―尾張町―銀座四丁目」

 

 第6巻の年譜によると、田村は1923年現在の東京都豊島区巣鴨に生まれた。生家は、鳥料理専門の料亭「鈴む良」。1941年明治大学文科文芸科に入学。当時の科長は豊島与志雄、小林秀雄と長与善郎に学ぶところが多かったと言われる。1943年に応召、海軍予備学生となり滋賀海軍航空隊の陸戦隊に配属された。部隊の多くが戦死、実家も東京大空襲で消失した。終戦後は、闇市の酒場を徘徊したり、神保町や新宿あたりのバーを飲み歩いたといわれる。終生、胃、肺、肝臓などの内臓疾患で入退院を繰り返した。田村には、アルコールとともに、常に女性の気配が感じられる。25歳で鮎川信夫の妹、上村康子と、40歳で岸田衿子と、46歳で高田和子と結婚、さらに66歳で佐藤悦子と入籍している。早川書房に勤めたこともあるが、1956年に第一詩集を出した後は、全国各地を転々としている。1967年に倉橋由美子夫妻の推薦で、アイオワ州立大学の客員詩人として招かれたこともある。

 第3巻に、「夜の江ノ電」という作品が掲載されている。田村が、鎌倉の地に逢着したのは1970年47歳の時である。肝臓を患い、市内の病院に1ヶ月半入院した。病床で、三島由紀夫の自決を知った。翌年の11月市内稲村ガ崎の借地に家を建てて転居した。田村の鎌倉定住は20数年に及ぶ。この作品は、次のように終わる。

 

   緑の党を

   赤い党が支援する

 

   こんな愉快な村はめったにない

   宗教法人税法のおかげで

   説教したがる坊主に

   妾が四人もいるとは

   ちっとも知らなかった 夜の江ノ電の

   窓から見える

   白い波頭 夜のなかの

 

   白い波頭

   乗客は

   ぼく一人

 

 相模湾の景色が、田村の精神と肉体をいかに癒したことであろうか。軽妙な文明批評が、この作品には生きている。

 田村には、東京を題材にした作品も多い。1990年に集英社から出た『新世界より』という詩集(全集の第4巻に掲載)に、「夢の島―住吉神社奉納詩」という短い作品がある。

 

     夢の島―住吉神社奉納詩

 

   町と街とは

   一味ちがう どころか大ちがい

   町には

   人の足音と夕暮れの火の匂いがただよっていて

   街になってしまうと

   コンピューターの慰霊塔

   過労死なんてよく云ったものさ ぼくだったら

 

この短い詩に、田村の主張がみごとに盛り込まれている。リバーフロントの開発と景観の変化、下町の住民生活の匂い。人が生きる場所についての、鋭い批評が込められている。

田村は、特異なモダニズムで戦後詩をリードしてきたと言われる。詩誌「荒地」などを通して、多くの詩人との交流がある。一方で、詩人の枠を越え、評論やエッセイ、翻訳などの世界でもその豊かな才能を発揮した。全集には、詩以外にも詩論や都市論などの作品が掲載されている。

最後に、人間田村について感じたことがある。やはり、さみしがりやだったのであろう。これは、病弱であった彼の生い立ちが影響しているものと思われる。田村が詩を書く、あるいは書かざるを得なかった理由は、常に人との関係を保ちたかったためであろう。それが、男であるにせよ、女であるにせよ。それは、作品にもよく表れている。読んでもらいたい人を意識しているようにも思えるからである。

 

藤原智美『文は一行目から書かなくていい 検索、コピペ時代の文章術』

プレジデント社 2011年(多田統一)

 

本書の構成は、次の通りである。

第1章  あなたは9歳の作文力を忘れている

第2章  プロ作家の文章テクニック

第3章  名文の条件とは

第4章  日常生活で文章力を磨く

第5章  検索、コピペ時代の文章術

第6章  書くために「考える」ということ

第1章で、著者は文章を書くことに集中することの大切さについて述べている。自らを追い込んだ方が、質の高い作品が生まれるのかもしれない。私の場合も同様で、文章を書く時間をどう確保するかに苦心しているからである。

 

第2章では、「文は一行目から書かなくていい」という著者の文章テクニックが紹介されている。しかし、これは小説の場合であって、詩作においては1行目こそ大切にしなければならない場合があるであろう。

第3章では、「名文かどうかは、風景描写でわかる」と述べている。長谷川四郎の『鶴』という作品を例に、臨場感を醸し出す方法が説明されている。

第4章では、インターネットの便利さとその魔力に触れている。小説家の仕事は、パソコンの効用が大きいものと思われるが、詩の場合は手書きの方が質の高い作品が生まれることもあるであろう。

第5章、第6章では、一般書籍と電子書籍の違いを「一本の井戸か、遠浅の海か」で説明している。デジタル化時代にあって、文章が没個性的になっていくことへの警鐘を鳴らしている。

藤原智美氏は、1955年福岡市生まれ。明治大学政治経済学部卒業。『運転士』で第107回芥川賞受賞。本書で、書くことの意味を問い直している。

 

橋本正樹『あっぱれ! 旅役者列伝』現代書館

2011年(大西竹二郎)

 

 評者が暮らす街の散歩コースにヘルスセンターがある。その前に来ると、風にはためく大衆演劇の幟り旗に誘われ、なぜか公演ポスターに見入ってしまう。十数年前のことになるが、静岡県金谷町の温泉旅館に映画のロケで連泊したときのこと、その旅館に常設小屋があり、旅廻りの一座が公演をしていた。ロケ隊を同業者と思ってか、自由に舞台を覗かせてくれた。その折、客席のご婦人方が、ご贔屓の役者さんに紙幣のレイを競って掛け合う熱気に圧倒された記憶が甦ってくるからだ。

 大都市の一流劇場で興業をうつ大歌舞伎とはちがい、言葉は

 

悪いが、〝ドサ廻り〟などと言われ、一段、低く見られてきた

大衆演劇は、ご贔屓筋ならともかく、まだまだ知られていないことのほうが多い世界だ。「あっぱれ!旅役者列伝」はそのドアーをノックするうえで、是非、一読をお薦めしたい著書といえる。

 橋本正樹氏は昭和二十二年(1947年)、兵庫県尼崎市生まれ。明治大学文学部演劇学専攻卒業。自宅療養中に、たまたま観た大衆演劇に魅了されて以降、旅芝居の世界を記録にまとめたく思い立ち、全国各地の公演楽屋で一宿一飯にあずかりながらの長期取材で、この労作を結実させた。

 著書によると、旅芝居の第一期黄金時代は昭和十年代から十六年ころ。第二期は終戦後の二十一年から二十八年ころで、三十年代後半からは落ち目になり、それから、およそ二十年間に亘って泥沼…と記す。評者が短編映画の仕事に就いたころで、映画復興期、TVの出現、娯楽の多様化の時期と重なる。その後、昭和五十五年ころから大衆演劇は市民権を得て、ブームに乗り、確固たる地歩を築いて行くと続記している。確かに、「下町の玉三郎」こと、梅沢富美男がTVなどにとりあげられ、「夢芝居」の歌がヒットした。また、「頑張れ、チビ玉三兄弟」がTV放映され、その愛くるしい舞台姿に評者も見入ったものだ。

 著書にとりあげられている旅役者たちは、主に第二期黄金時代ころから活躍した面々で、いずれも座長をつとめた十七人。内、女座長は三人。

 二代目・樋口次郎。沢竜二。若葉しげる。初代・姫川竜之助。四代目・三河家桃太郎。二代目・片岡長次郎。金井 保。玄海竜二。辻野耕庸。中村円十郎。二代目・博多淡海。初代・大川竜之助。美里英二。大日向 満。そして、女座長の市川恵子。丹下セツ子。筑紫美主子。

 著者は心底、惚れ込んだ役者、劇団だけを徹底取材されたそうだ。寝袋を持ち込んで、行李運びから雑用なども手伝い、歳月を重ねての密着取材だけに、座長から聞き出した話の内容は興味が尽きない。座長たちのほとんどが、母親の胎内からの初舞台。産まれた赤子は〝抱き子〟でのお目見えと相成る。楽屋が家であり、親兄弟はもとより、一座の役者も家族同様にして育つ子らは、二代目、三代目というように役者稼業を継いでいる。成長過程では親子の対立もあり、〝ドロン〟するものの、他の座のお世話になったり、新たに一座をおこしたりして、結局は、旅芝居の世界に舞い戻っている。〝腹の中からの役者〟のDNAというものなのだろうか。

 評者の映画で一緒に仕事をした俳優、タレントさんで、表舞台から消えていった方々は多い。「あっぱれ!旅役者列伝」を読んでからというもの、スポットライトのあたらなかった旅役者たちの暮らしぶりや、晩年の生活などが知りたくなってきた。

 

秋田光彦『葬式をしない寺 大阪・應典院の挑戦』

新潮新書 2011年(多田統一)

 

 〝檀家ゼロ、運営はNPO、出会いをつなぐ劇場型寺院〟の触れ込みで、新潮社から新書の新刊が出た。

著者の秋田光彦氏は、1955年大阪市生まれ。明治大学文学部演劇学科卒業後、情報誌「ぴあ」の企画・宣伝を担当、退社後映画制作会社を設立し、プロデューサー兼脚本家として活躍された。1977年に劇場型寺院を再建、現在その代表を務める浄土宗の住職である。

本書は、第一章 葬式をしない寺、第二章 寺は死んでいるのか、第三章 呼吸する寺、第四章 日本でいちばん若者が集まる寺、第五章 寺こそ、生死をつなぐ拠点、第六章 寺の明日、仏教の未来、の五つの章で構成されている。

 

 應典院は、大阪を代表する寺町である大阪市天王寺区下寺町に、廃寺同然となっていた。そこを秋田氏が再建した。コンクリート打ちっぱなしの鉄骨二階建ての近代建築というのも、旧来のお寺のイメージを覆すものである。しかも、演劇や現代アートの芸術創造活動に励む若者が集まってくる。

 第六章で、著者は次のように述べている。

 「外部から見れば、寺の施設も境内も、住職や寺族、檀家という人材も、すべて魅力ある資源です。その資源を、特定の大義や組織のためだけでなく、地域共有の資源として、どう開いていくのか。本山と末寺というタテの関係一本できた考え方を、ヨコの多様な関係に置き換えていくのです。」

 本書で秋田氏は、寺とは何か、寺は何をする場所かを、社会に、仏教界に、そして自分自身に鋭く問いかけている。凡夫としての自己を素直に受け入れる法然の教えを立脚点にしているところが、たいへん共感を呼ぶ。秋田氏の言う対話と協働、まさにこれこそが仏教の未来を切り開くキーワードのように思えた。



「駿河台文芸 第22号」平成22年(20101130

伊能秀明『大江戸捕物帳の世界』アスキー新書

2010年(長瀧孝仁)

 

 江戸時代の刑法と警察・刑事裁判・刑罰制度のコンパクトな解説書である。また、本学博物館への案内書にもなっている。著者は、本学刑事博物館の学芸員を振り出しに、現在は中央図書館事務長職にあられる方。肩書きには法学博士とあるが、著作リストから法史学、法制史の研究者と判る。

 と言っても、決して難しい本ではない。歌舞伎・講談、読み物小説、映画・テレビの時代劇でお馴染みの大岡越前守忠相、鬼平こと長谷川平蔵、吉田松陰、天一坊、八百屋お七、高橋お伝など実在人物の実相を考証しながら、銭形平次など架空人物も織り交ぜて、読者を江戸期の犯罪と捕物と拷問と処刑の現場へといざなうのである。そして、各章ごとに配されて案内役となるのが、本学博物館所蔵になる「徳川幕府刑事図譜」「牢内深秘録」などからの挿絵である。

私は法学部学生として法制史を選択しなかったが、刑法、刑事政策、日本法律思想史の時間を通じて、明治期日本が徳川の制度を色濃く残していたことを知っていた。初期には有罪かどうかも確定していない被疑者、被告人に対して、訊杖、石抱(算盤責)、海老責、釣責などという残虐な拷問を行い、執拗に自白を迫っていたのである。制限があったにしても、…。

本書の図譜と解説から、海老責などとは具体的にどういう姿勢で折檻されるのかよく分かった。しかし、「これも、口書という書面の作成を過度に重視するが故に、平気で取調人は出来たんだな」と考えてみると、薄ら寒くなって来る。冤罪の温床となるからである。

最近の足利事件、大阪地検特捜部の証拠改竄事件に象徴されるように、取り調べ側の推定に副って自白を迫る「供述書至上主義」は現在も続いているようなのである。徳川の制度は明治期の近代制度にこっそり紛れ込み、百年間余改変もなく、時として姿を現すのだ。

 

伴繁雄『陸軍登戸研究所の真実 新装版』

芙蓉書房出版 2010年(多田統一)

 

著者の伴繁雄氏は、第二次大戦終戦まで、軍人技術者として陸軍登戸研究所に在職した。登戸研究所があったのは、現在の明治大学生田キャンパスである。明治大学は2010年3月29日、戦時中の登戸研究所第二科である36号棟を改修して、「明治大学平和教育登戸研究所資料館」を開館した。第二科とは、生物化学兵器を研究するところであった。伴氏の著作の復刊は、この資料館の開館に合わせた実にタイムリーなものと言える。新装版には、元防衛庁防衛研究所所員の有賀傳氏や明治大学講師の渡辺賢二氏による解説も掲載されている。

 本書は、大きく三つの柱で構成されている。

一、秘密戦の組織と構造

 登戸研究所と陸軍中野学校の全貌が紹介されている。特に、登戸研究所は厳重な秘密で覆われた日本最初の秘密戦研究所で、戦時中にあっては参謀本部直轄で、軍関係者でもその存在を知る者はごくわずかだったと言われる。

二、登戸研究所各科の研究内容と成果

 登戸研究所は、11万坪の敷地に1000人の人員を擁していたと言われる。4つの科で編成され、第一科では殺人光線や風船爆弾などの特殊兵器の開発。第二科では細菌兵器や枯葉剤の研究。第三科では偽造紙幣の研究・開発および製造。第四科では兵器や資材の製造が行なわれていた。第二科の毒物謀略兵器の研究では、伴氏が人体実験のため南京に出張したことが書かれており、たいへん興味深い。また、缶詰爆弾の実演中、爆発事故で部下を亡くしたことにも触れている。

三、秘密戦の実相

 上海戦への初参加を始め、諸戦域への出張、登戸研究所の疎開、終戦について書かれている。

 本書を通して何よりも注目すべき点は、戦時中とはいえ、伴氏が専門とする毒物の研究で中国の人たちの人命を奪う人体実験に関わったことに、技術者として悔悟の念を抱き続けてきたという点である。こうした事実を後世に残すことに力を注いだ伴氏の使命感に敬服する。登戸研究所の資料は、終戦時にほとんどのものが焼却されてしまっている。そういう意味でも、本書の史料価値は高い。断片的な記録資料や聞き取り調査などから、研究所の全体像を復元する作業は、困難を極めたことであろう。戦争のベールに包まれた部分を、技術者として正しく伝えようとする姿勢が窺える。伴氏は、原稿第一稿がほぼ完成した1993年11月に急逝している。元同僚の寄稿や関係者の協力により本書が出来上がっているが、秘密戦という空白の歴史を埋めた点で高く評価される。また、平和教育の教材としても広く活用できる。

 

小林広一『斎藤緑雨』アジア文化社

2010年(多田統一)

 

 1981年「斎藤緑雨論」で第24回群像新人賞(評論部門)を受けた、本学出身の著者による「緑雨の評伝」である。作者の内面と文章のドラマに迫っている。

本書の構成は「全体性の誘惑」、「悲劇の終わり・喜劇の誕生」、「冷笑のリアリズム」、「劇化が終わる地平にて」の四本柱からなっている。

 著者は、あとがきで次のように述べている。

緑雨の文章がわれわれにもっとも生き生きと訴えてくるのは、非情に徹したときである。文章は嘲罵や冷笑によって人間界のことについてあれこれ書いているのだが、決して人間界のことだけで終わるのではなく、その背後で彼の視線が、無心の山河や、空や風や雨へと向いていたのであった。

 死の二日前に馬場孤蝶に口述した自分自身の死亡広告

僕本月本日を以て目出度死去致候間此段広告仕候也緑雨斎藤賢(明治37年4月14日「万朝報」掲載)

を、著者は「天然」という言葉で評している。文学として死に迫ることは緑雨でさえ難しかったようで、それを著者は「限りなく大きな、無言の」言葉として表現している。



「駿河台文芸 第21号」平成21年(20091220

松本昌次編『西谷能雄 本は志にありー頑迷固陋の全身出版人―』

日本経済評論社 2009年(多田統一)

 

編者の松本昌次によれば、西谷能雄は、1913年札幌生まれ。2歳で父親は他界、母方の佐渡で育つ。佐渡中学卒業後、東京外国語専門学校でロシア語を学んだが、生協運動に関わって除籍処分に遭う。一時、兄のいるサハリンに渡り、そこで小林多喜二虐殺のニュースを聞く。1933年再び上京、明治大学文芸科で山本有三、豊島与志雄らに学ぶ。1937年大学卒業。岩波書店入社の話もあったが、弘文堂からの通知が先に来て入社、取締役編集部長を経て1951年退社。同年未来社を創業、代表取締役社長・会長を歴任。1995年、81歳でこの世を去る。

本書は、西谷能雄の出版流通に関するエッセイや論考のほか、未来社創業15年に際して行われた西谷能雄を囲む内田義彦・木下順二・野間宏・丸山眞男との座談会、同じく創業25年に際して行われた西谷能雄と小林一博との対談、松本昌次による追想が掲載されている。座談会や対談は、未来社の社史には収められているが、出版文化史上貴重な資料である。編者の松本昌次は、1927年東京生まれ。1953年から1983年まで編集者として未来社に勤務、1983年影書房を創業したが、約30年に亘って西谷能雄とともに出版の仕事に携わってきた。最も西谷能雄を語るに相応しい人物と言えよう。

松本昌次は、西谷能雄を「出版人一筋の生涯」と評している。西谷能雄は、編集者であり、出版経営者であり、出版に関わる諸問題の論客でもある。彼には、『出版とは何か』など、十指を越える著書がある。

西谷能雄は、『出版とは何か』の中で、次のように述べている。「出版社の優劣は、大小によってではなく、量によってではなく、質によって決定される部分がかなりあるという点は、少なくとも出版業の一つの特質といってもいい。そのところを我々は充分に理解しなくてはならないと思う。」一般企業が抱える技術革新や労務問題、下請け系列化という深刻な問題よりも、著者との人間関係などの前近代的関係や文化的・精神的要素が大きく作用するのが出版社の特色である。このことは、「十階建ての大出版社が茅屋の出版社よりも必ずしも立派であるとはいえない。」という論拠にもなっている。印刷、製本などの出版関連産業、そして何よりも著者との人間関係を大切にした西谷能雄の経営哲学がここから窺える。木下順二との出会い、『夕鶴』の出版をめぐり弘文堂を退社したエピソードは面白い。

西谷能雄の人間的な側面を誰よりもよく知るのは松本昌次である。ある日訪ねてきた某大学の教授が、本の内容も話さぬうち、「ぼくの本は何千部売れます」と言った途端、西谷能雄は、「この話はなかったことにして下さい」

と、その場で断ったという。本書のサブタイトルの通り、西谷能雄の性格がよく表れた話である。

本書は、西谷能雄伝であるが、編者の松本昌次の労によるところが大きい。西谷能雄の出版のこころを受け継いだ松本昌次に、編集人としての多くの共通項を見出すのは私だけではないであろう。

 

※旧会員の故・西谷能雄氏には、亡くなられるまで本会を支えて戴きました。




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