駿河台文芸 Surugadai Bungei
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編集部だより


<編集後記>
                          工事中



<編集後記>
 谷崎潤一郎の小説『蘆刈』は、桂川、宇治川、木津川の三河川が合流して淀川となる辺りの葦原から始まる。表紙にある「鵜殿の葦原焼き」の河原とも地続きで、鵜殿の方が少し下流に当たる。

往古からこの地に葦原が広がる理由は、三河川の内の木津川が、大雨が降る度に大量の土砂を持ち込んで堆積するからである。鉄道開通まで京の都と大阪間を頻繁に往き来した淀川の船便も、今は全く見ることが出来ない。理由は同じで、流れ込んだ大量の土砂がこの辺りの川底を押し上げ、現代の動力船では船底を擦って危険を伴うからである。
毎年二月に行われる先述の野焼きは、葦簀(よしず)の需要が減って河原一面の葦刈りもなくなった昭和二十年代から始まっている。今や、冬の恒例行事となった。しかし、表紙の後方に見える淀川対岸の枚方市では宅地開発が進み、風向きによっては苦情が絶えないと言う。この先継続出来るのか、気掛かりである。(N)



<編集後記>
 今年六月二十八日、駿河台の明治大学アカデミーホールで聴いた「水底吹笛」の詩が忘れられない。「大岡信さんを送る会」に於いて、故人の顕彰と鎮魂を兼ね、数多くの大岡作品の中から選んで、女優の白石加代子さんがこの詩を朗読されたのである。
 「ひようひようとふえをふかうよ/くちびるをあをくぬらしてふえをふかうよ」で始まる詩は、木下牧子さん作曲の混声合唱組曲「方舟」四曲中の一つともなっている。しかし、抑揚ある白石さんの声は、私が活字で初めて読んだ時のイメージとも違う、ラジオで聴いた高校生の合唱の印象とも違う、太古の地割れから聞こえる神話のようにホール全体に響き渡っていた。
 大岡先生十八歳の時の作品であるこの詩は、少年が水中で見る夢のようでもあり、故郷の三島市近辺の富士山起源の豊富な湧水をイメージした着想なのかも知れない。現在は工業用地下水優先で、湧水量が減ってしまった。そんな中、この詩を連想させる場所の第一は、表紙にある柿田川湧水群なのではないか。(N)



<編集後記>
 二十世紀初頭東京の中国人留学生事情を書いていた昨秋、現代東京の中国人留学生事情を偶然ネット上で知ることになった。大久保駅周辺には、中国人により設立・運営される中国人向けの大学受験予備校が乱立しているらしい。志ある留学生は昼間日本語学校に通い 夜と週末は予備校に通って、所謂偏差値が特に高い上位数校の日本の大学若しくは大学院を受験する。
 東洋経済オンラインの記事では現場取材も試みている。中国語による授業は真剣そのもの。中国語表記の教科書を使って日本の大学受験科目を学び、毎年合格者多数の実績。特に言語面でハンデない理科系に強い。
 別の情報源によれば、中国の大学受験は一発勝負の国立大学全国統一試験しかなく、受験競争は熾烈を極めると言う。しかもその割には、設備も教授も米国の大学に見劣りしている。一方、米国の大学の学費は箆棒に高く、卒業後の就職活動も競争が激しく楽ではない。これら両国の中間として、日本の大学の人気が高まっているようなのである。(N)



<編集後記>
 本誌「24号」の「菊田義孝 特集」には、三鷹電車庫跨線橋について、菊田さんの証言が記されている。太宰治は自宅近くのこの跨線橋から眺める景色がお気に入りで、散歩途中に一人佇み、編集者や友人、弟子たちが訪ねてくると、自らよく案内したという。晴れた日には、表紙にある方向に富士山の姿があった。

 鉄道の線路で分断される両側の土地を結ぶ跨線橋は全国に幾箇所もあろうが、三鷹電車庫のものは幅3m、全長90mという壮大な規模である。もう直ぐ築90年を迎える歴史的建造物でもある。古レールを再利用して作られた鋼鉄の橋は、錆こそ浮いてはいるものの、未だ下を疾走して行く中央線の特急列車の振動にも、台風や凩にもびくともしないのである。

 但し、中央線、総武線、東京メトロ東西線と多彩な電車の観賞目的に遣って来た親子連れには、特に小さな子供たちにはとても優しいのである。(N)




<編集後記>

 表紙にある岸本辰雄像は、鳥取県庁前にある県立図書館等が入る建物の敷地内、公文書館に沿って建っている。十年前の二〇〇六年、本学校友会鳥取県支部によって設置された。横に建つ石碑から紹介してみよう。
 岸本辰雄(一八五一~一九一二)は、鳥取藩士の子として鳥取城下に出生。藩校・尚徳館に学んだ後、戊辰戦争に従軍。鳥取藩の推薦を受け、東京大学の前身である大学南校、司法省法学校へと進んでいる。ボワソナードの薫陶を受けたことによりパリ大学に留学。法学士の学位を受けて帰国し、司法省判事となった。
 明治14(一八八一)年、宮城浩蔵、矢代操と共に明治大学の前身である明治法律学校を開校、初代校長に就任している。法律家としての岸本は、大審院(現最高裁判所)判事を経て東京弁護士会会長を務めている。
 県庁前のこの地は、鳥取大学付属小学校、中学校の跡地である。更に遡ると、尚徳館の跡地でもあるようだ。岸本が少年時代学んだ思い出の地に、胸像が立っていることになる。(N)




<編集後記>

 今年は夏目漱石の歿後百年に当たり、十二月九日が漱石忌に当たるそうである。

本学と漱石の縁は、文学部の前身の文科が明治39(一九〇六)年に一旦開校された時、漱石と上田敏が教授の二枚看板だったことに始まる。また漱石は、大学本部の裏手、坂下にあった錦華小学校の出身でもある。表紙の写真にある文学碑は、統合されて名前は変えたが、今もその小学校の正門脇に立っている。

小学校から「錦華」の文字は消えたが、隣の公園は錦華公園のままである。そこは、私が学んだ法学部の校舎の真下に当たり、建替え前の旧本部にあった食道の裏口を出たところ、大木生い茂る崖の下にある。

ここは、ユーミンこと松任谷由美が「白い朝まで」で「都会の公園、夜の噴水 若い日 傘の中で雨を見ていた」と歌う、思い出の公園でもあるそうだ。さして気にも留めなかった小さな公園だが、由緒があるものである。(N)




<編集後記>
 表紙にある奈良県平群町は、生駒山系と松尾山に挟まれた山裾のなだらかな傾斜地、平群谷にある。谷底を万葉集に詠まれた竜田川が流れている。「平群」とは「辺の郡」の意味で、大和の外れ、端っこを意味する。
 ここは、古事記の歌謡に詠まれた地でもある。
  命の全(また)けむ人は/畳薦(たたみこも)平群(へぐり)の山の/熊白檮(くまかし)が葉
  を/髫華(うや)に挿せ/その子
 倭建(やまとたける)は東夷征討時に故郷を思い出して、「命が無事だった人は帰郷後、平群の山の大きなカシの木の葉を、魔よけに頭髪に挿しなさい」と家来を気づかっている。
 七十年前、持続して戦況は芳しくなかった。進んでも戦死、たじろいで佇んでいても時間と共に死が遣って来た。そんな窮境下に置かれて、青少年はヤマトタケルのロマンに逃避するしかなかったようである。
 川に沿って走る近鉄生駒線電車の車窓には、果実と花卉の農村と古墳、空家も多い住宅地が混在する。今の平群谷には、老齢と過疎の影が忍び寄っている。(N)



<編集後記>
 今号では、縁あって新興芸術派の作家・八木東作についてのインタビューを掲載することが出来た。
 新興芸術派と言えば、先ず龍胆寺雄、吉行エイスケが頭に浮かぶ。一九三〇年(昭和五年)四月十三日に本郷の燕楽軒で開催された「新興芸術派倶楽部」第一回総会の出席者三十二名には、彼らに加えて八木も名を連ねている。当駿河台文学会と所縁ある「明大文芸科」教員
では、小林秀雄、舟橋聖一、今日出海も名を連ねていた。
 新興芸術派は、当時隆盛だったプロレタリア文学への対抗勢力として結成されたのだが、混成部隊だったためグループとしての作風を充分確立出来ないまま、発展的に解消して行った。
 また、意図せず石川啄木に関する文章複数を掲載することになった。それにしても、「啄木は何時になっても新しいのだ」と痛感する。(N)




<編集後記>
 湯島聖堂へは通学時行きか帰りによく寄った。御茶ノ水の駅前にあるのに、木立の中にはしじまがあった。坂と門と庭園と文化財と階段と橋。薫風のなか散歩するのも好し、楷の大樹の緑陰の読書もまた楽しみであった。
 日中間の文化交流は、遣唐使、阿倍仲麻呂、最澄、空海、雪舟等を挙げるまでもなく、常に入超。室町期には漢詩が盛んに作られるようになり、江戸期には朱子学が幕府公認の学問となった。元禄三(一六九〇)年、徳川綱吉はこの地に湯島聖堂と昌平坂学問所を開設。江戸中期に各地に藩校が整うと、全国の学問の中心地となった。爾来、御茶ノ水・駿河台地区は学問の街なのである。
 そして幕末。洋学に注目が集まる中、漢学は主役から脇役へと回る。その後、鬼畜米英という文脈の中で漢学が枉げられ国粋主義に使われたかと思えば、敗戦で大学の中国文学科が漢文でなく中国語を学ぶ所へ変貌してしまう。訓読法で巧みに中国文を読み解いていた日本人は、中国語を全く解せぬ門外漢へと落ちぶれてしまう。
 一九四九年に中華人民共和国が成立すると、儒学の評価も大きく変わり、漢字自体も簡体字へと変わってしまうのである。湯島聖堂、いよいよ辛抱の時代である。今や近未来、アジアビジネスの共通言語が英語から中国語へ取って代わると言われている。果たして本邦義務教育で中国語が教えられる日が来るのだろうか否か?
 本誌で書評に取り上げた故・橋川文三氏の著作には、戴季陶による下記の辛辣な漢詩が紹介されている。(N)
      儒家教人報徳/仏家教人報恩/倭奴両俱不報/王仁造出忘仁



<編集後記>
 この九月に東京が、二〇二〇年オリンピックの開催地に決定しました。表紙の写真で、永代橋の向こうに見えるのが佃です。オリンピックの幾つかの競技は、向かって左手の方、更に下流の埋立地を会場にして行われるようです。
 前回の一九六四年の東京オリンピックの時、私は未だ小学校の低学年でしたが、日本中が大騒ぎだったことをよく覚えております。当時は白黒テレビが主流で、興奮したアナウンサーの感情移入したリポートが、多くの国民の心を打ちました。
 あの当時の熱狂を蘇らせるには、開会式、閉会式と様々な競技をリポートして文学的な表現で残した、三島由紀夫の「オリンピック」を繙いてみたいものです。(『荒野より』中公文庫に所収)
 「陸上競技はオリンピックのもっともオリンピック的なものであろう。それは明るい青空の下で、人間の影を大地に小さく宿して、整然と、明朗に、数学的に進行する。」と書いた三島は、女子バレーボールの金メダルの勝利を見て「日本が勝ち、選手たちが抱き合って泣いているのを見たとき、私の胸にもこみ上げるものがあったが、これは生れてはじめて、私がスポーツを見て流した涙である。」と記した。(N)




<編集後記>
 今号では、進一男氏の詩を前面に掲げさせて戴きました。四十年前の一九七三年に発行された「駿河台文学」第2号に、詩「石の山」を寄稿して下さったのを手始めに、「駿河台文芸」第12、16、17、19、20号にも詩ないしはエッセイを戴いております。
 奄美大島から上京されたり帰郷されたり、戦争を挿んで七十年、進さんが詩作に一心に励んで来られた姿には、唯々頭が下がる思いです。
 その業績は、沖積舎から出ている正・続・続々の『進一男詩集』全三冊に纏まっています。『進一男詩集』土曜美術社 日本現代詩文庫94 は、詩及びエッセイのアンソロジーです。両方とも、駿河台文学会の会員はもとより、学生の方にも是非一度目を通して戴きたい書物です。
 こんなことを書くと、進さんには叱られるかも知れません。次の詩があるからです。(N)

   ニヒルの夜
 泣きたい奴は/泣くがいい/死にたい奴は/
 死ぬがいい/笑いたい奴/怒りたい奴/
 みんな好きなようにするがいい/
 工場の屋根に月が白く/煙突の煙が白く




<編集後記>

今回特集した辻征夫には、隅田川と切っても切れない縁があった。その隅田川の左岸に当たるのが墨田区である。蝶のような形をした区の中心には、触覚のように東京スカイツリーが天空に突き立っている。
 今や墨田区内の風景からスカイツリーを消し去ることは出来ない。征夫が出た都立墨田川高校を訪ねると、グランドの向こうに校舎があって、その横にスカイツリーの巨大な雄姿が並んで見える。
 陽の当たり具合によってその姿は宗教的な威厳を帯び、展望台からこちらをずっと監視しているかのようにも感じられる。征夫が存命ならば、さてどんな詩を作るのだろうか。(N)
 




<編集後記>
 今年は、日本人にとって忘れられない年となった。東日本の大地震と未曾有の大津波。そして、福島の原発事故。
 表紙は昨春、気仙沼を訪れた時に撮った写真である。それから一年もしない内に五メートルを超える大津波(一説によると十メートル超)がこの港に押し寄せ、街が一瞬にして廃墟となった。この光景を、一体誰が想像出来たであろうか。瓦礫の散らばる風景が蜿蜒と続く東北沿岸の映像を見て、私はこの世の無常、酷薄、不条理を感じざるを得なかった。自然の前に、かくも人は無力なものなのだろうか、と。
 かつて繙いたA・カミュの『シ―シュポスの神話』が思い出される。神々に地獄で罰に服するよう命じられたシ―シュポスは、急坂を休みなく転がして大岩を山頂まで運び上げる仕事を科せられる。しかし山頂の岩は、自身の重みでどうしても転がり落ちてしまうのであった。山裾まで転がって行ったことに気付いたシ―シュポスは、再びその岩を押し上げるため麓へと下りて行かねばならない。こうして、未来永劫同じ仕事を繰り返すようシ―シュポスは宿命付けられる。
 カミュは言っている。「神話とは、想像力が生命を吹き込むのに相応しいものだ(清水徹訳)」と。三陸の豊饒な海。その海の宝物を求めて人々が住み着き、関連産業が興り町へと発展する。しかし、その海はとても怖い海であり、定期的に地震を起こしては大津波を発生させ町ごと人命をさらって行く。みんな津波の恐ろしさを知ってはいるが、つい宝物に魅せられ海の怖さを忘れてしまう。・・・・
 そしてまた、廃墟に町造りが始まる。鋸と金槌の音。今日の海は、何事もなかったかのように凪いでいる。(N)




<編集後記>

 駿河台文学会の運営に係わるようになって、組織の活性化について日々考えるようになった。何か参考事例はないかと、古今東西の経営者の本も紐解いてみたりした。そして得た結論、それは島岡吉郎野球部監督である。
 私の学生時代、既に晩年だった監督は、破天荒な逸話と共に語られる愉快な指導者だった。しかし実は、島岡氏が素人監督として就任したのは、腐敗組織の立て直しが目的であった。そして見事、期待に応えられた。
 意識改革、人心掌握、渉外業務活性化など、監督に教わるところは極めて多い。今やスケート、大相撲など、腐敗組織に事欠かない時代である。某航空会社など、この秋傾いて落葉のように散って行く企業も目白押しだ。しかし、組織の再建を担える人材は余りに不足している。ここに焦点を当てて、島岡氏を再評価してみたい。(N)




<編集後記>

前号の20号を節目に、今回から編集及び印刷・製本形態を大幅に変更しました。インターネット、ウェブサイト、オンデマンドなどという言葉に代表されるような時代を迎え、当駿河台文学会もデジタル化対応への第一歩を踏み出しました。

文学ほどITになじむものはない。この言葉を信じて、早々に当会の運営をネットワーキング化したいという希望を持っております。

表紙の写真で、聖橋の向こうに見えるのが最先端IT拠点として開発された「秋葉原クロスフィールド」です。

 高層ビルの中には、明治大学の秋葉原サテライトキャンパスも入居しております。(N)
 
 

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