駿河台文芸 Surugadai Bungei
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歴史


明治大学は明治14年(1881年)、明治法律学校として、東京都千代田区神田駿河台の地に開校した。慶応義塾大学に遅れること23年、早稲田大学に先んじること1年だった。その後本学は、法学以外の学部も整えて、明治36年(1903年)に現在名に改称、大学令により大正9年(1920年)、他大学と同様に現在の形の私立大学となった。

しかし本学は、明治・大正期を通して文学部のない大学であった。というのも、夏目漱石と上田敏を教壇に迎えて、明治39年(1906年)に文科開講を試みたものの、日露戦争の影響下思うように学生が集まらず、一、二年で無期限休部状態となったからである。

この間、早くも明治24年(1891年)には、坪内逍遥主宰によって「早稲田文学」が創刊され、早大文科が人気を集めていた。これに対抗する形で、明治43年(1910年)に発刊されたのが、慶大文科教授に迎えられた永井荷風主宰の「三田文学」だった。これら両誌が日本の近代文学発展に貢献し、多数の優れた書き手を輩出したことは、多くの文学史テキストが叙述しているところである。

 

明治大学には、定まった校歌も長らくなかった。しかし、かつて人気があった隅田川の大学別ボートレースなどで、校歌がないのは如何にも都合が悪かった。学生の間から、その制定を求める運動が起こって来た。

「〽白雲なびく」の曲が作られたのは大正11年か12年のことで、井伏鱒二が小品「児玉花外」(1965年。初出「上脇進の口述」を改題)の中で経緯を詳述している。それに拠ると、本学出身の小説家で民俗学者の藤沢衛彦が、懇意にしている詩人・児玉花外(18741943)に作詞を依頼したようである。明治30年代に活躍、少年だった室生犀星らに影響を与えた花外も、晩年の落魄へと徐々に生活は傾いていた。花外側から見ると、「自分の生活苦を見兼ねて、好誼から仕事を作ってくれた」と感じたようである。

こういう経緯にも拘わらず、「白雲なびく」の詩は名品だった。児玉花外の代表作の一つになると同時に、末永く学生・卒業生に愛唱されるところとなった。軍国主義の時代を生き長らえ、戦後の新憲法の時代になっても、女性が社会進出する現代に於いても、歌詞が全く色褪せないのである。

井伏作品の結末は、感動と涙の内に終わる。長年の酒浸り生活から、アルコール中毒の身寄りない寝たきり老人となった花外は、救護法が適用されて養老院送りとなる。犀星が呼び掛け人となって日比谷の松本樓で行われた壮行会には、明治大学学生の吹奏楽団も参加して、歌詞を残してくれた「偉大なる恩人」を「〽白雲なびく」の曲の演奏で送ったというのである。・・・・

 

校歌歌詞 http://www.meiji.ac.jp/koho/information/schoolsong/index.html

 

藤沢衛彦と漱石

  小説家兼民俗学者として本学の教授も務めた藤沢衛彦(18851967)は、実は夏目漱石の教え子だった。明治39年(1906年)に一旦開講された文科へ入学したからである。

藤沢が当時を思い出して各所に寄稿した文章が、駿河台文学会会報「駿河台 第4号」に再録されている。それによると、文科第一期の学生は十八人、聴講生多数だったとのこと。

藤沢は、漱石から英文学史やサッカレー「ヘンリ・エズモンド」などの講義を受けている。漱石とは、教師一人学生一人の対面授業だった。皮肉癖の漱石は思いの外人気がなく、選択する学生が少なかったからである。当時の漱石は「吾輩は猫である」を雑誌「ホトトギス」に連載中で、休み時間に火鉢を囲んでは、その構想や苦労話を聞かされたとのこと。

ほかに、上田敏からは神話、聖書、古代演劇、キーツやロセッティの英詩の講義を聴き、ラテン語の手解きも受けたとのこと。佐々醒雪の日本文学史の講義からも影響を受けており、田岡嶺雲には寄稿先の雑誌社紹介で世話になったようである。

後年藤沢は、校歌の結びに「〽明治その名ぞ吾等が母校」の歌詞を入れさせたのは自分だと得意げに語っている。因みに、藤沢衛彦の主要著作は、「日本伝説叢書 13巻」及び「図説 日本民俗学全集全8巻」である。

 

 時は変わって昭和6年(1931年)、大学が創立五十周年を迎えると、長らく休部となっていた文科を復活させようという運動が興って来る。この頃には大学に多少の余裕も出て来たようで、明くる昭和7年(1932年)、三年制の文科専門部文芸科として文学部の再興がなった。

 この「文芸科」では、他大学との差別化を図るため、独自のユニークな教育が行われた。

当時既に文壇で活躍していた山本有三が初代文芸科長に迎えられ、カリキュラム編成等の権限も付与された。この山本の下で実務を取り仕切ったのが、吉田甲子太郎だった。

また岸田國士、豊島与志雄、横光利一、里見弴、獅子文六(岩田豊雄)、久保田万太郎、三宅周太郎、小林秀雄、谷川徹三、土屋文明、萩原朔太郎、舟橋聖一、阿部知二、今日出海、高橋健二、米川正夫、辰野隆、長与善郎、吉野源三郎らも教員として名を連ねていた。

 駿河台文学会会報「駿河台」のバックナンバーには、当時の講義を振り返った文芸科卒業生達の証言が多数掲載されている。それらによると、文芸科第一期の学生は約六十人で、横光利一組、里見弴組、岸田國士組、豊島与志雄組の四つの演習に振り分けられたとのこと。正規の教員による講義の他、菊池寛、山田耕筰、長谷川如是閑、室生犀星、倉田百三など、特別に招聘された講師による授業もあり、劇団、劇場、精神病院、小菅刑務所を訪問する教育実習が随時組み込まれていたようである。

 山本有三は文芸科の育成に心血注いだ。この姿に応えて、他の文士達も真剣に講義を行った。彼らのこの姿が、多くの学生に終生忘れられない強い感動を与えたようなのである。これは、会報「駿河台」にある卒業生達の言葉を借りれば、「我々は知識や技能を授けられたのではない。人間文士から直接薫陶を受けたのだ」という表現になる。部外者である英文学者の由良君美は、後年古書展で当時の「文芸科卒業作品集」に当たる書籍を入手している。そして、学生達への深い思い遣りに溢れた横光利一の跋文に注目、昭和56年(1981年)から刊行された「定本・横光利一全集 17巻」(河出書房新社)の月報にそれを引用して批評している。

 しかしこの文芸科も、そう長くは続かなかった。戦争の進行と共に教師が軍に徴用され、学生が軍需工場へと動員されたからである。他大学同様、戦後の本学文学部は文部省の指針に沿った新制大学となったので、実質的に「文芸科」は十年余で終わったのである。

「文芸科」の資料としては、明治大学文学部五十年史編纂委員会による「明治大学文学部五十年史」「明治大学文学部五十年史 資料叢書 12冊」、藤川能「わが巨匠たち―回想の文芸科―」(緑地社)などがある。

 

 定まった文芸同人誌がないというのも、如何にも都合が悪い。相当数の学生が居るか、文学部があれば、習作を試みる者が必ず出て来るからである。駿河台文学会会報「駿河台」のバックナンバーには、かつて昭和11年(136年)に「明大文学」が、昭和14年(139年)頃に「駿台文学」が、昭和24年(149年)頃に「駿河台文学」が、昭和27年(1952年)頃に「明大文芸」が、昭和47年(1972年)から昭和55年(1980年)までの間「駿河台文学」が存在したと記録されている。何れも、短い期間で終わった同人誌だった。

 昭和57年(1982年)は、「文芸科」創立五十周年に当たる記念すべき年であった。この年十月に確かに記念式典は行われたのだが、それを遡ること二、三年前から、式典の準備や初代文芸科長・山本有三七回忌法要などを目的に、第一期生を中心に文芸科初期卒業生が集まる機会が重なったのである。

卒業生には新聞・出版・放送業界を退職した者も多かったのだが、そこでは、古希を目前にした皆の口から「文芸科の文学精神の継承と発展」という言葉が漏れた。そして、何度も会合を重ねて、昭和55年(1980年)4月の駿河台文学会の結成と昭和59年(1984年)10月の文芸同人誌「駿河台文芸」の創刊へと発展させたのである。

 文学会の結成では、求心力の維持と活動の方向性決定に苦労したようである。当時「文芸科」教員の内、里見弴、小林秀雄、今日出海、高橋健二師が長寿にして存命されており、特に里見弴師には九十一歳にして駿河台文学会・名誉会長に就任して戴くなど、再び世話になったのである。三号まで刊行していた「駿河台文学」は、「駿河台文芸」に合流した。

 

誌名の由来

 上に述べた「駿河台文学」及び「駿河台文芸」創刊に当たっては、「早稲田文学」「三田文学」という歴史ある他大学の二大文芸誌を多分に意識し、敬意を払っている。

 これら二大誌の名は、大学発祥の地である本部所在地の「地名」+「文学」という構成になっている。「駿河台文学」もこれに倣って、大学発祥の地である本部所在地の「駿河台」+「文学」という構成を採った。後発の「駿河台文芸」は、先発の「駿河台文学」との違いを強調するため、また、「文芸科」に敬意を払って二字貰うことにして、「文学」の代わりに「文芸」を充てたのである。

 なお、駿河台地区には明治初期以来、現在まで大学数校と多くの各種学校、病院が林立している。「駿河台文学」ないしは「駿河台文芸」を名乗る雑誌が他に存在する可能性も完全には否定出来ない。しかし、本学の発祥の地であり、現在の本部所在地である場所の住所は「東京都千代田区神田駿河台一丁目一番地」なのであり、「駿河台」を名乗る資格は充分にある。

 

 以上が、「駿河台文芸」創刊までの大まかな流れである。本学は、他校にあっても無いものが幾つもある大学であった。

しかし、仮に誇れるものが一つあるとすれば、それは、学生や卒業生の中から「無いなら、自分たちで作ろうじゃないか!」と言い出す者が現れて、これが輪のように広がり、実現させて来た歴史である。大学当局や文部省など上から与えられるのではなく、何時も下から積み上げて来た伝統である。

関東大震災とその後の大火により灰燼に帰した学舎を前に、在学生まで建設工事に参加して再興を急いだというエピソードも伝わっている。「駿河台文芸」もまた、そのようにして創刊されたということを敢えて記して、筆を擱きたい。

 

 

「駿河台文芸」を発行する駿河台文学会の現在の基本的な考え方は、以下の三点です。


    一、継続性について

 初期文芸科卒業生の殆どの方が既に鬼籍に入られました。その内数人が最晩年に言い残した言葉です。「とにかく、雑誌は出し続けなさい。そして、若い世代に引き継ぎなさい」この遺言は守ります。
 
    二、大学の文芸同人誌について

 「本が売れない」とか「小説が読まれない」と聞いて久しくなります。戦争を挟んで昭和 の時代に隆盛を極めた文芸ジャーナリズムも、或いは、転換点を迎えているのかも知れません。

今後とも商業的に採算が合う分野は、株式会社の出版社が担当して行くのは当然として、採算が合わない分野では、大学及び大学の文芸同人誌が担う分野があると考えています。
 現在に於いても、これからも。
 
    三、
文芸同人会運営、雑誌発行の手法について


 当会は、グーテンベルク以来の紙に印刷して製本した形の雑誌、書籍に対して、特にこだわりを持っておりません。その時代、その時代に於いて最も効率的な社会基盤とツールを使用して、より効果的な実績を上げたいと考えております。
 


 
 
 

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