駿河台文芸 Surugadai Bungei
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駿河台書評 書評2 書評3    

駿河台書評 3 (41号~)


毎号の「駿河台文芸」書評欄に掲載された全書評を公開している。

毎号の書評対象書籍は、以下の選定基準に該当する、最近一、二年の本を採り上げている。

 一、校友の著作 及び 校友について書かれた本
 二、明治大学 若しくは 明治大学の施設について書かれた本
 三、明治大学の教職員 及び 教職員だった方の著作

 全体の構成。巻頭に最新号の書評を掲げ、次に「駿河台文芸21号」までの書評を遡る形で、新しいもの順に並べてある。

 書籍名、書評者名から探す場合は、「バックナンバー」の項の「目次欄」を検索のこと。著者名、批評対象者から探す場合は、以下の「人名索引」を参照のこと。

人名索引

あ行 秋田光彦→23号/阿久悠→36号,35号/荒木優太→40号,39号,32号/安藤貴樹→39号/
    安藤元雄→38号/猪谷千香→38号,27号/池田功→28号,24号/
    石津謙介→24号/石田波郷→24号/伊藤文隆→29号/伊能秀明→22号/
    猪瀬直樹→25号/今井昌雄→26号/植村直己→37号/枝元なほみ→37号/
    大岡信→40号,34号,32号,30号/太田伸之→29号/大塚初重→40号,30号,29号/
    岡本喜八→31号,24号/
    小川和佑→30号/荻原博子→40号,35号,32号,27号/尾佐竹猛→32号/小田切徳美→29号/
    小幡一→36号
か行 海沼実→37号/垣谷美雨→40号,37号/鹿島茂→33号,28号/片山修→37号/
    唐十郎→34号,24号/川島雄三→37号/川村毅→39号,27号/菊田守→36号,32号/
   菊池清麿→39号,33号,31号,28号,26号,25号/北島忠治→39号,36号/北島治彦→36号/
    木下唯志→37号/木村礎→30号/熊崎勝彦→39号/
    黒崎敏→29号/刑事博物館→22号/小林広一→22号/近藤大介→37号/
さ行 西郷真理子→30号/斎藤緑雨→22号/塩路一郎→25号/周恩来→33号/杉村冨生→30号/
    進一男→25号/須田努→37号/勢古浩爾→36号
た行 高倉健→25号/田部武雄→28号/田宮寛之→34号/田村隆一→23号/張競→30号/
    辻征夫→29号/土屋恵一郎→28号/寺島善一→38号/天童荒太→27号/徳田武→30号/
    豊島与志雄→35号/鳥塚亮→26号
な行 中沢けい→27号/西田敏行→33号/西谷能雄→21号/根深誠→36号
は行 橋川文三→37号,29号,27号/橋本正樹→23号/羽田圭介→30号/藤原智美→28号,23号/
    星野仙一→36号/堀口茉純→32号/
ま行 丸川哲史→23号/三木武夫→38号/右山昌一郎→28号/溝上憲文→26号/
    宮嶋繁明→29号/明士会→28号/
    明治大学史資料センター→38号/明治大学博物館→38号/
    明治大学博物館 刑事部門→22号/明治大学平和教育登戸研究所資料館→22号/
    目黒考二→30号/盛田隆二→27号/森永康平→39号/諸富祥彦→40号
や行 山川博功→34号/吉村武彦→38号,37号/米沢嘉博→38号,24号
ら行 陸軍登戸研究所→22号


「駿河台文芸 第39号」2020年11月15日


荒木優太 編著『在野研究ビギナーズー勝手にはじめる研究生活ー』明石書店
2019年 (多田統一)


 本誌「32号」書評欄では、荒木優太氏の前書『これからのエリック・ホッファーのためにー在野研究者の生と心得ー』を採り上げた。その本で荒木氏は、在野研究の意義を述べ、著名人十六人の事績を辿ることで業績を上げることは信念と方法次第であると例示した。
 また、情報通信とデジタル機器が日々進化し続ける現代は、在野研究に有利な時代だとも示唆する。大学か研究所への所属なしでは困難だったことも、次々と可能になったからである。
 本書は、前書の実践編に当たる。前書の多くの読者が、出版を待ち焦がれていた実例集なのである。「働きながら論文を書く」「学問的なものの周辺」「新しいコミュニティと大学の再利用」の三部で構成されているが、今回は多分野の多彩な在野研究者の協力を得て、その研究方法と生活のノウハウが詳しく紹介されている。
 本書を見るだけでも、在野研究者間のネットワークづくり、編集能力に長けた荒木氏ではあるが、自らも在野研究者の一人として執筆している。その論考「貧しい出版私史」に触れてみよう。
 荒木氏はイバン・イリイチの『学校のない社会』を紹介し、〃先見の明〃のプロメテウスと〃後知恵〃のエピメテウスを比較している。付け焼き刃であるが臨機応変のプロメテウスに、自由な学びの良さを見出している。それは、インターネットの中のラーニング・ウェブの自由さに繋がる。「私にとって研究とは本を順番通りに読まない技術の体系だ」と述べている。
 荒木氏の専攻は、日本近代文学である。文学は「アカデミズムとは距離をとって受け継がれてきた知の系譜」と捉えている。まず彼が始めたのは、自分の論文を広く届けるための電子書籍づくりである。学問は、学者のためだけにあるのではないとの信念からである。
 ダウンロードの操作も魅力的である。データとして他人のパソコンに潜り込み、文書保管庫として活用できるのが素晴らしい点だと述べている。
 紙の書籍は、それまで貯めてきた論考群を一貫したテーマに纏めるという目的がある。そのことで、一応研究上のケジメがつくと言う。ネットが常に修正を迫られるのとは違う。紙ベースでも、校正作業は自分が他人になる時である。他人になるには、普段の読み方から別の読み方を考案する必要性に迫られる。声を出して読むという提案が面白い。
 荒木氏は、鶴見俊輔の評論「サークルと学問」(『思想』1963年1月)を紹介、権威主義的なものにも商業主義的なものにも組み込まれない在野の知を指摘している。
 彼は、「私は私自身よりも私が書いたテクストのほうがずっと好きだ」と述べている。研究的テクストが評価されるのは、属人性を超えているところにある。それは、大学者であればあるほどそうで、仕事に対する評価である。でも、そのことを味気なく感じるのも事実であろう。
 荒木優太氏は、1987年東京生まれ。明治大学大学院日本文学専攻博士前期課程修了。2015年、『反偶然の共生空間―愛と正義のジョン・ロールズ』で第59回群像新人評論優秀賞受賞。
 著書に『小林多喜二と埴谷雄高』『これからのエリック・ホッファーのためにー在野研究者の生と心得ー』ほかがある。


安藤貴樹『紫紺の誇り ー明大ラグビー部に受け継がれる北島イズムー』
ベースボール・マガジン社 2019年 (多田統一)


 本書の構成は、次の通りである。

序 章 北島忠治が遺したかったもの
       ~勝つためだけのラグビーはやらない~
第一章 Exceedから真価へ
~乗り越え続けるために~
第二章 美しい地獄 ~ルビコンを渡った男たち~
第三章 暁のペガサス~明大ラグビー部の創世期~
第四章 陰たちの誇り ~ある無名選手の八幡山~
第五章 アナザーストーリーズ
~楕円に宿る人間模様~
終 章 こぶしの花 ~北島忠治の原点を求めて~

 序章では、フェアプレーと基本の徹底を重んじた北島忠治のラグビー指導、人間指導が紹介されている。北島は、1928年に主将となり翌年初代監督に就任、以来67年間にわたり明大ラグビー部を率いた。その伝説の監督が遺した言葉から、ラグビー哲学を探っている。「勝つためだけのラグビーはやらない」という北島の信念は、長い監督生活の中で終始一貫している。その源泉は、少年時代の相撲にあると著者は述べている。
 晩年の北島は、指導者としてラグビーの理論はあまり語らなかったと言われる。しかし、1972~73年、シーズンの主将を務めた高田司の話から、決してそうではなかったことを紹介している。ニュージーランド遠征で話されたスクラム理論などは、実にきめ細かなものだったようである。
 2019年の全国大学選手権で、明大ラグビー部は22年ぶりの優勝を果たした。第一章では、優勝に導いた田中澄憲監督や田中監督へバトンを渡した丹羽政彦監督が、北島イズムをどう継承してきたのかについて述べている。
 力があるのに得点できない時代の明治の最大の課題は、Fwの孤立だった。田中監督は、攻撃エリアを3分割し、相手ディフェンスの薄い所を狙わせた。これは、コンクリに穴をあけるような地味な作業である。先制してそのまま逃げ切る試合の多い天理には、接戦の経験が少ない。相手の焦りもあって、チーム全員が持つ力を出し尽くすことで勝利することができた。これは、北島の十訓にある「団結して敵に当たれ」と言う教えそのものである。
 田中監督は、優勝したことよりチームが力を出し尽くしたことを評価している。これこそ、北島イズムではないかと著者は述べている。
 第二章では、誰もが知る「雨の慶明戦」、「雪の早明戦」から、北島イズムとは何かについて述べている。
 いわゆる「雨の慶明戦」は、1986年1月4日の第22回全国大学選手権の決勝として国立霞ヶ丘競技場で行なわれた。この日は、特に寒い雨のゲームであった。明治は、あえてジャージを代えなかった。試合は同点で両校優勝、明治は通算6度目の日本一に輝いた。明治が3点ビハインドの後半30分、南隆雄主将のペナルティーゴールで同点に追いつき、引き分けノーサイド。しかし、「あそこはスクラムだったんじゃないのか」と北島は静かな怒りに震えた。
 「雪の早明戦」は、1987年12月6日国立霞ヶ丘競技場で行なわれた関東大学対抗戦である。この日も、実に寒かった。ゲームは、後半早稲田が10対7でリード、明治は早稲田陣内でペナルティーを得、大西一平主将がFwの突進を選択した。結果的に明治は敗れたが、「ただ勝つだけのラグビーではない」というのが北島監督の考えである。目の前で為す術もなく見ていたのが、後に監督になる一年生の丹羽政彦だった。
 明大ラグビー部は、2023年に創部百周年を迎える。第三章では、その創成期の出来事が紹介されている。関東大震災の前年の1922年、北島は20歳で明治の予科に入学した。明大ラグビー部の誕生は関東大震災の5ヶ月前、野美一夫が率いる正式の部として産声をあげた。初陣は、12月18日の慶応戦であるが0対60で負けた。国内史上最多失点の公式記録として残っている。
 第四章では、試合には出られなくても、八幡山合宿所で過ごしたその他の部員たちに対する北島の思いが綴られている。すべての試合が終わると、北島はそのような四年生部員を自宅に招いた。「本当に偉かったのは試合に出たヤツらじゃなくておまえたちだよ」と言って、社会に送り出したと言われている。
 北島は、部員一人一人の取り組みを、誰もが驚くほど細かく観察していたのである。それを聞いた部員たちは、一生の宝物として大事にしたに違いない。
 第五章では、北島監督と明大ラグビー部を支えた面々との人間模様が紹介されている。特に夫人の北島みゆきは、部員たちの心の母として生活全般を支えた。その夫人が他界した時、「私がラグビー一筋に打ち込めたのも、みゆきのおかげです」と北島は述べている。その言葉は、部員・OBたちの心にも深く沁みたことであろう。
 第六章では、北島忠治の故郷を訪ね、ゆかりの人々や生まれ育った風景に触れることで、北島イズムの原点を探っている。北島は、1901年新潟県東頚城郡安塚村に生まれた。日露戦争で父を亡くし、母が再婚したため母の実家で育った。そして、12歳の時、母の姉が暮らす新宿区牛込に上京する。
 明大入学後、すぐ陸軍第13師団高田連隊に入隊する。その場所は、現在では市営高田公園陸上競技場になっている。ここで、2018年6月明治と同志社の招待試合が「北島忠治メモリアル試合」として行なわれた。
 著者の安藤貴樹氏は、明治大学卒業のスポーツライター。東京中日スポーツ、デイリースポーツ、日刊ゲンダイの記者として執筆活動を行なっている。
 スポーツライターとして長年の経験が、試合展開の解説や監督の細かな心理描写に生かされている。欲を言えば、年表や図を使って、スポーツに詳しくない人たちにも分かりやすい解説をしてもらいたかった。

熊崎勝彦、聞き手・鎌田靖『平成重大事件の深層 ―伝説の特捜検事が語るー 』
中公新書ラクレ 2020年 (長瀧孝仁)


 本書の語り手は東京地検特捜部勤務が十一年と長く、巨額脱税事件で取調べた金丸信元自由民主党副総裁から全面自供を引き出すなど、その辣腕ぶりで当時から知る人ぞ知る元検察官。近いところではプロ野球のコミッショナーとして、また今年、黒川弘務元東京高検検事長の定年延長と検察庁法改正案について反対の世論が盛り上がった時、検察官OB三十八人を代表して反対の意見書を法務省に提出したことでも知られている。政府の政治的且つ牽強附会的な検察庁への人事介入は、検察の独立性、政治的中立性を損なうとの主旨である。
 本書のインタビュー企画は中央公論社の編集部による。聞き手には、以前から特捜のあり方について問題意識を持ち熊崎勝彦氏とも旧知の仲ということで、元NHK解説委員の鎌田靖氏に白羽の矢が立った。同氏は、池上彰氏の後を継いで二〇〇五年から四年間NHK番組「週刊こどもニュース」でお父さん役を務め、世間に広く顔を知られた方。定年退職後も、民放局のワイドショーなどに出演している。NHK社会部記者時代、検察担当になった途端にリクルート事件が起こり、鎌田氏は記者対特捜検事という関係で熊崎氏と出会っている。検察担当を外れてからも、往き来はあったそうである。こういう背景を基礎にして、八日間に亘る延べ二十五時間のインタビューが実行された。
 目次を追うと、捜査担当順にリクルート事件、共和汚職事件、金丸信元自由民主党副総裁の巨額脱税事件、ゼネコン汚職事件、四大証券・大手銀行による総会屋への利益供与事件、大蔵省汚職事件と並んでいる。公務員の守秘義務やその立場上話せることも一部に限られると思うのだが、繙いてみるとなかなか読ませる内容で、一気に読了してしまった。検察庁の組織図や聞き手の鎌田氏による各章の解説も理解の手助けになっている。
 熊崎氏は鎌田氏に水を向けられて「刑法に抵触するであろう社会の悪弊を次々と立件して来ただけだが、振り返ってみると、戦後日本の経済成長を支えた護送船団体制が自由競争社会へと変貌して行く時代の流れに並行していたのかも知れない」という趣旨のことも語っている。主要産業が業種ごとに各大手銀行の企業グループに色分けされて、グループ内での取引が最重視される旧弊は、新規企業の参入を困難なものにしていた。「系列取引」「アンフェア」などと言われ、とかく海外からの批判が多かった。これら企業グループ中核の大手銀行を特別に保護して来たのが、本丸の大蔵省なのであった。
 熊崎氏がさり気なく語る思い出話の中には、世話になった上司の実名も頻出する。その中には、伊藤栄樹(元検事総長)、吉永祐介(元検事総長)という懐かしい名前もある。ロッキード事件は評者が法学部在籍時に起こった大スキャンダルで、当時新聞、雑誌でよく見かけた検察官名は不思議と今でも覚えている。また、実名の部下も登場するが、その中には今年の時の人である黒川弘務(前東京高検検事長)、林眞琴(現検事総長)という名前もある。いつも全身全霊で仕事に取り組む語り手は当然上司の受けが良く、管理職に就いてからは、部下の一人一人まで思いやる細かな心遣いが話の端々から伝わって来る。
 テレビのニュースで象徴的に流される映像に、列をなした数十人の捜索部隊が関係先に入って、書類等押収した証拠品が入った数百個の段ボール箱を運び出す場面がある。実際の捜査班は、検事数人と検察事務官多数で構成されるようである。熊崎氏は、強い使命感と高度の知識を持つ専門官が居て初めて立件が出来ると、膨大な押収資料を解読、分析する特捜資料課の検察事務官に感謝の言葉を述べている。
          ○
 本書で最も興味深く読めたのは、プロ野球との関わりの章である。プロ野球こそ、語り手の人柄が十二分に発揮された舞台だと評者には思えたからである。検察庁退官後の二〇〇五年、第11代プロ野球コミッショナーの根来泰周氏(元東京高検検事長・元公正取引委員会委員長)から、コミッショナー顧問になって実務を担当するよう要請があった。熊崎氏は、選手の裏金問題や球団応援団から暴力団員を排除する実務に当たった。
 第12代コミッショナーの加藤良三氏(元駐米大使)は外交官として在米期間が長く、自ら大リーグ通を名乗る野球好きであった。二〇一一年度には同コミッショナー肝煎りで日本プロ野球界のボールの規格が統一され、四社で四種類あった公式球がミズノ社製の一種類に限定された。ここで、いわゆる「統一球問題」が起こる。語り手がコミッショナー顧問職にあったためか、本書では余り詳しく触れられていない。当時の新聞記事で補えば、「統一球問題」の背景とは次のようなものだ。
 統一球以前、ボールの選定はゲームを主催する各球団に委ねられていた。四社の硬球にはそれぞれ個性があって、打撃力や球場の関係からより有利なボールが採用されていた。また、WBCなど国際試合で大リーグのボールに触れる機会も増し、選手からは普段使いのボールとの違和感が出ていた。拙速ではあったが、記録の公平性や日本プロ野球の国際化という面では統一球は妥当な施策であった。しかし、選手・監督・コーチやミズノ社工場の職人など、働く現場への調査と根回しが欠けていた。上意下達で行われた。これが、禍根となった。
 二〇一一、二〇一二年度は低反発ゴム材を使用した「飛ばないボール」が使用され、投高打低のシーズンとなった。数字にも顕著に現れているが、本塁打が減り打率も下がってしまった。これではプロ野球として面白くないとの批判もあったのであろう。二〇一三年度からは未公表のまま、反発係数を上げた「飛ぶボール」が使用された。当然のことながらホームランが続出、打高投低へと変貌した。想像するに、毎日試合が続く各球団、チームの現場の混乱は如何なるものであったろうか?
 プロ野球事務局には原因の総てがわかっていたはずだが、シーズン途中には言い出せない理由があった。プロ野球で使用する硬球は熟練職人による手作りに近く、たとえ不良品が出たとしても、相当量の代替品を短期間に生産することは不可能だった。しかも、ミズノ一社に絞ったため、他社の協力を仰ぐことも難しかった。プロ野球選手にとって毎年の成績は年俸等契約内容に直結し、選手生命にも係わる重大事項である。遂に、選手会も声を上げた。マスコミからも強い非難の声が上がり、加藤コミッショナーは辞任へと追い込まれた。
 熊崎氏はこの問題にも駆り出された。もつれた紐をほどくように、現場を回って説明、説得して歩いた。同氏は「統一球問題」を完全収束させるため、二〇一四年から二〇一七年までの四年間、第13代プロ野球コミッショナーを務めることになった。
 評者の学生時代は、プロ野球選手に東京六大学出身者が多くない時期であった。本学出身者も少数派であった。当時は甲子園で活躍した有名球児にも、大学入学試験では筆記試験が課された。一九七七年ドラフト会議の騒動の主である江川卓氏を初め、希望大学に入れなかった後の大物プロ野球選手は多い。その後入試制度が変わり、本学出身者も増えて来ている。
 コミッショナーがプロ野球関係者全員に公平に接するのは当然のことだが、子供の頃は地元中日ドラゴンズのファンだった語り手にとって、各球団の選手・監督・コーチ及び職員に一定数の本学出身者が居ることは心強かったはずである。特にコミッショナー初年の二〇一四年度は、楽天イーグルスに星野仙一監督が居たのである。
 本書には、毎年恒例の十二球団キャンプ地を視察した時の様子も述べられている。七十代半ばの好好爺たる熊崎氏が、時としてグラウンドに下りて、円陣を組んだ孫のような若い選手たちに「暴力団員には近づくな。薬物、賭博には手を出すな。少年野球時からの努力が台無しになるぞ!」と発破を掛ける姿が目に浮かんで来る。青年、壮年期に目一杯奮闘すれば、老年に於いて悟りの境地に至るということだろう。自戒の書としたい。
 語り手は岐阜県益田郡萩原町(現・下呂市)出身。明治大学法学部卒業。東京地方検察庁特別捜査部長、富山地方検察庁検事正、前橋地方検察庁検事正、最高検察庁公安部長等を歴任後、弁護士開業。明治大学法科大学院客員教授、プロ野球コミッショナー顧問、プロ野球コミッショナー、吉本興業顧問なども歴任。

川村毅『クリシェ』論創社 2020年 (小林英実)

 この戯曲は金髪のジェーン人形が『パパへの手紙』を歌う場面で幕を開ける。人形の背後に立つ両親と姉ブランチは影のような存在だ。人形が歌い終えると、盛大な拍手が起き、その後にジェーン人形と父との会話がはじまる。私は腹話術師と人形の掛け合いだと思いこみ、唐十郎の戯曲『少女仮面』の冒頭シーンを想起してしまった。
 『少女仮面』は一九六九年に、「早稲田小劇場」のために唐十郎が書き下ろしたものだが、一九七〇年の第十五回岸田國士戯曲賞受賞の翌年に、唐が主宰する紅テントこと「状況劇場」でも上演された。そのときの腹話術師役は根津甚八(一九四七~二〇一六)。腹話術は彼の十八番である。根津は役者としての門出となった役だと、写真集『唐十郎と紅テントその一党――劇団状況劇場1964~1975』(白川書院刊)のなかで述懐している。そして、一九七八年十月と十一月に青山公園で上演された、根津甚八の、状況劇場最後の出演となった『河童』の冒頭シーンをも想起してしまった。根津目当ての女性ファンが殺到した紅テントは超満員で、私の入場整理番号は九百番台。立見だった。垂れさがる紅テントが視界を遮るので、終始右手でテントを持ちあげての観劇ではあったものの、目の前で人形と掛け合い漫才を繰り広げる腹話術師根津甚八の姿はいまもなお瞼に焼きついている。
 『クリシェ』の主人公ジェーンは老いてもなお、在りし日の子役スター時代のままで生きている。『少女仮面』の主人公である宝塚歌劇団史上最高の男役スター、春日野八千代と相通ずるものを感じずにはいられなかった。
 『クリシェ』はウイットに富んだ軽妙な台詞で進行してゆく。人物や場面の設定、シチュエーションが、ビリー・ワイルダー監督・オリジナル脚本共作のアメリカ映画『サンセット大通り』(一九五〇年公開)を髣髴とさせる。ブランチとジェーン姉妹のおどろおどろしい確執があっても、軽妙な台詞回しで笑いを誘う。最後のどんでん返しもまた巧妙で、楽しく一気に読み終えた。
 ところが、終幕後の次ページを読んで驚いた。
『この戯曲は映画「何がジェーンに起こったか?」、映画「サンセット大通り」からインスパイアされました。「オイディプス王」ソポクレス(福田恆存訳)、「コロノスのオイディプス」ソポクレス(高津春繁訳)から一部参照させていただきました。「サロメ」オスカー・ワイルド(福田恆存訳)から引用させていただきました。』
と記されてあるのだ。
 さらに『あとがき』には、創作に至ったモチベーションが詳細に語られている。要約すると、本作は一九九四年に、作者が当時主宰していた「第三エロチカ」の製作によって初演されたこと。ストーリーは、ロバート・アルドリッチ製作・監督のアメリカ映画『何がジェーンに起こったのか?』(一九六二年公開)によると言及している。
 この映画は彼が少年期に、脳内に刻印された大人の恐怖映画の一作で、そのほかにも、アルフレッド・ヒッチコック製作・監督のアメリカ映画『鳥』(一九六三年公開)、ジョルジュ・フランジュ監督のフランス映画『顔のない眼』(一九六〇年公開)、中川信夫監督の、新東宝の映画『東海道四谷怪談』(一九五九年公開)を列挙している。
 一九八九年、「第三エロチカ」時代に、彼は未来社から上梓された『グラン=ギニョル 恐怖の劇場』(フランソア・リヴィエール、ガブリエル・ヴィトコップ著。梁木靖弘訳)を手にして、十九世紀後半にパリで流行っていた「グラン・ギニョール(Gran Guignol)」という大衆向け娯楽恐怖劇に興味を持った。訳者のあとがきには、グラン・ギニョールのテイストに似たものとして、『顔のない眼』や『東海道四谷怪談』が取りあげられており、彼は自らが取り組まなければならないものだと直感し、『ネオ・グラン=ギニョル三部作』――(『何がジェーンに起こったか?』→)『クリシェ』、(『顔のない眼』→)『グラン=ギニョル』、(『東海道四谷怪談』→)『四谷怪談・解剖室』へ至ったと述懐している。また、かねてから、『自分は舞台俳優としては老いたる女という役柄に於いて力を発揮していたのではないかと気づいた』とも述べている。
 川村毅は還暦を迎えるにあたり、自分が演じられそうな老婆役を探した。結果、自作の『クリシェ』を選び、一九九四年時の戯曲を大幅に書き直して新作同然にしたという。そして本作は、二〇二〇年一月二十九日~二月二日に、〈あうるすぽっと〉にて上演された。彼は主演のジェーンを演じたと、開演日に発行された本書の巻末に記載されている。
 私はビデオで、『サンセット大通り』を再鑑賞し、『何がジェーンに起こったのか?』を初見した。
 ストーリーと登場人物は、『何がジェーンに起こったのか?』と『サンセット大通り』をミックスしたもの。『顔のない眼』は鑑賞していないけれども、そのシノプシスを読むかぎり混在している気がする。ジェーン人形や娘に、その姿が垣間見えるのだから。
 冒頭シーンは、会話も含めて『何がジェーンに起こったのか?』とほぼ同じ。『パパへの手紙』はこの映画の挿入歌だ。異なる点は人形が喋ることだけだった。
 次のシーンではジェーンに雇われた劇作家が殺されて、その顛末を回想しはじめる。これは『サンセット大通り』のファースト・シーンだ。この映画の主人公は、別の立場で『クリシェ』にも登場する。『サロメ』しかり。
 けれども、『クリシェ』はこれらの映画へのオマージュやパロディでもなければ、グラン・ギニョールの再現でもない。根底に何か別な思想がある気がしてならなくなった。
 それは「クリシェ(cliché)」という言葉。『広辞苑』(岩波書店刊)によると、『昔から言い古されてきた出来合いの表現やイメージ。また、独創性のない平凡な考え方。』となる。
 参考までにと、川村毅が一九八六年の第三十回岸田國士戯曲賞を受賞した『新宿八犬伝 第一巻―犬の誕生―』を読んでみた。その雰囲気は唐十郎の世界を標榜している。猥雑な台詞が劇空間を飛び交う。けれども、『少女仮面』のように、思わず吹きだしてしまうほどの滑稽さはないし、胸に刺さるほどの詩的且つ形而上学的な台詞でもない。いわゆる、「小劇場演劇」における「第一世代」と「第三世代」とのジェネレーション・ギャップなのかもしれない。
 しかし、作中である言葉が頭に引っかかった。それは「紋切り型」。めったやたらに用いられている。これは『クリシェ』でも同様だ。芝居の稽古の場面で、何度も「紋切り型に!」という演技指導が入るのだ。
 これも『広辞苑』から引用すると、『①紋形を切り抜くための型。②決まり切った形式。型どおりのやり方や見方。おさだまり。ステレオタイプ。』となる。「クリシェ」と類似した意味合いだ。
 わずかに二作を読み、観劇したこともないのに、断言するのはおこがましいけれども、「紋切り型」という言葉が彼の常套句ならば、川村毅の劇空間は紋切り型の演技による、紋切り型の世の中へのアンチテーゼである気がしてならない。
 最後に余談ではあるけれども、もしも時を引き返すことができるのならば、「第三エロチカ」の芝居小屋で、かつて看板女優だった深浦加奈子(一九六〇~二〇〇八)の艶姿を観てみたいものだ。

 著者は、一九五九(昭和三十四)年、東京生まれの横浜育ち。明治大学政経学部卒業。在学中の一九八〇年に、劇団「第三エロチカ」を旗揚げ(二〇一〇年解散)。一九八六年『新宿八犬伝 第一巻―犬の誕生―』にて第三十回岸田國士戯曲賞を受賞。二〇一三年『4』にて鶴屋南北戯曲賞、文化庁芸術選奨文部科学大臣賞受賞。現在、二〇〇二年に創立したプロデュースカンパニー「ティーファクトリー」を活動拠点としている。戯曲、小説ほか著書多数。


菊池清麿『昭和軍歌・軍国歌謡の歴史―歌と戦争の記憶―』
アルファベータブックス 2020年 (長瀧孝仁)


 著書に『日本流行歌変遷史 ―歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ―』『昭和演歌の歴史 ―その群像と時代―』という通史があるように、菊池氏は近現代日本の歌謡曲、流行歌分野で業績を上げて来た研究者。他著作の『永遠の歌姫 佐藤千夜子』『国境の町 ―東海林太郎とその時代―』『私の青空 二村定一 ―ジャズ・ソングと軽喜劇黄金時代―』『藤山一郎 歌唱の精神』などで歌手別に歌とその時代背景を掘り下げる一方、『中山晋平伝 ―近代日本流行歌の父―』『評伝 古賀政男 ―日本マンドリン&ギター史―』『評伝 服部良一 ―日本ジャズ&ポップス史―』『評伝 古関裕而 ―国民音楽樹立への途―』など、次々と大物作曲家の評伝も物して来た。
 また菊池氏には、『さすらいのメロディー 鳥取春陽伝 ―日本流行歌史の一断面・演歌とジャズを駆け抜けた男―』『流浪の作曲家 阿部武雄』という忘れられた作曲家に光を当てた労作もあれば、かつて名古屋に存在した一中小企業を取り上げた『ツルレコード 昭和流行歌物語』という真に観点がユニークな著書もある。
 日本の軍国主義の期間については諸説あろうが、仮に日清戦争開戦の一八九四年(明治27年)から一九四五年(昭和20年)の敗戦までの半世紀とすると、菊池氏の研究対象である歌謡曲、流行歌のかなりの部分がその五十年間に作られていることになる。菊池氏は本著に於いて観点を変えて、「軍歌・軍国歌謡の歴史」という切り口で、最早歌われることのない楽曲までを拾い上げて通史を書き上げた。
 本書は六百頁に余る浩瀚な研究書である。本篇で代表的な歌曲について、今や難解となった歌詞の意味を歴史的な背景、社会情勢や戦局を引いて詳説している。巻末の「主要楽曲ディスコグラフィー」には、一九二九年(昭和4年)から敗戦までの期間に発売された二千五百曲を超えるレコードについて、発売年月、タイトル、作詞者、作曲者、歌手、レコード会社が一覧表になって纏まっている。この数でも一部と言うのだから驚きである。
 あとがきで著者自身「類書がなかった」旨述べているが、本書は菊池氏にして初めて可能となった本なのだろう。著者は少年時代から音楽に造詣深く、学生時代は明治大学マンドリン倶楽部の一員として演奏生活を送った。一方、大学・大学院では橋川文三、後藤総一郎門下で政治思想史を学んでおり、本書は両者の交差点に位置付けられる。
          ○
 評者にとっては初めて題名を聞く楽曲がほぼ全部の上、日本の近代以降の戦争の戦局個々についても不案内、という訳で本篇を精読出来たとの自信はない。それでも気になった歌曲の歌詞の一部を以下に列挙してみる。

肉弾三勇士の歌(昭和7年5月/中野力作詞・
山田耕筰作曲/江文也歌唱/コロムビア)

戦友の屍を越えて
突撃する祖国のために
大君にささげし命
ああ忠烈肉弾三勇士

 満州事変後も軍事行動が拡大する中で、戦意昂揚を目的に軍部により肉弾三勇士という軍国美談が創作された。レコード会社間では、これをテーマにした歌曲が競作された。山田耕筰版、中山晋平版、古賀政男版、古関裕而版などがあった。右の歌詞は、全国で募集した朝日新聞社への応募作から選ばれたもの。

五・一五事件 昭和維新行進曲 海軍の歌
(昭和8年10月/畑中正澄作詞・黒田進作曲/黒田進歌唱/ツルレコード)

若き陸星殉国の 犠牲に勇む大和魂
昭和維新のそのために 起った決意の五・一五

ドンと一発革新の 烽火に揚る時の声
醒ませ悪夢を聞け眼を 寄せる黒潮なんと見る

 前年五月のこの事件は海陸軍若手急進派によるクーデター未遂で、犬養毅首相が暗殺された。体制側に対する謀反なのだが、農村の疲弊など経済恐慌後の国内の困窮もあって、世間には青年将校たちを喝采する風潮すらあった。
 名古屋の中小企業・ツルレコードは、この風潮に迎合する歌曲を収めたレコードを制作、しかも連発した。この態度が当局を刺激し、発売、演奏とも禁止された。レコードへの検閲が強化される契機となってしまった。

万歳ヒットラー・ユーゲント(昭和13年10月/北原白秋作詞・高階哲夫作曲/
藤原義江歌唱/ビクター)

燦たり輝く ハーケンクロイツ
ようこそ遙々 西なる盟友
いざ今見えん 朝日に迎えて
我等ぞ東亞の 青年日本
万歳ヒットラー・ユーゲント
万歳ナチス

 この年の八月、ナチス党の青年組織であるヒットラー・ユーゲントが来日した。朝日新聞社は、来日に合わせて右の青年愛国歌を企画した。日独伊三国同盟が締結されるのは、二年後のことになる。
 ところが、橋川文三『黄禍物語』には気になることが書かれている。A・ヒットラーは根っからの人種差別主義者で、『わが闘争』には「利用価値がなくなれば、日本人は抹殺すればいい」と記されているのだ。しかも、この考えは同盟締結後にも変わらなかったと言う。この歌曲の関係者は、余りにも「お目出度き人」だった。

敵の炎(昭和20年1月/サトウ・ハチロー作詞・
古賀政男作曲・江口夜詩編曲/伊藤久男、楠木繁夫歌唱/コロムビア)

憎き翼がけがす
祖国の蒼空
怒り心に 沸き立ち
握る拳ぞ
見よ 無礼な姿
敵の翼をば 残らず折るぞ
近き日 このかたき

 陸軍省報道部防空総司令部の推薦歌である。サイパン、テニアン、グアムなど日本列島の防衛ラインが次々に陥落すると、B―二九等の米軍機による本土空襲が始まった。
日本海軍は雷電、零戦、月光等の戦闘機で本土防空のための応戦を行った。

電撃隊出動の歌(昭和20年3月/米山忠雄作詞・
古関裕而作曲/霧島昇、波平暁男歌唱/日蓄)

天皇陛下 万歳と
最期の息に 振る翼
おおその翼 紅の
火玉と燃えて 体当たり

 東宝映画「電撃隊出動」の主題歌である。昭和十年代には、レコード化された映画主題歌の中から続々とヒット曲が生まれた歴史がある。
 電撃隊とは航空魚雷、即ち海軍の飛行機特攻隊のことである。海上に敵艦を見付けると、空母から出撃して命知らずの体当たりを試みた。

嗚呼神風特別攻撃隊(昭和20年3月/野村俊夫作詞・古関裕而作曲
/伊藤武雄、安西愛子歌唱/日蓄)

送るも往くも 今生の
別れと知れば ほほえみて
爆音高く 基地をける
あゝ海鷲の 肉弾行

 太平洋戦争も末期、敗戦が色濃くなると、神風特別攻撃隊が軍命で発令された。右の歌詞は、その神風隊を称えている。しかし何故だか、この歌曲は録音されたものの、市販されなかった「幻のレコード」になった。
 戦後になって歌い手を変えて改めて伊藤久男版と春日八郎版が制作され、傾聴者の涙を誘ったと言う。
          ○
 以下に本書を読んだ評者の感想を記しておく。初めて本書を繙いた時、巻末の「発売されたレコードの年表」を見て少なからずショックを受けたのである。というのも、一頁目の巻頭五曲目にして始めて作詞・作曲者が明記された楽曲が登場するが、

独立守備隊の歌/作詞 土井晩翠・
作曲 陸軍戸山学校軍楽隊・
歌唱 陸軍戸山学校軍楽隊/ビクター

とあったからである。九曲目には、次のようにある。

進軍/作詞 児玉花外・作曲 陸軍戸山学校軍楽隊・
歌唱 川崎豊/コロムビア

 実は晩翠は評者の出身高校校歌の作詞者であり、花外は明治大学校歌の作詞者である。軍歌の著名な作詞者だったとは露知らず、青春期には校歌を歌っていたのである。
 明治期には、廃藩置県により荒廃した城址が全国に散在していた。瀧廉太郎の曲で知られる「荒城の月」は、そんな城址を照らす月を漢文調で高らかに歌い上げている。評者が晩翠に懐くイメージは、その程度のものだった。花外の代表作は発禁処分となった『社会主義詩集』である。恐らく詩人は、社会の底辺にまで目が届く優しい人だと思って来たのである。しかし、レコードの年表を繰ると、両詩人とも少なからず軍歌を作詞していたのである。
 軍歌専門の作詞者もいたのだろうが、巻末の年表に拠って、他分野で業績を遺しながら軍歌も作詞した文人を列挙してみる。詩人は土井晩翠、児玉花外に加えて、野口雨情、高村光太郎、相馬御風、北原白秋、西條八十、尾崎喜八、佐藤春夫、安西冬衛、三好達治、サトウ・ハチローなど。歌人は佐佐木信綱、与謝野鉄幹・晶子夫妻、土岐善麿など。小説家は山田美妙、吉川英治、小島政二郎、牧逸馬(=丹下左膳の作者・林不忘)、林芙美子など。児童文学者は巌谷小波、浜田広介、石森延男など。劇作家の菊田一夫、芸能研究家の正岡容、ジャーナリストの徳富蘇峰、漫画家の岡本一平、横山隆一などである。
 これら一人一人の経歴に当たってみると、短期間か生涯を通じてかは別にして、共通して国粋思想に共鳴した時期を持つようだ。彼らの内、特に軍歌に関わった年月が長く作詞数も多い「プロの軍歌作詞家」と言えるのは、土井晩翠、佐佐木信綱、西條八十、北原白秋、サトウ・ハチローであろう。
          ○
 先に「校歌の作詞者は、実は軍歌も作詞していた」と書いたが、これは評者の認識不足であった。この書評を書いている最中、須田珠生『校歌の誕生』という本が上梓され、「校歌作成に当たって、軍歌の作詞、作曲者に校歌もお願いした」というのが実情だったことが分かったからである。かつて読んだ文部省の唱歌についての概略記事と先に列挙した菊池氏の多くの著作から得た知識と『校歌の誕生』の内容を併せると、近現代日本の歌謡曲についての評者の理解は次のようなものになる。
 近代化を目指す我が国は欧米に倣ってカリキュラムに音楽の授業も組み込んだものの、明治初期には学校に伴奏楽器もなく音楽教育の人材も居らず、歌うに値する楽曲すらなかった。幕末から明治初期の本邦楽曲とは、花柳界発祥の音曲、伝統芸能の伴奏曲、未だ採譜すらされていない各地の民謡、わらべうた、俗謡であった。文部省はこれらを近代教育に相応しくないものとして遠ざけ、独自の唱歌の作成・編集を急いだ。このため文部省は、当面音楽の時間に当たる「唱歌」「奏楽」を必須科目から外し、学校儀式での斉唱のみを義務付けた。そして、当時あった楽曲から軍歌を推奨したのである。校歌の歴史は、「より相応しい曲を我が校にも」という学校関係者の切実な思いから始まっている。
 明治期に盛んに作られた楽曲は、賛美歌、軍歌、文部省の唱歌であろう。目的が明確で、確固たる後ろ楯があるジャンルの歌曲である。これらを本流に海外から時代ごとに音楽の大きな流れが流入し、花柳界の音曲等の本邦楽曲も流れ込んで、日本の歌謡曲は飛躍的に発展して現代に至っている。但し、一九四五年(昭和20年)の敗戦及び占領政策というフィルターを通してということだろう。
 フィルターでの選別は、歌詞の内容に拠った。戦争、戦闘、軍隊、アジア地域への進軍を称賛する歌詞。反米若しくは反米的な歌詞。忠君、忠魂、滅私奉公、八紘一宇などの戦時体制下の標語が含まれる歌詞。皇国史観に基づく神武、神風、烈士、或いは楠木正成に関する用語等が含まれる歌詞。……これらの歌詞は、戦後の価値観では転倒していて到底歌えないのである。歌曲も、戦争による国民一人一人の悲惨な思い出と結び付いている場合が多かった。
 結果として、ほぼ全部の軍歌・軍国歌謡と唱歌の半ば以上が、八月十五日を境に必然的に歌い辛くなった。昭和を振り返る教養番組、戦前・戦中を扱ったドラマの挿入歌を例外として、ラジオ・テレビでは軍歌・軍国歌謡は殆ど掛からない。「花」「荒城の月」「旅愁」「野なかの薔薇」などフィルターを通過した一部の唱歌のみ、戦後教育でも歌われた。現在八十歳以下の日本人は皆、これら歌われることのない楽曲を先ず知らないのである。
          ○
 兵隊三部作『麦と兵隊』『土と兵隊』『花と兵隊』を書いた従軍作家・火野葦平は本書にも登場する。『麦と兵隊』がベストセラーとなり、日活で映画化され、東海林太郎が歌うその主題歌「麦と兵隊」のレコードもヒットしている。しかし、戦後は価値観の変転に付いて行けず、戦争協力者という汚名を着たまま生活困窮の内に自殺した。
 また、軍歌も作詞した高村光太郎は、多くの戦争賛美詩を書いたことでも知られている。この為、親しかった宮澤賢治の遺族を頼って戦後の七年間、岩手県花巻市郊外の森の中に隠棲した。有名な話だが、藤田嗣治は戦後故国日本を捨ててパリに永住した。多数の戦争画を描いた姿勢が強く批判されたからである。
 ここで気になるのが、軍歌・軍国歌謡の作詞者、作曲者、歌手の戦争責任の問題である。この書評を書いている時点で、朝のNHK「連続テレビ小説」は古関裕而がモデルだと言われる「エール」が放映中である。この件について作曲家の三枝成彰氏は、新聞紙上に持つ専属コラム欄で「古関裕而は軍歌・軍国歌謡の作曲家」と一刀両断している。百曲以上の軍歌・軍国歌謡を作曲した山田耕筰が第一番の戦争協力者とすれば、古関はその次だと言う。戦後ドイツでは、指揮者・フルトベングラーや作曲家・リヒャルト・シュトラウスも厳しく指弾されて暫く復権出来なかった歴史があるのに、日本の戦争責任追及姿勢は極めて曖昧だとも言っている。
 確かに、古関には「暁に祈る」「露営の歌」など軍国歌謡の大ヒット曲がある一方、「突撃喇叭(ラッパ)鳴り渡る(一億総蹶起(けっき)の歌)」「比島決戦の歌」など作曲した戦意昂揚歌も少なくない。戦争が長引き嫌気が差す国民に、尚も戦闘意欲を煽った責任は免れられないだろう。先に紹介した菊池氏の『評伝 古関裕而 ―国民音楽樹立への途―』に拠れば、他人に言われるまでもなく、そのことを一番分かっていたのは古関自身だった。敗戦という現実を前に、古関は自身の収監、若しくは音楽活動の禁止を覚悟したのかも知れない。
 しかし、GHQが娯楽分野の戦争責任を問うことはなかった。本書でも触れられているが、一九三七年(昭和12年)近衛文麿内閣は国民精神総動員の運動を開始している。音楽には人の情感に訴え掛けて大衆を煽動出来る作用があることを熟知していたようで、レコード会社のみならず、映画会社、放送局、新聞社、出版社などにも働き掛けて国民の戦意昂揚を企図した。軍歌・軍国歌謡の関係者は、この運動に踊らされたという解釈なのだろう。
 結果として戦後の歌謡曲、流行歌は、軍歌・軍国歌謡で活躍した作曲家、歌手とほぼ同じ顔触れでスタートすることになった。佐佐木信綱の受章は戦前であるが、土井晩翠、山田耕筰へは戦後になって文化勲章が授与されている。古賀政男、藤山一郎へは、新設の国民栄誉賞が授与された。軍歌・軍国歌謡の若き歌い手だった安西愛子と李香蘭(山口淑子)は一九七〇年代に自由民主党の参議院議員になり、共に三期十八年を務めている。これらのニュースが報道されても戦中の経歴には触れられないため、国民の多くは彼らが軍歌・軍国歌謡で活躍していた事実を殆ど知らないままだった。
 本書では「どの時代に於いても、軍歌・軍国歌謡が歌謡曲の全てだったことはない」と強調されている。担い手が同じなのだから、軍歌・軍国歌謡を含む戦前・戦中の歌謡曲と戦後の歌謡曲は音楽面では連続しており、言い換えれば、戦後の歌謡曲は軍歌・軍国歌謡からも大きな影響を受けているのであろう。評者には音楽の知識がないので断定は出来ないが、このことは本書の著者・菊池氏は勿論、歌謡曲、流行歌に詳しい人たちの共通認識なのではないだろうか。そして、今回菊池氏が本書を出版した意図を次のように想像してみた。果たしてどうだろうか?
 軍歌・軍国歌謡に関わった人たちの大半は既に鬼籍に入った。一方で、今や日本人の多くが軍歌・軍国歌謡の楽曲を知らず、国民の記憶からも歴史からも消え去ろうとしている。賛否両論はあろうが、少なからざる影響を受けて来たのだから、ここは戦後歌謡曲を知る上でも、軍歌・軍国歌謡を今一度整理して、詳しく分析してみなければならない。

森永康平『MMTが日本を救う』宝島社新書 2020年 (長瀧孝仁)

 MMTとは昨年辺りから新聞、テレビ等でよく耳にするようになった経済用語である。経済界というよりも、寧ろ政界でよく使われているように思われる。そして、この用語に付き纏うイメージは「いかがわしい」「眉唾物」「トンデモ理論」というものではないだろうか? 「打出の小槌」を手に入れたかのように、「国家の財政赤字の大きさなど気にする必要はなく、インフレになるまでは幾ら歳出を拡大し続けても構わない」という意味に使われているようだ。国家財政健全化のための増税策とは対極の考え方である。
 MMTとはModern Monetary Theory の頭文字を並べた略語で、本書では「現代貨幣理論」と訳している。現在はそのMMTという経済用語が独り歩きをしている感があるが、実は真の意味を理解している人は少ない。経済学という専門分野の話で、理論も難解と来ている。今回本書を読んで初めて評者に分かったことは、「MMTは経済政策ではなく、国家財政を会計論で捉えようとする違った枠組みによる見方なのだ」ということだった。
 本書は新書であって、MMTを専門的に解説した書物ではない。その叙述のスタイルは、限られた頁数の中に先ず現在日本の経済状況を解説し、一通り経済学の基礎知識にも当たってキーワードとなる経済用語も解説し、その中にMMTの説明をコンパクトに入れ込んでいる。経済の基礎用語とは、景気動向指数(CI)、日銀短観(全国企業短期経済観測調査)、デフレスパイラル、インバウンド、シェールオイル、グリーン・ニューディール政策など新聞の経済欄に載っている用語もあれば、複式簿記、金融政策、財政政策、乗数効果、流動性の罠、クラウディング・アウト、マンデル=フレミング効果、ビルトイン・スタビライザー、三面等価の原則など経済学書を繙かないと詳しく説明出来ない用語も含んでいる。
 本題のMMTの解説に当たっては、第4章と第5章の二章を当てている。決して易しくはないこのテーマについて、紙幅を割いて様々の角度から意を尽くした説明がなされている。様々の角度とは、信用貨幣論、ウオーレン・モズラーの名刺、スペンディング・ファースト、統合政府、機能的財政論、租税政策論、外生的貨幣供給理論、内生的貨幣供給理論、ストック・フロー一貫モデル、ジョブ・ギャランティー・プログラム(JGP/就業保証プログラム)、財政健全化、ハイパーインフレ、無税国家など多方面からの説明の試みである。
 著者は、毎度テレビでお馴染みの経済アナリストにして獨協大学経済学部教授の森永卓郎氏の長男と聞く。本書の前には、仲睦まじく父子共著で『親子ゼニ問答』(角川新書)も上梓している。この本と同じ方向の活動だと思われるが、著者は「親子で一緒にお金の勉強をしよう」という立ち位置から、金融教育の啓発を行うベンチャー企業・株式会社マネネも経営している。本書には、多分この事業のノウハウが活かされているのであろう。身近な事例を引き合いに、噛んで含めるように子供にも分かり易く語るスタイルは、経済学者による新書本とは一味も二味も違っている。
 日本の教育界は伝統的に「お金」と「性」について穢れとして憚り、教師がそれらを教壇から語ることは昔からなかった。このため、日本の若者は諸外国の同世代と比べて無知で、スマートフォンの通信事業会社、カード会社、保険会社などへ高額の無駄金を支払う傾向にある。また今も、詐欺やマルチ商法に引っ掛かる学生が少なくない。著者の活動は、これら学校がしない大事なことを補う性格を持っている。   
 本の帯には「コロナ大恐慌を阻止するための現代貨幣理論が一気にわかる!」と時節柄の派手なキャッチコピーがある。著者は必ずしもMMTの信奉者ではないが、最終章に敢えて「アフターコロナを考える」という章を設けて、実践可能な方策を具体的に列挙している。そこの解説でもまた、ベーシックインカム、ピケティの資本論、エレファント・カーブ、格差社会、ポピュリズムと大衆迎合、バブル経済など、新聞・雑誌に頻出するキーワードとなる経済用語、時事用語が使われている。
 著者は、明治大学政治経済学部卒業。経済アナリストの他、複数のベンチャー企業のCOO、CFOも兼任。

「駿河台文芸 第38号」2019年12月20日


 南村志郎述、川村範行・西村秀樹編『日中外交の黒衣六十年―三木親書を託された日本人の回想録―』ゆいぽおと 2018年(長瀧 孝仁)

 

先ずこの本が出版されるに至った経緯を書かねばならない。ジャーナリスト有志が全国の仲間から参加者を募って、毎年訪中団を送っている事実がある。編者の二人はその応募者であった。参加者は旅行途上で、日本では全く無名だが、中国要人に知己が多く日中外交史に少なからず関与したという南村志郎(一九二九〜)という人物に邂逅する。

 出版の企画を立てたのは、毎日放送の西村秀樹であった。九十歳を目前にした南村が北京を拠点に、六十年近くに亘り東京の政治家と北京の政治家の間を往復、親書と返書を運んで来たことを知ったからである。しかも南村は、生涯黒衣(くろご)に徹するという独自の哲学から、親書の中身を見ず、写しも取らず、物的証拠を一切残さない方だとも聞いた。西村は焦った。今の内に急いでオーラルヒストリーを残しておかねばならないと思った。

日中外交史に詳しい中日新聞・東京新聞の川村範行は、インタビュアーとして西村の企画に参加することになった。そして、単に思い出を語るだけで裏が取れない南村の話を、三木武夫(一九〇七~一九八八)や元外交官の関連資料に当たることで実証したのも川村である。

 この本の製作過程で浮かび上がって来たことは、日中国交回復から日中平和友好条約締結に至る期間の独自外交とも言うべき三木武夫の活躍である。このことは、国交回復の端緒を開いた田中角栄と友好条約締結まで漕ぎ着けた福田赳夫の陰に隠れて、今までマスコミで余り報じられて来なかったのである。自筆メモ等の三木関連資料は、寄贈されて現在、明治大学史資料センターが所蔵している。今回本書が執筆されるに当たり、史資料センターが全面協力したことは言うまでもない。

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 南村志郎とはどういう方なのかも記しておく。南村は国策会社の満鉄(南満州鉄道株式会社)職員の子息として大連で生まれている。父親の北京転勤により旧制の北京中学に入学、四年生で敗戦を迎えている。四年生と言っても戦時中は勤労動員に明け暮れており、実質二年生までしか勉強した記憶がないという。父の出身地・宮崎市に引揚げた後、新制の宮崎県立大宮高校に再入学した。

進学先は東京外国語大学中国語学科だったが、自治会活動に熱心で後に全学連(全日本学生自治会総連合)に参加。試験ボイコットのストライキを主導して退学処分となっている。

 仕方なく南村は鉄鋼関係の業界紙記者となった。続いて日中間の貿易会社を経営していた時期を経て、北京にあった西園寺公一事務所の秘書役を長らく務めていた。西園寺公一とは西園寺公望の孫。参議院議員一期を務めた後、十年以上北京に在住。帰国後は、日中文化交流協会常任理事などを歴任した。南村はこの後も北京に留まり、一貫して日中友好活動に生涯を捧げて来た。

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 三木武夫と中国との関係について述べる。三木が中国問題に強い関心を抱くようになったのは一九五〇年頃だと言う。一九六〇年代半ばには、共通の知人を介して南村と知り合っている。そして、一九七一年には「中華人民共和国が唯一の中国正当政府である」と考えるようになった。

一九七二年二月、日本を差し置いてニクソン米国大統領が訪中。毛沢東主席、周恩来首相と会談した。この後直ぐ三木は南村に連絡を取り、自分も訪中して周恩来に会えないものかと相談している。南村は日中友好協会初代会長の廖承志ルートで中国政府に連絡を取り、訪中許可が下りた。

一九七二年四月、三木武夫自民党顧問が訪中。一週間の滞在で周恩来と二回会談している。三木は二度の会談により「日中国交の回復は可能」と確信し、自ら国交回復に挺身する決意を固めている。

一九七二年七月、田中角栄内閣発足。佐藤栄作政権の末期、次期政権を福田赳夫、田中角栄、大平正芳、三木武夫の四人で争うことになった。最有力の福田陣営に対して数で劣る田中陣営は、大平派と三木派を陣営に引き込むことで逆転勝利した。当時最後まで旗幟鮮明にしなかった三木が田中に求めた条件は、日中国交回復の実現。田中はこれを飲んで首相になった。大平は外相となり、三木は無任所の国務大臣兼副総理として入閣した。

一九七二年九月、田中首相が訪中。両国首相が共同声明に調印することで、日中間の国交が回復された。

一九七三年四月、廖承志団長率いる中国初の大型ミッションが来日。南村の仲介により、三木武夫とも懇親会が開かれた。

一九七四年十二月、金脈問題の露呈により総辞職した田中内閣を受けて、椎名悦三郎自民党副総裁の裁定により三木武夫内閣が発足。直後三木は南村を自宅に呼び出して、周恩来首相への親書を託している。南村は、以前と同じ廖承志ルートで周首相へ三木親書を届けた。日中平和友好条約の早期締結が自らの内閣の最重要課題と位置付けていた三木は、この頃外務省や在北京の中国大使にも矢継ぎ早に指示を出している。

 しかし、中国の反応は鈍かった。国交回復に貢献した田中派は閣外に去り、醜聞により以前の勢いを失っていた。三木内閣の顔触れはと言うと、親台湾派と見られていた福田赳夫や親ソビエト派と言われる人達で構成されている。条約を締結するには三木内閣の党内基盤は至って脆弱であると、中国政府は冷静に分析していたのである。三木は焦った。日中平和友好条約締結に、人一倍強い思いと使命感を持っているつもりであった。しかし、中国側が動かなければ、条約締結には至らないのである。

一九七六年になるとロッキード事件が勃発。首相の三木が田中派と対立を深めて党内が混乱、この年の年末に三木内閣が総辞職して福田赳夫内閣が成立した。二年後の一九七八年八月、日中平和友好条約はこの福田内閣の下で締結された。

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日中平和友好条約の締結は福田首相の業績となっている。しかし、国交回復と条約締結は一人の政治家で成し得るものではなかった。当時「三角大福」と総称された三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫の四人が、対立しながらもそれぞれの局面で実力を出し切ることで、六年半掛かって遂に成就した戦後の一大事業なのであった。

 バルカン政治家と言われる三木武夫側から見れば、先ず秘密裏に訪中して周恩来との会談で感触をつかみ、若くて力漲る勝馬の田中角栄に乗る形で、反中国派を飛び越えて一気に国交を回復した。三木内閣を率いた二年間では日中関係に進展がなかったものの、自ら退く形で親台湾派と目された福田赳夫に託し、福田が反中国派を抑える形で条約締結に漕ぎ着けたのである。この間、大平正芳は終始親中国派として行動している。日中平和友好条約が締結された時、三木は既に七十一歳になっていた。

 一方、相手方の中国はと言うと、一九六六年からの文化大革命の影響が未だ残る中での国交回復となった。当事者の周恩来は条約の締結を待たず一九七六年一月に死去、続いて九月には毛沢東も亡くなっている。日中平和友好条約締結時の中国の最高実力者は、鄧小平副総理に変わっていた。

 本書では触れられていないが、三木武夫と周恩来には同窓の縁があった。周の方が九つ年上であるが、一年半の日本滞在中に神保町にあった日本語学校に通いながら、距離的に近い本学専門部政治経済科にも籍を置いていた。三木は本学専門部商科と法学部卒業である。恐らく雑談時には、当時の思い出話も出たのではないか。同窓のよしみが、日中国交回復に多少とも寄与したと想像したい。

 

 米沢嘉博著『戦後怪奇マンガ史』鉄人社鉄人文庫 2019年(多田 統一)

 

 編者の赤田祐一氏によれば、本書は故・米沢嘉博が生前に連載していた「戦後怪奇マンガ史」「恐怖マンガの系譜」を、同題『戦後怪奇マンガ史』として一冊にまとめたものである。第一部が「戦後怪奇マンガ史」、第二部が「恐怖マンガの系譜」という二つの柱で構成されている。

 

1 怪奇マンガの萌芽

 

 昭和30年代に入ると、石森章太郎の「幽霊少女」(昭和31年)、手塚治虫の「こけし探偵局」(昭和32年)の連載など、少女マンガファンに支えられた怪奇マンガが現れる。米沢は、このことを「女の子はこわいマンガがお好き」と評している。続いて、楳図かずおがマンガ付録の短編に「雪おんな」(昭和33年)を発表するようになる。水木しげるも、「怪奇猫娘」(昭和33年)などの怪奇マンガを刊行した。水木は、その後「河童の三平」(昭和36年)で民話の世界へと入っていく。

 

2 怪奇映画の影響

 

 昭和30年代前半、「フランケンシュタインの逆襲」「吸血鬼ドラキュラ」などの怪奇映画が多数封切られた。米沢は、「言ってしまうならば、パクリも結構あったのである」と映画の影響について述べている。少女マンガに対して、少年マンガが怪奇ものとして成立しえなかった理由について、〃少年〃という存在にあったと述べている。この指摘は、たいへん興味深い。少年は、ただ逃げまどうだけでなく、相手と戦うことを好むのである。手塚の「鉄腕アトム」(昭和33年)も、ドラキュラの影響があったようである。ムロタニ・ツネ象の「「スリラー小僧 恐怖のハエ男」(昭和34年)の特異な存在についても触れている。

 

3 怪奇時代劇

 

 怪奇時代劇が、貸本界に根付くのは昭和34年頃である。メイン作家は「花の炎」(昭和36年)などの作者小島剛夕である。米沢は、小島の描く怪談を日本的な純愛ファンタジーロマンだと述べている。小島作品を支えたのは、実は少女達だったのである。

 

4 怪奇アクションシリーズ

 

 昭和35年頃には、貸本劇画はアクションものへと変貌していく。米沢は、「静から動へ、論理から感覚へ」とこのことを表現している。代表的な作家に、いばら美喜がいる。アクション、グロテスク、エロティシズムに特色を持つが、「殺人学」(昭和41年)のように女性読者を意識して、爽やかな怪奇アクションに仕上げている。

 

 赤田氏が言うように、作家論ではなく通史としての価値が本書にはある。昭和30年代といえば、まさに私が子ども時代である。スポーツが中心でマンガに傾倒することはなかったが、それでも友達の話を通してその世界の面白さは十分伝わってきた。想田四、成瀬正祐両氏の解題、ひばり書房回想録も、たいへん参考になる。

 米沢嘉博は、1953年熊本市生まれ。明治大学工学部入学を機に上京して、マンガ批評グループ「迷宮」の活動に参加。マンガや大衆文化について評論活動を行なった。コミックマーケット代表や日本マンガ学会理事も務めた。2006年病没。享年53。

 主要著書は、本誌「24号」の書評欄で採り上げた『戦後エロマンガ史』と『戦後少女マンガ史』『戦後SFマンガ史』『戦後ギャグマンガ史』など。

 

 安藤元雄『安藤元雄詩集集成』水声社 2019年(多田 統一)

 

 安藤元雄が23歳の時に刊行した初めての詩集『秋の鎮魂』から、81歳の時の長詩『樹下』までの代表的な作品が収められている。ここでは、表題作を中心に各詩集の特色を見てみたい。

 

『秋の鎮魂』位置社 1957年9月

 

 3月に東大仏文科を卒業。「位置」同人小川惠似子との結婚を決め、大学院進学を諦めて就職を決意。9月に、初めての詩集を刊行した。23歳の時である。翌年4月に、時事通信社に入社した。表題作〃秋の鎮魂〃(「位置」10号、1956年12月)などの作品が収められている。処女詩集にしては、緻密で深遠な表現がとられている。次の2行に、街の風景や人々の暮らしぶりを捉えた映画の一シーンを見るような思いがする。

 

唇を割って 人は

不揃いな歯並びを見せるだけだ

 

『船と その歌』思潮社 1972年3月

 

 この第2詩集の刊行までは、第1詩集から数えて15年が経過している。この年、雑誌「ふらんす」にエッセー「フランス詩の散歩道」を連載。竹内書店刊の『バタイユ・ブランショ研究』に、バタイユとブランショの文学論を翻訳して載せている。野村喜和夫は、解説の中で安藤の二度目の詩的出発としてこの詩集を紹介している。表題作〃船と その歌〃(「位置」21号、1961年3月)は、船で大海原に漕ぎ出そうという壮大な物語である。船は、安藤自身なのであろう。海はエネルギーを生み出す母胎であり、詩作の源泉である。次の表現が光る。

 

船が浮き上る そうだ

船はいまこそ君の中に自らを取り戻す

 

『水の中の歳月』思潮社 1980年10月

(第11回高見順文学賞受賞)

 

 安藤46歳、高見順賞を受けた年である。この第3詩集は、安藤の詩業の頂点とされている。表題作〃水の中の歳月〃(「ユリイカ」1973年8月)は、散文形式であるが、言葉の働きそのものが実に心地よい。詩で表現される水の不思議、言葉が生命の躍動として伝わってくる。慣れ親しんでいるはずの水の不気味さを、想像力豊かに表現している。次の箇所が印象的である。

 

私は私の中に浮いているとも言えるし、私は私の中に沈んでいるとも言える。

 

『この街のほろびるとき』小沢書店 1986年8月

 

 この第4詩集の表題作〃この街のほろびるとき〃(「街頭の断想」1982年5月)では、街と自身との関係が興味深い。どこの街であるかは明らかでない。旅とは、通り過ぎるものである。街そのものは視界から消えるが、自分はここにおり、出会った人々との記憶はしっかりと残る。次の表現が興味深い。

 

私はたぶん明日にはここを立ち去るが、そのときいなくなるのは私ではない。無数の街の中の一つの街が、閉じて、そして消えるだけだ。

 

『夜の音』書肆山田 1988年6月

(第6回現代詩花椿賞受賞)

 

 現代詩花椿賞を受賞した年で、歌劇『ホフマン物語』の台本を単行本として新書館から刊行している。54歳の時で、明治大学人文科学研究所の総合研究「詩学研究」の責任者になった。国際交流基金の派遣で、妻とベオグラードでの国際作家会議にも出席している。この第5詩集は、テーマのごとく詩篇の多くが幻想的な作品になっている。表題詩〃夜の音〃(「ユリイカ」1982年2月)は、宵ごと現れる目には見えない生きものたちの祝会を、夢想の世界として描いている。やさしく「とんとんとん」と語りかけているのが心に響く。

 

とんとんとん

とんとんとん

何か大きなものを追いかける

 

『カドミウム・グリーン』思潮社 1992年10月

 

この第6詩集の表題作〃カドミウム・グリーン〃(「ユリイカ 現代詩の実験」1986年)は、絵から抜け出た幻想的な祭礼の光景が描かれている。絵は二次元世界であるが、その中に詩人の記憶も街の光景も一つに包み込む効果がある。次の表現が素晴らしい。

 

ここに一刷毛の緑を置く カドミウム・グリーン

ありふれた草むらの色であってはならぬ

 

『めぐりの歌』思潮社 1999年6月

(第7回萩原朔太郎賞受賞)

 

 萩原朔太郎賞を受賞した年で、前橋で「詩人という井戸」をテーマに講演している。65歳の時である。この単行本には、「現代詩手帖」に連載した〃百年の帳尻〃から〃千年の帳尻〃までの13の作品を掲載している。〃千年の帳尻〃には、ジェラール・ド・ネルヴァルのエピグラフが付されている。「十三番目が戻ってくる、それはまたもや一番目」という言葉が、詩の暦としてぴったりである。詩の世界は永遠であるが、詩人はいつかは帳尻を合わす存在なのであろう。安藤は、次のように締めくくっている

 

そう 恐れによって千年 私は生きた

そのめぐりももうあと僅かで閉じるのだが

 

『わがノルマンディー』思潮社 2003年10月

(第19回詩歌文学館賞、第42回藤村記念歴程賞受賞)

 

 21世紀に入ってからの安藤の初めての詩集である。この詩集には、様々な心象風景が描かれている。表題詩

〃わがノルマンディー〃(「現代詩手帖」1999年8月)では、日もちのする田舎パン、茶色まだらの巨大な牛ども、陽を浴びた僧院の廃墟などの光景が目に浮かぶようである。作者のこの土地への愛着が伝わってくる。最後の表現が心にしみる。

 

古い港の一角へ ムール貝でも食べに行こうか

 

『樹下』書肆山田 2015年9月

 

 制作に多くの時間が費やされたようである。1996年から2015年にかけ、「るしおる」「現代詩手帖」その他に掲載された断片により構成している。私と樹の関わりを中心に、自己そして詩の存在証明を6つの章に纏めている。〃終の章・樹下の暮らし〃で、次のように締めくくっている。

 

思うままに枝を拡げて 一つの空間を大切に確保してくれ

その営みのそばでひとときを暮らしたことが

人の知らない私の誇りとなればいい それだけでいい

 

 最後に、野村喜和夫の解説が載っている。野村は、次のように述べている。

安藤元雄を読むことは、今日なお存在しうる詩の本源的な経験と向き合うということであり、その悦びと、またその経験の困難さがもたらすアイロニーとを、ふたつながらに共有するということである。

 

 安藤には、詩人としてだけではなく、詩学研究者・翻訳家としての側面もある。詩の重厚さと緻密さ、それでいて明快なのは、それらの要素が統合されたところからくるのであろう。彼は、もともと海派なのであろう。私もそうであるが、波の音でなんとなく落ち着くところがある。詩人としての安藤に、独特のエネルギーを私は感じている。晩年の安藤は森に帰るが、人生にそして詩作に帳尻を合わせるのが、とても贅沢である。

 安藤元雄は、1934年東京都港区白金台に生まれる。日比谷高校から東大仏文科を卒業。時事通信社、國學院大學文学部を経て、1973年明治大学政経学部助教授。1975年同教授。2014年日本現代詩人会から「先達詩人の顕彰」を受けるなど、その功績は大きい。

 

 猪谷千香『その情報はどこから? ネット時代の情報選別力』ちくまプリマ―新書

2019年(多田 統一)

 

 ネット時代をどう生きるか。より信頼性の高い情報を得るためにどうすべきか。本書は、具体的な事例を通して、分かりやすくそのことを教えてくれる。次の3章で構成されている。

 

第1章 ニュースの源流をたどって

第2章 フェイクニュースが私たちの未来を歪め、蝕む

第3章 知りたい情報を求めて

おわりに 茫漠とした情報の海に溺れないために

 

 第1章では、私たちが忘れてはいけない事件について触れている。1988年、ひとりの女子高生が少年グループに拉致され、40日以上も監禁され暴行を受けて殺害された事件で、お笑いタレントのスマイリーキクチさんが犯人扱いされた事例を紹介している。誤った情報によって、いつ誰が被害に遭うかも知れない。私たちを取り巻く情報の怖さを訴えている。しかも今日の情報は、複雑化なんて表現では生ぬるく、液状化といっても過言ではない。

 2018年4月4日、ネットで騒ぎになった京都府舞鶴市での大相撲春巡業での出来事は、メディアも含めデマか真実かを巡って大騒ぎとなった。社会的関心の高いニュースほど、このような問題が生ずる。世の中の情報は、まさに液状化といった言葉がぴったりのような気がする。

 第2章では、フェイクニュースについて取り上げている。フェイクニュースは、虚偽情報がインターネットで拡散されるという問題であるが、注目されたのは2016年11月の米大統領選挙の時である。それ以降、日本でも新聞やニュースサイトが盛んにファクトチェックをするようになった。フェイクニュースによる殺人事件も、世界各地で起きている。

 フェイスブック、グーグル、ツイッターがロシアからのサイバー攻撃を受けたが、今まさにサイバー戦争の時代である。メディアも含めて、真偽を見極める力を付けたいものである。

 第3章では、人々を悩ますデマをどう見分けるかについて、熊本震災時のライオンの例を挙げている。ライオンが放たれたとツイートした男性は、偽計業務妨害容疑で逮捕されている。拡散された画像の真偽については、グーグルなどで即座に判断できるので、惑わされないことが大切である。

 検索で並ぶ情報についても、正しい情報かどうかを疑ってかかる必要がある。2016年8月、「WELQ」の健康・医療情報サイトで、肩こりは幽霊が原因との記事が話題になった。専門家の監修なしに複数の医療情報をつぎはぎした結果で、このような科学的根拠のないニュースには気を付けるべきである。

 ユーザー側にとっても、自分に都合のいい情報だけを鵜吞みにする傾向がある。このことにも、認知心理学や社会心理学の立場から警鐘を鳴らしている。

 情報格差についてもっとつっこんだ記述が欲しかったが、社会教育機関としての図書館情報の活用について注目すべき記述が見られる。図書館は、誰もが無料で使える知の宝庫なのである。

 おわりに、自分にとって必要かつ正しい情報を選ぶにはどうすればよいか。一番簡単なのは、その情報がどこから来たのかを見極めることだと結論付けている。災害時など、デマが飛び交いやすい時こそ、情報の源流をたどる必要がある。ネットと紙媒体が併存している現状においては、紙媒体の質の高さも忘れてはならない。公的機関の発する情報への信頼性にも揺るぎないものがあるであろう。

 著者は、明治大学大学院博士前期課程考古学専修修了。新聞記者やニコニコ動画のニュース編集者を経て、ハフィントン・ポスト日本版の創設に関わった。2017年からは弁護士ドットコムニュース記者。

本誌「27号」の書評欄でも採り上げた『つながる図書館』などの著書がある。

 

 寺島善一『評伝 孫基禎(ソン・キジョン)―スポーツは国境を越えて心をつなぐ―』社会評論社 2019年(長瀧 孝仁)

 

来年二〇二〇年の東京オリンピックを控え、千代田区神田神保町の交差点は男女マラソン競技の7、3135km地点に設定されて、つまりは沿道で同じ選手を三回見ることが出来る絶好の観賞場所だったのである。ところがである。既に出場内定した世界の選手たちがそのコースを想定して練習を開始しているというのに、また、東京都民や都庁の意向とは関係なく、マラソン競技は札幌市内で行われることになってしまった。  

過去オリンピックは何かと政治に利用されがちで、特にマラソン競技には不幸が付き纏う。ナチスドイツの威厳を示すプロパガンダに利用された一九三六年のベルリン・オリンピック。これに抗議するため企画され、スペイン内戦勃発で中止となった非公式のバルセロナ・人民オリンピック。日中戦争勃発により、政府が開催を返上した一九四〇年の東京オリンピック。マラソンで銅メダルを獲得しながら、四年後に当の陸上自衛官・円谷幸吉を自殺へ追い遣ってしまった一九六四年の東京オリンピック。パレスチナ・ゲリラ乱入によるイスラエル選手殺害という惨劇に見舞われた一九七二年のミュンヘン・オリンピック。ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、日本もボイコットした一九八〇年のモスクワ・オリンピック。……

マラソンが特別視される理由は、本書の言葉を借りれば「最終日の最終競技として行われるように、マラソンはオリンピック全競技中で、最も壮大で最も感動を与える種目である。だから、優勝者は競技後に勝利の月桂冠を被り、人類の英雄として賞賛を一身に浴びる」からということになる。

          ○

今から丁度八十年前、神保町程近くの明治大学駿河台校舎には、世界屈指のマラソンランナーが法科の学生として学んでいた。名前を孫基禎(一九一二〜二〇〇二)という。直前一九三六年のベルリン・オリンピックのマラソン金メダリストである。しかし彼には、日本政府から「陸上競技をしてはならない。集会に顔を出してはならない。静かにしていろ」とのお達しが出ていた。大学生なのに陸上部に入れず、箱根駅伝も走れないという理不尽な境遇だった。孫は勉学に励むしかなく、優秀な学業成績で卒業したという。

 孫が本学で学ぶことになった経緯は、次のようなものであった。孫は、日本統治下の朝鮮半島北西部の新義州で生まれている。中国との国境・鴨緑江に臨む北朝鮮の南敏浦洞である。孫少年は酷寒、極貧、差別と闘いながら走ることに目覚め、日本への丁稚奉公など紆余曲折の時期を経て、ソウルにある陸上の名門・養正高校にスカウトされている。十九歳になっていた。ここで、才能が一気に開花する。出場した朝鮮と日本のマラソン大会を総なめ、翌年のオリンピック代表選考会を兼ねた一九三五年の明治神宮体育大会で、二時間二十六分四十二秒という世界新記録を出して優勝している。

 ベルリン・オリンピックのマラソン競技に於いては、圧倒的に強い朝鮮出身者を排除して日本人選手を優先出場させようとする執拗な嫌がらせもあったが、結果として金メダルに孫基禎、銅メダルに南昇龍と二人の朝鮮出身者が表彰台に上った。ここから孫は、自身想像も出来なかった社会の潮流に巻き込まれてしまう。二人のメダリストが出たことで朝鮮半島は沸き返り、号外が出され、高揚した新聞記事も書かれ、半島全体が興奮の坩堝と化した。日本政府及び朝鮮総督府は、この孫基禎の優勝がナショナリズムを刺激して、独立運動が興ることを極度に恐れた。孫が行くところ行くところで何重もの人垣に囲まれ、英雄扱いされることを阻止しようとした。

次第に孫は、自分が特高警察の監視下にあることを覚らざるを得なかった。後日孫が朝鮮に凱旋した時には、既に祝賀会、歓迎会など出来る状況ではなかった。孫を訪ねて来た無実の友人や新聞記者が何人も警察署に連行されて、不当な取り調べを受けるようになっていた。孫は、自分がソウルに居ることで周りに迷惑を掛けていることを自覚し悩んだ。既に二十五歳になっていたが、朝鮮を離れるために日本の大学で学ぶことを決意した。しかし、危険人物扱いされて特高警察にマークされている人物を入学させる大学は無かった。体育科があった第一志望の東京高等師範学校(現筑波大学)、第二志望の早稲田大学とも受験すらさせて貰えなかったのである。

窮地に陥った孫に救いの手を差し伸べたのが明治大学であった。当時本学は、朝鮮の有能アスリートを学生として多数受け入れていた。銅メダルの南もまた、本学の出身者であった。既に卒業して朝鮮総督府や満鉄に勤めていた有力OBたちが、大学当局に働き掛けてくれたのだった。しかし、渋々許可した日本政府は、先述のごとく姑息な条件を付したのである。

          ○

 二〇〇二年十一月十七日ソウルで行われた孫基禎の葬儀に急遽参加した著者は、想像を絶する異様な光景を目の当たりにする。孫は韓国陸上競技連盟会長、韓国大手企業幹部などを歴任しており、歴代韓国大統領からの供花も届いているというのに、日本人陸上競技関係者の参列、供花、香典、弔電が一つもなかったのである。アマチュアスポーツは、国からの補助金で成り立っている世界である。戦後一貫して本人と韓国オリンピック委員会から「孫基禎の金メダルを韓国のメダル数にカウントする」よう求められているJOCに配慮し過ぎた結果であろう。ことの詳細は、当日参列した柳美里(ユウ・ミリ)さんが作家の眼で観察、報告した文章があるようだ。

 二〇〇二年十二月二十一日夕刻、明治大学リバティタワー一階で「孫基禎先生を偲ぶ会」が開催された。ソウルの葬儀で憤慨した著者が、当時の岡野加穂留学長に訴えて実現した催しである。岡野学長は、日本サッカー協会会長だった従兄弟の岡野俊一郎から、二〇〇二年の日韓共催ワールドカップサッカー大会開催に於ける孫の尽力ついてよく聞かされていた。当日、新聞で知ったというマラソンの小出義雄監督の姿もあった。有森裕子、高橋尚子などを育てた名伯楽である。「孫さんにはマラソン指導の要諦を教わった」とのこと。同氏は学外者であるが、陸連の顔色を窺ったりせず率直に駆け付けたところ、流石と思わせる人物であった。

          ○

 映画『民族の祭典』『美の祭典』はベルリン・オリンピックの記録映画である。不世出の名作である。二部に分けて撮影され、第一部の『民族の祭典』で陸上競技を取り上げている。撮影依頼を受けた当初、レニ・リーフェンシュタール女史は一度辞退している。その後、単なる記録映画ではなく「唯美的映像を追求した芸術作品」を撮るという方針に変更して撮影が開始された経緯がある。

この作品に於いては、純然たる記録映画では許されないような、批判覚悟の撮影手法が駆使された。試合の最中には選手に接近した撮影が許されないため、練習時に近くから撮影した映像や上空から走行を撮影した映像を本番の映像に合成したりした。孫基禎はレニの協力者の一人だった。言われるがまま首にカメラを下げて走り、足元の撮影を手伝った。試合映像に挿入されて度々現れる足元の影は、見事にランナーの疲労感を象徴していた。

 レニは閉会後に、孫を自宅に招いて慰労している。孫は素直に、後世に映像を残してくれたことを感謝した。『民族の祭典』には、孫が疾走する雄姿と日本政府が度々問題視した孫の表彰台での態度が記録されている。屈辱と無念の思いから副賞の月桂樹の苗でユニフォームにある胸の日の丸をそっと隠し、君が代奏楽と日の丸掲揚のあいだ終始肩を落としてうつむいていた映像である。

その後二人には二度の再開もあった。レニは孫に心を開いて、戦後ナチスの協力者として指弾され続けた苦しい時代のことを告白した。孫もまた、マラソンで金メダルを取りながら危険人物扱いされて特高警察にマークされ、日本政府には走ることさえ禁じられた過去を話した。非凡な才能に恵まれ、時代に残る偉業を成し遂げたばかりに味わわねばならなかった試練。そんな二人だからこそ、互いに分かり合える会話であったことだろう。

 孫と明治大学等の孫基禎シンポジウムに何時も出席される柳美里さんとの関係にも触れておく。柳さんの祖父は、幻となった一九四〇年の東京オリンピック・マラソンの候補者として、孫から薫陶を受けていたのである。柳さんが孫との初対面で祖父のことに触れた時、「作家の君とこうやって話をするのに、母国語で話せないというのも悲しいことだ」と言われ衝撃を受けている。当時柳さんは未だ韓国語を習得しておらず、その後猛勉強して韓国語をマスターされたそうである。

          ○

 駿河台の明治大学博物館の入口には、レプリカの青銅の兜が展示されている。孫基禎から寄贈を受けたものである。この兜の来歴を述べてみる。

 オリンピックの聖火リレーは伝統的行事ではなく、一九三六年のベルリン・オリンピックで初めて採用された。南欧方面へ領土的野心があったナチスドイツが、〈ギリシャのオリンポスの丘で採火された聖火が、アテネーソフィア―ベオグラードーブタペスト―ウィーン―プラハを経てベルリンに到着する〉という現代の神話を創作したのである。「聖火ランナーが走る道を整備しなければならない」と偽り、ドイツ軍南下時に戦車や弾薬を積載した軍用トラックが通れるかどうか測量調査を重ねて行った。

 この聖火リレーを喜んだのがギリシャ国民だった。ギリシャのブラデニ新聞は、マラソンの優勝者に青銅の兜を副賞として贈呈すると宣言したのである。古代ギリシャ時代に、マラトンの戦いの勝利をアテナイ市民に報告するために走った兵士が被っていたと言われる兜である。孫基禎が英雄視されることを極度に嫌った日本政府は、ベルリンの日本選手団に届けられた兜を孫に渡さなかった。アマチュアリズムに反すると難癖を付けて、ベルリンに置いて帰った。この兜はドイツの幾つかの博物館を転々とした後、シャルロッテンブルグ博物館に収蔵された。そして五十年後、ドイツオリンピック委員会から本来の所有者である孫基禎に手渡された。

 現在この青銅の兜は国宝に指定され、ソウルの国立中央博物館に収蔵されている。感極まった孫はこの兜の複製の作製を思い付き、生涯で世話になった関係各位に自ら配ることにした。その内の一つが、明治大学にも届いたのである。

 本書を繙くと、偏狭な対応を積み重ねて歪んで行く日本の政策とそれにもめげず前へと進む孫基禎の器の大きさの対比が際立つ。著者は孫基禎を「生涯を通じて真のオリンピック精神を体現した人」と高く評価している。

著者は東京教育大学(現筑波大学)体育学部卒業後に大学体育教師の道を歩まれ、明治大学商学部では講師、助教授、教授を経て現在名誉教授。四十年近く「スポーツと平和」をテーマに研究を重ねて来られた。著訳書は『境界を超えるスポーツ』『現代社会とスポーツ』など。

 

 吉村武彦『新版 古代天皇の誕生』角川ソフィア文庫 2019年(長谷川 福次)

 

 この本は角川選書『古代天皇の誕生』(1998年刊)をもとに、その後の21年間の新しい知見を活かして、一部書き改めています。

 三章だてになっていて、「第一章 倭国王の誕生とヤマト王権」「第二章自立する国王」「第三章 天皇の誕生」から構成されます。邪馬台国から天武天皇まで時代を追って、古代史学や考古学の成果を活用して、実証的にまた冷静に、おもしろく「天皇」の誕生を論じていきます。

 『日本書紀』や『古事記』は第一代天皇を神武天皇として、第二代以降も「天皇」と記述しています。しかしいずれも奈良時代に編纂されたもので、後の知識によって書き直されていることは周知の事実です。この歴史書以外では法隆寺金堂にある薬師如来像の後背銘に「天皇」の文字が記されていますが、疑問点があり、確実な資料は乏しかったといいます。

1998年に万葉文化館建設の事前の発掘調査で「天皇聚□弘□□」と書かれた木簡が発見されました。この木簡は同時に伴出した土器の年代観から天武朝または持統朝初期につくられた木簡と判定されます。この本の中で明らかにされるように大海人皇子(天武)が天皇であったことはほぼまちがいがなく、天皇の称号は689年に浄(きよ)()(はら)(りょう)で法的にも規定されます。

 近年、羽曳野市にある野()(ちゅう)()弥勒菩薩像の台座銘文に「丙(へい)(いんの)(とし)」(666年、天智5年)「中宮天皇」と記されているのが、科学調査を踏まえた研究により確実なものとされ、天皇号の使用が天智朝にさかのぼる可能性が高くなりました。

しかし、倭国の君主号は唐へは伝えられませんでした。「日本」の国号は701年の大宝令で決められました。天皇の称号、律令、日本の国号はほぼ同時期に成立したといえます。日本国成立以前は、中国から呼ばれた倭国が国名であり、倭国には「倭国王」が存在したのです。

 第二章では推古女帝の即位から「大化の改新」までを論じます。「女帝論」は今日的な問題でもあり、遣隋使がたずさえた国書に記された「日出処天子」の問題は重要です。このあたりは本書の吉村氏の見解を読んで、一緒に考えてみてください。

 今年は「令和」改元の年になり、改元をマスコミこぞって騒ぎ立て「日本最初の元号は大化」と報道するのに違和感を持ったのは私だけでしょうか。

鐘江宏之氏の『律令国家と万葉人』(2008年刊)では「「大(たい)()」・・「白(はく)()」・・「朱(しゅ)(ちょう)」・・これらの三つの年号は、実際に使われていたかどうかという点では、限りなく疑わしいといわざるをえない。」

また、篠川賢氏の『飛鳥と古代国家』(2013年刊)でも

「そもそも「大化」という年号(元号)にも疑問があり、確かな年号は、七〇一年に定められた大(たい)(ほう)が最初である。それ以降は継続して年号が使用されるが、七世紀末までは、木簡など、その当時の史料においては、必ず干支が用いられている。」

というのが、今の古代史の考え方と私は受けとめています。吉村氏は阿部義平氏の「宇治橋断(だん)()」の碑文が7世紀の第3四半期につくられたという説を紹介し、

「阿部氏の見解にしたがえば、大化の年号は『書紀』に記述されたとおりに理解してほぼまちがいないことになる。」

としながらも

「ただし、七世紀代の木簡の紀年は干支で表記されており、慎重に見守りたい。」

と述べています。研究者として、見習いたい姿勢だと考えます。

 前回紹介した『大化改新を考える』と同じように、大陸や半島の政治情勢をからめながら、倭国から日本になる列島の歴史の動きを考えています。やはり「古代史をおもしろく」読める本です。

「駿河台文芸 第37号」2019年6月30日


須田 努『吉田松陰の時代』岩波書店 2017年

 橋川文三『幕末明治人物誌』中公文庫 2017年長瀧孝仁

吉田松陰については学生時代に少し教わっている。橋川文三教授の近代日本政治思想史の講義中のことで、テキストは『ナショナリズムーその神話と論理―』紀伊國屋書店(後にちくま学芸文庫に収録)であった。橋川先生はこの本の第一章「日本におけるネーションの探究」に於いて、近世に生まれた松陰が近代国家的な「国」の意識、国家観を育んで行った過程を、他の同時代人との均衡を失する程に詳しく追っているのである。

 須田努『吉田松陰の時代』(以後「須田本」と表記)については、発売直後に入手した。しかし、いざ書評を書く段になると遅疑逡巡した。先の『ナショナリズム』にある「松陰の影響を強く受けた例として、二・二六事件の首謀者たちの場合がある」との意味の叙述を引くまでもなく、松陰について書くことは決して穏やかなことではないからである。

 しかも、上梓された二〇一七年の時点で、松陰を巡って政治がらみの良くない噂も立っていた。一つは、ユネスコの世界文化遺産候補として正規の文部科学省ルートで選定されていた「長崎のキリシタン遺産」が、内閣府が推薦する「明治期の産業遺産」に差し替えられたというものであった。官営八幡製鉄所や軍艦島などの産業遺産の中に、何故か松下村塾も紛れ込んでいたのである。もう一つは、二〇一五年のNHK大河ドラマに松陰の末妹・杉文を描いた「花燃ゆ」が選定された理由が不自然だというもの。この作品は放映開始以来低視聴率が続き、本学出身の主演女優・井上真央が責任を感じて撮影終了後の記者会見で泣いたという余話もあった。

こうして時間が経過した後、橋川先生の新しい文庫本『幕末明治人物誌』(以後「橋川本」と表記)が上梓されていることを知った。書店で早速繙いてみると、十一人の評伝の巻頭が「吉田松陰」となっているではないか。しかも、須田本上梓の二箇月後に刊行されている。この時、四十年前の橋川先生の面影が偲ばれて、私には何だか「松陰について書いてみなさい」と励まされているようにも感じられた。

須田本は松陰についての事実だけを連ねて、幕末という激動の時代に松陰の思索と行動を位置付けている。橋川本は、様々な雑誌、月報、シリーズ本等に発表された幕末明治期の人物論を独自に編集した文庫オリジナル版。特に「吉田松陰」については、研究社出版『江戸の思想家たち』の一項として寄稿されたまま、著作集にも単行本にも未収録だった作品とのこと。橋川先生は、松陰の読書遍歴から思想形成過程に迫っている。この書評では、橋川本については「吉田松陰」の項のみを対象とする。

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吉田松陰は、長州の豊かではない下級藩士の次男に生まれた。五歳で山鹿流兵学師範だった叔父の吉田家を継ぎ、兵学者として育った。兵学者なので、松陰の総ての興味と思考体系が軍事中心になるのは自然なことだった。松陰兵学の特徴は、技術論よりも精神論に傾き勝ちなところにある。二十九年という松陰の短い生涯の内、後半はルール違反の繰返しであった。このため併せて数年間、獄中での幽囚生活を強いられた。

 二十代の松陰は、旅に次ぐ旅という生活を送った。全国各地を歩いて師と仰げそうな人物を訪ねて話を聞き議論、多方面の知識を吸収している。その師からは蔵書を借りて貪るように読み、必要なものは筆写している。そんな旅烏の日々でも、筆まめな松陰は書簡、日記など多数の著術を残した。

 『西遊日記』に記された長崎・平戸への旅では、アヘン戦争について生々しい情報を得たことが大きい。また、陽明学の知行合一にも触れている。続く江戸留学で、佐久間象山に弟子入りしている。次いで、『東北遊日記』にある水戸・郡山・会津・新潟・佐渡・本庄・酒田・弘前・御所河原・大泊・盛岡・石巻・仙台・白石・米沢などを巡る百四十日の旅を強行する。この長州藩の許可なき長旅は脱藩を意味し、亡命の罪により萩で七ヵ月間の蟄居生活に服した。最初の訪問地・水戸では会沢正志斎『新論』など水戸学から大きな影響を受け、歴史に目を見開かされた。このため謹慎中は、歴史書を熟読して国史の研究をしている。

 服務が明けると、松陰はまた旅に出た。江戸滞在中には象山を追って浦賀へ急行、そこで来航した四隻のペリー艦隊に遭遇する。よく「時勢」の人と言われるが、松陰が行くところ、不思議と時代の変化を象徴する出来事が起こるのである。近代的装備の巨艦を前にして、松陰は切歯扼腕地団駄踏むも為す術がなかった。

これを契機に松陰は、水戸学の影響もあり、国家危急の場合は朝廷の下、諸藩協力して軍事一体化を図るしかないと考えるようになる。各藩の軍事力が徳川軍を超えないように、城郭、兵数、艦船に至るまで事細かに規制を加えた幕藩体制は二百五十年の平穏をもたらしたが、ロシア、英国、米国の艦隊が日本近海を脅かすようになると矛盾を露呈した。藩ごとの小さな軍事力では、太刀打ち出来なかったのである。

佐久間象山の影響は大きかった。松陰は洋式海軍に通じるため、急いで中国経由で欧米に渡航する計画を立てた。松陰の本領は思想家というより行動する人であった。長崎へ来航したプチャーチンのロシア軍艦を使っての密航を短絡的に考えたが、これは徒歩では間に合わず空振りとなった。続いて、浦賀へ再来航したペリー艦船での密航を実行する。既に出港していた軍艦を下田港まで追い掛け、漁師から盗んだ手漕ぎ舟で弟子の金子重之助と夜明け前に艦船に近付いた。しかし、二人はペリーに相手にされず幕府に付き出されたのである。

 以後松陰は獄中の身となってしまう。江戸へ連行されて七箇月間伝馬町の牢獄に繋がれ、その後長州藩に引き渡されて一年二箇月の野山獄幽囚となった。この時から膨大な量の読書生活が始まっている。ジャンルは、儒学ほか中国の古典、地理・外国事情本、国史、陽明学、徂徠学、国学から農書にまで及ぶ。

 出獄した後三年間弱、松陰は軟禁されたままの幽室生活を送ることになる。この間、獄中でも行っていた読書と『孟子』講読を続ける一方、叔父の玉木文之進から松下村塾を引き継いでいる。度々法を犯したにも拘わらず、松陰がこのような比較的軽い刑罰に処せられた理由は、幼少時からの俊英として藩主・毛利敬親が大目に見て来たことによる。しかし、この後も常軌を逸する言動が続き、次第に松陰は「要注意人物」になって行く。

 松陰が処刑される前年、前々年に当たる安政四、五年は、日米修好通商条約調印や井伊直大老の登場などで国内が緊張状態にあった年である。松陰も過敏に反応して、盛んに時事問題を論じていた。そして遂に、老中・間部詮勝暗殺計画を立案するようになる。松陰は藩の首脳・周布政之助宛に書簡を送る。この要撃計画を長州藩で実行するよう上申したのである。しかし、藩には危険視されて、浪人を使った襲撃へと変更を余儀なくされた。松陰がテロリストと言われる所以である。          

 実は松陰は、この計画を松下村塾の門弟にも打明けていた。主要メンバーの賛同は得られなかった。塾生の多くが離れ、松下村塾の隆盛は一年少しで終わった。長州藩は、松陰を再び野山獄に入牢隔離する。松陰は七箇月後に江戸伝馬町の獄に移され、その三箇月後に斬首されたのである。

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 吉田松陰の本質は、晩年に当たる安政の五年間余の著作に凝縮している。対外危機意識を独自に具体化させ、過激な国粋思想、尊王攘夷論を組み立てて行った。それは先述の如く軍事問題中心で、武力信仰と富国強兵を唱えた。そして、手段として海外の領土に執着、対外侵攻を奨励したのである。そこには、今読んでも「あくどい」と感じられる主張も含まれている。

 源平から徳川綱吉までの武家興隆を描いた頼山陽『日本外史』を幽囚時に読んで、松陰の武力信仰は一層強固になった。兵士は士族と限らず、広く士農工商全体から編成するという国民皆兵的な発想が芽生えている。富国強兵と国威発揚のため、北は北海道からカムチャツカ、南は琉球を領有し、更に朝鮮、満州、台湾、フィリピンに侵攻せよとも言っている。特に朝鮮については、『日本書紀』『続日本紀』等の六国史及び北畠親房『神皇正統記』を読んで、そこにある日本贔屓の記述を真に受けて事実と混同し、「朝鮮に朝貢させろ」とまで主張する。理由は、強国ロシアとの交易で仮に日本が損失を出しても、満州、朝鮮の権益で補えばいいと言うのである。

また松陰は、老中・間部詮勝襲撃の実行犯に少年を起用しようと画策した。一手段に過ぎないテロ行為によって松下村塾主要メンバーが欠ければ、大きな損失になると考えたようだ。今井正監督「海軍特別年少兵」という映画を観たことがあるが、将来ある子供を戦争前線に駆り立てることは残酷極まりないことである。冷酷な松陰は、少年は社会経験が乏しい故に洗脳し易いと割切っていたのだろう。

松陰の人となりを四字熟語で表わすなら、狭窄思考、唯我独尊、直情径行となろう。自説を相対化する能力が著しく欠けていたのである。自分が考えたことは、他にも同じことを考える人が居るかも知れぬと想像出来ない。他人の言うことを聞く耳も持たない。思い込みが激しく自説は絶対であり、自説のために迫害を受ければ、自説が正しいからこそ迫害されるのだと益々確信するタイプなのである。そして、我慢も出来なかった。自説さえ通れば後はどうなってもいいというデスぺレイトな態度で、思い立ったら即実行した。

松陰の長州藩や周りとの対人関係該当箇所を読んでいると、私は何とも言えない遣る瀬ない気分に陥った。「もう少し上手く立ち回れないのか!」という嘆息を伴って。これは「既視感」でもあった。日韓併合、対華二十一ヶ条要求、シベリア出兵、張作霖爆殺、満州事変、上海事変、国際連盟脱退、ノモンハン事件と続く、明治末期から太平洋戦争開戦までの本邦外交・軍事政策三十年を綴った書物を読んだ時の感情に近い。偏った思想から強引な主張を貫き、周辺諸国と世界を敵に回して遂に身の破滅に到るのである。

 須田本には、松陰の性格がよく表れたエピソードが紹介されている。それは刑死の三箇月ほど前、江戸の評定所に於ける幕府奉行取調時のものである。藩主以下、長州藩で松陰をよく知る者は、その性格から取調時に幕府批判を展開するのではないかと危惧していた。松陰本人は老中暗殺計画の件で江戸送りになったと思い込んでいたのだが、奉行はその事を知らず、取調は別件の松陰に無関係な話であった。案の定、嫌疑が晴れたと知った松陰は、滔々と幕府批判を繰り広げる。老獪な奉行は松陰に同調するような所作を装い、遂に老中暗殺計画まで打ち明けさせたのである。飛んで火に入る夏の虫。結果として、松陰は自ら寿命を縮めてしまった。

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 この書評で採り上げた二冊に書かれている内容は、右記のものである。これが吉田松陰の実像である。しかし松陰についてはもう一つ、「虚像」が作られて行く死後の歴史があったようだ。手元にある一坂太郎『吉田松陰―坂玄瑞が祭り上げた「英雄」』朝日新書を繙いてみると、長州藩士で松陰の義弟に当たる坂玄瑞が、松陰の「虚像」を利用した最初の人物ということになる。

 松陰は、微妙な時期に不可解な理由で処刑された。尊王攘夷派等の不穏分子一掃のため大老・井伊直が断行した安政の大獄に名を連ねるものの、先述の如く、元々松陰の名が幕府側の弾圧リストにあった訳ではない。桜田門外の変により当の井伊直弼も、大獄から一年を待たずして消えてしまう。この後政情は流動化し、幕藩体制は瓦解へと向かう。権力構造が多極化する中、尊王攘夷派の勢いは増して行った。

 松陰亡きあと門下生として、玄瑞は尊王攘夷を掲げて藩の内外で闘わねばならなかった。自らの立場を説明するに当たり、長州藩の一部の者だけが知る無名の存在ではあったが、事あるごとに松陰の名を持ち出した。その内玄瑞は、純粋で一途で無私無欲な松陰の生き方が、聞き手を感動させていることに気付く。玄瑞は松陰が故人で知る人が少ないことを奇貨として、以後聴衆受けする部分を強調し、誇張して尊王攘夷の意義を語るようになった。玄瑞は松陰の実家の杉家から松陰の遺墨や遺品を取り寄せては、賛同者に配った。こうして、殉教者的な吉田松陰の「虚像」が出来上がって行った。

 玄瑞は身内として、幕府に楯突いた逆賊、国賊という松陰の汚名も晴らさねばならなかった。松陰の遺骸は盗賊などに並んで刑場・小塚原に埋葬されていたが、幕府に改葬したい旨の許可願を出した。しかし、これは中々許可が下りるものではない。それでも、猫の目よろしく目まぐるしく変化する政局の下では、価値観はオセロのように反転する。遂に、許可が下りる局面が遣って来た。国賊だった松陰は、次第に尊王攘夷運動のシンボルとなった。

 一坂氏は玄瑞の一連の動きを政治的とするが、明日も分からぬ尊王攘夷運動に身を投じ、長州藩内でも周布政之助や高杉晋作と主導権争いをせねばならなかった玄瑞の立場からすれば、利用可能なものは何でも利用せざるを得なかったのだろう。奮闘空しく玄瑞は、禁門の変により京都御所近辺で自決している。享年二十四。その三年後には、高杉晋作も二十八歳で病没している。

 松陰神社は東京都世田谷区若林と山口県萩市椿東の二箇所にある。前者は長州藩主・毛利家の別邸があったところで、小塚原から改葬された墓所がある。若き門下生だった伊藤博文、山縣有朋らによって、神社は明治初期に建てられた。後者は松陰の実家・杉家があった場所。松陰の生誕地であり、松下村塾の遺構がある。ここも後年、伊藤、山縣らによって神社となった。明治期になると、既に松陰は神格化されていたのである。

尊王攘夷派は元々少数派だったが、次第に長州藩の主流になって行く。合わせるように長州藩では藩校・明倫館の教材に松陰の著作を採用する一方、松陰著作の出版にも乗り出す。二度の長州征伐があったようにその長州藩も元は少数派だったが、明治維新後は主流派として薩長で政権を担うことになる。松陰は、一枚岩とも言えない長州藩の統一の守護神だったのだろう。

ここで巻頭の『ナショナリズム』の講義に戻るが、橋川先生が幾度も強調されていたことは、「明治期になっても、多くの庶民にとって一番偉い人は自分の藩の殿様だった」ということである。小学校と軍隊で、過剰なまでに皇国教育をせざるを得なかった理由である。庶民の意識は政情から乖離していた。

明治初期に組閣した内閣総理大臣・伊藤博文と内閣総理大臣・山縣有朋は権力闘争には勝利したものの、常に政治権力の正統性を問われ兼ねない辛い立場にあった。時代が変わっても、二百五十を超える藩の藩主とその家族、家老クラスの上級藩士は健在、京都から上京した少なからざる皇族と公家もいた。他の長州藩士とは違い、特に伊藤と山縣の出自は足軽の更に下という低いものであった。ここでもやはり、権力の守り神として松陰が持ち出された。松陰は下級藩士であり、盛んに「草莽崛起」を唱えていたからである。

このあと昭和になると、松陰は姿を変えて尊王愛国の聖人として尋常小学校・修身の教科書に登場する。金甌無欠などという非科学的な神話が盛んに唱えられた時代のことである。松陰の人物像を改変するなどたやすいことだった。逆に言えば江戸時代には、小学校の教科書に載せられるような品行方正な皇国主義者が一人も居なかったという証左になろう。松陰は戦争にも盛んに利用されている。短い生涯の割には松陰の著作は多い。しかも、軍事問題中心である。それらの著述から戦争遂行、対外侵攻の根拠の一文を引いて来ることは、それ程困難ではなかった。

以上が、松陰の「虚像」が作られた道程である。自分に厳しく、他人に厳しく、感情の振れ幅の大きい松陰のことである。没後に自分の名前が利用されたと知ったら、激昂したのではないか。しかもその結果が、松陰の立場から言えば「神武以来の屈辱」に当たるポツダム宣言受託による無条件降伏なのだから。……今回この書評を書いて得た教訓は、「松陰の虚像を持ち出す輩には気を付けろ!」ということになろう。

 

 著者の須田努氏は、明治大学文学部卒業。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了。明治大学情報コミュニケーション学部教授。

著書に『「悪党」の一九世紀―民衆運動の変質と近代移行期―』『イコンの崩壊までー「戦後歴史学」と運動史研究―』『幕末の世直し 万人の戦争状態』『三遊亭円朝と民衆世界』などがある。

 

 

海沼実『海沼実の唱歌・童謡読み聞かせ』東京新聞出版局 2017年多田統一

 

 

 本書は通常の唱歌・童謡集ではない。歌や音楽である以前に、純然たる文学作品であったという観点から、エッセイ風の短編物語として読み聞かせできるように纏めたものである。童謡はもともと子供向け文学であったし、唱歌の中には国語教材として取り上げられ、後に曲が付けられたものもある。

 本書は、「唱歌・童謡の歴史」「唱歌・童謡読み聞かせ(童謡編)」「唱歌・童謡読み聞かせ(唱歌編)」の三つの柱で構成されている。

 「唱歌・童謡の歴史」では、明治新政府による唱歌教育の始まりから、雑誌「赤い鳥」の童謡運動、戦時下の軍国歌謡、戦後の童謡ブームへと、時代の流れの中で童謡・唱歌を解説している。

 「唱歌・童謡読み聞かせ(童謡編)」には、青い眼の人形、赤い靴、赤い鳥小鳥、お猿のかごや、汽車ポッポ、里の秋、しゃぼん玉、十五夜お月さん、七つの子、みかんの花咲く丘など、よく知られた作品が掲載されている。例えば〃しゃぼん玉〃には、一歳になる前に亡くなった赤ちゃんのことが書かれている。早くお姉さんになりたかったその家の女の子に、近所の住職が次のように話しかける。「人間の命も、いつ終わってしまうか分からないけど、生きている瞬間を大切に、日々キラキラと輝き続けたいね」と。それを聞いた女の子は、しゃぼん玉がとても好きになったという。そのような気持ちを込めて歌いたいものである。

 「唱歌・童謡読み聞かせ(唱歌編)」には、仰げば尊し、朧月夜、コイノボリ、荒城の月、茶摘、春の小川、故郷、紅葉、我は海の子などが掲載されている。〃故郷〃は、小学校の音楽の授業などでよく歌った。しかし、私の受けてきた音楽教育はリズムが中心であったため、後々まで歌詞の解釈が不正確なまま過ごしてしまった。「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川」という箇所があるが、どうも「ウサギおいしい――シカの皮」と覚えてしまったのである。海沼氏が主張する解釈(感性)を大切にした唱歌・童謡、私はこの年になってそのことの大切さを身に染みて感じている。

 まず、物語を読んでみる。そして、歌ってみる。そうすることで、唱歌・童謡はより一層味わい深いものになってくる。

著者は1972年東京都生まれで、歌手、作曲家、音羽ゆりかご会会長。明治大学文学部史学地理学科日本史学専攻卒業(木村礎に師事)。桐朋学園大学音楽学部声学専攻卒業(木村俊光に師事)。「みかんの花咲く丘」「里の秋」「お猿のかごや」等の作曲で知られる海沼實は祖父に当たる。

 著書は『童謡 心に残る歌とその時代』『海沼実の歌の教科書』『99%の人は歌がうまくなる』など多数。

 

 

垣谷美雨『定年オヤジ改造計画』祥伝社 2018年(小林英実

作者の文体は、軽快で読みやすく、難解な語彙をほとんど用いないため、一気に読了できるのが最大の特長である。これはデビュー作の「竜巻ガール」以来一貫している。

本作はデビュー作と同様に、主人公が男性であり、男性の視点から描いている。女性作家が男性を主人公に描いた場合、しばしば中性的な人物像に陥るし、逆に、男性作家が女性を主人公として描いた場合は、自らの理想像であって、実像とは言い難い傾向にある。けれども、作者は男を描くのに長けている。

本作はなかなかの佳作であり、何らかの文学賞にノミネートされても不思議ではないほどだが、無冠だったのは残念でならない。それは、主人公の変貌を遂げる分岐点が不明瞭なせいかもしれない。そうはいっても、定年退職を経験した人間にとっては、身につまされる内容だ。

 

主人公は東北大学を卒業して大手企業へ就職し、定年まで仕事一筋のサラリーマン人生を全うした。これからは、長年自分を支えてくれた妻への恩返しを兼ねて自由を満喫しようと思った矢先に、良妻賢母であるはずの妻との間には深い溝ができていることに気づかされる。熟年離婚の危機。実際に周囲で見聞する、きわめて現実的な話だ。

下世話な物言いではあるけれども、長年連れ添った夫婦は、老齢化するとともに、肌を合わせる機会が自然消滅する。男女から、伴侶、友人、家族、同居人、あるいは空気の存在へと変遷して行く。

「だけど、お互い心で繋がっているのだ。あれだけ愛し合ったのだから」――これは男の身勝手な思いこみにしかすぎない。単身赴任や海外勤務を経験すると、その傾向はさらに顕著なものとなる。

片や妻は、子が自律すれば自らの時間を育める機会に恵まれる。自ずと自分のペースで生活のリズムを形成して行くようになる。

結果、徐々に夫婦の生活リズムに狂いが生じる。これが夫婦間の、溝の一因といえる。けれども、夫は気づかない。片や、妻は気にしない。以心伝心よりも、相手に対して敬愛の念を抱いているかぎり、夫婦は生涯連れ添って歩める。しかし、愛が渇いていれば、熟年離婚へ至ってしまうのが現実だ。

本作は、このような情況を、いささかステレオ・タイプなシチュエーションではあるけれども、見事に戯画化している点で秀逸だ。

 

次に気になった点を少々述べたい。

作者は昭和三十四年生まれである。ポスト団塊の世代、いわゆる「シラケ世代」だ。したがって、主人公も同世代と早合点してしまうけれども、第七章の終わりに、「初めてコーラを飲んだのは高校生時代だ。」という一文がある。いくら東北の片田舎で生まれ育った主人公といえども、北海道の片田舎で成長した、作者より三歳年長の私が、初めてコーラを飲んだのが小学校高学年だから、主人公は団塊の世代だと推し量れる。

団塊の世代であれば、年金は六十歳から前倒しで受給できるし、シラケ世代でも昭和三十年生まれ以降は、一歳若年ごとに六十歳より一年遅れで受給できる。たとえば、私の場合は六十二歳から受給可能だ。したがって、年金受給を六十五歳に断定してしまうのは、いささか早計な感を否めない。けれども、物語の構成をややこしくしたくないので割愛したのだろうと解釈している。

次に、主人公の自らの呼称が、子供に対して「俺」というのはいかがなものかと思う。父親としての威厳を保ちたい主人公の性格ならば、作中での、家族の呼称と同じく「父さん」がよかったと思う。読書中、どうしても違和感を拭えなかった。

そして、手前味噌ながら残念な点を一つ。第一章の終わりに、主人公が定年後の、夫婦旅行への夢を語る一節――「北方領土が望める宗谷岬」。宗谷岬から望めるのは樺太が正しい。もしかすると、主人公の仕事以外への無頓着さを強調するために、作者が意図的に間違えてみせたのかもしれない、と肯定的に捉えてはいるものの、やはり道産子としては寂しい思いに駆られてしまった。

最後に、本作のターゲット読者層は、題名から類推すると、本作における妻と同世代の熟年女性なのではなかろうか。有り体に述べて、男性は、この題名では購買意欲が起こらない。本来ターゲットとすべき読者層は、定年前後の男性であるべきだ。私たち熟年男性が学ぶべき内容に富んだ作品なのだから。

 

本作は二〇一八年二月二十日に祥伝社より刊行された。私は二〇一九年三月に購入したけれど、手にした本は「初版第一刷」。出版界冬の時代、とりわけ小説が売れない時代を象徴しているかのようで無念でならない。それゆえに、このような良作を、マーケティングを誤らずに出版することを切望する。

著者は、一九五九(昭和三十四)年、兵庫県生まれ。明治大学文学部文学科フランス文学専攻卒業。二〇〇五年、『竜巻ガール』で第二十七回小説推理新人賞を受賞し作家デビューした。著書多数。

                

 

 

近藤大介『二〇二五年、日中企業格差 ―日本は中国の下請けになるか? ―』

PHP新書 2018年長瀧孝仁

 

 

中国通の著者が現在中国のクラウド、ビッグデータ、AIに代表されるようなIT産業の繁栄を現地報告するため、十五年~二十年遡ってその内容と本質を詳述している。また、現況から予測可能な近未来への言及もある。著者には中国関係を主に多数の著書があってジャーナリストとなっているが、講談社の方で、二〇〇八年からは明治大学国際日本学部で週一回、東アジアの国際関係論を講義されている。本書に拠れば、「毎年受講する学生は約三〇〇人で、うち中国人留学生が五〇人近くに上る」そうである。

日常生活でメイド・イン・チャイナ製品が増え、日本人が中国の繁栄を意識し出したのは随分前のことである。しかし、当該企業家の個人名が日本の新聞・雑誌・テレビの前面に出て来たのは、ここ四、五年のことではないか? それは、アリババ(阿里巴巴)の創業者・馬雲(ジャック・マ―)であり、ファーウェイ(華為)の創業者・任正非であった。

 アリババは二〇一四年にニューヨーク証券取引所に上場、個性的な風貌の馬雲の顔写真、映像が全世界に配信された。ソフトバンクの孫正義社長が初期に投資した二〇億円分の持ち株が、四〇〇〇倍の約八兆円の価値になったというエピソードを添えて。現在日本で大キャンペーンを展開中のソフトバンクのスマホ決済アプリPayPayは、アリババのアリペイと技術を共有している。

ファーウェイについては、創業者の娘・孟晩舟が昨年末に突然カナダで拘束されたとの報道が世界を駆け巡った。次いで米国は、ファーウェイとその関連会社六十数社への部品輸出規制を発効した。米国内の通信ネットワークから中国製品を排除したいのである。この背景は、現在のスマートフォンの通信速度の数十倍という次世代通信5Gの技術開発で、中国が米国に先行しているからだと言う。

この書評を書いている時点でドナルド・トランプと習近平が直接会うかどうかが問題となっている米中貿易摩擦についても、詳しい言及がある。対岸の火事ではなく、日本にも影響が大きい地球規模での覇権争いだと説かれている。著者は「AI社会主義」という言葉を使って、中国の近未来が「国家が全国民の個人情報を握って監視し、管理する社会」になろうと予想している。まるでジョージ・オーウェルの『一九八四年』に描かれた小説の世界のようだと言う。

本書のタイトルは、二〇一五年に発表されたハイテク産業育成策「中国製造二〇二五」から来ている。いま世界で起こっていること、これから世界がどうなるのかを知りたい人は、是非読むべき本である。快刀乱麻、本書にはその答えが明瞭に書かれている。

 

 

吉村武彦『大化改新を考える』岩波新書 2018年(長谷川福次

 

 

 著者は「古代史をおもしろく」をモットーとされています。この本も『日本書紀』(以下、『書紀』とします)の記述や発掘調査で見いだされた木簡など具体的な事例を分かりやすく解説し、そこからどう考えるかを示され、おもしろい古代史への導入書となっています。

 この本のプロローグで述べられていますが、「大化」という元号を記載した木簡は出土していません。「大化」の語があるのは『書紀』だけで、「宇治橋断片碑」に「大化二年丙午之歳」の語句があるという人がいますが、これは不確かです。この時期の木簡や金石文は年号は干支で書かれています。つまり制度・法として大化元号(確か私たちが習った教科書で、日本最初の元号と教わった覚えがあります。)を使用したという客観的な証拠は無いのです。確実に元号が使われるのは大宝以降(701年から)というのが、今、古代史の常識になりつつあります。著者はこのことを承知の上で、「大化改新」は『書紀』の歴史観を表す言葉として、『書紀』に記載された645年以後の政治や制度の改革を示す用語として使います。

 この本は三章立てになっていて、第一章では『書紀』を読み解き、改新詔の復元を試み、大化改新の実像を明らかにしていきます。第二章で改新以降、地域社会がどのように変革されたのか、第三章で民衆が生活する社会環境がどう変わっていったのか、を具体的に考えていきます。著者は『書紀』の記述に含まれる、『書紀』編集時の編集者の意識による粉飾などをしっかり批判的に読み解いていきます。また、木簡や前期難波京の発掘成果などを用いて、当時の社会の様子を明らかにしていきます。

 大化改新を考えるときにいくつかのキーワードがあります。「(いつ)()の変」「難波遷都」「(こおり)(こおり)」「部民制から公民制」などです。645年の「乙巳の変」が起きる直前に朝鮮半島の高句麗や百済でも政変が起きます。628年に唐帝国が成立し、隣国を滅ぼして巨大化し、周辺に有形無形の外交圧力を及ぼします。これに対抗できる政権の確立が必要となって高句麗、百済で政変が起きたと著者は指摘します。この情報が日本(645年には、日本とは言ってなかったようです)にも伝わり、王権側が権力を自らに集中させる政変を選択したと考えられるのです。私たちは蘇我氏の天をも恐れね横暴が中大兄皇子や中臣鎌足を決起させた原因だと習っていましたが、国際情勢からの要請と考えれば、クーデターとその後の政治改革も、「目からうろこ」となります。

 大化改新から少しそれるのですが、おもしろい視点が書かれているので紹介します。「邪馬台国畿内説」は皆さんもよく承知している言葉でしょう。「畿内」とは王権の中心とそれに隣接する地域を指す言葉です。邪馬台国時代の王権の中心が「畿内」にあるのは当然ですと著者はいいます。九州でも、関西(ここでは大阪府周辺)でも、どこでも! でも著者は、考古学における用法は「文化的畿内」と呼んでおきたいと優しくかわします。

 第三章で歌木簡に触れます。古今和歌集仮名序に

 

難波津に咲くや木の花冬籠もり

今は春ベと咲くや木の花

 

の歌があり、十カ所近くからこの歌の書いた木簡が見い出されています。詳しくは本を読んでいただきたいのですが、著者は難波津が推古朝以降の国際交流の拠点であり、改新による難波遷都がこの歌が流行するきっかけとなったと考えます。これは、「難波津の歌」の在り方を理解するのに大変魅力ある考えといえます。この『大化の改新を考える』は、古代史が面白くなるいい本です。是非、読んでみてください。

著者の吉村武彦先生は、2016年まで明治大学文学部史学地理学科の教授を務められました。私は文学部文学科でしたが、先生の授業を受けていなくて残念です。

 

川崎公平・北村匡平・志村三代子編『川島雄三は二度生まれる』

                   水声社 2018年原健太郎


「場内が暗くなった途端にドタドタと入って来て、一番後ろの通路側に坐っていた私の脚にドスンとぶつかって、そのまんまドタドタと三つ、四つ前の席に坐った人がいた。/エンド・マークが出て、場内が明るくなって見ると、その人はなんと川島雄三先輩監督だったのである。実際、明治大学の後輩でもあったのだが、ただただ一ファンといった感じで口も利けず、見に来てくれただけでも『御の字』ひたすら『光栄』と思ったものだ。/ドタドタ、ドスンは、雄三先輩の宿痾、筋萎縮症の手足の不自由さのせいである。その奇病との日々の戦いが、川島作品の面白さの間にチラチラと見え隠れする凄みとなったのではなかろうか?」

 初めての監督作品『結婚のすべて』の試写会場で、岡本喜八の眼に映った川島雄三の姿である(「わがあこがれの不健康優良児」『ユリイカ臨時増刊・監督川島雄三』、青土社、一九八九年)。東宝映画『結婚のすべて』が封切られたのは一九五八年五月二十六日だから、おそらくこの試写は、同月ないし前月の四月におこなわれたものだろう。その後、一貫して喜劇映画を追求しつづけることになる岡本は、唯一「滅法笑った」日本映画は川島の『幕末太陽傳』(日活、一九五七年七月封切り)であると明言している(「笑うのは人間だけ」『キネマ旬報』一九六一年一月下旬号による)。この日の出来事は、岡本にとってさぞや感に堪えぬものであったろう。

 前年、その『幕末太陽傳』を撮った川島は、まもなく日活を退社。岡本が助監督をしていた東宝(東京映画)に移り、この年の一月、移籍第一作『女であること』(川端康成原作、原節子主演)を発表している。

 戦中、岡本は演出助手として東宝に入社するも、徴用されて中島飛行機等で働いたのち、豊橋陸軍予備士官学校に入学。終戦後、東宝に復職し、谷口千吉『銀嶺の果て』、成瀬巳喜男『浮雲』、マキノ雅弘「次郎長三国志」シリーズなどに付き、雪村いづみ主演の青春映画『結婚のすべて』でようやく監督昇進を果たした。当時、岡本は三十四歳。『幕末太陽傳』を日活への置き土産にし、颯爽と東宝入りした川島は、六つ年上の四十歳だった。

 岡本が指摘する通り、川島作品の面白さに、彼が抱え持った筋萎縮性側索硬化症という進行性の病が影響しているであろうことは、否定できまい。デビュー作『還って来た男』(原作織田作之助、松竹大船、一九四四年)の庄平(佐野周二)しかり、『幕末太陽傳』の佐平次(フランキー堺)しかり、『貸間あり』(井伏鱒二原作、宝塚映画、一九五九年)の与田五郎(同)しかり、そこには、将来を決して約束できない、うたかたのごとく生きる人物が登場し、ときに周囲を攪乱し、ときに融和へと導く。川島作品を読み解くうえで、この宿痾の病と郷土(青森県下北郡田名部本町=現青森県むつ市)に対する複雑な感情、そして終生企業内監督であった事実が、何とはなしに見る者を身構えさせ、作品を苦笑させるに留めるのである。喜劇俳優森川信が主演した『追ひつ追はれつ』(サトウハチロー原作、松竹大船、一九四六年)でも、同じく清水金一の『シミキンのオオ!市民諸君』(横井福次郎原作、松竹大船、一九四八年)でも、森繁久彌やフランキー堺らによる群像劇『グラマ島の誘惑』(飯沢匡原作、東京映画、一九五九年)でも、この三つの留意点は、作品を楽しみ、論じるうえで、重苦しい「命題」として横たわっている。

『洲崎パラダイス赤信号』(芝木好子原作、日活、一九五六年)を初めて見たとき、蕎麦の出前に出た義治(三橋達也)を店で待ちわびる蔦枝(新珠三千代)と玉子(芦川いづみ)の前に、先輩出前持ちの三吉(小沢昭一)が鼻唄をうたいながら現れる場面で、噴き出した覚えがある。いや、実は今もDVDで見直すたびに笑みがこぼれる。ストーリーという縦糸とギャグという横糸がリズミカルに織り成し、心地よいユーモアを放つ、川島作品のなかでも指折りの一本だ。だが、川島雄三が描きたかったものは本当のところ何なのか、何度見直しても理解できないのではないかという無力感に包まれてもいる。

 本書に収められた十余編の論考は、こうした映画の見方をこともなげに吹き飛ばしてみせる。その共有理念は、「……川島自身の人生や人間性、つまりその『生きざま』は、作品解釈の根拠として頻繁に用いられてきた(「こういう男の作った映画というのは……」)。これが、川島をめぐる空洞をより強固にしてきたことはいうまでもないだろう」と言い切る、川崎公平(日本女子大学人間社会学部講師)の「序」に集約されているように思う。川崎は、これまで語られてきた川島作品をめぐる「膨大な証言」を「僥倖」と受け止めながらも、潔く斬って捨てることで何かが見えてくるにちがいないと言う。本書に収められた論文の立脚点は、わたしが勝手に頭を悩ませていた「命題」からの解放だったのである。

 格別の読み応えを得た論文を一つ挙げるとしたら、ヨハン・ノルドストロム(都留文科大学文学部講師)の「笑劇とスクリューボール・コメディー―東宝における川島雄三の二つの喜劇」(鳩飼未緒訳)であろうか。『貸間あり』と『接吻泥棒』(石原慎太郎原作、東宝、一九六〇年)の二作について、ショットの展開にまで注意を払い、構造解析を試みた力作だ。絵柄そのものや、ページ構成、コマ割りなどに言及することなく、ストーリーのみを語って終始するマンガ評論が意味をなさないように、喜劇映画に関しては、ギャグの内容や挿入タイミングを含めた構造の分析なくして話にならない。この肝心要をあらためて教えられた気がする。何よりこの二本の映画を、真っ正面から「喜劇映画」と位置付けている点がうれしい。そこには、川島の「人生」も「人間性」もまるで作用していない。

 川島雄三は生涯にわたり五十一本の映画を世に問うたが、フィルムの存在が確認できていない『相惚れトコトン同志』(松竹大船、一九五二年)をのぞき、現在、五十作を鑑賞することができる。本書を読み終えて、幻の一本がますます見てみたくなった。

 

 

山岡淳一郎『木下サーカス四代記』東洋経済新報社 201年(多田統一


年間120万人の観客動員を誇る木下サーカスについて、本書はその魅力を経営の視点から掘り起こしている。サーカスを取り巻く環境や社会動向、例えば興行に必要な法律的手続き、動物使用とワシントン条約、動物の権利運動、都市再開発と空き地の暫定利用等にもきめ細かな取材を行い、努めて客観的に叙述している。著者のシャープな視点と優しい眼差しが心地好い。

本書が単なる人物誌、芸能史に終わらず、歴史という縦軸と社会という横軸を駆使してサーカスというエンターテインメント業界の内情に迫り得たのは、著者のノンフィクション作家としての力量に負うところが大きい。

木下サーカスは、初代の木下唯助が1902年大連で旗揚げして創業した。二代目の光三、三代目の光宣へと引き継がれていくが、光宣が急逝したため急遽、光三の次男・唯志が四代目社長に就任した。兄の光宣の時には総額10億円という多額の負債を抱えていたが、唯志はその債務を10年で完済し、現在は無借金経営を続けている。

 

木下唯志は1950年生まれ。1969年明治大学経営学部に進学、初心者ながら体育会剣道部に所属し猛稽古を積んだ。時代は正に大学紛争真っただ中。ヘルメットを被った学生と機動隊が対峙する横を、唯志は学生服に防具を担いで道場に通った。道場はお茶の水本部校舎の地下にあった。猛稽古で知られるこの剣道部で、唯志は一日一死で一瞬一瞬に集中して生きていくことの大切さを体得する。これは、指導者の森島健男師範の教えでもある。この大学時代の経験が、唯志の経営哲学の神髄になっているものと思われる。

1974年、唯志は大手銀行の内定を断り、木下サーカス株式会社に入社した。社長の息子と言っても、初仕事は象の糞掃除で、団員と一緒の寝小屋で暮らした。1990年、40歳で四代目社長に就いた時には総額10億円の負債を抱えており、どん底からの再出発となった。唯志は創業時の基本に立ち返り、着実な経営を行なうことを心に誓った。

まず、仮設劇場の改革から始めた。機動性のあるイタリア製の大テントを導入した。これでコストダウンが可能となり、次には営業部門に力を入れた。地元新聞社やテレビ局、広告代理店と協力して、プロモーション活動を展開して行った。更に、木下サーカスのブランド価値に直結するショーの大改革に着手した。キーポイントは、世界マーケットを意識したグローバル化である。アジアや南米、東欧などから、外国人アーティストをスカウトした。

ここで注目されるのは、グローバル化が加速してもなお、引き継がれてきたビッグファミリーの旗を降ろさなかったことである。エンターテインメント業界では、何より人と人との接点が重要視されるのである。

木下サーカスは本社を岡山市に置くが、公演は常に移動先の広場で行なう。団員と家族は、常にコンテナハウスで生活する。これには、「一場所、二根、三ネタ」を経営の三本柱にしたビジネスモデルがある。驚異的な集客力を誇っている理由もここにある。木下サーカス自体が大きな家族であり、観客にも世代を越えた楽しさがある。

家族崩壊が叫ばれて久しいが、大衆とともに歩む理念が生き続けている。世界に類がないファミリー企業の良さなのである。

 

枝元なほみ/ビッグイシュー日本版販売者『クッキングと人生相談 ―悩みこそ究極のスパイス―』有限会社ビッグイシュー日本 201年(長瀧孝仁

 

 

雑誌「ビッグイシュー」は、一九九一年ロンドンで創刊された。救済するのではなく、街頭で雑誌を販売して貰うという仕事を提供することによって、ホームレスの自立を応援することを目的としている。日本版は、二〇〇三年九月に創刊されている。一冊三五〇円で、売上の内の一八〇円が販売人の懐に入る仕組み。発行元は、大阪市北区の有限会社ビッグイシュー日本である。

 今年一月、この雑誌が増刷のうえ完売したというニュースが世間の耳目を集めた。英国ロックバンド「クイーン」の軌跡を描いた映画「ボヘミアン・ラプソディ」を採り上げた一月十五日発売の351号がそれである。映画の大ヒットを受けて急遽スコットランド版の記事を翻訳掲載、短期間で三万一千部を売り上げたのである。

          ○

本書は、「ビッグイシュー日本版」の創刊二年目から連載開始した人気コーナー「ホームレス人生相談」各回の中から48点を選りすぐった選集である。もう少し詳しく言うと、二〇〇八年にも選集である『世界一あたたかい人生相談 ―幸せの人生レシピ―』(のち講談社文庫に所収)が刊行されているので、本書はそれ以後の連載からの選集となる。

ところで、連載が開始された理由が振るっているではないか。街頭で「日本版」の販売を開始したところ、販売者が読者から相談を持ち掛けられることが間々あったのである。世間には悩みを抱えている人は多いが、相談相手が簡単には見付からない。しかも、上から目線の人生相談は数多あるが、下から目線の人生相談は少ないのである。編集部では、編集部に寄せられた人生相談を販売者に答えて貰う形にして連載を開始したのである。枝元なほみさんの「悩みに効く料理のレシピ」と「あたたかい一言」を添えて。

          ○

 本書では人生相談への販売者の回答と枝元さんの料理の組み合わせが何とも言えないハーモニーを奏でており、筆紙に尽くし難いので次に少し引用してみる。

 「現在就職活動中ですが、社会に出るのが何だか怖いのです」と言う大学三年の女子学生に対して、販売者Aさんは「うちは貧しくてねぇ、中学校出て就職列車と呼ばれた蒸気機関車で上京したなぁ。仕事覚えるのに必死で、週六日働いた。……経験を積むつもりで、明るく社会に出て欲しいねぇ」という具合に答えるのである。ここで枝元さんが勧める料理は塩ちゃんこ鍋である。肉・魚・野菜・油揚げと社会には色んな立場の人たちが居て、世間は一寸しょっぱいのである。枝元さんのあたたかい一言。「社会は人と一緒に作るもの。その懐に飛び込んで行ってもいいんじゃないのかなぁ。……」

 また、「38歳で結婚せず子供を産み育てています。子供は歳になりました。しかし最近、将来子供を守れなくなったらどうしようと涙することが多くなりました」と言う中年女性に対して、販売者Bさんは「ずうっと緊張状態にあったんだろうねぇ。SOSのサインが感じられて心配だよ。肩の力を抜いてみたら!……子供を育てるってぇのは、人生を導くことじゃなくって、そっと応援することであって欲しいね。お母さんは、ゆったりとした心でいて欲しいと思うよ」という具合に答えるのである。枝元さんが勧める料理は「みんなでそうめん」。細ねぎ・納豆・青じそ・しょうが・茹で枝豆・角切りトマト・焼き油揚げなど、実に多彩な薬味付き。枝元さんのあたたかい一言。「子供はみんなで育てたらいい。友達みんな親代わりってことで、色んな薬味(=役目)を持ち寄って。みんなで楽しく賑やかに!」

          ○

 著者の枝元なほみさんは神奈川県立横浜平沼高校、明治大学文学部英米文学科卒業。劇団・転形劇場で俳優修業をし、劇団解散後に料理の方に舵を切っている。現在、テレビ・新聞・雑誌等で活躍中の料理研究家。農業支援活動団体の社団法人チームむかご代表理事、ホームレス支援組織のNPO法人ビッグイシュー基金理事という社会運動家の顔もある。


植村直己/聞き手片山修『北極点への道―没後35年特別企画―』小学館「BE―PAL 2019年3月号」別冊付録 201多田統一

 

 本書は、雑誌「GORO」(小学館)の1978年2月9日発売の第4号から、第13号にかけて連載されたインタビュー記事を収録したものである。十一のテーマが掲げられている。

 

一 なぜ今北極圏か

マイナス50度、60度という極寒の中で、人間の意志など持続できるものではない。植村は、自分のことを決して意志の強い人間ではないと言っている。彼は、厳しい自然を前に、そこから引き下がれないような心理状態に自らを追い込んできたのである。

二 なぜ単独行なのか

 植村には、中・高校生時代の登山経験がない。明治大学の山岳部では、仲間に追いつこうと見えない所でひとり努力を重ねてきた。チームプレーが苦手で単独山行を続けてきたが、落ちたら最後助けてくれる者はいない。甘える気持ちは最初から持たないのである。

 

三 極寒下の忍法

 雪で処理する排泄術、絶えず口を動かすことで皮膚感覚を保つパイプタバコなど、極寒の地での生きるための知恵が興味深い。

 

四 遠くて近い海外への夢

 アラスカに行った山岳部の同僚への対抗心から、海外への夢が膨らんでいったことが語られている。渡航費用を稼ぐために、トビ職のようなアルバイトもしたようだ。

 

五 氷上の一日

 一日の締めくくりとして、日記をつける。薄い航空便箋に、平均3枚書き続ける。その日の行動を反復するより、もう一人の自分に向かって話しかけるように書く。単独行の寂しさを紛らわせる方法なのであろう。

 

六 〃ひとり〃ではなかった

 様々な人たちの協力があってこそ、冒険は成立する。カナダのトリュドー首相来日の際、三木元首相主催の歓迎レセプションに招かれた。一番安い貸衣装を注文したところ、百貨店の店員の好意により、最高ランクのタキシードが届けられた。その時の店員の好意が、とても嬉しかったようである。

 

七 急がば回れ

 薄い新氷上を走って大失敗した時のことが語られている。北極圏1万2000キロの旅で、犬とそりを海に落としてしまったことがある。短気を起こさず、急ぐ時ほど回り道をするという気持が大切になってくる。これは、すべてのことに当てはまることではないだろうか。

 

八 身体で知った〃3000キロ〃の重み

 日本縦断の経験が、氷原での沈着な行動に結びついている。犬とそりを海に落とした時、植村があわてずに行動できたのも、距離感を肌で知っていたからである。最寄りのイヌイット集落までは約200キロ、植村は土の上だと2日半で到達できると踏んだのであろう。

 

九 冒険と無謀の間

 準備不足のアコンカグア南壁挑戦、思いつきのアマゾンいかだ下りの失敗例が挙げられている。心の焦りや名声を得ようとする行為は、決していい結果を招かないことを教えてくれる。

 

十 〃無手勝流〃接触法

 言葉の問題も現地の人たちとの交流も、自分を飾らなければうまくいくと植村は言っている。片コトの会話も、ジェスチャーで誠意を示せば何とかなるとのことである。冒険家らしい交流術でなかろうか。

 

十一 冒険は〃食〃から始まる

 植村が、イヌイットの家で最初に生肉を食べた時、胃液が逆流したと言う。それも慣れ、冒険には果敢な挑戦が必要である。生肉ほど極寒の地にふさわしい食べ物はない。〃習うよりも慣れろ〃の行動力を見習いたいものである。

 

 1977年から78年にかけて行われたインタビューは、経済ジャーナリストで経営評論家の片山修氏が担当した。同氏は明治大学経営学部卒業。月刊誌や週刊誌に多数の論文を執筆、『ソニーの法則』『トヨタの方式』など著書も60冊を数える。
 インタビュー記事は、植村直己の生の声なので心に響く。登山技術や地形・気象の解説とは違った
人間の生き様が感じられ、とても興味深い。


「駿河台文芸 第36号」平成30年(2018)12月10日


勢古浩爾『古希のリアル』草思社文庫 2018年(長瀧孝仁

 

著者・勢古氏の本はよく売れるのである。大型書店の文庫本コーナーへ行くと、目線の高さの棚に設けられた草思社文庫「特等席」に、表紙を前面にして何冊もの在庫が陳列されている。最初に草思社文庫に入った『定年後のリアル』であり、その続編に当たる『定年後七年目のリアル』などである。

本書を含めて著者が草思社文庫の「定年後シリーズ」で展開している論旨は、次のようなものである。

 

 出版界には「定年・老後本」というジャンルがあって、少子高齢化という時代を反映して数多の本が出版されている。その中には、ベストセラーになっている本もある。しかし、これらの本の内容とその本を取り上げるマスコミが必要以上に定年後、老後の不安を煽っているとするならば、これは逆効果であり社会悪ですらある。

老後の不安は大別して「お金」「健康」「生きがい」という三つの問題に集約される。この内「お金」について言えば、数多本の中に「老後資金は××千万円必要」と煽っているものがある。また、孤独死の可能性を声高に言挙げする本もある。概してこれらの本は「健康」を維持し、「生きがい」を求める方策にも、「お金」が掛かることばかりを奨める傾向にある。加えて、「××しなさい」「××しなければならない」という教訓調の本も多い。

しかし、読者にはこれらの叙述は不愉快である。公務員や大企業の社員を基準に書いたのだろうが、日本の就業者の九割以上は中小零細企業で定年を迎えるのである。数値の格差が老後への絶望感を誘発するようでは、出版の意味が問われ兼ねない事態である。

 

 著者はここで、読者を励ましている。

 

今までだって幾つもの困難を乗り越えて何とか生きて来たのだから、老後だって生きて行けるさ。数値の格差を気に掛けて、定年前から思い煩うなんて馬鹿げている。そんな本なら、読まなければ好い!

自分には自分の人生しかないのだから、自然体であるがままの老後を送るしかないだろう。日々の楽しみを大切にしながら、さあ、元気を出して生きて行こうぜ!

 

 ネット上の読後欄には「勢古氏の本を読んで気が楽になった」という読者の声が見受けられる。本が売れる秘密もその辺りにあるのだろう。多くの定年・老後本を儒教とするならば、「定年後シリーズ」は老荘思想なのである。前者は実用書として、後者は心の安らぎを求める本として読まれているのである。

 

 本書には思い当たるまま、人・物・事についての叱言・たわごと・独り言が綴られている。以前の著作に比べてもなお一層、古希老人特有の饒舌が繰広げられているように感じられた。

著者は、明治大学政治経済学部卒業。大学院政治学修士課程修了。定年近くまで洋書輸入会社に勤務。職業柄もあろうが、相当な本好きである。特に小説。日々の楽しみは、明日読む本について考えること。著書多数。

 

島村俊治『星野仙一 ―決断のリーダー論―』(ペーパーバック版)

ゴマブックス 2018年(長瀧孝仁

 

日本のプロ野球界に大きな業績を遺した星野仙一(一九四七~二〇一八年)は、今年の一月四日に亡くなった。幾冊かの雑誌や書籍が追悼出版されたが、過去優勝監督時の出版物の復刊も多かった。本書もその一冊で、阪神タイガース優勝の翌年、二〇〇四年に刊行されたものをペーパーバックで改変復刊している。字が大きく、厚くもない冊子のような体裁である。

内容は、星野が若い頃から如何にして監督業を学び、組織を統括して率いて行く術を身に付けたかが綴られている。著者が星野と接する中で、大事なこと、気が付いたことを手帳に書き留めておいたのではないかと思われる。本書は十数年前の本なので、楽天イーグルスについては全く書かれていない。

星野の業績を記してみる。岡山県生まれ。県立倉敷商業高校、明治大学政治経済学部卒業。エースとして君臨するも、高校、大学時代は優勝経験なし。従って、甲子園のマウンドを踏むこともなかった。大学二年の対立大戦でノーヒットノーランを記録するが、当時は法大、早大の全盛時代で、四年間で一度も優勝出来なかった。一九六九年、中日ドラゴンズに入団。十三年間の投手生活で二度のリーグ優勝を経験、14612134セーブの成績を残した。

監督としては、一九八八年と九九年に中日ドラゴンズを、二〇〇三年に阪神タイガースを、一三年に楽天イーグルスをリーグ優勝に導いている。この年楽天は日本シリーズでも優勝、星野は日本一監督の仲間入りを果たしている。歴代、三チームをリーグ制覇させた監督は三人しかいない。三原脩、西本幸雄、星野仙一である。そして監督辞任後は、楽天球団取締役副会長の地位にあった。

ところでこの秋、星野亡き後初めてのセ・パ両リーグ公式戦が終わってみると、大きな変化があったことに気が付く。星野が監督を務めていた三球団すべてが下位に低迷したのである。中日は昨年も今年も5位であるが、昨年3位でクライマックスシリーズにも参戦した楽天は、春から不調で最下位に低迷したままシーズンを終えた。また、昨年2位で同じくクライマックスシリーズに出た阪神は、今年は中日にも負けて最下位で終わったのである。既に、これら三球団すべての監督が交代している。

 この事態を、単なる偶然で片付けて好いものだろうか? 威光が無くなったからなのではないだろうか? 中日はともかく、星野は亡くなる直前まで、後の二球団には有形無形の影響力を行使していたのである。いざ亡くなってみると、星野の威が無くなってメッキが剥げた監督たちには従わない者が現れ、組織のタガが外れてしまったように見えるのである。改めて、「星野仙一」という存在の大きさを認識せざるを得なかった。

 私は右の勝手な類推が間違っていないか、何か答えがありはしないかと、この本を繙いてみた。著者の島村氏は、星野より六つ年上のNHKスポーツアナウンサーである。星野がNHK野球解説者だった時、実況中継でよく同席して親しくなったそうである。尤も、何時も野球の中継ばかりを担当する訳ではなく、オリンピックでは鈴木大地、岩崎恭子、清水宏保が金メダルを取った試合の実況放送担当だったとのこと。

当時は、他の解説者に鶴岡一人、川上哲治という大物の元監督が居たのである。星野は特に川上元監督に可愛がられ、全選手へ公平に接することなど、細かなことから謙虚に学んだ。著者は、星野を野球中継で同席した他のNHK野球解説者の藤田元司、広岡達朗、古葉竹識、森祇晶元監督とも比べている。その中でも星野は自分の考え、方針が明確で、話の内容も分り易かったと言う。人間関係が何よりも大切と考えていて、決断力が頭抜けていた。

 

 

菊田守『古典を学ぶ! 日本人のこころと自然観

 -山川草木鳥獣虫魚の世界に遊ぶ-

日本地域社会研究所コミュニティ・ブックス

2018年(多田統一

 

 本書は三部構成で、著者の詩作品と芭蕉論、詩論が掲載されている。第一部が松尾芭蕉の自然観について、第二部が日本鳥獣詩について、第三部がわが人生と詩作についてである。

 第一部は、松尾芭蕉と山川草木鳥獣虫魚の世界、松尾芭蕉の老いと旅からなる。

菊田氏と芭蕉と言えば、芭蕉の「雅俗論」を纏めた明治大学の卒業論文にまで遡る。有名な句「古池や蛙飛び込む水の音」にまつわる話が面白い。著者は、講演で聴衆によく次のような質問をする。「古池や………の蛙は、メスかオスか?」と。答えはオスである。「ボッチャンと音がするではないか!」と言うのである。「芭蕉の句は笑い。俳諧の俳は滑稽、俳諧の諧も滑稽!」と解釈するのが著者の持論なのである。そのユーモアは、菊田氏の詩作人生とも繋がっている。

第二部には、著者の詩作品が掲載されている。特に〃天の声〃は、菊田氏らしいほっとする作品である。

 

青い空

白い雲の彼方から聞こえてくる声

アホ― アホ―

アホ―

―阿呆になれや

   阿呆になれや

天から

カラスの声が聞こえてくる

 

第三部は、詩のこころ―芭蕉・道元から現代まで―、詩作入門、わが原郷―ふるさと「鷺宮」―からなる。

著者には、身近な小動物についての詩作品が多い。それらに一貫するのは、鋭い観察と小動物への愛情、ユーモアあふれる表現、故郷に対する熱い思い、普遍的なテーマを追求する姿勢である。

菊田守氏は、1935年東京都中野区生まれ。1959年明治大学文学部卒業。1994年、第一回丸山薫賞受賞。日本現代詩人会元会長。詩集『かなかな』他、多くの著作がある。

 

 

根深誠『白神山地マタギ伝 ―鈴木忠勝の生涯―』

ヤマケイ文庫 2018年(多田統一

 

本書は四年前に七つ森書館から刊行されており、今回文庫化された。構成は、次の通りである。

 

はじめに

第1章 水没集落

第2章 白神山地とマタギ

第3章 クマ狩り

第4章 山々に残る伝承

第5章 山の暮らし

第6章 白神山地をめぐる歴史

終 章 ひとつの山村の消滅と将来について

初版あとがき/文庫版のあとがき


 第1章では、ダム建設で消滅した白神山地の村が紹介されている。1953年に着工し、1960年に完工した目屋ダムの建設で、砂子瀬と川原平の一部を合わせて86戸の民家が湖底に沈んだ。ところが、1973年ダム建設計画が再び浮上し、2000年に補償交渉が妥結、翌年度までにほとんどの住民が移転した。

このダムは津軽ダムと命名され、総貯水量が東京ドームの150杯分程ある。工事は2016年に始まり、目屋ダムの下流60メートル地点に、目屋ダムを飲み込むように建設された。179戸が移転し、砂子瀬と川原平の2つの集落は消滅した。しかし、ダム建設により従来の人間関係に亀裂が生じ、金銭による利害関係が支配する社会へと変化していった。民宿のオカミの会話、「ジェンコサしがみついデ、心が貧しくなったんだべ」が印象的である。

 第2章では、筆者が白神山地最後の伝承マタギ・鈴木忠勝から聞いた山の暮らしが興味深い。1990年に83歳で亡くなった忠勝は、自分を信じ、自分の力で自然とともに生きたマタギである。今日のように、マタギが観光で持て囃される時代ではなかった。クマ、ウサギ、カモシカなどを獲り、時にはヘビも食べた。しかし、山に依存する生活は、ダム建設の頃から疎遠になっていく。

第3章では、「四つグマのたたり」が興味深い。母グマと3頭の子グマがいると、子グマ1頭だけは逃がしてやるのだと言う。この伝承を、種を絶やさず自然界のシステムを維持しようとするマタギの戒律だと筆者は説明している。

 第4章では、「妖怪の棲む沢」に注目したい。藩政期には、岩崎あたりは秋田領で、阿仁のマタギが随分やって来たそうである。鈴木忠勝の話では、津梅川の源流の一つ「一本松の沢」には妖怪が棲んでいると言う。津軽領内の山で隠れマタギが見つかり、刃傷沙汰になったこともあるらしい。津軽藩と秋田藩の勢力圏争いを巡る出来事として、筆者は紹介している。

 第5章では、「ナタメと杣道」に目が留まった。ナタメとは、白神山地の杣道の脇に残るブナの立木に刻まれたサインである。ワサビ採りの女性の名前も残っている。ナタメは、山に生きる人たちの暮らしにまつわる物語でもある。

 第6章では、鉱山開発のことが出てくる。鈴木忠勝によると、尾太銅山は砂子瀬集落から近いこともあり、村人との関わりが深かったようである。木炭を使ったタタラ精錬が行なわれていた。木炭の材料は、付近で伐採したブナやナラである。この鉱山で弘前藩はずいぶん潤い、尾太街道沿いには繁栄祈願として寄進された石灯篭が残っている。

 終章で、筆者は世界自然遺産である白神山地の将来像について提言している。杣道トレイルと緑化木としてのブナの活用である。アスファルトや鉄パイプの遊歩道は、白神山地に似つかわしくない。杣道こそが、人と自然の関わり、山の人たちの生活ぶりを知ることのできるルートである。また、ブナによる景観づくりは、人類の遺産としてのエコミュージアムの考え方として示唆に富む。

 根深誠は、1947年青森県弘前市生まれ。明治大学山岳部OB。マッキンリーで遭難した植村直己の捜索にも参加した。青秋林道の建設計画が持ち上がった際には、反対運動を立ち上げた人である。ヒマラヤの未踏峰6座にも初登頂している。

登山家としてだけでなく、生態学や歴史・民俗学についても実に詳しい。地理学者・民俗学者であられた故・千葉徳爾明治大学教授のことにも触れている。私も、大学院の合同ゼミで千葉教授の指導を受けたが、もっとマタギのことをしっかりと聞いておくべきであったと後悔している。

著書は『白神山地をゆく ―ブナ原生林の四季―』(中公文庫)『遥かなるチベット ―河口慧海の足跡を追って―』(中公文庫)『東北の山旅 釣り紀行』(中公文庫)『シェルパ ―ヒマラヤの栄光と死―』(中公文庫)『ヒマラヤにかける橋』(みすず書房)『風の冥想ヒマラヤ』(中公文庫)『山の人生 ―マタギの村から―』(中公文庫)『ヒマラヤのドン・キホーテ ―ネパール人になった日本人・宮原巍の挑戦―』(中公文庫)など多数。

 

 

北島治彦監修 小幡一編著『愚直に〃前へ〃

  ―北島忠治・明治大学ラグビーの真髄―』(新装普及版)

人間の科学新社 2018年(唐山峰雪

 

私は昭和二十八年に明治大学文学部に入学しました。郷里の母校ラグビー部を強くしたい一心で毎日八幡山に四ヶ月間通い、漸く合宿所に入れてもらいました。この期間ボール磨きも覚え、グラウンド脇に畑も作っていたので、肥たご担ぎもしたのです。おやじ(北島忠治監督)の薫陶を受けたことにより、念願の高校のコーチもして、県高体連十か年連続優勝・富山国体準優勝と貢献することができました。余談になりますが、私はラグビー部ながら昭和三〇年の箱根駅伝に出場しております。往路の戸塚~平塚間二十三キロを走り、一人追い抜きました。

今回本書を読んでみて、改めて次の二行が胸に響きました。

 

「行動は意識に先行する」

「一瞬の判断と咄嗟の反応」

 

西田幾多郎は『善の研究』で「我々は知識においても何においても、直観を離れることができない」と言い、第一編第四章「知的直観」において、「直観は知的直観(フィヒテが唱えた) intellectual intuitionである」として、この直観は「主客いまだ分かれない、知るものと知られるものが一つである現実そのままの不断進行の意識である」と述べています。

 さらに「直観は知覚によって成立し、いや知覚や直覚と同じものだ」と言います。しかも「意志の進行、意志の実現の根底にも、始終この直覚が働いている。意識は〈すべて衝動的である〉〈意識の統一的傾向は意志の目的である〉」と直観の行動性を断言しているのです。

「直観」とは、一般に判断・推理などの思惟作用を加えることなく、対象を直接捉えることですが、ピーンとかピカリというオノマトペで表されるように、一瞬の判断で全体を把握してしまう作用を言います。もう一つ、「直観」に似た作用として「衝動」があります。「衝動」とは、突き動かすことです。なんらかの知覚または観念を起因とし、強制的にある動作または行為を促す内部的欲求を言います。
『善の研究』第二編第四章「真実在は常に同一の形式を有って居る」に、衝動が次のように解明されています。

 

衝動及知覚などと意志及思惟などとの別は程度の差であって、種類の差ではない。前者においては無意識である過程が後者に於いては意識に自らを現わし来るのであるから、我々は後者より推して前者も同一の構造でなければならぬことを知るのである。

 

西田幾多郎全集第二巻『自覚における直観と反省』では、「直観と反省この二つの内面的関係を明らかにするものは、我々の自覚である」と言います。

 下村寅太郎は西田哲学の説明として「『善の研究』では主客未分の純粋経験を〈直接経験〉と呼んでいる」と解釈しています。続けて「最高の最も具体的な・・・主客〈すでに〉未分の意識・・・と相隔絶しながら、しかも同一とする思想―これが純粋経験のことで、東洋の宗教思想につながっている」と言うのです。

ここで付け加えておきたいことは、カントに a priori (先天的、即ち経験に先だち、経験を成り立たしめる論理的根拠となるものの意)というのがありますが、これは直観と直結しており、いにしえから知られていた仏教の「蜜有」にも通じるのです。仏教辞典では「蜜有」を真実の存在と定義しています。『正法眼蔵』の水野弥穂子注には「知覚の対象とならない真実」とあります。人間の眼には見えない意識のことで、いわば「統一作用」のような意識のことです。仏教で言う阿頼耶識(八識の一つ)のことだと思って下さい。

 以上、ラグビーにおける直観と状況判断とプレーの話を進めて来たつもりですが、このことはラガーのみならず、五輪アスリートにおいても同様で、さらには経営や軍事のR等にも応用されているのです。少し前のことですが、後輩の柔道家、剣道家(注)と三人でコーヒーブレイクした時のことです。たまたま「純粋経験」の話題が出て、たいそう盛り上がりました。それは「・・・技をかける一瞬の意識とか、剣を打つ一瞬とか、その瞬間前が『乳児の文目(あやめ)もわかぬような・・・主客〈まだ)未分の意識』を言うのでないか・・・」というものでした。

ラグビーにおいては、精神的な昇華が勝利という名誉以上に崇高で貴重なものとして重んじられています。「反省」が内面化して、学生の生き方に関わるよう「自覚(自立あるいは自律)」まで高められるかが、指導におけるキーポイントになっているのです。

 (注)柔道家は澤田敦士氏、剣道家は橋本武雄氏です。

 

ところで、本書に次の北島監督の言葉を見つけて、改めて私は深い感銘を受けました。

 

「平常心是道。そして今、この時を大切に生きる」

 

もう一人の恩師、唐木順三先生の著書を紐解いてみましょう。私は唐木順三ゼミナールの学生でもありました。

唐木先生は『正法眼蔵随聞記私観』で道元の『正法眼蔵 弁道話』から「仏家には数の殊劣を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修業(行)の真偽をしるべし」。そして、「行仏三昧」を「行仏にあらざれば、仏縛・法縛いまだ解脱せず。仏縛・法縛に党類せらるるなり」と言っています。この「行仏」とは、行のほうで成仏することです。

さらに『正法眼蔵 行仏威儀』からは「仏縛というのは菩提(さとり)を菩提と智見解会(頭で考え、理解)する、即智見、即解会に即縛(執着・束縛)せられぬるなり。一念を経歴するになおいまだ解脱の期を期せず、いたずらに錯解す。菩提(さとり)を菩提なりと見解せん。想憶(思い見る)す、これ即ち無縄自縛なり。縛縛綿綿として、樹倒藤枯にあらず、いたずらに仏辺の巣窟に活計(生活)せるのみなり」。

『正法眼蔵 諸法実相』を開くと「仏祖の現成は究尽の実相なり(その姿そのままが実相そのままである)」とあります。諸仏諸祖の出世は諸法(あらゆる物事)の実相(真理)を現わしています。諸仏諸祖とは達磨や道元の師であった如浄等の諸祖のことです。実相は現実をおいて他に真実があるように思われますが、「現実の諸法(万法の真実・自己の正体)が実相である」と言います。禅宗(曹洞宗)では、これを特に「直指人心見性成仏」と表現しています。

北島監督は学生と起居を共にし、利他に生き、「平常心是道」を唱導して六十七年間貫き通されました。このような求道的な生き方を通した北島監督の教えは、全く宗教思想、芸術等の創造に通じるだろうと思います。学生諸君においても、勉学と修業によっては「仏の心さえむずとつかめ」て、女神が微笑むというのでしょうか?

 

 

阿久悠『無冠の父』岩波現代文庫 2018年(多田統一

 

最後のページに、編集部による本書刊行の経緯が書かれている。これによると、『無冠の父』は1993年9月から11月にかけて執筆された。完成稿が編集者に渡されたが、改稿を求められたため、阿久悠はその原稿を戻させ、亡くなるまで一切このことを語らなかったと言う。

2011年10月、明治大学駿河台キャンパスに阿久悠生前の業績を顕彰する記念館が開設されることになった。関係者が自宅に残された遺品を整理したところ、書斎の棚の奥から、5つの章からなる未発表の長編小説が見つかる。遺族の了解を得て、『無冠の父』は刊行の運びとなった。ストーリーは、以下のようなものである。

第1章「訃報」では、主人公深沢健太(ペンネーム・阿井丈)の父深沢武吉が、突然の心不全で昭和50年1月7日に亡くなる。この時、健太はヨーロッパへ旅行中で家族とともにパリにいた。健太は、阿久悠自身である。すでに、有名な作詞家になっていた。

第2章「巡査」では、父親の職業柄、子どもの健太にとってもこれが実に厄介なものとなった。巡査の子どもであると言うだけで、周囲の扱いが違った。畏敬の念をもって接してくることもあるが、友だちと無邪気に遊んでいても健太にはどこか壁を感じた。

第3章「俳句」では、終戦直後父に言われるがまま、健太は「天皇の声になる蝉の声」と詠んだ。父武吉は、「松虫の腹切れと鳴く声にくし」と詠んだ後、「この子らの案内頼むぞ夏蛍」と詠み替えた。新しい時代に移り変わろうとしている世相を反映した実に象徴的な句である。

第4章「肖像」では、父武吉が、友人に息子の肖像画を描いてもらう。武吉には5人の子どもがいたが、長男の隆志は17歳で水兵となり、戦死してしまう。戦死公報が終戦から1か月遅れて届いたが、この肖像画は今も大切に仏壇に飾られている。

第5章「格言」では、厳格な父の言葉が載っている。健太が進路を明治大学に決めた時、「お前は、子どもの時から、箸を長くもっとったな」と父は笑った。箸を長く持つ子は親から離れると言う。父の言葉としては、健太にとって意外であった。

海外旅行先から妻と駆けつけた時、急死した父親の顔は、健太には実におだやかできれいに見えた。少し口が開いていたが、いったいその口で何が言いたかったのか、健太には分からなかった。成功を収めた健太、その父親の葬儀である。それは、驚く程盛大なものであった。出棺前のお別れに、健太は父親の頭の傷を確かめた。この傷は、農作業中に、叔父つまり父親の兄に誤ってつけられたものである。この傷が、父親にとってどのような意味を持つかは、健太には知りようもない。

この作品は、阿久悠の私小説である。編集部との間にどのようなやり取りがあったか、私には知る由もない。もし私が編集者であったなら、父親の武吉を主人公にすることを勧めたであろう。知らない父親と知っている父親の両方の姿が程よくミックスして、違った味が出ていたかも知れない。しかし、エッセイとして読んでみると、昭和の時代を阿久悠流に俯瞰した読み応えのある作品である。具体的で鮮明な映像が、浮かび上がってくる思いがする。

著者の阿久悠(1937―2007年)は、本名・深田公之。淡路島に生まれる。明治大学文学部卒業後、広告代理店に勤める。番組企画やコマーシャル・フォト制作に関わった後、作詞活動に入る。

 代表作は日本レコード大賞の作詩賞受賞作品だけでも、「ジョニイへの伝言」「乳母車」「夏ざかりほの字組」「熱き心に」「花(ブーケ)束」「花のように鳥のように」「螢の提灯」などがある。 

「駿河台文芸 第35号」平成30年(2018)6月20日


阿久悠『昭和と歌謡曲と日本人』河出書房新社 2017年(多田統一


  本書は、6つの章で構成されている。作詞家として5000曲を手掛けた阿久悠のメッセージが収められている。

   第1章    めぐりゆく季節/ 第2章     風と光を感じて/
  第3章     愛しい人間の愛しいいとなみ
/ 第4章     この広い空の下で/
  第5章     昭和の歌とその時代/ 
第6章     日本人の忘れもの


 第1章では、〃元日の朝〃が興味深い。「物質で不自由をかけたぶん、取るに足りない記憶を光り輝く思い出に変える技術を、神様が与えてくださったのだと思う。」からは、阿久悠のエネルギーの源泉を感じ取ることができる。よく、5000曲もの作品が書けたものである。

 第2章では、〃12月の雪〃が印象に残る。暖冬が続く中、珍しく12月に雪が降った年があった。淡路島生まれの阿久悠にとって、それはとても新鮮なことであった。屋根に積もった雪を2階の部屋からすくって、コンデンス・ミルクをかけて食べたという。雪から家庭の暖かさや人の善意を連想するのも、彼にとっては子どもの頃の原風景が目に焼き付いていたのかもしれない。

 第3章では、〃冬の林檎〃が注目される。阿久悠の学生時代、林檎は貴重なものであった。1つの林檎が飾り物になり、水晶玉になり、青年の未来を占ってくれた。暖かい土地に生まれた彼にとって、蜜柑ではなく林檎というのが面白い。

 第4章では、〃冬の探偵たち〃で阿久悠の季節観に驚かされる。春夏秋冬の他、春の上に夏が重なったもの、夏の下に春を巻き込んだものという感覚が素晴らしい。四季は、四季であって四季ではないのである。チャンネルの多さが、日本人の特色であろう。西風と暖炉とウイスキー、それに推理小説の組み合わせで、冬の夜長を楽しむ彼の姿が目に浮かぶようである。

 第5章では、〃意味不明の「ウララ」〃に注目したい。山本リンダプロジェクトで、「狙いうち」の歌詞が生まれた時の裏話が面白い。阿久悠は、字数が多いと混乱するという理由で、「ウララ ウララ ウラウララ -----」にしたという。「ぼくには意味不明だが、それで売れたのかもしれない。」と彼は書いている。

 最後の第6章では、阿久悠の色彩観が心に残る。「橙色が生活の中で目立つと正月であった。」という表現が印象的である。蜜柑のオレンジ色ではなく、正月用に飾られた橙の実の色である。酢橘、柚子、橙の区別ができてこそ、日本人と言えるのかもしれない。

 阿久悠は、1937年兵庫県生まれ。明治大学文学部卒業。作詞家として、数々の賞を受賞している。「また逢う日まで」「北の宿から」「勝手にしやがれ」「UFO」などは、あまりにも有名である。『瀬戸内少年野球団』など、著書も多い。本書に掲載されたエッセーは、東京新聞などに連載されたものである。2007年8月、逝去。



荻原博子『投資なんか、おやめなさい』新潮新書 2017年(多田統一)


 「いま、3大メガバンクをはじめとした金融機関が、生き残りをかけて、あなたを投資に誘い込もうとしています。」で始まる荻原博子氏の著書。個人資産の防衛術として必読の書である。5つの章からなる。


    第1章    あなたは、騙されていませんか?

    第2章     日銀の「マイナス金利」が、家計の資産を破壊する
    第3章     こんなクズ商品には手を出すな
    第4章     なぜ「個人年金」はダメか

    第5章     投資の「常識」を疑おう


 第1章では、外貨建て生命保険の問題点について述べている。外貨建ては手数料が高いこと、また日本で入った外貨建て保険は基本的に海外で引き出せないことなど、その落とし穴について詳しく書かれている。外資系の保険会社であっても、日本の支社で加入した場合には海外の本社で引き出すことはできない。

 第2章では、日銀の異次元金融緩和の大きな誤算について指摘している。どんなに日銀がお金を流しても、資金需要がない中では、銀行から外にお金が流れないのである。政治情勢の大きな変化がない限り、失敗続きの黒田日銀体制も続いていくことになる。

 第3章では、構造的欠陥のある毎月分配型投信、個人向け国債、外貨預金などのリスクについて述べている。手数料が高いし、定期預金であっても他の商品とのセット販売や豪華プレゼントには要注意である。

 第4章では、出費の多い個人年金、特に変額個人年金の場合には運用悪化による保険会社の経営も心配である。早いうちに加入すると、ますます老後の問題を抱え込むことになる。

 第5章では、金融商品やその勧誘に注意するポイントが纏められている。複雑な商品ほど高額な手数料を取られること、銀行や郵便局も過信してはならないことが書かれている。

 最終結論では、投資をしなくてはという呪縛を取り払うことの大切さを訴えている。では、どうすればよいのか。デフレの中では、相対的に現金の価値が上がる。これを実践してきたのがバブル崩壊以後の日本の企業で、財務内容が改善され内部留保を貯め込むようになった。

 荻原博子氏の解説はとても明解で、読者を魅了する。具体的な数値による鋭い分析に加え、客観的な立場からの体制批判、そこには常に生活者に対する優しい眼差しがある。

 著者は1954年長野県生まれ。明治大学文学部卒業。テレビにもよく登場する有名な経済ジャーナリストである。



荻原博子『老前破産 年金支給70歳時代のお金サバイバル』朝日新書
                    2018年(多田統一)


 「年収850万でも年金もらう前に破産危機!」こんなブックカバーの宣伝が眼に入った。年金70歳時代のお金サバイバルについて書かれた荻原博子の力作である。次の6つの章からなる。
     第1章     売れない、貸せない、直せない―住宅ローンで「老前破産」

     第2章     「子どもの将来」という病―教育費で「老前破産」

     第3章     年金70歳時代を生き抜くための「基本心得」

     第4章     気が付けば借金まみれ―カードローンで「老前破産」

     第5章     家族関係のトラブルは、家計の万病のもと

     第6章     お金の不安をスッキリ解消! 「Q&A」集

 第1章では、住宅ローンが生活を破滅させる例を具体的に紹介している。同一マンション物件を賃貸した場合と購入した場合とでは、そんなに違いがないことを金額の比較で示している。住宅は、資産として不安定ということの証明でもある。

 第2章では、教育費破たんの実態を、3人の子どもを持つ家庭を例に紹介している。日本は、国立大学といえども教育費が高い。奨学金を受けても、返済がその子の将来に大きくのしかかる。奨学金の滞納が増えている現実がある。経済的な理由で中途退学していく学生も多い。国の救済制度がぜひとも必要である。

 第3章では、老後に向けての基本的な心得について書かれている。老後資金に付け入る投資の甘い罠には乗らず、夫と妻の視点で家計の見直しをすることが大切である。生命保険も考え直す必要がある。

 第4章では、破産が急増しているカードローンの問題点について、具体的な例を紹介している。やりくり上手の奥様が入ってしまう落とし穴、薄れていくカードローンへの抵抗感こそ、気を付けなければならない。消費者金融と銀行の結びつきこそ問題である。

 第5章では、就職留年や引きこもりの子どもを持つ家族の例が出てくる。大卒の10人に1人は無職の時代である。子どもの問題は、夫婦関係にも大きく影響する。家計の万病のもとは家族関係にあり、他人事ではすまされない深刻な話である。

 第6章では、お金の不安を解消するためのQ&Aが纏められている。専業主婦、パート、会社員、自営業者などからの質問に答える形で著者が答えている。年金や介護費用、親への仕送りなど、不安を解消するポイントを明解に示している。

 巻末には、40代・50代男女100人に実施した老前・老後の不安に対する緊急アンケートの結果も掲載されている。お金の問題を家族の視点から捉える著者の姿勢には、人を納得させる力がある。テレビ出演なども積極的にこなしているが、経済事務所勤務時代の経験が生かされているものと思われる。

豊島与志雄・長山靖生編『丘の上―メランコリー幻想集―』彩流社
                     2018年
(長瀧孝仁

 最近二、三年、豊島与志雄(一八九〇~一九五五)の小説本が相当数出版されている。著作権が十年以上前に切れていて、その多くはオンデマンド本であるが、本書と『新編日本幻想文学集成』第8巻(国書刊行会)の二冊は書店の小説の棚を飾っている。

 死後十年目の一九六五年に刊行が始まった『豊島与志雄著作集全6巻』(未来社)に拠れば、豊島には百五十篇を超える小説作品があるようだが、その中から二冊それぞれ十数篇を選んでいる。両著書に重複している作品は、「都会の幽気」「白塔の歌」「沼のほとり」の三篇である。本書に限れば、収載の十五篇は大半に死、或いは葬儀、死体などが出て来る話である。そうではない作品も、奇っ怪千万な叙述が続く小説か随筆と思って欲しい。

 表題にもなっている「丘の上」は、誰とも知れぬ男女間の会話だけで成り立っている作品である。不思議な読後感のみが残る。説明もないまま誰とも知れず、いきなり会話から始まるのである。それはこの世の男女間の会話とも取れるが、あの世の男女とも取れて、丘から望む下界と海の景色は白くハレーションしている。

 「都会の幽気」は、目には見えない「幽気」という幻を具体的に叙述している。「白塔の歌」は中国を舞台とした寓意的な作品。はらはらどきどき、サスペンスを読んでいるように話が進んで行く。そして、ミステリーな結末。 

 「沼のほとり」は、出征した息子に最後の面会が許された日、母親が不案内な兵営に赴く話である。帰りの列車はどれも満員で乗車出来ず、仕方なく霧がかかった湖沼近くの見知らぬ人家で一晩過ごすことになる。……終戦後に息子は復員するが、従弟は戦死していたことを知る。そして、従弟の愛人だと分かった芸妓が、例の一夜世話になった家の女主人によく似ていることも。

 後日お礼を兼ねてその人家を訪ねるが、湖沼周辺には葦や薄の原が広がるばかりだった。従弟が戦死した日は面会に行った日でもあり、母親は湖沼近くを彷徨っていたことになる。これは、戦争を背景にした現代版『雨月物語』のようである。霧の湖沼の描写がやけに怪しい。

         ○

 ところで、明治大学文芸科教授だった豊島は駿河台文学会とは浅からぬ関係にあり、本誌でも一九九〇年に「駿河台文芸第9号 特集 豊島与志雄―」を編んで顕彰している。今回「特集号」を読み直してみて、この雑誌のレベルの高さを再認識した。以下「特集号」を典拠にして豊島の生涯を略述し、「何故今、豊島与志雄の小説なのか?」を考えてみたい。

豊島は明治23(一八九〇)年十一月二十七日、現在の福岡県甘木市に当たる朝倉郡福田村大字小隈の旧家に生まれている。生家の敷地は三千坪、父親は村一、二の高額所得者であった。地元の小学校を終えた後、福岡市の修猷館中学(現県立修猷館高校)を首席で卒業して、旧制一高、東大文学部仏文科へと進んだ。しかし、豊島家には公然の秘密があった。

 「特集号」に拠れば、豊島与志雄の祖父は、生地を治めた筑前黒田藩の首席家老だった三奈木黒田家十一代・黒田一美なのだという。家老と言っても三奈木黒田家には禄高が一万六千石もあり、小藩主並みの大名であった。三奈木黒田家上屋敷の奥女中だった豊島の祖母・シナは、豊島の父・秀太郎を身籠ったまま、豊島家の長子・与七郎に嫁いでいる。つまりは、醜聞になるところ、三奈木黒田家の権力によって知行地内で巧く繕ったようである。

 この事実は、少年時代から豊島を苦しめた。修猷館では、同級生である黒田一美の嫡子、即ち叔父と机を並べることになった。中学時代に豊島がひたすら勉学に勤しんだのも、こうした特殊な背景があった。それは、豊島の「じっと我慢の生涯」の始まりでもあった。

 修猷館には、権力志向で実学重視の校風があった。戦中、戦後史に名を残す広田弘毅(一八七八~一九四八)、中野正剛(一八八六~一九四三)、緒方竹虎(一八八八~一九五六)という政治家は皆、修猷館の出身者である。また、豊島の一学年上で秀才の誉れ高かった田中耕太郎(一八九〇~一九七四)は商法学者となり、東京大学教授から最高裁判所判事に転じて、後に最高裁判所長官、国際司法裁判所判事、文部大臣を歴任している。こういう環境下で文学を志すことは、両親と郷里の期待を裏切ることであった。

 後述のように、豊島は学生作家として出発した。同時期、結婚を巡って両親と軋轢があり、豊島の生涯を決定付けた実家の没落という最大の不幸も現実のものになりつつあった。それは士族の商法というか、父・秀太郎が豊島家本来の家業ではない事業に手を出して上手く行かず、豊島家伝来の資産をかたに借金を重ねていたのである。谷崎潤一郎、山本有三、久米正雄、芥川龍之介、菊池寛等、中流以下の出身者も多い大正文士の中で、本来豊島は学資も生活費も全く心配しなくて良い身分であった。しかし、相続を限定承認にする一方、後日発覚の負債の返済義務を負わねばならない苦しい立場へ追い込まれた。

 そして、士族の血筋は子孫へと引き継がれる。長女・邦の夫である斎藤正直先生が私の大学在学時の学長であり、その後駿河台文学会でもお世話になったという事情もあるだろうが、刊行時に「特集号」を読んだ時は、「借金取りが出入りする豊かでない豊島家の少女時代」という長女の回想録ばかりが頭に残った。元を糺せば、この貧窮生活も豊島に家計の出納能力が無かったことに起因する。浪費癖があった上、借金を重ねても平気だったからである。

 豊島の次男・澂は戦後出版社に勤めた後、独立して光風社という出版社を経営していた。出版物の中から直木賞作家も輩出したようだが、結局倒産させて六十歳を前に急逝している。これは、豊島の明治大学文芸科時代の教え子・西谷能雄(一九一三~一九九五)が創業した未来社が、西谷没後二十年を経ても活動的な出版社であるのと対照的である。

         ○

 豊島には四つの貌があった。小説家、児童文学者、翻訳家、大学教員としての貌である。大学在学中に山本有三、久米正雄、芥川龍之介、菊池寛等と始めた第三次「新思潮」創刊号に載せた「湖水と彼等」が即認められ、二十三歳で新進作家となった。二十六歳で長男を亡くす一方長女が生まれ、これらの影響下二十八歳で童話第一作「魔法杖」を書いている。早速「赤い鳥」の鈴木三重吉から注文が入る。以後豊島は小説と並立させて児童文学を綴り、終生児童文学界と関わり続けた。

 フランス語教師の口を得たり、フランス文学翻訳に手を付けることは、豊島にとって本意ではなかった。しかし、実家が困窮し、長男の入院費も嵩む中、先ず生活費を稼がねばならなかった。当初陸軍中央幼年学校で教えたが、校風により小説を発表することが難しかった。芥川龍之介が勤めていた海軍機関学校へと移り、慶応義塾大学でも教えた。しかし、何れも非常勤で収入が足りず、前年から続けていた長編小説『レ・ミゼラブル』の翻訳作業に打ち込むようになった。

 現在「豊島与志雄」という名前が一番よく知られているのは、翻訳の分野に於いてである。豊島の訳したヴィクトル・ユーゴー『レ・ミゼラブル』『死刑囚最後の日』、ロマン・ローラン『ジャン・クリストフ』、『千一夜物語』(マルドリュス版)などは、六十年、八十年を経て今なお岩波文庫で現役なのである。これは、豊島の訳文が如何に分かり易くて的確かの証左でもあろう。

 結果論になるが、豊島が文学、特に仏文学を選択したことは正解であった。法政大学教授兼東京大学講師としてフランス語を教えていた豊島は、後に明治大学に文芸科が出来ると、教授になって創作実習を担当した。同時に二つの大学で教授を務めることなど現代では考え難いが、豊島の場合は仏文科卒業生二人だけという時代で、教師の適任者が不足していた。

 翻訳についてもこれと同じことが言え、豊島の所に大作の仕事が集まった。豊島が翻訳した『レ・ミゼラブル』は昭和初期にベストセラーとなり、莫大な印税が転がり込んだ。次に訳した『ジャン・クリストフ』の文庫本も、戦中・戦後のロングセラーとなっている。

 また、仏文学者は数が少なく多くは同門で、皆仲が良かった。辰野隆、山田珠樹、鈴木信太郎、水野亮、中島健蔵等、豊島与志雄は良き友に恵まれたと言える。

         ○

 「特集号」では、日本近代文学研究者・関口安義の解説が一番分かり易い。因みに、関口は『豊島与志雄研究』『評伝豊島与志雄』の著者でもある。中村真一郎の指摘も鋭く、豊島与志雄再評価を予言しているようにも読める。両氏の言説を纏めると、「豊島は大正文士としては例外的に、前衛かつ現代的な資質を持つ作家であった。仏文学者として欧州小説の最前線に通じ、その知識や手法を駆使して創作中で実験を試みた」ということになる。中村は、「豊島は幻覚、幻想という精神現象中に或る種の真実を見出している」とも言う。

 本書の作品と過去に読んだ幾つかの童話作品に限った話であるが、私は豊島の特異な死生観に注目してみたい。仏教的死生観ではなく、キリスト教の死生観でもなく、宇宙の彼方から突如現れ、やがて星の屑となって彼方へ消えて行くような茫漠たる死生観。幾つもの作品の読後感からの連想である。

 作品への影響度合いは分からないが、事実として豊島の生涯は「劇的な死に方」をした知人、家族との別離の連続であった。列記してみよう。二十五歳の時、破産状態の父・秀太郎病没。二十六歳の時、長男・堯が一歳で病没。三十六歳の時、学生時代の同人誌仲間で海軍機関学校同僚教員だった芥川龍之介が睡眠薬自殺。三十九歳の時、妻・芳子病没。四十六歳の時、特に親しかった文士仲間・十一谷義三郎病没。五十四歳の時、親しかった法政大学同僚教授の三木清が終戦直後に獄中死。五十七歳の時、最晩年に豊島を頼って来た太宰治が入水自殺。その直後、同居していた次女・文も病没。五十八歳の時、太宰同様に豊島を頼って来た田中英光が太宰治墓前で自傷自殺。六十三歳の時、明治大学の同僚教授となって以来特に親しかった岸田国士病没。この一年三箇月後、豊島与志雄自身も心筋梗塞のため急逝している。享年六十四。

「駿河台文芸 第34号」平成29年(2017)12月25日


唐十郎著・西堂行人編『唐十郎特別講義―演劇・芸術・文学クロストーク―』
  国書刊行会 2017年(海藤慶次)


 私の唐十郎氏にまつわる体験というのは、自慢できるものではない。大学生の時に芥川賞受賞作『佐川君からの手紙』を読んだのと、大学院生の時に、明治大学中央図書館の一角で開催されていた「唐十郎展」を見たというぐらいのものである。もともと演劇には強い関心を持っていたのだが、私にはその世界に本格的に入り込むことを逡巡しているところもあった。今回本書の書評を書くに当たり、この際「演劇の世界とその周辺」について改めて勉強してみようとの意図で、興味深く読ませていただいた。
 この本は、近畿大学教授時代の唐十郎講義録をまとめたものである。本書では冒頭から、横浜国立大学でも近畿大学でも唐氏が若者を巻き込んで自作の演劇世界を発展させ、世の中に向けて新たに発信してきたということが語られている。当時の私と同世代の人たちが、唐十郎の独特の世界観に感銘を受けて自分たちで演じ、唐氏も若者たちの技量を見極めて演目などを決めていったのだという。唐演劇が世代を超えて熱を帯び、他の追随を許さないと言われるのも、この演劇人としての卓越した柔軟性にあるのではないかと思われた。
 講義が進むにつれて、六十年代の東京の芸術文化の爛熟が手に取るように感じられた。状況劇場と寺山修司の天井桟敷との面白い関係性や、そうした時代の熱を敏感に感じ取った三島由紀夫のエピソードなどが語られている。唐氏の少年期の回想からも様々な抽象的イメージが浮かび上がって来て、その中から「水」という普遍的であり、それでいて難解な観念が前面に出てくる。その「水」についてのとらえようのないイマジネーションが、「ジョン・シルバー」「ふたりの女」「秘密の花園」「泥人魚」といった唐演劇の不朽の名作のモチーフに結実したようである。唐氏の皮膚感覚というか、感得してきたものを具象化する才気には感服させられる。
 加藤道夫の「なよたけ」とジャン・ポール・サルトルの「蠅」という芝居を重層的に語っていくところは、比較文学の講義のようである。大学の講義という限られた枠内で、これらの作家のバックボーンや来歴についても触れており、良質の評論を読んでいるような気持になる。そして、「ポリフォニー」(多声性)という問題を語る時に、ドストエフスキーの『罪と罰』における描写やラスコーリニコフの感じたものについて触れていくところ、文学上の一つの概念として、あるものを微に入り細を穿って論じられているが、唐氏の並々ならぬ熱気が感じられて、教室中に知識人としての才気が横溢する空気そのままなのである。
 最後部の講義では、唐氏が具体的に関わった韓国演劇界の巨星たちのことや、浅草の軽演劇と紙一重のところで活動していた人たちのことが語られている。特に、軽演劇役者であるシミキンについての部分を読んで慄然とした。演劇人の心理、即ち役者の内面には様々な役回りが渦巻いているものなのだ。
 唐氏は講義の全体を通して、下谷万年町という自らのルーツについて逐一語っている。狂気のようなエネルギーがあった時代の原体験というものが、「水」のイメージも含めて、唐演劇の爆発力につながっていると示唆されている。本書は良書である。演劇に限らず文化的なものに傾倒する読者から、広く耳目を引く内容となっている。
 著者は一九四〇年生まれの劇作家、演出家、俳優、小説家。明治大学文学部演劇学科卒業。一九六三年、後の劇団状況劇場を結成。
 『少女仮面』で岸田國士戯曲賞、『佐川君からの手紙』で芥川賞、『泥人魚』で鶴屋南北戯曲賞を受賞。他に読売文学賞、読売演劇大賞芸術栄誉賞、朝日賞など受賞多数。横浜国立大学、近畿大学で教授を務めた。

田宮寛之『みんなが知らない超優良企業 ―新しいニッポンの業界地図』
  講談社+α新書 2016年
田宮寛之『無名でもすごい超優良企業 ―業界地図の見方が変わる!』
  講談社+α新書 2017年
          ○
山川博功『グーグルを驚愕させた日本人の知らないニッポン企業』
  講談社+α新書 2016年(長瀧孝仁)

 田宮寛之氏は、就職活動をしている大学生間では名前が広く知られた方らしい。この分野の講演、著作も多い。また同氏は、証券・経済記者生活が長い。明治大学経営学部卒業後、ラジオたんぱ(現ラジオNIKKEI)を経て東洋経済新報社に入社。老舗の同社が蓄積された豊富な経済・会社データを基に就職情報サービスを開始した後は、この分野の責任者となっている。
 『みんなが知らない××』を書いた意図は二つ。電機・エレクトロニクス産業など、かつての日本の花形産業は台湾・韓国・中国勢にすっかりお株を奪われ精彩を欠いているが、全国に386万もある会社には規模の大小、上場非上場、老舗ベンチャー企業を問わず、未だ世界に名だたる技術を保持する有望企業が多いのである。しかし、その事実を端的に列挙しようにも、従来の新聞株式欄のような業種分類では企業の多角化、技術高度化の現状に沿っておらず、極めて煩雑となってしまう。そこで著者は、長年の現場取材で体得した独自の業種分類によって整理してみたのである。
 それは規模の大小、上場非上場、老舗ベンチャー企業の括りを外し、成長市場をテーマごとに一括りとし、更に都市鉱山、ロボット、再生医療、炭素繊維、(自動車の)自動運転などのキーワードをもとに叙述して行くスタイルである。採り上げた250社を各章ごとに章末の一覧表にしてあるのも便利である。緒言には、この本の用途として株式投資、事業提携先探し、就職、転職が想定されるとある。
 『無名でもすごい××』は前書『みんなが知らない××』がよく売れたため、一年後に続編の位置付けで書かれたものである。前書と同じ叙述スタイルであるが、CNF(セルロースナノファイバー)、植物工場、陸上養殖、メタンハイドレート、木造高層建築など、一層夢のあるキーワードで有望企業240社が採り上げられている。
          ○
 右記の『無名でもすごい××』で採り上げられている1社に㈱ビィ・フォアードがある。その会社の創業社長が書いた著書が『グーグルを驚愕させた××』である。書店の新書本棚の同じ列に並んでいた。書名は、アフリカの一部の国で特に検索数が多い日本の無名会社を訝って、グーグル本社の副社長がわざわざ現地調査に来日したというエピソードに拠る。
 ところで私は、4年前の日本のイスラム教徒についての短文で「よく知られたことだが、20数年前1人のパキスタン人が日本のスクラップ用廃車を中近東へ輸出しようと考えた。それは、ゴミの山を宝に変える夢のようなビジネスだった」と書いた。交通規範で右ハンドル車の走行を禁じている国も多く、自国の自動車産業保護と環境問題から中古車輸入禁止の新興国もある。世界では少数派の右ハンドル車を受け入れる国とて、旧英国領などに限られて来る。元々、日本の中古車を輸出しようと考える日本人自体少なかった。
 こういう状況下、パキスタン人とは全く違った遣り方で、山川社長は日本の中古車を大量輸出することに成功したのである。正に「ネットビジネス恐るべし!」である。僅か15年で、ビィ・フォアードは世界125ヵ国へ毎月1万五千台を輸出し、国内シェア10%を越える企業にまで成長した。急成長の鍵は、輸出相手国に合わせた独自の工夫と細かなマーケティングであった。
 本書には「通信インフラが未だ整わないアフリカ諸国に、格安のスマートフォンを普及させてネット通販を可能にしたのは中国企業であった」「モンゴルでは何故かハイブリッドカー、特にプリウスばかりが売れる」「日本の中古車輸出を仕切っていたパキスタン人は、東日本大震災後に大挙して日本から去って行った。経験したことのない大揺れと福島の放射能漏れを恐れたのである」など、会社の成長過程で経験した面白い挿話が満載である。
 また、「日本という国は、日本語既習のアフリカ諸国からの元留学生に皿洗いをさせている。国の命運を賭けて遥か東方の日本の大学、大学院へと送り込まれた学力が高い若者なのに、アフリカ出身を理由に就職の門戸を閉ざしている」との苦言もある。
 最近はマスコミ上で山川社長を見掛けることもあるが、型破りな気風の方だと仄聞する。京王電鉄・調布駅の駅前ビルにだだっ広いワンフロアーの事務所を構え、パソコンが置かれた全社員180人の机が見渡せるように配置。用事がある場合、デスク脇の折畳み自転車を組み立てて跨り、社員の所まで飛んで行く。商談では世界30言語に対応するため、26カ国の社員を雇っている。社内の意思疎通は、英語混じりの日本語で行うらしい。
 同氏は福岡県出身で、明治大学文学部卒業。東京日産自動車販売での新車販売から中古車売買、中古車輸出へと深掘りして行ったようである。明大ラグビー部・故北島忠治監督の大ファンだそうで、社名の「ビィ・フォアード」は「前へ」という監督の有名な言葉を自ら意訳したという。

「現代詩手帖 二〇一七年六月号 追悼特集・大岡信」思潮社 二〇一七年六月一日
「ユリイカ 詩と批評 平成二十九年七月臨時増刊号 総特集・大岡信の世界」青土社 
                       二〇一七年六月十五日(長瀧孝仁)


 今年四月五日に大岡信先生が亡くなられてから、右の二冊の追悼雑誌が二箇月以内という迅速さで編集された。両誌に寄稿されている方もおられ、短期間にこれだけの量の原稿を集め得た両編集部には驚嘆せざるを得ない。
 二冊の雑誌を通読して先ず思うことは、大岡先生が活躍されたジャンルの多彩さと人的交流の広さである。私は大岡先生の国語・文学系統の課目を受講した法学部の一学生だったが、授業中の話を通じて日本の詩歌や古典文学に惹かれ、テキスト以外の大岡先生の書籍の多くにも目を通して今日に至っている。従って、詩集、詩論、日本古典論、「折々のうた」のような詞華集(アンソロジー)について多少は分かろうが、この二冊の雑誌で触れられている「連詩」や「合唱曲」「オペラ」となると見聞したこともなく、相当な距離を感じざるを得ない。
 当時、書店の棚に並んでいた新刊の大岡信『青き麦萌ゆ』毎日新聞社と大岡信『詩への架橋』岩波新書を読んで、「学生時代って、こんなに楽しく過ごせるものなのか!」と自分の現状と比べて感心した記憶がある。これら二冊に描かれた大岡先生の「輝ける青春時代」を彩る東野芳明(一九三〇~二〇〇五)、飯島耕一(一九三〇~二〇一三)、日野啓三(一九二九~二〇〇二)、茨木のり子(一九二六~二〇〇六)等各氏の追悼文も読んでみたいと思ったが、ずっと早く亡くなられていたのである。八十六歳で逝かれた大岡先生は、長生きされたのである。
 二冊の雑誌は通読したが、全部が理解出来た訳ではない。難解な文章も少なからずあった。そんな時、「同じことでも若し大岡先生が書かれていたならば、もっと分かり易かったのではないか」と、思わずあらぬことを考えてしまう。大岡先生は、難しいことでも読者に分かり易く説明できる名手なのであった。それは、きっちりと頭の中で整理出来ていたからであろう。二冊の雑誌には私が知らなかったことも多く載っており、今回随分と教えられた。また、新事実を聴いて思い当たる節もあった。
          ○
 二冊の雑誌で触れられていないのに、六月二十八日夕刻行われた「大岡信さんを送る会」で弔辞を述べられた粟津則雄、菅野昭正両氏と閉会近くで挨拶された土屋恵一郎明治大学学長が、何れも「大岡先生と政治」に該当するエピソードを披瀝されたのは印象的だった。
 連合赤軍の浅間山荘事件以後学生運動は急速に萎むが、私の学生時代は荒廃したキャンパスの至る所に未だ痕跡が残されていた。学園紛争を経験した教授も多く、講義中は皆一様に学生を警戒していた。他学部聴講で教わった橋川文三先生など、授業後に右寄りの学生に絡まれて辟易した話をエッセイに書かれている位である。そんな中、大岡先生も短歌の五七調による抒情に乗せられて戦地へ死に赴いた学生が大勢いた話もされたが、簡単に尻尾をつかませないというか、学生側から見ても要領よく立ち回っておられた記憶がある。粟津氏は、そういう意味のことを言われたのではないか。
 菅野氏の話は、大岡先生が一九八一年度に一年間大学を完全休講し海外で研修された折り、パリで偶然再会したというものだった。時は丁度ミッテラン政権成立の前後に当たり、政治学者でもない大岡先生が新政権成立の背景に知悉しているのに舌を巻いたという。
 土屋学長の話は、学園紛争時にバリケードの内側で見聞きした大岡先生のエピソードであった。大岡先生は教授の立場から、「君たちが世の中の総てを否定するのなら、私は世の中の総てを肯定しよう」とバリケード内の学生に語り掛けられたそうである。土屋学長はこれを聞いて、「やられた。一本取られたなぁ」と二の句が継げなかったそうである。
 菅野、土屋両氏の話は、何れも政権交代や学生運動が日本に先行するフランスの政治状況を大岡先生がよく理解出来ていたからこそ可能だった話である。私は前号「駿河台文芸33号」の「追悼 大岡信先生」に於いて、読売新聞外報部時代の深夜に黙々とニュース短信を翻訳した経験が、「折々のうた」に大きな影響を与えた旨述べた。大岡先生は授業中に外報部時代の話をよくされた。社会人としての最初の仕事であり、二十代でもあったので、少なからぬ影響を受けられたのであろう。フランス政治への知識と思考方法も、恐らく十年に及んだ外報部での仕事を通じて体得されたものだったろう。
 在職時に進行したベトナム戦争などは典型だろうが、同じ事象を扱っても、政治的立場や宗教観、興味の対象が異なると、海外での報道と国内での報道は自ずと違って来る。しかも大岡先生は翻訳者であり、内外を両睨みしている必要があった。私は、その後の大岡先生の日本古典論などに於ける複眼的な発想や思考法は、読売新聞社時代に一層訓練されたものだと考えている。
          ○
 二冊の雑誌で最も注目したのは、大岡先生が日本古典論と「折々のうた」のような詞華集(アンソロジー)の完成に心血注がれた動機と背景についてである。後には旧制高校最後の世代として、「日本の詩歌」の教養を新制大学の学生にも伝えなければならないと使命感を持たれたようだ。
 私が大岡先生に教養科目「文学」を教わったのは朝日新聞で「折々のうた」の連載が始まる前年で、長い空白期間を経て漸く『うたげと孤心』が集英社から出版された年だった。『紀貫之』が上梓されてから未だ十年も経っていなかった。当時は、詩人、歌人、俳人だけでなく、小説家や文芸評論家までもが王朝歌人や俳諧師の評伝を執筆することが盛んに行われていた。また、斎藤茂吉や萩原朔太郎、佐藤春夫の有名な詞華集(アンソロジー)も書店の棚に並んでいた。従って、大岡先生が特に目新しいことをされているとは見えなかった。
 私は知らなかったが、大岡先生には元々大学の教員になろうという意志がなかったようである。読売新聞社退職後は日本橋の画廊に勤めておられた。その頃明治大学法学部で国語の教師一人が必要となり、当時法学部でフランス語を教えておられた菅野昭正氏が仲介された。二人は大学時代の文学仲間で、菅野氏は説得に三度も画廊へ通ったそうである。
 二冊の雑誌では当然触れていないが、私は「法学部の国語の教師」という点に注目したい。法学部内部の者にしか分からないが、思い当たる節がある。法学部の国語科教師とは、かなり特殊な仕事である。何れも必修科目で、一年時に「国語」二年時に「論文演習」という時間があった。前者で文語文を読み解く練習を行い、後者で国家試験等の論文を簡潔明快に仕上げるための文章表現の練習を行う。
 民法、刑法、商法といった主だった法律は文語調であり、戦前の重要判例も文語調で書かれている。法学部の学生で文語文に馴染めない場合、暗い学生生活となってしまう。また、作文の練習については、かつて法律の専門科目の教授陣から「答案に読めない文章や誤字を書く学生をなくしてくれ」との強い要望があったようである。
 大岡先生は右に述べた国語科の授業体制を確立するため、請われて明治大学法学部に来られたのである。その法学部とは、日本の詩歌については不毛の地であった。もし文学部の教師となられていたら、これほど強く学生に日本の詩歌を伝えたいと思われなかったかも知れない。
          ○
 二冊の追悼雑誌で誰も触れないので、「大岡先生と児童書」についても書いてみよう。大岡先生が、難しいことでも読者に分かり易く説明できる名手であったことは先述した。この能力は、児童書の分野でも遺憾なく発揮された。但し、大岡先生の立場は「子どもに言葉への興味を刺戟しようと思うなら、その子どもの年齢に比べて少々歯ごたえがありすぎると感じられる言葉を、恐れずに与えるべきだ」(「仙人が碁をうつところー子どもの言語経験についてー」一九七三年より抜粋)というものである。
 私は七年前、駿河台文学会の「会報」に「大岡信先生の児童書」という短文を寄せたことがある。そこで採り上げた児童書中から、左記の二冊に付いて再考してみたいと思う。

  A.『おとぎ草子』岩波少年文庫
  B.『おーい ぽぽんた ―声で読む日本の詩歌一六六―』福音館書店

 Aは当初『鬼と姫君物語 ―お伽草子』平凡社として刊行され、改版・本文追加を経て今日に至っている。内容は、「一寸法師」「浦島太郎」というお馴染のお伽噺のほか、「酒呑童子」「福富長者物語」など全七篇を収録。それら作品が、大岡先生による美しい現代語訳で蘇るのである。
 私が大学で大岡先生に教わった教養科目「文学」の講義では、大岡信『たちばなの夢 ―私の古典詩選―』(新潮社)がテキストで、大岡信『詩への架橋』(岩波新書)が副読本として使われた。前者の目次には「お伽草子」の項目もあって、文学史上軽視されがちなお伽草子について本来の価値を教わっている。私はその時以来、「お伽草子」を小説の模範の一つだと考えるようになった。
 Bは、大岡先生ほか五人の詩人によるアンソロジー。ここで言う「日本の詩歌」とは、万葉集以来の短歌、芭蕉以降の俳句、明治以降の自由詩を指す。それらがジャンルごとに小さく集まって、「詩」「俳句」「短歌」「詩」「俳句」「短歌」と旋律のように重畳的に何度も繰り返される構造となっている。
 ここで注目すべきは、大岡先生単独による『俳句・短歌鑑賞』という解説小冊子が付録として付いていることである。選りすぐった日本千数百年間の代表的な短歌、俳句併せて百十九について、大岡先生の端的な解釈と解説が付されている。
 私が「会報」の旧文でこの解説小冊子をどう書いたか、引用してみることにする。

  この冊子が、飛切り価値ある本なのである。子供というより、寧ろ大人が読むべき本で
 ある。自分にとってこれがどれだけ大事かと言うと、大阪の伝統芸能である文楽の大夫が
 持ち場の義太夫語りの先と後に、閉じた床本を両手で頭上に恭しく押し戴く動作をするが
 あの床本に相当すると言って差し支えない。拳拳服膺、何度も読み直そうと思う。

 それにしても、こんな価値ある本が「付録」という役回りなため、日陰の存在として多用されないのが残念である。編者の数が多くて版権・著作権とも複雑そうではあるが、何時かインターネット等で公開される日が来るであろうと期待したい。全国の小・中・高等学校と世界中の日本人学校の授業で多用されて、「日本の詩歌」に馴染む少年少女が増えて欲しいのである。

大岡信『現代詩試論/詩人の設計図』
  講談社文芸文庫 2017年(多田統一)

 2017年4月5日に、大岡信が亡くなった。本書は、すでにその前から出版の計画があったもので、「現代詩試論」と「詩人の設計図」の2つの柱で構成されている。
 前者は、現代詩試論、詩の必要、詩の条件、詩の構造、新しさについて、『地球詩集』の周辺、詩観について、純粋についてなどの内容である。後者は、詩人の設計図、現代詩はなにをめざすか、鮎川信夫ノート、メタフォアをめぐる一考察、詩の方法の問題、中原中也論、宿命的なうた、小野十三郎論、歌・批評・リズム、立原道造論、 さまよいと決意、エリュアール論、パウル・クレー、線と胚種、シュペルヴィエル論、シュルレアリスム、ひとつの視点、自働記述の諸相、困難な自由などの内容である。
 初出誌一覧で確認すると、1952年11月に「赤門文学」に掲載されたエリュアール論から1958年2月に「文学界」に掲載された詩人の設計図まで、著者が21歳から27歳の間に書いたものである。この間、1957年には相澤かね子と結婚、翌年に長男玲が生まれている。
 学生時代に書いたエリュアール論は、文壇で話題になったようである。「ぼくははじめて、詩の中に自然を発見した」とか、「エリュアールの愛の詩が、あのようにも多くの、愛を歌っていない詩に平然と混じりあって現れる」など、詩人であることに全力を注いだ著者ならではの表現が見られる。三浦雅士は、解説の中で、次のように述べている。「すぐれた批評家でなければならなかったのは、詩人がそれを必要としたからである。批評を内包しない詩、詩を内包しない批評は、大岡にとっては無意味だったのである」と。
 さらに、三浦は続ける。「現代詩試論は、日本の昭和初年代のシュルレアリスムの浅薄な流行を批評するところから始まり、詩人の設計図は、フランスのシュルレアリスムの抱え込んだ矛盾を、とりわけ自働記述の矛盾として検討するところで終わる」と。これこそ、本書を総括した解説ではないだろうか。
 大岡は、1952年に卒業論文「夏目漱石」を脱稿。三浦によれば、その内容は文芸批評としてずば抜けていたと言われる。大岡の念頭には、詩人であろうとする意志はあっても、文壇批評家になる意志など持ち合わせていなかったようである。美術批評に手が伸びたのも、絵画と批評の関係が詩と詩論の関係に似ていたからに他ならない。
 大岡は、1953年8月に「詩学」に発表した現代詩試論の中で、次のように述べている。「詩が散文によって語りつくされるならば詩は詩である必要はないし、またもし散文によっては詩について語りつくすことができないとするなら、詩について語ることは批評家に屈辱感をおぼえさせるだけのものだろう。詩について散文で語ることは至難である。どこにもこれら二つの関係が完全に融和している模型はないし、そうしたものがありうるかどうかもわからない。そこにはいつでも手さぐりの歩みよりがあるばかりだ」と。これが、すべてのように思える。試論であって、結論でもあるようだ。
 大岡の明解な評論はここから始まったが、詩人としての言語感覚は、私たち読者を魅了し続けてきた。本書は詩論であるが、科学と宗教や芸術の関係を考えさせるようなスケールの大きなものである。
 奥様のかね子さんより直接お電話があり、「駿河台文芸」のお礼にと、本書をいただいた。私にとって、緊張感を持ってこの重厚な詩論に取り組む機会となった。

大岡信『うたげと孤心』岩波文庫
  2017年(長瀧孝仁)

 
本書は刊行当初から世評高く、大岡信先生の数ある著作中にあっても代表作と目されて来た。岩波文庫に於いては生前の『自選 大岡信詩集』に続くもので、日本古典論に属する作品では最初に収録されたことになる。
 「あとがき」と巻末の「編集付記」等によると、本作品は次のような来歴を辿っている。先ず季刊文芸誌「すばる」には、一九七三年六月から一九七四年九月まで全六回に亘って連載された。執筆当時、著者側で大和歌篇と漢詩篇を並立させる構想があった。しかし、漢詩篇は諸般の事情によりなかなか実現せず、一九七八年に連載分だけで『うたげと孤心 大和歌篇』集英社が上梓された。この本は一九九〇年に岩波書店の同時代ライブラリーにも収録され、更に一九九九年には、同じ岩波書店で『日本の古典詩歌 ―大岡信古典論集成― 全五巻 別巻一』が編まれた時に分載収録されている。結局、漢詩篇の構想は『詩人・菅原道真 ―うつしの美学―』岩波書店という別の書籍に結実し、今回の岩波文庫版のタイトルは『うたげと孤心』に落ち着いたのである。
          ○
 「すばる」での完結から集英社から上梓されるまでの三年半の間に著者の考察は更に進んだようである。集英社版の単行本には巻頭に新たに「序にかえて」が付された。読者のことを考えたこの短文には「うたげ」「孤心」という用語の定義があるだけでなく、後半部分で本書のエッセンスが大岡先生ご自身の言葉で述べられている。
 本書の内容を私見で言うと、次のようになる。

   現代人は近世以前の芸術、芸能を開国後に入って来た欧米の芸術観で捉えようとするが
  その目的、制作過程は大きく異なっていた。美術で考えると分かり易いが、近世以前の美
  術品は宗教や生活の部材や道具であった。では、近世以前の芸術に第一級の作品がなかっ
  たのかと言えば、そうではない。著者は日本の古典詩歌を中心に、優れた芸術作品が創作
  される過程を、相対立する「うたげ」と「孤心」という概念を軸に読み解いて行くのであ
  る。

 私は、集英社版の単行本を読み終えた時のことをよく覚えている。多少オーバーな言い方をすれば、「この本は後世に残る本だ」と直感したのである。大岡先生には秀作と言われる著作が多いが、本書は発想の独創性、論旨の明快さに於いて頭一つ抜きん出ていた。読後暫く、面白かったという記憶と爽快感が残った。言わば、それは岩波文庫に昔から収録されている古典の幾つかを読み終えた時の感覚に近いものである。
 大岡先生も、本書巻末に収録されている同時代ライブラリー版の解説「この本が私を書いていた」で意味深長なことを述べておられる。端的に私見で言ってしまうと、「この本は仕事として執筆したのではなく、何かに憑かれたように書き上げた」と言われているのである。
          ○
 今回岩波文庫版を読み直してみて、私が受講した文学の授業で大岡先生が強調されていたことは正に『うたげと孤心』の理論なのだったと再認識した。当時は意識しなかったが、調べてみると、私が教わった時期は集英社から上梓された年に当たっていた。
 もう一つ思うこと。それは、若し大岡先生が国文学者のような経歴を歩まれた方であったら、本書の発想は先ず出て来なかっただろうということである。大岡先生は詩人としての右眼で対象を主観的に捉えながら、研究者の眼力を持つ左眼で対象を客観化することが可能な方であった。この目配りは現代文学と古典文学、日本文学と海外文学、文芸と諸芸術間という、時間と空間を超えたより広い領域で行われている。
 大岡先生には、一九六七年から翌年に掛けて「中央公論」に連載された「芸術時評」を中心に編まれた『肉眼の思想 ―現代芸術の意味―』中央公論社という名著がある。三十代半ばの作品である。私は大岡先生の目配りを、同書の表題をもじって「複眼の思想」と呼びたいのだが、果たしてそれは可能だろうか?


大岡信『日本の詩歌 ―その骨組みと素肌―』
  岩波文庫(長瀧孝仁)

 
大学卒業後、かなり経ってからのことである。新聞紙上に大岡信氏がフランスの芸術文化勲章を受章されたという小さな記事を見付けて、違和感を持った。私の学生時代、大岡先生は自宅と大学と新聞社、出版社など主に東京都内で活動されていたからである。その受章理由も分からぬまま、今日まで来てしまったのである。今回本書に目を通し、「現代詩手帖 追悼号」に掲載された「大岡信 略年譜」を広げてみて、多少とも不明点が理解出来たような気がした。
 一九八一年度、当時学生が「外地留学」と呼んでいた大学の制度を使われたと想像するが、大岡先生は一年間完全休講され、北米から欧州へ、また北米へと移動して現地の大学で講演と詩の朗読活動を行われた。米国ミシガン州では偶然が重なって、トマス・フィッツシモンズと英語で連詩を作成。ここからはご自身が『うたげと孤心』巻末に付された「この本が私を書いていた」で言われるように、この連詩が評判となって、ベルリン、ロッテルダム、パリ、ヘルシンキなどから連詩の誘いが相次ぐようになり、大岡先生の交友範囲が一気に拡大したのである。
 一九八〇年代後半からは海外での大岡信作品の翻訳紹介も盛んとなり、「詩集」「折々のうた」「古典論」等が英・仏・独・西・蘭・中・マケドニア・アラビア語で出版されている。本書も英・仏・独語に訳されている。日本ペンクラブの会長を務められたのもこの頃である。
          ○
 本書は、大岡先生が一九九四年と一九九五年にパリのコレージュ・ド・フランスに於いて日本文学を紹介する目的で行った五回の授業の講義録原文である。あとがきに拠れば、コレージュ・ド・フランスとは一般市民に広く無料公開されているフランス文部省直轄の高等教育機関だという。起源は十六世紀に遡るが、二十世紀の教授陣にはべルクソン、ヴァレリー、レヴィ=ストロース、フーコー、ロラン・バルト等が揃っていたという。
 大岡先生の講義は、東京の日仏会館館長を務められたベルナール・フランク氏の推挙によるものだった。日本文で完成したテキストをドミニック・パルメ女史が仏文に翻訳、大岡先生はこれを使ってフランス語で語られたのである。テキストの内容は、一九七一年の『紀貫之』、一九七八年の『うたげと孤心』、一九八九年の『詩人・菅原道真―うつしの美学』等に於いて為された日本の古典文学への深い考察を、端的かつ網羅的に纏めたものである。授業は回を追うごとに立ち見が出る程の盛況で、大岡先生のフランス語もかなりのレベルのものだったと聞く。
 本書は当初単行本として一九九五年に講談社から刊行された。次いで二〇〇五年には岩波現代文庫に収録され、今年岩波文庫にも収められた。私見ではあるが、これから大岡信古典論を読もうという人は、先ず本書を読んで一字一句まで頭に叩き込み、次に『紀貫之』、『うたげと孤心』、『詩人・菅原道真―うつしの美学』などの本論に取り組むのも一つの方法だろう。
          ○
 コレージュ・ド・フランスでの講義は高く評価されたようである。大岡先生は講義を終えた一九九五年に芸術院会員となり、その二年後に文化功労者、二〇〇三年には文化勲章を受章されている。そして、翌年二〇〇四年にはフランス政府からレジオン・ドヌール勲章オフィシエを授与されている。ナポレオンが制定したと言われる勲章である。
 高齢で文化勲章を受章する作家や画家、学者が多い中、七十二歳と比較的若くして大岡先生に栄誉が授与された理由は、次の点であろう。詩作・詩論の業績と独創的な日本古典論、長期間連載の「折々のうた」により広く国民に日本の詩歌を馴染ませた功績だけでも、文化勲章に充分値する。ここに、先述して来た海外での評価と日本文化を海外に発信したというプラス・アルファの要素が加わったからである。
 大岡先生とフランス語と言えば、思い出すことがある。授業中に「大学卒業近くになっても就職先が決まっておらず、読売新聞社の面接試験に出向いて行って『フランス語には自信がある。任せて欲しい!』とハッタリ言って、何とか滑り込みました」と語って、学生を笑わせておられたのである。今思い返してみると、その口跡とは裏腹に、大岡先生は大学卒業時点で相当レベルのフランス語を習得されていたようだ。その後十年に及ぶ新聞社外報部での活躍、日本橋の画廊を通じて知り合った海外現代美術作家との交流がこの事実を物語っている。
 ご自身『うたげと孤心』巻頭の「序にかえて」で言っておられるように、六年に及ぶ旧制一高文科丙類、東大文学部国文科での青春時代、頭の中にはボードレール、ランボー、ヴァレリー等の詩文が強く焼き付いていたそうである。恐らく、この時期に飛躍的な上達があったのであろう。

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