駿河台文芸 Surugadai Bungei
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続・駿河台書評(34号~)


毎号の「駿河台文芸」書評欄に掲載された全書評を公開している。

毎号の書評対象書籍は、以下の選定基準に該当する、最近一、二年の本を採り上げている。

 一、校友の著作 及び 校友について書かれた本
 二、明治大学 若しくは 明治大学の施設について書かれた本
 三、明治大学の教職員 及び 教職員だった方の著作

 全体の構成。巻頭に最新号の書評を掲げ、次に「駿河台文芸21号」までの書評を遡る形で、新しいもの順に並べてある。

 書籍名、書評者名から探す場合は、「バックナンバー」の項の「目次欄」を検索のこと。著者名、批評対象者から探す場合は、以下の「人名索引」を参照のこと。

人名索引

あ行 秋田光彦→23号/荒木優太→32号/猪谷千香→27号/池田功→28号,24号/石津謙介→24号/
    石田波郷→24号/伊藤文隆→29号/伊能秀明→22号/猪瀬直樹→25号/今井昌雄→26号/
    大岡信→34号,32号,30号/太田伸之→29号/大塚初重→30号,29号/岡本喜八→31号,24号/
    小川和佑→30号/荻原博子→32号,27号/尾佐竹猛→32号/小田切徳美→29号
か行 鹿島茂→33号,28号/唐十郎→34号,24号/川村毅→27号/菊田守→32号/
    菊池清麿→33号,31号,28号,26号,25号/木村礎→30号/
    黒崎敏→29号/刑事博物館→22号/小林広一→22号
さ行 西郷真理子→30号/斎藤緑雨→22号/塩路一郎→25号/周恩来→33号/杉村冨生→30号/
    進一男→25号
た行 高倉健→25号/田部武雄→28号/田宮寛之→34号/田村隆一→23号/張競→30号/
    辻征夫→ 29号/土屋恵一郎→28号/天童荒太→27号/徳田武→30号/鳥塚亮→26号
な行 中沢けい→27号/西田敏行→33号/西谷能雄→21号
は行 橋川文三→29号,27号/橋本正樹→23号/羽田圭介→30号/藤原智美→28号,23号/
    堀口純→32号/
ま行 丸川哲史→23号/右山昌一郎→28号/溝上憲文→26号/宮嶋繁明→29号/明士会→28号/
    明治大学博物館 刑事部門→22号/明治大学平和教育登戸研究所資料館→22号/
    目黒考二→30号/盛田隆二→27号
や行 山川博功→34号/米沢嘉博→24号
ら行 陸軍登戸研究所→22号


「駿河台文芸 第34号」平成29年(2017)12月25日


唐十郎著・西堂行人編『唐十郎特別講義―演劇・芸術・文学クロストーク―』
  国書刊行会 2017年(海藤慶次)


 私の唐十郎氏にまつわる体験というのは、自慢できるものではない。大学生の時に芥川賞受賞作『佐川君からの手紙』を読んだのと、大学院生の時に、明治大学中央図書館の一角で開催されていた「唐十郎展」を見たというぐらいのものである。もともと演劇には強い関心を持っていたのだが、私にはその世界に本格的に入り込むことを逡巡しているところもあった。今回本書の書評を書くに当たり、この際「演劇の世界とその周辺」について改めて勉強してみようとの意図で、興味深く読ませていただいた。
 この本は、近畿大学教授時代の唐十郎講義録をまとめたものである。本書では冒頭から、横浜国立大学でも近畿大学でも唐氏が若者を巻き込んで自作の演劇世界を発展させ、世の中に向けて新たに発信してきたということが語られている。当時の私と同世代の人たちが、唐十郎の独特の世界観に感銘を受けて自分たちで演じ、唐氏も若者たちの技量を見極めて演目などを決めていったのだという。唐演劇が世代を超えて熱を帯び、他の追随を許さないと言われるのも、この演劇人としての卓越した柔軟性にあるのではないかと思われた。
 講義が進むにつれて、六十年代の東京の芸術文化の爛熟が手に取るように感じられた。状況劇場と寺山修司の天井桟敷との面白い関係性や、そうした時代の熱を敏感に感じ取った三島由紀夫のエピソードなどが語られている。唐氏の少年期の回想からも様々な抽象的イメージが浮かび上がって来て、その中から「水」という普遍的であり、それでいて難解な観念が前面に出てくる。その「水」についてのとらえようのないイマジネーションが、「ジョン・シルバー」「ふたりの女」「秘密の花園」「泥人魚」といった唐演劇の不朽の名作のモチーフに結実したようである。唐氏の皮膚感覚というか、感得してきたものを具象化する才気には感服させられる。
 加藤道夫の「なよたけ」とジャン・ポール・サルトルの「蠅」という芝居を重層的に語っていくところは、比較文学の講義のようである。大学の講義という限られた枠内で、これらの作家のバックボーンや来歴についても触れており、良質の評論を読んでいるような気持になる。そして、「ポリフォニー」(多声性)という問題を語る時に、ドストエフスキーの『罪と罰』における描写やラスコーリニコフの感じたものについて触れていくところ、文学上の一つの概念として、あるものを微に入り細を穿って論じられているが、唐氏の並々ならぬ熱気が感じられて、教室中に知識人としての才気が横溢する空気そのままなのである。
 最後部の講義では、唐氏が具体的に関わった韓国演劇界の巨星たちのことや、浅草の軽演劇と紙一重のところで活動していた人たちのことが語られている。特に、軽演劇役者であるシミキンについての部分を読んで慄然とした。演劇人の心理、即ち役者の内面には様々な役回りが渦巻いているものなのだ。
 唐氏は講義の全体を通して、下谷万年町という自らのルーツについて逐一語っている。狂気のようなエネルギーがあった時代の原体験というものが、「水」のイメージも含めて、唐演劇の爆発力につながっていると示唆されている。本書は良書である。演劇に限らず文化的なものに傾倒する読者から、広く耳目を引く内容となっている。
 著者は一九四〇年生まれの劇作家、演出家、俳優、小説家。明治大学文学部演劇学科卒業。一九六三年、後の劇団状況劇場を結成。
 『少女仮面』で岸田國士戯曲賞、『佐川君からの手紙』で芥川賞、『泥人魚』で鶴屋南北戯曲賞を受賞。他に読売文学賞、読売演劇大賞芸術栄誉賞、朝日賞など受賞多数。横浜国立大学、近畿大学で教授を務めた。

田宮寛之『みんなが知らない超優良企業 ―新しいニッポンの業界地図』
  講談社+α新書 2016年
田宮寛之『無名でもすごい超優良企業 ―業界地図の見方が変わる!』
  講談社+α新書 2017年
          ○
山川博功『グーグルを驚愕させた日本人の知らないニッポン企業』
  講談社+α新書 2016年(長瀧孝仁)

 田宮寛之氏は、就職活動をしている大学生間では名前が広く知られた方らしい。この分野の講演、著作も多い。また同氏は、証券・経済記者生活が長い。明治大学経営学部卒業後、ラジオたんぱ(現ラジオNIKKEI)を経て東洋経済新報社に入社。老舗の同社が蓄積された豊富な経済・会社データを基に就職情報サービスを開始した後は、この分野の責任者となっている。
 『みんなが知らない××』を書いた意図は二つ。電機・エレクトロニクス産業など、かつての日本の花形産業は台湾・韓国・中国勢にすっかりお株を奪われ精彩を欠いているが、全国に386万もある会社には規模の大小、上場非上場、老舗ベンチャー企業を問わず、未だ世界に名だたる技術を保持する有望企業が多いのである。しかし、その事実を端的に列挙しようにも、従来の新聞株式欄のような業種分類では企業の多角化、技術高度化の現状に沿っておらず、極めて煩雑となってしまう。そこで著者は、長年の現場取材で体得した独自の業種分類によって整理してみたのである。
 それは規模の大小、上場非上場、老舗ベンチャー企業の括りを外し、成長市場をテーマごとに一括りとし、更に都市鉱山、ロボット、再生医療、炭素繊維、(自動車の)自動運転などのキーワードをもとに叙述して行くスタイルである。採り上げた250社を各章ごとに章末の一覧表にしてあるのも便利である。緒言には、この本の用途として株式投資、事業提携先探し、就職、転職が想定されるとある。
 『無名でもすごい××』は前書『みんなが知らない××』がよく売れたため、一年後に続編の位置付けで書かれたものである。前書と同じ叙述スタイルであるが、CNF(セルロースナノファイバー)、植物工場、陸上養殖、メタンハイドレート、木造高層建築など、一層夢のあるキーワードで有望企業240社が採り上げられている。
          ○
 右記の『無名でもすごい××』で採り上げられている1社に㈱ビィ・フォアードがある。その会社の創業社長が書いた著書が『グーグルを驚愕させた××』である。書店の新書本棚の同じ列に並んでいた。書名は、アフリカの一部の国で特に検索数が多い日本の無名会社を訝って、グーグル本社の副社長がわざわざ現地調査に来日したというエピソードに拠る。
 ところで私は、4年前の日本のイスラム教徒についての短文で「よく知られたことだが、20数年前1人のパキスタン人が日本のスクラップ用廃車を中近東へ輸出しようと考えた。それは、ゴミの山を宝に変える夢のようなビジネスだった」と書いた。交通規範で右ハンドル車の走行を禁じている国も多く、自国の自動車産業保護と環境問題から中古車輸入禁止の新興国もある。世界では少数派の右ハンドル車を受け入れる国とて、旧英国領などに限られて来る。元々、日本の中古車を輸出しようと考える日本人自体少なかった。
 こういう状況下、パキスタン人とは全く違った遣り方で、山川社長は日本の中古車を大量輸出することに成功したのである。正に「ネットビジネス恐るべし!」である。僅か15年で、ビィ・フォアードは世界125ヵ国へ毎月1万五千台を輸出し、国内シェア10%を越える企業にまで成長した。急成長の鍵は、輸出相手国に合わせた独自の工夫と細かなマーケティングであった。
 本書には「通信インフラが未だ整わないアフリカ諸国に、格安のスマートフォンを普及させてネット通販を可能にしたのは中国企業であった」「モンゴルでは何故かハイブリッドカー、特にプリウスばかりが売れる」「日本の中古車輸出を仕切っていたパキスタン人は、東日本大震災後に大挙して日本から去って行った。経験したことのない大揺れと福島の放射能漏れを恐れたのである」など、会社の成長過程で経験した面白い挿話が満載である。
 また、「日本という国は、日本語既習のアフリカ諸国からの元留学生に皿洗いをさせている。国の命運を賭けて遥か東方の日本の大学、大学院へと送り込まれた学力が高い若者なのに、アフリカ出身を理由に就職の門戸を閉ざしている」との苦言もある。
 最近はマスコミ上で山川社長を見掛けることもあるが、型破りな気風の方だと仄聞する。京王電鉄・調布駅の駅前ビルにだだっ広いワンフロアーの事務所を構え、パソコンが置かれた全社員180人の机が見渡せるように配置。用事がある場合、デスク脇の折畳み自転車を組み立てて跨り、社員の所まで飛んで行く。商談では世界30言語に対応するため、26カ国の社員を雇っている。社内の意思疎通は、英語混じりの日本語で行うらしい。
 同氏は福岡県出身で、明治大学文学部卒業。東京日産自動車販売での新車販売から中古車売買、中古車輸出へと深掘りして行ったようである。明大ラグビー部・故北島忠治監督の大ファンだそうで、社名の「ビィ・フォアード」は「前へ」という監督の有名な言葉を自ら意訳したという。

「現代詩手帖 二〇一七年六月号 追悼特集・大岡信」思潮社 二〇一七年六月一日
「ユリイカ 詩と批評 平成二十九年七月臨時増刊号 総特集・大岡信の世界」青土社 
                       二〇一七年六月十五日(長瀧孝仁)


 今年四月五日に大岡信先生が亡くなられてから、右の二冊の追悼雑誌が二箇月以内という迅速さで編集された。両誌に寄稿されている方もおられ、短期間にこれだけの量の原稿を集め得た両編集部には驚嘆せざるを得ない。
 二冊の雑誌を通読して先ず思うことは、大岡先生が活躍されたジャンルの多彩さと人的交流の広さである。私は大岡先生の国語・文学系統の課目を受講した法学部の一学生だったが、授業中の話を通じて日本の詩歌や古典文学に惹かれ、テキスト以外の大岡先生の書籍の多くにも目を通して今日に至っている。従って、詩集、詩論、日本古典論、「折々のうた」のような詞華集(アンソロジー)について多少は分かろうが、この二冊の雑誌で触れられている「連詩」や「合唱曲」「オペラ」となると見聞したこともなく、相当な距離を感じざるを得ない。
 当時、書店の棚に並んでいた新刊の大岡信『青き麦萌ゆ』毎日新聞社と大岡信『詩への架橋』岩波新書を読んで、「学生時代って、こんなに楽しく過ごせるものなのか!」と自分の現状と比べて感心した記憶がある。これら二冊に描かれた大岡先生の「輝ける青春時代」を彩る東野芳明(一九三〇~二〇〇五)、飯島耕一(一九三〇~二〇一三)、日野啓三(一九二九~二〇〇二)、茨木のり子(一九二六~二〇〇六)等各氏の追悼文も読んでみたいと思ったが、ずっと早く亡くなられていたのである。八十六歳で逝かれた大岡先生は、長生きされたのである。
 二冊の雑誌は通読したが、全部が理解出来た訳ではない。難解な文章も少なからずあった。そんな時、「同じことでも若し大岡先生が書かれていたならば、もっと分かり易かったのではないか」と、思わずあらぬことを考えてしまう。大岡先生は、難しいことでも読者に分かり易く説明できる名手なのであった。それは、きっちりと頭の中で整理出来ていたからであろう。二冊の雑誌には私が知らなかったことも多く載っており、今回随分と教えられた。また、新事実を聴いて思い当たる節もあった。
          ○
 二冊の雑誌で触れられていないのに、六月二十八日夕刻行われた「大岡信さんを送る会」で弔辞を述べられた粟津則雄、菅野昭正両氏と閉会近くで挨拶された土屋恵一郎明治大学学長が、何れも「大岡先生と政治」に該当するエピソードを披瀝されたのは印象的だった。
 連合赤軍の浅間山荘事件以後学生運動は急速に萎むが、私の学生時代は荒廃したキャンパスの至る所に未だ痕跡が残されていた。学園紛争を経験した教授も多く、講義中は皆一様に学生を警戒していた。他学部聴講で教わった橋川文三先生など、授業後に右寄りの学生に絡まれて辟易した話をエッセイに書かれている位である。そんな中、大岡先生も短歌の五七調による抒情に乗せられて戦地へ死に赴いた学生が大勢いた話もされたが、簡単に尻尾をつかませないというか、学生側から見ても要領よく立ち回っておられた記憶がある。粟津氏は、そういう意味のことを言われたのではないか。
 菅野氏の話は、大岡先生が一九八一年度に一年間大学を完全休講し海外で研修された折り、パリで偶然再会したというものだった。時は丁度ミッテラン政権成立の前後に当たり、政治学者でもない大岡先生が新政権成立の背景に知悉しているのに舌を巻いたという。
 土屋学長の話は、学園紛争時にバリケードの内側で見聞きした大岡先生のエピソードであった。大岡先生は教授の立場から、「君たちが世の中の総てを否定するのなら、私は世の中の総てを肯定しよう」とバリケード内の学生に語り掛けられたそうである。土屋学長はこれを聞いて、「やられた。一本取られたなぁ」と二の句が継げなかったそうである。
 菅野、土屋両氏の話は、何れも政権交代や学生運動が日本に先行するフランスの政治状況を大岡先生がよく理解出来ていたからこそ可能だった話である。私は前号「駿河台文芸33号」の「追悼 大岡信先生」に於いて、読売新聞外報部時代の深夜に黙々とニュース短信を翻訳した経験が、「折々のうた」に大きな影響を与えた旨述べた。大岡先生は授業中に外報部時代の話をよくされた。社会人としての最初の仕事であり、二十代でもあったので、少なからぬ影響を受けられたのであろう。フランス政治への知識と思考方法も、恐らく十年に及んだ外報部での仕事を通じて体得されたものだったろう。
 在職時に進行したベトナム戦争などは典型だろうが、同じ事象を扱っても、政治的立場や宗教観、興味の対象が異なると、海外での報道と国内での報道は自ずと違って来る。しかも大岡先生は翻訳者であり、内外を両睨みしている必要があった。私は、その後の大岡先生の日本古典論などに於ける複眼的な発想や思考法は、読売新聞社時代に一層訓練されたものだと考えている。
          ○
 二冊の雑誌で最も注目したのは、大岡先生が日本古典論と「折々のうた」のような詞華集(アンソロジー)の完成に心血注がれた動機と背景についてである。後には旧制高校最後の世代として、「日本の詩歌」の教養を新制大学の学生にも伝えなければならないと使命感を持たれたようだ。
 私が大岡先生に教養科目「文学」を教わったのは朝日新聞で「折々のうた」の連載が始まる前年で、長い空白期間を経て漸く『うたげと孤心』が集英社から出版された年だった。『紀貫之』が上梓されてから未だ十年も経っていなかった。当時は、詩人、歌人、俳人だけでなく、小説家や文芸評論家までもが王朝歌人や俳諧師の評伝を執筆することが盛んに行われていた。また、斎藤茂吉や萩原朔太郎、佐藤春夫の有名な詞華集(アンソロジー)も書店の棚に並んでいた。従って、大岡先生が特に目新しいことをされているとは見えなかった。
 私は知らなかったが、大岡先生には元々大学の教員になろうという意志がなかったようである。読売新聞社退職後は日本橋の画廊に勤めておられた。その頃明治大学法学部で国語の教師一人が必要となり、当時法学部でフランス語を教えておられた菅野昭正氏が仲介された。二人は大学時代の文学仲間で、菅野氏は説得に三度も画廊へ通ったそうである。
 二冊の雑誌では当然触れていないが、私は「法学部の国語の教師」という点に注目したい。法学部内部の者にしか分からないが、思い当たる節がある。法学部の国語科教師とは、かなり特殊な仕事である。何れも必修科目で、一年時に「国語」二年時に「論文演習」という時間があった。前者で文語文を読み解く練習を行い、後者で国家試験等の論文を簡潔明快に仕上げるための文章表現の練習を行う。
 民法、刑法、商法といった主だった法律は文語調であり、戦前の重要判例も文語調で書かれている。法学部の学生で文語文に馴染めない場合、暗い学生生活となってしまう。また、作文の練習については、かつて法律の専門科目の教授陣から「答案に読めない文章や誤字を書く学生をなくしてくれ」との強い要望があったようである。
 大岡先生は右に述べた国語科の授業体制を確立するため、請われて明治大学法学部に来られたのである。その法学部とは、日本の詩歌については不毛の地であった。もし文学部の教師となられていたら、これほど強く学生に日本の詩歌を伝えたいと思われなかったかも知れない。
          ○
 二冊の追悼雑誌で誰も触れないので、「大岡先生と児童書」についても書いてみよう。大岡先生が、難しいことでも読者に分かり易く説明できる名手であったことは先述した。この能力は、児童書の分野でも遺憾なく発揮された。但し、大岡先生の立場は「子どもに言葉への興味を刺戟しようと思うなら、その子どもの年齢に比べて少々歯ごたえがありすぎると感じられる言葉を、恐れずに与えるべきだ」(「仙人が碁をうつところー子どもの言語経験についてー」一九七三年より抜粋)というものである。
 私は七年前、駿河台文学会の「会報」に「大岡信先生の児童書」という短文を寄せたことがある。そこで採り上げた児童書中から、左記の二冊に付いて再考してみたいと思う。

  A.『おとぎ草子』岩波少年文庫
  B.『おーい ぽぽんた ―声で読む日本の詩歌一六六―』福音館書店

 Aは当初『鬼と姫君物語 ―お伽草子』平凡社として刊行され、改版・本文追加を経て今日に至っている。内容は、「一寸法師」「浦島太郎」というお馴染のお伽噺のほか、「酒呑童子」「福富長者物語」など全七篇を収録。それら作品が、大岡先生による美しい現代語訳で蘇るのである。
 私が大学で大岡先生に教わった教養科目「文学」の講義では、大岡信『たちばなの夢 ―私の古典詩選―』(新潮社)がテキストで、大岡信『詩への架橋』(岩波新書)が副読本として使われた。前者の目次には「お伽草子」の項目もあって、文学史上軽視されがちなお伽草子について本来の価値を教わっている。私はその時以来、「お伽草子」を小説の模範の一つだと考えるようになった。
 Bは、大岡先生ほか五人の詩人によるアンソロジー。ここで言う「日本の詩歌」とは、万葉集以来の短歌、芭蕉以降の俳句、明治以降の自由詩を指す。それらがジャンルごとに小さく集まって、「詩」「俳句」「短歌」「詩」「俳句」「短歌」と旋律のように重畳的に何度も繰り返される構造となっている。
 ここで注目すべきは、大岡先生単独による『俳句・短歌鑑賞』という解説小冊子が付録として付いていることである。選りすぐった日本千数百年間の代表的な短歌、俳句併せて百十九について、大岡先生の端的な解釈と解説が付されている。
 私が「会報」の旧文でこの解説小冊子をどう書いたか、引用してみることにする。

  この冊子が、飛切り価値ある本なのである。子供というより、寧ろ大人が読むべき本で
 ある。自分にとってこれがどれだけ大事かと言うと、大阪の伝統芸能である文楽の大夫が
 持ち場の義太夫語りの先と後に、閉じた床本を両手で頭上に恭しく押し戴く動作をするが
 あの床本に相当すると言って差し支えない。拳拳服膺、何度も読み直そうと思う。

 それにしても、こんな価値ある本が「付録」という役回りなため、日陰の存在として多用されないのが残念である。編者の数が多くて版権・著作権とも複雑そうではあるが、何時かインターネット等で公開される日が来るであろうと期待したい。全国の小・中・高等学校と世界中の日本人学校の授業で多用されて、「日本の詩歌」に馴染む少年少女が増えて欲しいのである。

大岡信『現代詩試論/詩人の設計図』
  講談社文芸文庫 2017年(多田統一)

 2017年4月5日に、大岡信が亡くなった。本書は、すでにその前から出版の計画があったもので、「現代詩試論」と「詩人の設計図」の2つの柱で構成されている。
 前者は、現代詩試論、詩の必要、詩の条件、詩の構造、新しさについて、『地球詩集』の周辺、詩観について、純粋についてなどの内容である。後者は、詩人の設計図、現代詩はなにをめざすか、鮎川信夫ノート、メタフォアをめぐる一考察、詩の方法の問題、中原中也論、宿命的なうた、小野十三郎論、歌・批評・リズム、立原道造論、 さまよいと決意、エリュアール論、パウル・クレー、線と胚種、シュペルヴィエル論、シュルレアリスム、ひとつの視点、自働記述の諸相、困難な自由などの内容である。
 初出誌一覧で確認すると、1952年11月に「赤門文学」に掲載されたエリュアール論から1958年2月に「文学界」に掲載された詩人の設計図まで、著者が21歳から27歳の間に書いたものである。この間、1957年には相澤かね子と結婚、翌年に長男玲が生まれている。
 学生時代に書いたエリュアール論は、文壇で話題になったようである。「ぼくははじめて、詩の中に自然を発見した」とか、「エリュアールの愛の詩が、あのようにも多くの、愛を歌っていない詩に平然と混じりあって現れる」など、詩人であることに全力を注いだ著者ならではの表現が見られる。三浦雅士は、解説の中で、次のように述べている。「すぐれた批評家でなければならなかったのは、詩人がそれを必要としたからである。批評を内包しない詩、詩を内包しない批評は、大岡にとっては無意味だったのである」と。
 さらに、三浦は続ける。「現代詩試論は、日本の昭和初年代のシュルレアリスムの浅薄な流行を批評するところから始まり、詩人の設計図は、フランスのシュルレアリスムの抱え込んだ矛盾を、とりわけ自働記述の矛盾として検討するところで終わる」と。これこそ、本書を総括した解説ではないだろうか。
 大岡は、1952年に卒業論文「夏目漱石」を脱稿。三浦によれば、その内容は文芸批評としてずば抜けていたと言われる。大岡の念頭には、詩人であろうとする意志はあっても、文壇批評家になる意志など持ち合わせていなかったようである。美術批評に手が伸びたのも、絵画と批評の関係が詩と詩論の関係に似ていたからに他ならない。
 大岡は、1953年8月に「詩学」に発表した現代詩試論の中で、次のように述べている。「詩が散文によって語りつくされるならば詩は詩である必要はないし、またもし散文によっては詩について語りつくすことができないとするなら、詩について語ることは批評家に屈辱感をおぼえさせるだけのものだろう。詩について散文で語ることは至難である。どこにもこれら二つの関係が完全に融和している模型はないし、そうしたものがありうるかどうかもわからない。そこにはいつでも手さぐりの歩みよりがあるばかりだ」と。これが、すべてのように思える。試論であって、結論でもあるようだ。
 大岡の明解な評論はここから始まったが、詩人としての言語感覚は、私たち読者を魅了し続けてきた。本書は詩論であるが、科学と宗教や芸術の関係を考えさせるようなスケールの大きなものである。
 奥様のかね子さんより直接お電話があり、「駿河台文芸」のお礼にと、本書をいただいた。私にとって、緊張感を持ってこの重厚な詩論に取り組む機会となった。

大岡信『うたげと孤心』岩波文庫
  2017年(長瀧孝仁)

 
本書は刊行当初から世評高く、大岡信先生の数ある著作中にあっても代表作と目されて来た。岩波文庫に於いては生前の『自選 大岡信詩集』に続くもので、日本古典論に属する作品では最初に収録されたことになる。
 「あとがき」と巻末の「編集付記」等によると、本作品は次のような来歴を辿っている。先ず季刊文芸誌「すばる」には、一九七三年六月から一九七四年九月まで全六回に亘って連載された。執筆当時、著者側で大和歌篇と漢詩篇を並立させる構想があった。しかし、漢詩篇は諸般の事情によりなかなか実現せず、一九七八年に連載分だけで『うたげと孤心 大和歌篇』集英社が上梓された。この本は一九九〇年に岩波書店の同時代ライブラリーにも収録され、更に一九九九年には、同じ岩波書店で『日本の古典詩歌 ―大岡信古典論集成― 全五巻 別巻一』が編まれた時に分載収録されている。結局、漢詩篇の構想は『詩人・菅原道真 ―うつしの美学―』岩波書店という別の書籍に結実し、今回の岩波文庫版のタイトルは『うたげと孤心』に落ち着いたのである。
          ○
 「すばる」での完結から集英社から上梓されるまでの三年半の間に著者の考察は更に進んだようである。集英社版の単行本には巻頭に新たに「序にかえて」が付された。読者のことを考えたこの短文には「うたげ」「孤心」という用語の定義があるだけでなく、後半部分で本書のエッセンスが大岡先生ご自身の言葉で述べられている。
 本書の内容を私見で言うと、次のようになる。

   現代人は近世以前の芸術、芸能を開国後に入って来た欧米の芸術観で捉えようとするが
  その目的、制作過程は大きく異なっていた。美術で考えると分かり易いが、近世以前の美
  術品は宗教や生活の部材や道具であった。では、近世以前の芸術に第一級の作品がなかっ
  たのかと言えば、そうではない。著者は日本の古典詩歌を中心に、優れた芸術作品が創作
  される過程を、相対立する「うたげ」と「孤心」という概念を軸に読み解いて行くのであ
  る。

 私は、集英社版の単行本を読み終えた時のことをよく覚えている。多少オーバーな言い方をすれば、「この本は後世に残る本だ」と直感したのである。大岡先生には秀作と言われる著作が多いが、本書は発想の独創性、論旨の明快さに於いて頭一つ抜きん出ていた。読後暫く、面白かったという記憶と爽快感が残った。言わば、それは岩波文庫に昔から収録されている古典の幾つかを読み終えた時の感覚に近いものである。
 大岡先生も、本書巻末に収録されている同時代ライブラリー版の解説「この本が私を書いていた」で意味深長なことを述べておられる。端的に私見で言ってしまうと、「この本は仕事として執筆したのではなく、何かに憑かれたように書き上げた」と言われているのである。
          ○
 今回岩波文庫版を読み直してみて、私が受講した文学の授業で大岡先生が強調されていたことは正に『うたげと孤心』の理論なのだったと再認識した。当時は意識しなかったが、調べてみると、私が教わった時期は集英社から上梓された年に当たっていた。
 もう一つ思うこと。それは、若し大岡先生が国文学者のような経歴を歩まれた方であったら、本書の発想は先ず出て来なかっただろうということである。大岡先生は詩人としての右眼で対象を主観的に捉えながら、研究者の眼力を持つ左眼で対象を客観化することが可能な方であった。この目配りは現代文学と古典文学、日本文学と海外文学、文芸と諸芸術間という、時間と空間を超えたより広い領域で行われている。
 大岡先生には、一九六七年から翌年に掛けて「中央公論」に連載された「芸術時評」を中心に編まれた『肉眼の思想 ―現代芸術の意味―』中央公論社という名著がある。三十代半ばの作品である。私は大岡先生の目配りを、同書の表題をもじって「複眼の思想」と呼びたいのだが、果たしてそれは可能だろうか?


大岡信『日本の詩歌 ―その骨組みと素肌―』
  岩波文庫(長瀧孝仁)

 
大学卒業後、かなり経ってからのことである。新聞紙上に大岡信氏がフランスの芸術文化勲章を受章されたという小さな記事を見付けて、違和感を持った。私の学生時代、大岡先生は自宅と大学と新聞社、出版社など主に東京都内で活動されていたからである。その受章理由も分からぬまま、今日まで来てしまったのである。今回本書に目を通し、「現代詩手帖 追悼号」に掲載された「大岡信 略年譜」を広げてみて、多少とも不明点が理解出来たような気がした。
 一九八一年度、当時学生が「外地留学」と呼んでいた大学の制度を使われたと想像するが、大岡先生は一年間完全休講され、北米から欧州へ、また北米へと移動して現地の大学で講演と詩の朗読活動を行われた。米国ミシガン州では偶然が重なって、トマス・フィッツシモンズと英語で連詩を作成。ここからはご自身が『うたげと孤心』巻末に付された「この本が私を書いていた」で言われるように、この連詩が評判となって、ベルリン、ロッテルダム、パリ、ヘルシンキなどから連詩の誘いが相次ぐようになり、大岡先生の交友範囲が一気に拡大したのである。
 一九八〇年代後半からは海外での大岡信作品の翻訳紹介も盛んとなり、「詩集」「折々のうた」「古典論」等が英・仏・独・西・蘭・中・マケドニア・アラビア語で出版されている。本書も英・仏・独語に訳されている。日本ペンクラブの会長を務められたのもこの頃である。
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 本書は、大岡先生が一九九四年と一九九五年にパリのコレージュ・ド・フランスに於いて日本文学を紹介する目的で行った五回の授業の講義録原文である。あとがきに拠れば、コレージュ・ド・フランスとは一般市民に広く無料公開されているフランス文部省直轄の高等教育機関だという。起源は十六世紀に遡るが、二十世紀の教授陣にはべルクソン、ヴァレリー、レヴィ=ストロース、フーコー、ロラン・バルト等が揃っていたという。
 大岡先生の講義は、東京の日仏会館館長を務められたベルナール・フランク氏の推挙によるものだった。日本文で完成したテキストをドミニック・パルメ女史が仏文に翻訳、大岡先生はこれを使ってフランス語で語られたのである。テキストの内容は、一九七一年の『紀貫之』、一九七八年の『うたげと孤心』、一九八九年の『詩人・菅原道真―うつしの美学』等に於いて為された日本の古典文学への深い考察を、端的かつ網羅的に纏めたものである。授業は回を追うごとに立ち見が出る程の盛況で、大岡先生のフランス語もかなりのレベルのものだったと聞く。
 本書は当初単行本として一九九五年に講談社から刊行された。次いで二〇〇五年には岩波現代文庫に収録され、今年岩波文庫にも収められた。私見ではあるが、これから大岡信古典論を読もうという人は、先ず本書を読んで一字一句まで頭に叩き込み、次に『紀貫之』、『うたげと孤心』、『詩人・菅原道真―うつしの美学』などの本論に取り組むのも一つの方法だろう。
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 コレージュ・ド・フランスでの講義は高く評価されたようである。大岡先生は講義を終えた一九九五年に芸術院会員となり、その二年後に文化功労者、二〇〇三年には文化勲章を受章されている。そして、翌年二〇〇四年にはフランス政府からレジオン・ドヌール勲章オフィシエを授与されている。ナポレオンが制定したと言われる勲章である。
 高齢で文化勲章を受章する作家や画家、学者が多い中、七十二歳と比較的若くして大岡先生に栄誉が授与された理由は、次の点であろう。詩作・詩論の業績と独創的な日本古典論、長期間連載の「折々のうた」により広く国民に日本の詩歌を馴染ませた功績だけでも、文化勲章に充分値する。ここに、先述して来た海外での評価と日本文化を海外に発信したというプラス・アルファの要素が加わったからである。
 大岡先生とフランス語と言えば、思い出すことがある。授業中に「大学卒業近くになっても就職先が決まっておらず、読売新聞社の面接試験に出向いて行って『フランス語には自信がある。任せて欲しい!』とハッタリ言って、何とか滑り込みました」と語って、学生を笑わせておられたのである。今思い返してみると、その口跡とは裏腹に、大岡先生は大学卒業時点で相当レベルのフランス語を習得されていたようだ。その後十年に及ぶ新聞社外報部での活躍、日本橋の画廊を通じて知り合った海外現代美術作家との交流がこの事実を物語っている。
 ご自身『うたげと孤心』巻頭の「序にかえて」で言っておられるように、六年に及ぶ旧制一高文科丙類、東大文学部国文科での青春時代、頭の中にはボードレール、ランボー、ヴァレリー等の詩文が強く焼き付いていたそうである。恐らく、この時期に飛躍的な上達があったのであろう。

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