駿河台文芸 Surugadai Bungei
ニュース 会員募集・編集者募集 募金  ● 駿河台座談・インタビュー  ● 駿河台書評  続・書評   ● 文学見学会履歴

続・駿河台書評(34号~)


毎号の「駿河台文芸」書評欄に掲載された全書評を公開している。

毎号の書評対象書籍は、以下の選定基準に該当する、最近一、二年の本を採り上げている。

 一、校友の著作 及び 校友について書かれた本
 二、明治大学 若しくは 明治大学の施設について書かれた本
 三、明治大学の教職員 及び 教職員だった方の著作

 全体の構成。巻頭に最新号の書評を掲げ、次に「駿河台文芸21号」までの書評を遡る形で、新しいもの順に並べてある。

 書籍名、書評者名から探す場合は、「バックナンバー」の項の「目次欄」を検索のこと。著者名、批評対象者から探す場合は、以下の「人名索引」を参照のこと。

人名索引

あ行 秋田光彦→23号/阿久悠→36号,35号/荒木優太→32号/猪谷千香→27号/池田功→28号,24号/
    石津謙介→24号/石田波郷→24号/伊藤文隆→29号/伊能秀明→22号/
    猪瀬直樹→25号/今井昌雄→26号/
    大岡信→34号,32号,30号/太田伸之→29号/大塚初重→30号,29号/岡本喜八→31号,24号/
    小川和佑→30号/荻原博子→35号,32号,27号/尾佐竹猛→32号/小田切徳美→29号/
    小幡一→36号
か行 鹿島茂→33号,28号/唐十郎→34号,24号/川村毅→27号/菊田守→36号,32号/
    菊池清麿→33号,31号,28号,26号,25号/北島忠治→36号/北島治彦→36号/木村礎→30号/
    黒崎敏→29号/刑事博物館→22号/小林広一→22号
さ行 西郷真理子→30号/斎藤緑雨→22号/塩路一郎→25号/周恩来→33号/杉村冨生→30号/
    進一男→25号/勢古浩爾→36号
た行 高倉健→25号/田部武雄→28号/田宮寛之→34号/田村隆一→23号/張競→30号/
    辻征夫→29号/土屋恵一郎→28号/天童荒太→27号/徳田武→30号/豊島与志雄→35号/
    鳥塚亮→26号
な行 中沢けい→27号/西田敏行→33号/西谷能雄→21号/根深誠→36号
は行 橋川文三→29号,27号/橋本正樹→23号/羽田圭介→30号/藤原智美→28号,23号/
    星野仙一→36号/堀口純→32号/
ま行 丸川哲史→23号/右山昌一郎→28号/溝上憲文→26号/宮嶋繁明→29号/明士会→28号/
    明治大学博物館 刑事部門→22号/明治大学平和教育登戸研究所資料館→22号/
    目黒考二→30号/盛田隆二→27号
や行 山川博功→34号/米沢嘉博→24号
ら行 陸軍登戸研究所→22号


「駿河台文芸 第36号」平成30年(2018)12月10日


勢古浩爾『古希のリアル』草思社文庫 2018年(長瀧孝仁

 

著者・勢古氏の本はよく売れるのである。大型書店の文庫本コーナーへ行くと、目線の高さの棚に設けられた草思社文庫「特等席」に、表紙を前面にして何冊もの在庫が陳列されている。最初に草思社文庫に入った『定年後のリアル』であり、その続編に当たる『定年後七年目のリアル』などである。

本書を含めて著者が草思社文庫の「定年後シリーズ」で展開している論旨は、次のようなものである。

 

 出版界には「定年・老後本」というジャンルがあって、少子高齢化という時代を反映して数多の本が出版されている。その中には、ベストセラーになっている本もある。しかし、これらの本の内容とその本を取り上げるマスコミが必要以上に定年後、老後の不安を煽っているとするならば、これは逆効果であり社会悪ですらある。

老後の不安は大別して「お金」「健康」「生きがい」という三つの問題に集約される。この内「お金」について言えば、数多本の中に「老後資金は××千万円必要」と煽っているものがある。また、孤独死の可能性を声高に言挙げする本もある。概してこれらの本は「健康」を維持し、「生きがい」を求める方策にも、「お金」が掛かることばかりを奨める傾向にある。加えて、「××しなさい」「××しなければならない」という教訓調の本も多い。

しかし、読者にはこれらの叙述は不愉快である。公務員や大企業の社員を基準に書いたのだろうが、日本の就業者の九割以上は中小零細企業で定年を迎えるのである。数値の格差が老後への絶望感を誘発するようでは、出版の意味が問われ兼ねない事態である。

 

 著者はここで、読者を励ましている。

 

今までだって幾つもの困難を乗り越えて何とか生きて来たのだから、老後だって生きて行けるさ。数値の格差を気に掛けて、定年前から思い煩うなんて馬鹿げている。そんな本なら、読まなければ好い!

自分には自分の人生しかないのだから、自然体であるがままの老後を送るしかないだろう。日々の楽しみを大切にしながら、さあ、元気を出して生きて行こうぜ!

 

 ネット上の読後欄には「勢古氏の本を読んで気が楽になった」という読者の声が見受けられる。本が売れる秘密もその辺りにあるのだろう。多くの定年・老後本を儒教とするならば、「定年後シリーズ」は老荘思想なのである。前者は実用書として、後者は心の安らぎを求める本として読まれているのである。

 

 本書には思い当たるまま、人・物・事についての叱言・たわごと・独り言が綴られている。以前の著作に比べてもなお一層、古希老人特有の饒舌が繰広げられているように感じられた。

著者は、明治大学政治経済学部卒業。大学院政治学修士課程修了。定年近くまで洋書輸入会社に勤務。職業柄もあろうが、相当な本好きである。特に小説。日々の楽しみは、明日読む本について考えること。著書多数。

 

島村俊治『星野仙一 ―決断のリーダー論―』(ペーパーバック版)

ゴマブックス 2018年(長瀧孝仁

 

日本のプロ野球界に大きな業績を遺した星野仙一(一九四七~二〇一八年)は、今年の一月四日に亡くなった。幾冊かの雑誌や書籍が追悼出版されたが、過去優勝監督時の出版物の復刊も多かった。本書もその一冊で、阪神タイガース優勝の翌年、二〇〇四年に刊行されたものをペーパーバックで改変復刊している。字が大きく、厚くもない冊子のような体裁である。

内容は、星野が若い頃から如何にして監督業を学び、組織を統括して率いて行く術を身に付けたかが綴られている。著者が星野と接する中で、大事なこと、気が付いたことを手帳に書き留めておいたのではないかと思われる。本書は十数年前の本なので、楽天イーグルスについては全く書かれていない。

星野の業績を記してみる。岡山県生まれ。県立倉敷商業高校、明治大学政治経済学部卒業。エースとして君臨するも、高校、大学時代は優勝経験なし。従って、甲子園のマウンドを踏むこともなかった。大学二年の対立大戦でノーヒットノーランを記録するが、当時は法大、早大の全盛時代で、四年間で一度も優勝出来なかった。一九六九年、中日ドラゴンズに入団。十三年間の投手生活で二度のリーグ優勝を経験、14612134セーブの成績を残した。

監督としては、一九八八年と九九年に中日ドラゴンズを、二〇〇三年に阪神タイガースを、一三年に楽天イーグルスをリーグ優勝に導いている。この年楽天は日本シリーズでも優勝、星野は日本一監督の仲間入りを果たしている。歴代、三チームをリーグ制覇させた監督は三人しかいない。三原脩、西本幸雄、星野仙一である。そして監督辞任後は、楽天球団取締役副会長の地位にあった。

ところでこの秋、星野亡き後初めてのセ・パ両リーグ公式戦が終わってみると、大きな変化があったことに気が付く。星野が監督を務めていた三球団すべてが下位に低迷したのである。中日は昨年も今年も5位であるが、昨年3位でクライマックスシリーズにも参戦した楽天は、春から不調で最下位に低迷したままシーズンを終えた。また、昨年2位で同じくクライマックスシリーズに出た阪神は、今年は中日にも負けて最下位で終わったのである。既に、これら三球団すべての監督が交代している。

 この事態を、単なる偶然で片付けて好いものだろうか? 威光が無くなったからなのではないだろうか? 中日はともかく、星野は亡くなる直前まで、後の二球団には有形無形の影響力を行使していたのである。いざ亡くなってみると、星野の威が無くなってメッキが剥げた監督たちには従わない者が現れ、組織のタガが外れてしまったように見えるのである。改めて、「星野仙一」という存在の大きさを認識せざるを得なかった。

 私は右の勝手な類推が間違っていないか、何か答えがありはしないかと、この本を繙いてみた。著者の島村氏は、星野より六つ年上のNHKスポーツアナウンサーである。星野がNHK野球解説者だった時、実況中継でよく同席して親しくなったそうである。尤も、何時も野球の中継ばかりを担当する訳ではなく、オリンピックでは鈴木大地、岩崎恭子、清水宏保が金メダルを取った試合の実況放送担当だったとのこと。

当時は、他の解説者に鶴岡一人、川上哲治という大物の元監督が居たのである。星野は特に川上元監督に可愛がられ、全選手へ公平に接することなど、細かなことから謙虚に学んだ。著者は、星野を野球中継で同席した他のNHK野球解説者の藤田元司、広岡達朗、古葉竹識、森祇晶元監督とも比べている。その中でも星野は自分の考え、方針が明確で、話の内容も分り易かったと言う。人間関係が何よりも大切と考えていて、決断力が頭抜けていた。

 

 

菊田守『古典を学ぶ! 日本人のこころと自然観

 -山川草木鳥獣虫魚の世界に遊ぶ-

日本地域社会研究所コミュニティ・ブックス

2018年(多田統一

 

 本書は三部構成で、著者の詩作品と芭蕉論、詩論が掲載されている。第一部が松尾芭蕉の自然観について、第二部が日本鳥獣詩について、第三部がわが人生と詩作についてである。

 第一部は、松尾芭蕉と山川草木鳥獣虫魚の世界、松尾芭蕉の老いと旅からなる。

菊田氏と芭蕉と言えば、芭蕉の「雅俗論」を纏めた明治大学の卒業論文にまで遡る。有名な句「古池や蛙飛び込む水の音」にまつわる話が面白い。著者は、講演で聴衆によく次のような質問をする。「古池や………の蛙は、メスかオスか?」と。答えはオスである。「ボッチャンと音がするではないか!」と言うのである。「芭蕉の句は笑い。俳諧の俳は滑稽、俳諧の諧も滑稽!」と解釈するのが著者の持論なのである。そのユーモアは、菊田氏の詩作人生とも繋がっている。

第二部には、著者の詩作品が掲載されている。特に〃天の声〃は、菊田氏らしいほっとする作品である。

 

青い空

白い雲の彼方から聞こえてくる声

アホ― アホ―

アホ―

―阿呆になれや

   阿呆になれや

天から

カラスの声が聞こえてくる

 

第三部は、詩のこころ―芭蕉・道元から現代まで―、詩作入門、わが原郷―ふるさと「鷺宮」―からなる。

著者には、身近な小動物についての詩作品が多い。それらに一貫するのは、鋭い観察と小動物への愛情、ユーモアあふれる表現、故郷に対する熱い思い、普遍的なテーマを追求する姿勢である。

菊田守氏は、1935年東京都中野区生まれ。1959年明治大学文学部卒業。1994年、第一回丸山薫賞受賞。日本現代詩人会元会長。詩集『かなかな』他、多くの著作がある。

 

 

根深誠『白神山地マタギ伝 ―鈴木忠勝の生涯―』

ヤマケイ文庫 2018年(多田統一

 

本書は四年前に七つ森書館から刊行されており、今回文庫化された。構成は、次の通りである。

 

はじめに

第1章 水没集落

第2章 白神山地とマタギ

第3章 クマ狩り

第4章 山々に残る伝承

第5章 山の暮らし

第6章 白神山地をめぐる歴史

終 章 ひとつの山村の消滅と将来について

初版あとがき/文庫版のあとがき


 第1章では、ダム建設で消滅した白神山地の村が紹介されている。1953年に着工し、1960年に完工した目屋ダムの建設で、砂子瀬と川原平の一部を合わせて86戸の民家が湖底に沈んだ。ところが、1973年ダム建設計画が再び浮上し、2000年に補償交渉が妥結、翌年度までにほとんどの住民が移転した。

このダムは津軽ダムと命名され、総貯水量が東京ドームの150杯分程ある。工事は2016年に始まり、目屋ダムの下流60メートル地点に、目屋ダムを飲み込むように建設された。179戸が移転し、砂子瀬と川原平の2つの集落は消滅した。しかし、ダム建設により従来の人間関係に亀裂が生じ、金銭による利害関係が支配する社会へと変化していった。民宿のオカミの会話、「ジェンコサしがみついデ、心が貧しくなったんだべ」が印象的である。

 第2章では、筆者が白神山地最後の伝承マタギ・鈴木忠勝から聞いた山の暮らしが興味深い。1990年に83歳で亡くなった忠勝は、自分を信じ、自分の力で自然とともに生きたマタギである。今日のように、マタギが観光で持て囃される時代ではなかった。クマ、ウサギ、カモシカなどを獲り、時にはヘビも食べた。しかし、山に依存する生活は、ダム建設の頃から疎遠になっていく。

第3章では、「四つグマのたたり」が興味深い。母グマと3頭の子グマがいると、子グマ1頭だけは逃がしてやるのだと言う。この伝承を、種を絶やさず自然界のシステムを維持しようとするマタギの戒律だと筆者は説明している。

 第4章では、「妖怪の棲む沢」に注目したい。藩政期には、岩崎あたりは秋田領で、阿仁のマタギが随分やって来たそうである。鈴木忠勝の話では、津梅川の源流の一つ「一本松の沢」には妖怪が棲んでいると言う。津軽領内の山で隠れマタギが見つかり、刃傷沙汰になったこともあるらしい。津軽藩と秋田藩の勢力圏争いを巡る出来事として、筆者は紹介している。

 第5章では、「ナタメと杣道」に目が留まった。ナタメとは、白神山地の杣道の脇に残るブナの立木に刻まれたサインである。ワサビ採りの女性の名前も残っている。ナタメは、山に生きる人たちの暮らしにまつわる物語でもある。

 第6章では、鉱山開発のことが出てくる。鈴木忠勝によると、尾太銅山は砂子瀬集落から近いこともあり、村人との関わりが深かったようである。木炭を使ったタタラ精錬が行なわれていた。木炭の材料は、付近で伐採したブナやナラである。この鉱山で弘前藩はずいぶん潤い、尾太街道沿いには繁栄祈願として寄進された石灯篭が残っている。

 終章で、筆者は世界自然遺産である白神山地の将来像について提言している。杣道トレイルと緑化木としてのブナの活用である。アスファルトや鉄パイプの遊歩道は、白神山地に似つかわしくない。杣道こそが、人と自然の関わり、山の人たちの生活ぶりを知ることのできるルートである。また、ブナによる景観づくりは、人類の遺産としてのエコミュージアムの考え方として示唆に富む。

 根深誠は、1947年青森県弘前市生まれ。明治大学山岳部OB。マッキンリーで遭難した植村直己の捜索にも参加した。青秋林道の建設計画が持ち上がった際には、反対運動を立ち上げた人である。ヒマラヤの未踏峰6座にも初登頂している。

登山家としてだけでなく、生態学や歴史・民俗学についても実に詳しい。地理学者・民俗学者であられた故・千葉徳爾明治大学教授のことにも触れている。私も、大学院の合同ゼミで千葉教授の指導を受けたが、もっとマタギのことをしっかりと聞いておくべきであったと後悔している。

著書は『白神山地をゆく ―ブナ原生林の四季―』(中公文庫)『遥かなるチベット ―河口慧海の足跡を追って―』(中公文庫)『東北の山旅 釣り紀行』(中公文庫)『シェルパ ―ヒマラヤの栄光と死―』(中公文庫)『ヒマラヤにかける橋』(みすず書房)『風の冥想ヒマラヤ』(中公文庫)『山の人生 ―マタギの村から―』(中公文庫)『ヒマラヤのドン・キホーテ ―ネパール人になった日本人・宮原巍の挑戦―』(中公文庫)など多数。

 

 

北島治彦監修 小幡一編著『愚直に〃前へ〃

  ―北島忠治・明治大学ラグビーの真髄―』(新装普及版)

人間の科学新社 2018年(唐山峰雪

 

私は昭和二十八年に明治大学文学部に入学しました。郷里の母校ラグビー部を強くしたい一心で毎日八幡山に四ヶ月間通い、漸く合宿所に入れてもらいました。この期間ボール磨きも覚え、グラウンド脇に畑も作っていたので、肥たご担ぎもしたのです。おやじ(北島忠治監督)の薫陶を受けたことにより、念願の高校のコーチもして、県高体連十か年連続優勝・富山国体準優勝と貢献することができました。余談になりますが、私はラグビー部ながら昭和三〇年の箱根駅伝に出場しております。往路の戸塚~平塚間二十三キロを走り、一人追い抜きました。

今回本書を読んでみて、改めて次の二行が胸に響きました。

 

「行動は意識に先行する」

「一瞬の判断と咄嗟の反応」

 

西田幾多郎は『善の研究』で「我々は知識においても何においても、直観を離れることができない」と言い、第一編第四章「知的直観」において、「直観は知的直観(フィヒテが唱えた) intellectual intuitionである」として、この直観は「主客いまだ分かれない、知るものと知られるものが一つである現実そのままの不断進行の意識である」と述べています。

 さらに「直観は知覚によって成立し、いや知覚や直覚と同じものだ」と言います。しかも「意志の進行、意志の実現の根底にも、始終この直覚が働いている。意識は〈すべて衝動的である〉〈意識の統一的傾向は意志の目的である〉」と直観の行動性を断言しているのです。

「直観」とは、一般に判断・推理などの思惟作用を加えることなく、対象を直接捉えることですが、ピーンとかピカリというオノマトペで表されるように、一瞬の判断で全体を把握してしまう作用を言います。もう一つ、「直観」に似た作用として「衝動」があります。「衝動」とは、突き動かすことです。なんらかの知覚または観念を起因とし、強制的にある動作または行為を促す内部的欲求を言います。
『善の研究』第二編第四章「真実在は常に同一の形式を有って居る」に、衝動が次のように解明されています。

 

衝動及知覚などと意志及思惟などとの別は程度の差であって、種類の差ではない。前者においては無意識である過程が後者に於いては意識に自らを現わし来るのであるから、我々は後者より推して前者も同一の構造でなければならぬことを知るのである。

 

西田幾多郎全集第二巻『自覚における直観と反省』では、「直観と反省この二つの内面的関係を明らかにするものは、我々の自覚である」と言います。

 下村寅太郎は西田哲学の説明として「『善の研究』では主客未分の純粋経験を〈直接経験〉と呼んでいる」と解釈しています。続けて「最高の最も具体的な・・・主客〈すでに〉未分の意識・・・と相隔絶しながら、しかも同一とする思想―これが純粋経験のことで、東洋の宗教思想につながっている」と言うのです。

ここで付け加えておきたいことは、カントに a priori (先天的、即ち経験に先だち、経験を成り立たしめる論理的根拠となるものの意)というのがありますが、これは直観と直結しており、いにしえから知られていた仏教の「蜜有」にも通じるのです。仏教辞典では「蜜有」を真実の存在と定義しています。『正法眼蔵』の水野弥穂子注には「知覚の対象とならない真実」とあります。人間の眼には見えない意識のことで、いわば「統一作用」のような意識のことです。仏教で言う阿頼耶識(八識の一つ)のことだと思って下さい。

 以上、ラグビーにおける直観と状況判断とプレーの話を進めて来たつもりですが、このことはラガーのみならず、五輪アスリートにおいても同様で、さらには経営や軍事のR等にも応用されているのです。少し前のことですが、後輩の柔道家、剣道家(注)と三人でコーヒーブレイクした時のことです。たまたま「純粋経験」の話題が出て、たいそう盛り上がりました。それは「・・・技をかける一瞬の意識とか、剣を打つ一瞬とか、その瞬間前が『乳児の文目(あやめ)もわかぬような・・・主客〈まだ)未分の意識』を言うのでないか・・・」というものでした。

ラグビーにおいては、精神的な昇華が勝利という名誉以上に崇高で貴重なものとして重んじられています。「反省」が内面化して、学生の生き方に関わるよう「自覚(自立あるいは自律)」まで高められるかが、指導におけるキーポイントになっているのです。

 (注)柔道家は澤田敦士氏、剣道家は橋本武雄氏です。

 

ところで、本書に次の北島監督の言葉を見つけて、改めて私は深い感銘を受けました。

 

「平常心是道。そして今、この時を大切に生きる」

 

もう一人の恩師、唐木順三先生の著書を紐解いてみましょう。私は唐木順三ゼミナールの学生でもありました。

唐木先生は『正法眼蔵随聞記私観』で道元の『正法眼蔵 弁道話』から「仏家には数の殊劣を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修業(行)の真偽をしるべし」。そして、「行仏三昧」を「行仏にあらざれば、仏縛・法縛いまだ解脱せず。仏縛・法縛に党類せらるるなり」と言っています。この「行仏」とは、行のほうで成仏することです。

さらに『正法眼蔵 行仏威儀』からは「仏縛というのは菩提(さとり)を菩提と智見解会(頭で考え、理解)する、即智見、即解会に即縛(執着・束縛)せられぬるなり。一念を経歴するになおいまだ解脱の期を期せず、いたずらに錯解す。菩提(さとり)を菩提なりと見解せん。想憶(思い見る)す、これ即ち無縄自縛なり。縛縛綿綿として、樹倒藤枯にあらず、いたずらに仏辺の巣窟に活計(生活)せるのみなり」。

『正法眼蔵 諸法実相』を開くと「仏祖の現成は究尽の実相なり(その姿そのままが実相そのままである)」とあります。諸仏諸祖の出世は諸法(あらゆる物事)の実相(真理)を現わしています。諸仏諸祖とは達磨や道元の師であった如浄等の諸祖のことです。実相は現実をおいて他に真実があるように思われますが、「現実の諸法(万法の真実・自己の正体)が実相である」と言います。禅宗(曹洞宗)では、これを特に「直指人心見性成仏」と表現しています。

北島監督は学生と起居を共にし、利他に生き、「平常心是道」を唱導して六十七年間貫き通されました。このような求道的な生き方を通した北島監督の教えは、全く宗教思想、芸術等の創造に通じるだろうと思います。学生諸君においても、勉学と修業によっては「仏の心さえむずとつかめ」て、女神が微笑むというのでしょうか?

 

 

阿久悠『無冠の父』岩波現代文庫 2018年(多田統一

 

最後のページに、編集部による本書刊行の経緯が書かれている。これによると、『無冠の父』は1993年9月から11月にかけて執筆された。完成稿が編集者に渡されたが、改稿を求められたため、阿久悠はその原稿を戻させ、亡くなるまで一切このことを語らなかったと言う。

2011年10月、明治大学駿河台キャンパスに阿久悠生前の業績を顕彰する記念館が開設されることになった。関係者が自宅に残された遺品を整理したところ、書斎の棚の奥から、5つの章からなる未発表の長編小説が見つかる。遺族の了解を得て、『無冠の父』は刊行の運びとなった。ストーリーは、以下のようなものである。

第1章「訃報」では、主人公深沢健太(ペンネーム・阿井丈)の父深沢武吉が、突然の心不全で昭和50年1月7日に亡くなる。この時、健太はヨーロッパへ旅行中で家族とともにパリにいた。健太は、阿久悠自身である。すでに、有名な作詞家になっていた。

第2章「巡査」では、父親の職業柄、子どもの健太にとってもこれが実に厄介なものとなった。巡査の子どもであると言うだけで、周囲の扱いが違った。畏敬の念をもって接してくることもあるが、友だちと無邪気に遊んでいても健太にはどこか壁を感じた。

第3章「俳句」では、終戦直後父に言われるがまま、健太は「天皇の声になる蝉の声」と詠んだ。父武吉は、「松虫の腹切れと鳴く声にくし」と詠んだ後、「この子らの案内頼むぞ夏蛍」と詠み替えた。新しい時代に移り変わろうとしている世相を反映した実に象徴的な句である。

第4章「肖像」では、父武吉が、友人に息子の肖像画を描いてもらう。武吉には5人の子どもがいたが、長男の隆志は17歳で水兵となり、戦死してしまう。戦死公報が終戦から1か月遅れて届いたが、この肖像画は今も大切に仏壇に飾られている。

第5章「格言」では、厳格な父の言葉が載っている。健太が進路を明治大学に決めた時、「お前は、子どもの時から、箸を長くもっとったな」と父は笑った。箸を長く持つ子は親から離れると言う。父の言葉としては、健太にとって意外であった。

海外旅行先から妻と駆けつけた時、急死した父親の顔は、健太には実におだやかできれいに見えた。少し口が開いていたが、いったいその口で何が言いたかったのか、健太には分からなかった。成功を収めた健太、その父親の葬儀である。それは、驚く程盛大なものであった。出棺前のお別れに、健太は父親の頭の傷を確かめた。この傷は、農作業中に、叔父つまり父親の兄に誤ってつけられたものである。この傷が、父親にとってどのような意味を持つかは、健太には知りようもない。

この作品は、阿久悠の私小説である。編集部との間にどのようなやり取りがあったか、私には知る由もない。もし私が編集者であったなら、父親の武吉を主人公にすることを勧めたであろう。知らない父親と知っている父親の両方の姿が程よくミックスして、違った味が出ていたかも知れない。しかし、エッセイとして読んでみると、昭和の時代を阿久悠流に俯瞰した読み応えのある作品である。具体的で鮮明な映像が、浮かび上がってくる思いがする。

著者の阿久悠(1937―2007年)は、本名・深田公之。淡路島に生まれる。明治大学文学部卒業後、広告代理店に勤める。番組企画やコマーシャル・フォト制作に関わった後、作詞活動に入る。

 代表作は日本レコード大賞の作詩賞受賞作品だけでも、「ジョニイへの伝言」「乳母車」「夏ざかりほの字組」「熱き心に」「花(ブーケ)束」「花のように鳥のように」「螢の提灯」などがある。 

「駿河台文芸 第35号」平成30年(2018)6月20日


阿久悠『昭和と歌謡曲と日本人』河出書房新社 2017年(多田統一


  本書は、6つの章で構成されている。作詞家として5000曲を手掛けた阿久悠のメッセージが収められている。

   第1章    めぐりゆく季節/ 第2章     風と光を感じて/
  第3章     愛しい人間の愛しいいとなみ
/ 第4章     この広い空の下で/
  第5章     昭和の歌とその時代/ 
第6章     日本人の忘れもの


 第1章では、〃元日の朝〃が興味深い。「物質で不自由をかけたぶん、取るに足りない記憶を光り輝く思い出に変える技術を、神様が与えてくださったのだと思う。」からは、阿久悠のエネルギーの源泉を感じ取ることができる。よく、5000曲もの作品が書けたものである。

 第2章では、〃12月の雪〃が印象に残る。暖冬が続く中、珍しく12月に雪が降った年があった。淡路島生まれの阿久悠にとって、それはとても新鮮なことであった。屋根に積もった雪を2階の部屋からすくって、コンデンス・ミルクをかけて食べたという。雪から家庭の暖かさや人の善意を連想するのも、彼にとっては子どもの頃の原風景が目に焼き付いていたのかもしれない。

 第3章では、〃冬の林檎〃が注目される。阿久悠の学生時代、林檎は貴重なものであった。1つの林檎が飾り物になり、水晶玉になり、青年の未来を占ってくれた。暖かい土地に生まれた彼にとって、蜜柑ではなく林檎というのが面白い。

 第4章では、〃冬の探偵たち〃で阿久悠の季節観に驚かされる。春夏秋冬の他、春の上に夏が重なったもの、夏の下に春を巻き込んだものという感覚が素晴らしい。四季は、四季であって四季ではないのである。チャンネルの多さが、日本人の特色であろう。西風と暖炉とウイスキー、それに推理小説の組み合わせで、冬の夜長を楽しむ彼の姿が目に浮かぶようである。

 第5章では、〃意味不明の「ウララ」〃に注目したい。山本リンダプロジェクトで、「狙いうち」の歌詞が生まれた時の裏話が面白い。阿久悠は、字数が多いと混乱するという理由で、「ウララ ウララ ウラウララ -----」にしたという。「ぼくには意味不明だが、それで売れたのかもしれない。」と彼は書いている。

 最後の第6章では、阿久悠の色彩観が心に残る。「橙色が生活の中で目立つと正月であった。」という表現が印象的である。蜜柑のオレンジ色ではなく、正月用に飾られた橙の実の色である。酢橘、柚子、橙の区別ができてこそ、日本人と言えるのかもしれない。

 阿久悠は、1937年兵庫県生まれ。明治大学文学部卒業。作詞家として、数々の賞を受賞している。「また逢う日まで」「北の宿から」「勝手にしやがれ」「UFO」などは、あまりにも有名である。『瀬戸内少年野球団』など、著書も多い。本書に掲載されたエッセーは、東京新聞などに連載されたものである。2007年8月、逝去。



荻原博子『投資なんか、おやめなさい』新潮新書 2017年(多田統一)


 「いま、3大メガバンクをはじめとした金融機関が、生き残りをかけて、あなたを投資に誘い込もうとしています。」で始まる荻原博子氏の著書。個人資産の防衛術として必読の書である。5つの章からなる。


    第1章    あなたは、騙されていませんか?

    第2章     日銀の「マイナス金利」が、家計の資産を破壊する
    第3章     こんなクズ商品には手を出すな
    第4章     なぜ「個人年金」はダメか

    第5章     投資の「常識」を疑おう


 第1章では、外貨建て生命保険の問題点について述べている。外貨建ては手数料が高いこと、また日本で入った外貨建て保険は基本的に海外で引き出せないことなど、その落とし穴について詳しく書かれている。外資系の保険会社であっても、日本の支社で加入した場合には海外の本社で引き出すことはできない。

 第2章では、日銀の異次元金融緩和の大きな誤算について指摘している。どんなに日銀がお金を流しても、資金需要がない中では、銀行から外にお金が流れないのである。政治情勢の大きな変化がない限り、失敗続きの黒田日銀体制も続いていくことになる。

 第3章では、構造的欠陥のある毎月分配型投信、個人向け国債、外貨預金などのリスクについて述べている。手数料が高いし、定期預金であっても他の商品とのセット販売や豪華プレゼントには要注意である。

 第4章では、出費の多い個人年金、特に変額個人年金の場合には運用悪化による保険会社の経営も心配である。早いうちに加入すると、ますます老後の問題を抱え込むことになる。

 第5章では、金融商品やその勧誘に注意するポイントが纏められている。複雑な商品ほど高額な手数料を取られること、銀行や郵便局も過信してはならないことが書かれている。

 最終結論では、投資をしなくてはという呪縛を取り払うことの大切さを訴えている。では、どうすればよいのか。デフレの中では、相対的に現金の価値が上がる。これを実践してきたのがバブル崩壊以後の日本の企業で、財務内容が改善され内部留保を貯め込むようになった。

 荻原博子氏の解説はとても明解で、読者を魅了する。具体的な数値による鋭い分析に加え、客観的な立場からの体制批判、そこには常に生活者に対する優しい眼差しがある。

 著者は1954年長野県生まれ。明治大学文学部卒業。テレビにもよく登場する有名な経済ジャーナリストである。



荻原博子『老前破産 年金支給70歳時代のお金サバイバル』朝日新書
                    2018年(多田統一)


 「年収850万でも年金もらう前に破産危機!」こんなブックカバーの宣伝が眼に入った。年金70歳時代のお金サバイバルについて書かれた荻原博子の力作である。次の6つの章からなる。
     第1章     売れない、貸せない、直せない―住宅ローンで「老前破産」

     第2章     「子どもの将来」という病―教育費で「老前破産」

     第3章     年金70歳時代を生き抜くための「基本心得」

     第4章     気が付けば借金まみれ―カードローンで「老前破産」

     第5章     家族関係のトラブルは、家計の万病のもと

     第6章     お金の不安をスッキリ解消! 「Q&A」集

 第1章では、住宅ローンが生活を破滅させる例を具体的に紹介している。同一マンション物件を賃貸した場合と購入した場合とでは、そんなに違いがないことを金額の比較で示している。住宅は、資産として不安定ということの証明でもある。

 第2章では、教育費破たんの実態を、3人の子どもを持つ家庭を例に紹介している。日本は、国立大学といえども教育費が高い。奨学金を受けても、返済がその子の将来に大きくのしかかる。奨学金の滞納が増えている現実がある。経済的な理由で中途退学していく学生も多い。国の救済制度がぜひとも必要である。

 第3章では、老後に向けての基本的な心得について書かれている。老後資金に付け入る投資の甘い罠には乗らず、夫と妻の視点で家計の見直しをすることが大切である。生命保険も考え直す必要がある。

 第4章では、破産が急増しているカードローンの問題点について、具体的な例を紹介している。やりくり上手の奥様が入ってしまう落とし穴、薄れていくカードローンへの抵抗感こそ、気を付けなければならない。消費者金融と銀行の結びつきこそ問題である。

 第5章では、就職留年や引きこもりの子どもを持つ家族の例が出てくる。大卒の10人に1人は無職の時代である。子どもの問題は、夫婦関係にも大きく影響する。家計の万病のもとは家族関係にあり、他人事ではすまされない深刻な話である。

 第6章では、お金の不安を解消するためのQ&Aが纏められている。専業主婦、パート、会社員、自営業者などからの質問に答える形で著者が答えている。年金や介護費用、親への仕送りなど、不安を解消するポイントを明解に示している。

 巻末には、40代・50代男女100人に実施した老前・老後の不安に対する緊急アンケートの結果も掲載されている。お金の問題を家族の視点から捉える著者の姿勢には、人を納得させる力がある。テレビ出演なども積極的にこなしているが、経済事務所勤務時代の経験が生かされているものと思われる。

豊島与志雄・長山靖生編『丘の上―メランコリー幻想集―』彩流社
                     2018年
(長瀧孝仁

 最近二、三年、豊島与志雄(一八九〇~一九五五)の小説本が相当数出版されている。著作権が十年以上前に切れていて、その多くはオンデマンド本であるが、本書と『新編日本幻想文学集成』第8巻(国書刊行会)の二冊は書店の小説の棚を飾っている。

 死後十年目の一九六五年に刊行が始まった『豊島与志雄著作集全6巻』(未来社)に拠れば、豊島には百五十篇を超える小説作品があるようだが、その中から二冊それぞれ十数篇を選んでいる。両著書に重複している作品は、「都会の幽気」「白塔の歌」「沼のほとり」の三篇である。本書に限れば、収載の十五篇は大半に死、或いは葬儀、死体などが出て来る話である。そうではない作品も、奇っ怪千万な叙述が続く小説か随筆と思って欲しい。

 表題にもなっている「丘の上」は、誰とも知れぬ男女間の会話だけで成り立っている作品である。不思議な読後感のみが残る。説明もないまま誰とも知れず、いきなり会話から始まるのである。それはこの世の男女間の会話とも取れるが、あの世の男女とも取れて、丘から望む下界と海の景色は白くハレーションしている。

 「都会の幽気」は、目には見えない「幽気」という幻を具体的に叙述している。「白塔の歌」は中国を舞台とした寓意的な作品。はらはらどきどき、サスペンスを読んでいるように話が進んで行く。そして、ミステリーな結末。 

 「沼のほとり」は、出征した息子に最後の面会が許された日、母親が不案内な兵営に赴く話である。帰りの列車はどれも満員で乗車出来ず、仕方なく霧がかかった湖沼近くの見知らぬ人家で一晩過ごすことになる。……終戦後に息子は復員するが、従弟は戦死していたことを知る。そして、従弟の愛人だと分かった芸妓が、例の一夜世話になった家の女主人によく似ていることも。

 後日お礼を兼ねてその人家を訪ねるが、湖沼周辺には葦や薄の原が広がるばかりだった。従弟が戦死した日は面会に行った日でもあり、母親は湖沼近くを彷徨っていたことになる。これは、戦争を背景にした現代版『雨月物語』のようである。霧の湖沼の描写がやけに怪しい。

         ○

 ところで、明治大学文芸科教授だった豊島は駿河台文学会とは浅からぬ関係にあり、本誌でも一九九〇年に「駿河台文芸第9号 特集 豊島与志雄―」を編んで顕彰している。今回「特集号」を読み直してみて、この雑誌のレベルの高さを再認識した。以下「特集号」を典拠にして豊島の生涯を略述し、「何故今、豊島与志雄の小説なのか?」を考えてみたい。

豊島は明治23(一八九〇)年十一月二十七日、現在の福岡県甘木市に当たる朝倉郡福田村大字小隈の旧家に生まれている。生家の敷地は三千坪、父親は村一、二の高額所得者であった。地元の小学校を終えた後、福岡市の修猷館中学(現県立修猷館高校)を首席で卒業して、旧制一高、東大文学部仏文科へと進んだ。しかし、豊島家には公然の秘密があった。

 「特集号」に拠れば、豊島与志雄の祖父は、生地を治めた筑前黒田藩の首席家老だった三奈木黒田家十一代・黒田一美なのだという。家老と言っても三奈木黒田家には禄高が一万六千石もあり、小藩主並みの大名であった。三奈木黒田家上屋敷の奥女中だった豊島の祖母・シナは、豊島の父・秀太郎を身籠ったまま、豊島家の長子・与七郎に嫁いでいる。つまりは、醜聞になるところ、三奈木黒田家の権力によって知行地内で巧く繕ったようである。

 この事実は、少年時代から豊島を苦しめた。修猷館では、同級生である黒田一美の嫡子、即ち叔父と机を並べることになった。中学時代に豊島がひたすら勉学に勤しんだのも、こうした特殊な背景があった。それは、豊島の「じっと我慢の生涯」の始まりでもあった。

 修猷館には、権力志向で実学重視の校風があった。戦中、戦後史に名を残す広田弘毅(一八七八~一九四八)、中野正剛(一八八六~一九四三)、緒方竹虎(一八八八~一九五六)という政治家は皆、修猷館の出身者である。また、豊島の一学年上で秀才の誉れ高かった田中耕太郎(一八九〇~一九七四)は商法学者となり、東京大学教授から最高裁判所判事に転じて、後に最高裁判所長官、国際司法裁判所判事、文部大臣を歴任している。こういう環境下で文学を志すことは、両親と郷里の期待を裏切ることであった。

 後述のように、豊島は学生作家として出発した。同時期、結婚を巡って両親と軋轢があり、豊島の生涯を決定付けた実家の没落という最大の不幸も現実のものになりつつあった。それは士族の商法というか、父・秀太郎が豊島家本来の家業ではない事業に手を出して上手く行かず、豊島家伝来の資産をかたに借金を重ねていたのである。谷崎潤一郎、山本有三、久米正雄、芥川龍之介、菊池寛等、中流以下の出身者も多い大正文士の中で、本来豊島は学資も生活費も全く心配しなくて良い身分であった。しかし、相続を限定承認にする一方、後日発覚の負債の返済義務を負わねばならない苦しい立場へ追い込まれた。

 そして、士族の血筋は子孫へと引き継がれる。長女・邦の夫である斎藤正直先生が私の大学在学時の学長であり、その後駿河台文学会でもお世話になったという事情もあるだろうが、刊行時に「特集号」を読んだ時は、「借金取りが出入りする豊かでない豊島家の少女時代」という長女の回想録ばかりが頭に残った。元を糺せば、この貧窮生活も豊島に家計の出納能力が無かったことに起因する。浪費癖があった上、借金を重ねても平気だったからである。

 豊島の次男・澂は戦後出版社に勤めた後、独立して光風社という出版社を経営していた。出版物の中から直木賞作家も輩出したようだが、結局倒産させて六十歳を前に急逝している。これは、豊島の明治大学文芸科時代の教え子・西谷能雄(一九一三~一九九五)が創業した未来社が、西谷没後二十年を経ても活動的な出版社であるのと対照的である。

         ○

 豊島には四つの貌があった。小説家、児童文学者、翻訳家、大学教員としての貌である。大学在学中に山本有三、久米正雄、芥川龍之介、菊池寛等と始めた第三次「新思潮」創刊号に載せた「湖水と彼等」が即認められ、二十三歳で新進作家となった。二十六歳で長男を亡くす一方長女が生まれ、これらの影響下二十八歳で童話第一作「魔法杖」を書いている。早速「赤い鳥」の鈴木三重吉から注文が入る。以後豊島は小説と並立させて児童文学を綴り、終生児童文学界と関わり続けた。

 フランス語教師の口を得たり、フランス文学翻訳に手を付けることは、豊島にとって本意ではなかった。しかし、実家が困窮し、長男の入院費も嵩む中、先ず生活費を稼がねばならなかった。当初陸軍中央幼年学校で教えたが、校風により小説を発表することが難しかった。芥川龍之介が勤めていた海軍機関学校へと移り、慶応義塾大学でも教えた。しかし、何れも非常勤で収入が足りず、前年から続けていた長編小説『レ・ミゼラブル』の翻訳作業に打ち込むようになった。

 現在「豊島与志雄」という名前が一番よく知られているのは、翻訳の分野に於いてである。豊島の訳したヴィクトル・ユーゴー『レ・ミゼラブル』『死刑囚最後の日』、ロマン・ローラン『ジャン・クリストフ』、『千一夜物語』(マルドリュス版)などは、六十年、八十年を経て今なお岩波文庫で現役なのである。これは、豊島の訳文が如何に分かり易くて的確かの証左でもあろう。

 結果論になるが、豊島が文学、特に仏文学を選択したことは正解であった。法政大学教授兼東京大学講師としてフランス語を教えていた豊島は、後に明治大学に文芸科が出来ると、教授になって創作実習を担当した。同時に二つの大学で教授を務めることなど現代では考え難いが、豊島の場合は仏文科卒業生二人だけという時代で、教師の適任者が不足していた。

 翻訳についてもこれと同じことが言え、豊島の所に大作の仕事が集まった。豊島が翻訳した『レ・ミゼラブル』は昭和初期にベストセラーとなり、莫大な印税が転がり込んだ。次に訳した『ジャン・クリストフ』の文庫本も、戦中・戦後のロングセラーとなっている。

 また、仏文学者は数が少なく多くは同門で、皆仲が良かった。辰野隆、山田珠樹、鈴木信太郎、水野亮、中島健蔵等、豊島与志雄は良き友に恵まれたと言える。

         ○

 「特集号」では、日本近代文学研究者・関口安義の解説が一番分かり易い。因みに、関口は『豊島与志雄研究』『評伝豊島与志雄』の著者でもある。中村真一郎の指摘も鋭く、豊島与志雄再評価を予言しているようにも読める。両氏の言説を纏めると、「豊島は大正文士としては例外的に、前衛かつ現代的な資質を持つ作家であった。仏文学者として欧州小説の最前線に通じ、その知識や手法を駆使して創作中で実験を試みた」ということになる。中村は、「豊島は幻覚、幻想という精神現象中に或る種の真実を見出している」とも言う。

 本書の作品と過去に読んだ幾つかの童話作品に限った話であるが、私は豊島の特異な死生観に注目してみたい。仏教的死生観ではなく、キリスト教の死生観でもなく、宇宙の彼方から突如現れ、やがて星の屑となって彼方へ消えて行くような茫漠たる死生観。幾つもの作品の読後感からの連想である。

 作品への影響度合いは分からないが、事実として豊島の生涯は「劇的な死に方」をした知人、家族との別離の連続であった。列記してみよう。二十五歳の時、破産状態の父・秀太郎病没。二十六歳の時、長男・堯が一歳で病没。三十六歳の時、学生時代の同人誌仲間で海軍機関学校同僚教員だった芥川龍之介が睡眠薬自殺。三十九歳の時、妻・芳子病没。四十六歳の時、特に親しかった文士仲間・十一谷義三郎病没。五十四歳の時、親しかった法政大学同僚教授の三木清が終戦直後に獄中死。五十七歳の時、最晩年に豊島を頼って来た太宰治が入水自殺。その直後、同居していた次女・文も病没。五十八歳の時、太宰同様に豊島を頼って来た田中英光が太宰治墓前で自傷自殺。六十三歳の時、明治大学の同僚教授となって以来特に親しかった岸田国士病没。この一年三箇月後、豊島与志雄自身も心筋梗塞のため急逝している。享年六十四。

「駿河台文芸 第34号」平成29年(2017)12月25日


唐十郎著・西堂行人編『唐十郎特別講義―演劇・芸術・文学クロストーク―』
  国書刊行会 2017年(海藤慶次)


 私の唐十郎氏にまつわる体験というのは、自慢できるものではない。大学生の時に芥川賞受賞作『佐川君からの手紙』を読んだのと、大学院生の時に、明治大学中央図書館の一角で開催されていた「唐十郎展」を見たというぐらいのものである。もともと演劇には強い関心を持っていたのだが、私にはその世界に本格的に入り込むことを逡巡しているところもあった。今回本書の書評を書くに当たり、この際「演劇の世界とその周辺」について改めて勉強してみようとの意図で、興味深く読ませていただいた。
 この本は、近畿大学教授時代の唐十郎講義録をまとめたものである。本書では冒頭から、横浜国立大学でも近畿大学でも唐氏が若者を巻き込んで自作の演劇世界を発展させ、世の中に向けて新たに発信してきたということが語られている。当時の私と同世代の人たちが、唐十郎の独特の世界観に感銘を受けて自分たちで演じ、唐氏も若者たちの技量を見極めて演目などを決めていったのだという。唐演劇が世代を超えて熱を帯び、他の追随を許さないと言われるのも、この演劇人としての卓越した柔軟性にあるのではないかと思われた。
 講義が進むにつれて、六十年代の東京の芸術文化の爛熟が手に取るように感じられた。状況劇場と寺山修司の天井桟敷との面白い関係性や、そうした時代の熱を敏感に感じ取った三島由紀夫のエピソードなどが語られている。唐氏の少年期の回想からも様々な抽象的イメージが浮かび上がって来て、その中から「水」という普遍的であり、それでいて難解な観念が前面に出てくる。その「水」についてのとらえようのないイマジネーションが、「ジョン・シルバー」「ふたりの女」「秘密の花園」「泥人魚」といった唐演劇の不朽の名作のモチーフに結実したようである。唐氏の皮膚感覚というか、感得してきたものを具象化する才気には感服させられる。
 加藤道夫の「なよたけ」とジャン・ポール・サルトルの「蠅」という芝居を重層的に語っていくところは、比較文学の講義のようである。大学の講義という限られた枠内で、これらの作家のバックボーンや来歴についても触れており、良質の評論を読んでいるような気持になる。そして、「ポリフォニー」(多声性)という問題を語る時に、ドストエフスキーの『罪と罰』における描写やラスコーリニコフの感じたものについて触れていくところ、文学上の一つの概念として、あるものを微に入り細を穿って論じられているが、唐氏の並々ならぬ熱気が感じられて、教室中に知識人としての才気が横溢する空気そのままなのである。
 最後部の講義では、唐氏が具体的に関わった韓国演劇界の巨星たちのことや、浅草の軽演劇と紙一重のところで活動していた人たちのことが語られている。特に、軽演劇役者であるシミキンについての部分を読んで慄然とした。演劇人の心理、即ち役者の内面には様々な役回りが渦巻いているものなのだ。
 唐氏は講義の全体を通して、下谷万年町という自らのルーツについて逐一語っている。狂気のようなエネルギーがあった時代の原体験というものが、「水」のイメージも含めて、唐演劇の爆発力につながっていると示唆されている。本書は良書である。演劇に限らず文化的なものに傾倒する読者から、広く耳目を引く内容となっている。
 著者は一九四〇年生まれの劇作家、演出家、俳優、小説家。明治大学文学部演劇学科卒業。一九六三年、後の劇団状況劇場を結成。
 『少女仮面』で岸田國士戯曲賞、『佐川君からの手紙』で芥川賞、『泥人魚』で鶴屋南北戯曲賞を受賞。他に読売文学賞、読売演劇大賞芸術栄誉賞、朝日賞など受賞多数。横浜国立大学、近畿大学で教授を務めた。

田宮寛之『みんなが知らない超優良企業 ―新しいニッポンの業界地図』
  講談社+α新書 2016年
田宮寛之『無名でもすごい超優良企業 ―業界地図の見方が変わる!』
  講談社+α新書 2017年
          ○
山川博功『グーグルを驚愕させた日本人の知らないニッポン企業』
  講談社+α新書 2016年(長瀧孝仁)

 田宮寛之氏は、就職活動をしている大学生間では名前が広く知られた方らしい。この分野の講演、著作も多い。また同氏は、証券・経済記者生活が長い。明治大学経営学部卒業後、ラジオたんぱ(現ラジオNIKKEI)を経て東洋経済新報社に入社。老舗の同社が蓄積された豊富な経済・会社データを基に就職情報サービスを開始した後は、この分野の責任者となっている。
 『みんなが知らない××』を書いた意図は二つ。電機・エレクトロニクス産業など、かつての日本の花形産業は台湾・韓国・中国勢にすっかりお株を奪われ精彩を欠いているが、全国に386万もある会社には規模の大小、上場非上場、老舗ベンチャー企業を問わず、未だ世界に名だたる技術を保持する有望企業が多いのである。しかし、その事実を端的に列挙しようにも、従来の新聞株式欄のような業種分類では企業の多角化、技術高度化の現状に沿っておらず、極めて煩雑となってしまう。そこで著者は、長年の現場取材で体得した独自の業種分類によって整理してみたのである。
 それは規模の大小、上場非上場、老舗ベンチャー企業の括りを外し、成長市場をテーマごとに一括りとし、更に都市鉱山、ロボット、再生医療、炭素繊維、(自動車の)自動運転などのキーワードをもとに叙述して行くスタイルである。採り上げた250社を各章ごとに章末の一覧表にしてあるのも便利である。緒言には、この本の用途として株式投資、事業提携先探し、就職、転職が想定されるとある。
 『無名でもすごい××』は前書『みんなが知らない××』がよく売れたため、一年後に続編の位置付けで書かれたものである。前書と同じ叙述スタイルであるが、CNF(セルロースナノファイバー)、植物工場、陸上養殖、メタンハイドレート、木造高層建築など、一層夢のあるキーワードで有望企業240社が採り上げられている。
          ○
 右記の『無名でもすごい××』で採り上げられている1社に㈱ビィ・フォアードがある。その会社の創業社長が書いた著書が『グーグルを驚愕させた××』である。書店の新書本棚の同じ列に並んでいた。書名は、アフリカの一部の国で特に検索数が多い日本の無名会社を訝って、グーグル本社の副社長がわざわざ現地調査に来日したというエピソードに拠る。
 ところで私は、4年前の日本のイスラム教徒についての短文で「よく知られたことだが、20数年前1人のパキスタン人が日本のスクラップ用廃車を中近東へ輸出しようと考えた。それは、ゴミの山を宝に変える夢のようなビジネスだった」と書いた。交通規範で右ハンドル車の走行を禁じている国も多く、自国の自動車産業保護と環境問題から中古車輸入禁止の新興国もある。世界では少数派の右ハンドル車を受け入れる国とて、旧英国領などに限られて来る。元々、日本の中古車を輸出しようと考える日本人自体少なかった。
 こういう状況下、パキスタン人とは全く違った遣り方で、山川社長は日本の中古車を大量輸出することに成功したのである。正に「ネットビジネス恐るべし!」である。僅か15年で、ビィ・フォアードは世界125ヵ国へ毎月1万五千台を輸出し、国内シェア10%を越える企業にまで成長した。急成長の鍵は、輸出相手国に合わせた独自の工夫と細かなマーケティングであった。
 本書には「通信インフラが未だ整わないアフリカ諸国に、格安のスマートフォンを普及させてネット通販を可能にしたのは中国企業であった」「モンゴルでは何故かハイブリッドカー、特にプリウスばかりが売れる」「日本の中古車輸出を仕切っていたパキスタン人は、東日本大震災後に大挙して日本から去って行った。経験したことのない大揺れと福島の放射能漏れを恐れたのである」など、会社の成長過程で経験した面白い挿話が満載である。
 また、「日本という国は、日本語既習のアフリカ諸国からの元留学生に皿洗いをさせている。国の命運を賭けて遥か東方の日本の大学、大学院へと送り込まれた学力が高い若者なのに、アフリカ出身を理由に就職の門戸を閉ざしている」との苦言もある。
 最近はマスコミ上で山川社長を見掛けることもあるが、型破りな気風の方だと仄聞する。京王電鉄・調布駅の駅前ビルにだだっ広いワンフロアーの事務所を構え、パソコンが置かれた全社員180人の机が見渡せるように配置。用事がある場合、デスク脇の折畳み自転車を組み立てて跨り、社員の所まで飛んで行く。商談では世界30言語に対応するため、26カ国の社員を雇っている。社内の意思疎通は、英語混じりの日本語で行うらしい。
 同氏は福岡県出身で、明治大学文学部卒業。東京日産自動車販売での新車販売から中古車売買、中古車輸出へと深掘りして行ったようである。明大ラグビー部・故北島忠治監督の大ファンだそうで、社名の「ビィ・フォアード」は「前へ」という監督の有名な言葉を自ら意訳したという。

「現代詩手帖 二〇一七年六月号 追悼特集・大岡信」思潮社 二〇一七年六月一日
「ユリイカ 詩と批評 平成二十九年七月臨時増刊号 総特集・大岡信の世界」青土社 
                       二〇一七年六月十五日(長瀧孝仁)


 今年四月五日に大岡信先生が亡くなられてから、右の二冊の追悼雑誌が二箇月以内という迅速さで編集された。両誌に寄稿されている方もおられ、短期間にこれだけの量の原稿を集め得た両編集部には驚嘆せざるを得ない。
 二冊の雑誌を通読して先ず思うことは、大岡先生が活躍されたジャンルの多彩さと人的交流の広さである。私は大岡先生の国語・文学系統の課目を受講した法学部の一学生だったが、授業中の話を通じて日本の詩歌や古典文学に惹かれ、テキスト以外の大岡先生の書籍の多くにも目を通して今日に至っている。従って、詩集、詩論、日本古典論、「折々のうた」のような詞華集(アンソロジー)について多少は分かろうが、この二冊の雑誌で触れられている「連詩」や「合唱曲」「オペラ」となると見聞したこともなく、相当な距離を感じざるを得ない。
 当時、書店の棚に並んでいた新刊の大岡信『青き麦萌ゆ』毎日新聞社と大岡信『詩への架橋』岩波新書を読んで、「学生時代って、こんなに楽しく過ごせるものなのか!」と自分の現状と比べて感心した記憶がある。これら二冊に描かれた大岡先生の「輝ける青春時代」を彩る東野芳明(一九三〇~二〇〇五)、飯島耕一(一九三〇~二〇一三)、日野啓三(一九二九~二〇〇二)、茨木のり子(一九二六~二〇〇六)等各氏の追悼文も読んでみたいと思ったが、ずっと早く亡くなられていたのである。八十六歳で逝かれた大岡先生は、長生きされたのである。
 二冊の雑誌は通読したが、全部が理解出来た訳ではない。難解な文章も少なからずあった。そんな時、「同じことでも若し大岡先生が書かれていたならば、もっと分かり易かったのではないか」と、思わずあらぬことを考えてしまう。大岡先生は、難しいことでも読者に分かり易く説明できる名手なのであった。それは、きっちりと頭の中で整理出来ていたからであろう。二冊の雑誌には私が知らなかったことも多く載っており、今回随分と教えられた。また、新事実を聴いて思い当たる節もあった。
          ○
 二冊の雑誌で触れられていないのに、六月二十八日夕刻行われた「大岡信さんを送る会」で弔辞を述べられた粟津則雄、菅野昭正両氏と閉会近くで挨拶された土屋恵一郎明治大学学長が、何れも「大岡先生と政治」に該当するエピソードを披瀝されたのは印象的だった。
 連合赤軍の浅間山荘事件以後学生運動は急速に萎むが、私の学生時代は荒廃したキャンパスの至る所に未だ痕跡が残されていた。学園紛争を経験した教授も多く、講義中は皆一様に学生を警戒していた。他学部聴講で教わった橋川文三先生など、授業後に右寄りの学生に絡まれて辟易した話をエッセイに書かれている位である。そんな中、大岡先生も短歌の五七調による抒情に乗せられて戦地へ死に赴いた学生が大勢いた話もされたが、簡単に尻尾をつかませないというか、学生側から見ても要領よく立ち回っておられた記憶がある。粟津氏は、そういう意味のことを言われたのではないか。
 菅野氏の話は、大岡先生が一九八一年度に一年間大学を完全休講し海外で研修された折り、パリで偶然再会したというものだった。時は丁度ミッテラン政権成立の前後に当たり、政治学者でもない大岡先生が新政権成立の背景に知悉しているのに舌を巻いたという。
 土屋学長の話は、学園紛争時にバリケードの内側で見聞きした大岡先生のエピソードであった。大岡先生は教授の立場から、「君たちが世の中の総てを否定するのなら、私は世の中の総てを肯定しよう」とバリケード内の学生に語り掛けられたそうである。土屋学長はこれを聞いて、「やられた。一本取られたなぁ」と二の句が継げなかったそうである。
 菅野、土屋両氏の話は、何れも政権交代や学生運動が日本に先行するフランスの政治状況を大岡先生がよく理解出来ていたからこそ可能だった話である。私は前号「駿河台文芸33号」の「追悼 大岡信先生」に於いて、読売新聞外報部時代の深夜に黙々とニュース短信を翻訳した経験が、「折々のうた」に大きな影響を与えた旨述べた。大岡先生は授業中に外報部時代の話をよくされた。社会人としての最初の仕事であり、二十代でもあったので、少なからぬ影響を受けられたのであろう。フランス政治への知識と思考方法も、恐らく十年に及んだ外報部での仕事を通じて体得されたものだったろう。
 在職時に進行したベトナム戦争などは典型だろうが、同じ事象を扱っても、政治的立場や宗教観、興味の対象が異なると、海外での報道と国内での報道は自ずと違って来る。しかも大岡先生は翻訳者であり、内外を両睨みしている必要があった。私は、その後の大岡先生の日本古典論などに於ける複眼的な発想や思考法は、読売新聞社時代に一層訓練されたものだと考えている。
          ○
 二冊の雑誌で最も注目したのは、大岡先生が日本古典論と「折々のうた」のような詞華集(アンソロジー)の完成に心血注がれた動機と背景についてである。後には旧制高校最後の世代として、「日本の詩歌」の教養を新制大学の学生にも伝えなければならないと使命感を持たれたようだ。
 私が大岡先生に教養科目「文学」を教わったのは朝日新聞で「折々のうた」の連載が始まる前年で、長い空白期間を経て漸く『うたげと孤心』が集英社から出版された年だった。『紀貫之』が上梓されてから未だ十年も経っていなかった。当時は、詩人、歌人、俳人だけでなく、小説家や文芸評論家までもが王朝歌人や俳諧師の評伝を執筆することが盛んに行われていた。また、斎藤茂吉や萩原朔太郎、佐藤春夫の有名な詞華集(アンソロジー)も書店の棚に並んでいた。従って、大岡先生が特に目新しいことをされているとは見えなかった。
 私は知らなかったが、大岡先生には元々大学の教員になろうという意志がなかったようである。読売新聞社退職後は日本橋の画廊に勤めておられた。その頃明治大学法学部で国語の教師一人が必要となり、当時法学部でフランス語を教えておられた菅野昭正氏が仲介された。二人は大学時代の文学仲間で、菅野氏は説得に三度も画廊へ通ったそうである。
 二冊の雑誌では当然触れていないが、私は「法学部の国語の教師」という点に注目したい。法学部内部の者にしか分からないが、思い当たる節がある。法学部の国語科教師とは、かなり特殊な仕事である。何れも必修科目で、一年時に「国語」二年時に「論文演習」という時間があった。前者で文語文を読み解く練習を行い、後者で国家試験等の論文を簡潔明快に仕上げるための文章表現の練習を行う。
 民法、刑法、商法といった主だった法律は文語調であり、戦前の重要判例も文語調で書かれている。法学部の学生で文語文に馴染めない場合、暗い学生生活となってしまう。また、作文の練習については、かつて法律の専門科目の教授陣から「答案に読めない文章や誤字を書く学生をなくしてくれ」との強い要望があったようである。
 大岡先生は右に述べた国語科の授業体制を確立するため、請われて明治大学法学部に来られたのである。その法学部とは、日本の詩歌については不毛の地であった。もし文学部の教師となられていたら、これほど強く学生に日本の詩歌を伝えたいと思われなかったかも知れない。
          ○
 二冊の追悼雑誌で誰も触れないので、「大岡先生と児童書」についても書いてみよう。大岡先生が、難しいことでも読者に分かり易く説明できる名手であったことは先述した。この能力は、児童書の分野でも遺憾なく発揮された。但し、大岡先生の立場は「子どもに言葉への興味を刺戟しようと思うなら、その子どもの年齢に比べて少々歯ごたえがありすぎると感じられる言葉を、恐れずに与えるべきだ」(「仙人が碁をうつところー子どもの言語経験についてー」一九七三年より抜粋)というものである。
 私は七年前、駿河台文学会の「会報」に「大岡信先生の児童書」という短文を寄せたことがある。そこで採り上げた児童書中から、左記の二冊に付いて再考してみたいと思う。

  A.『おとぎ草子』岩波少年文庫
  B.『おーい ぽぽんた ―声で読む日本の詩歌一六六―』福音館書店

 Aは当初『鬼と姫君物語 ―お伽草子』平凡社として刊行され、改版・本文追加を経て今日に至っている。内容は、「一寸法師」「浦島太郎」というお馴染のお伽噺のほか、「酒呑童子」「福富長者物語」など全七篇を収録。それら作品が、大岡先生による美しい現代語訳で蘇るのである。
 私が大学で大岡先生に教わった教養科目「文学」の講義では、大岡信『たちばなの夢 ―私の古典詩選―』(新潮社)がテキストで、大岡信『詩への架橋』(岩波新書)が副読本として使われた。前者の目次には「お伽草子」の項目もあって、文学史上軽視されがちなお伽草子について本来の価値を教わっている。私はその時以来、「お伽草子」を小説の模範の一つだと考えるようになった。
 Bは、大岡先生ほか五人の詩人によるアンソロジー。ここで言う「日本の詩歌」とは、万葉集以来の短歌、芭蕉以降の俳句、明治以降の自由詩を指す。それらがジャンルごとに小さく集まって、「詩」「俳句」「短歌」「詩」「俳句」「短歌」と旋律のように重畳的に何度も繰り返される構造となっている。
 ここで注目すべきは、大岡先生単独による『俳句・短歌鑑賞』という解説小冊子が付録として付いていることである。選りすぐった日本千数百年間の代表的な短歌、俳句併せて百十九について、大岡先生の端的な解釈と解説が付されている。
 私が「会報」の旧文でこの解説小冊子をどう書いたか、引用してみることにする。

  この冊子が、飛切り価値ある本なのである。子供というより、寧ろ大人が読むべき本で
 ある。自分にとってこれがどれだけ大事かと言うと、大阪の伝統芸能である文楽の大夫が
 持ち場の義太夫語りの先と後に、閉じた床本を両手で頭上に恭しく押し戴く動作をするが
 あの床本に相当すると言って差し支えない。拳拳服膺、何度も読み直そうと思う。

 それにしても、こんな価値ある本が「付録」という役回りなため、日陰の存在として多用されないのが残念である。編者の数が多くて版権・著作権とも複雑そうではあるが、何時かインターネット等で公開される日が来るであろうと期待したい。全国の小・中・高等学校と世界中の日本人学校の授業で多用されて、「日本の詩歌」に馴染む少年少女が増えて欲しいのである。

大岡信『現代詩試論/詩人の設計図』
  講談社文芸文庫 2017年(多田統一)

 2017年4月5日に、大岡信が亡くなった。本書は、すでにその前から出版の計画があったもので、「現代詩試論」と「詩人の設計図」の2つの柱で構成されている。
 前者は、現代詩試論、詩の必要、詩の条件、詩の構造、新しさについて、『地球詩集』の周辺、詩観について、純粋についてなどの内容である。後者は、詩人の設計図、現代詩はなにをめざすか、鮎川信夫ノート、メタフォアをめぐる一考察、詩の方法の問題、中原中也論、宿命的なうた、小野十三郎論、歌・批評・リズム、立原道造論、 さまよいと決意、エリュアール論、パウル・クレー、線と胚種、シュペルヴィエル論、シュルレアリスム、ひとつの視点、自働記述の諸相、困難な自由などの内容である。
 初出誌一覧で確認すると、1952年11月に「赤門文学」に掲載されたエリュアール論から1958年2月に「文学界」に掲載された詩人の設計図まで、著者が21歳から27歳の間に書いたものである。この間、1957年には相澤かね子と結婚、翌年に長男玲が生まれている。
 学生時代に書いたエリュアール論は、文壇で話題になったようである。「ぼくははじめて、詩の中に自然を発見した」とか、「エリュアールの愛の詩が、あのようにも多くの、愛を歌っていない詩に平然と混じりあって現れる」など、詩人であることに全力を注いだ著者ならではの表現が見られる。三浦雅士は、解説の中で、次のように述べている。「すぐれた批評家でなければならなかったのは、詩人がそれを必要としたからである。批評を内包しない詩、詩を内包しない批評は、大岡にとっては無意味だったのである」と。
 さらに、三浦は続ける。「現代詩試論は、日本の昭和初年代のシュルレアリスムの浅薄な流行を批評するところから始まり、詩人の設計図は、フランスのシュルレアリスムの抱え込んだ矛盾を、とりわけ自働記述の矛盾として検討するところで終わる」と。これこそ、本書を総括した解説ではないだろうか。
 大岡は、1952年に卒業論文「夏目漱石」を脱稿。三浦によれば、その内容は文芸批評としてずば抜けていたと言われる。大岡の念頭には、詩人であろうとする意志はあっても、文壇批評家になる意志など持ち合わせていなかったようである。美術批評に手が伸びたのも、絵画と批評の関係が詩と詩論の関係に似ていたからに他ならない。
 大岡は、1953年8月に「詩学」に発表した現代詩試論の中で、次のように述べている。「詩が散文によって語りつくされるならば詩は詩である必要はないし、またもし散文によっては詩について語りつくすことができないとするなら、詩について語ることは批評家に屈辱感をおぼえさせるだけのものだろう。詩について散文で語ることは至難である。どこにもこれら二つの関係が完全に融和している模型はないし、そうしたものがありうるかどうかもわからない。そこにはいつでも手さぐりの歩みよりがあるばかりだ」と。これが、すべてのように思える。試論であって、結論でもあるようだ。
 大岡の明解な評論はここから始まったが、詩人としての言語感覚は、私たち読者を魅了し続けてきた。本書は詩論であるが、科学と宗教や芸術の関係を考えさせるようなスケールの大きなものである。
 奥様のかね子さんより直接お電話があり、「駿河台文芸」のお礼にと、本書をいただいた。私にとって、緊張感を持ってこの重厚な詩論に取り組む機会となった。

大岡信『うたげと孤心』岩波文庫
  2017年(長瀧孝仁)

 
本書は刊行当初から世評高く、大岡信先生の数ある著作中にあっても代表作と目されて来た。岩波文庫に於いては生前の『自選 大岡信詩集』に続くもので、日本古典論に属する作品では最初に収録されたことになる。
 「あとがき」と巻末の「編集付記」等によると、本作品は次のような来歴を辿っている。先ず季刊文芸誌「すばる」には、一九七三年六月から一九七四年九月まで全六回に亘って連載された。執筆当時、著者側で大和歌篇と漢詩篇を並立させる構想があった。しかし、漢詩篇は諸般の事情によりなかなか実現せず、一九七八年に連載分だけで『うたげと孤心 大和歌篇』集英社が上梓された。この本は一九九〇年に岩波書店の同時代ライブラリーにも収録され、更に一九九九年には、同じ岩波書店で『日本の古典詩歌 ―大岡信古典論集成― 全五巻 別巻一』が編まれた時に分載収録されている。結局、漢詩篇の構想は『詩人・菅原道真 ―うつしの美学―』岩波書店という別の書籍に結実し、今回の岩波文庫版のタイトルは『うたげと孤心』に落ち着いたのである。
          ○
 「すばる」での完結から集英社から上梓されるまでの三年半の間に著者の考察は更に進んだようである。集英社版の単行本には巻頭に新たに「序にかえて」が付された。読者のことを考えたこの短文には「うたげ」「孤心」という用語の定義があるだけでなく、後半部分で本書のエッセンスが大岡先生ご自身の言葉で述べられている。
 本書の内容を私見で言うと、次のようになる。

   現代人は近世以前の芸術、芸能を開国後に入って来た欧米の芸術観で捉えようとするが
  その目的、制作過程は大きく異なっていた。美術で考えると分かり易いが、近世以前の美
  術品は宗教や生活の部材や道具であった。では、近世以前の芸術に第一級の作品がなかっ
  たのかと言えば、そうではない。著者は日本の古典詩歌を中心に、優れた芸術作品が創作
  される過程を、相対立する「うたげ」と「孤心」という概念を軸に読み解いて行くのであ
  る。

 私は、集英社版の単行本を読み終えた時のことをよく覚えている。多少オーバーな言い方をすれば、「この本は後世に残る本だ」と直感したのである。大岡先生には秀作と言われる著作が多いが、本書は発想の独創性、論旨の明快さに於いて頭一つ抜きん出ていた。読後暫く、面白かったという記憶と爽快感が残った。言わば、それは岩波文庫に昔から収録されている古典の幾つかを読み終えた時の感覚に近いものである。
 大岡先生も、本書巻末に収録されている同時代ライブラリー版の解説「この本が私を書いていた」で意味深長なことを述べておられる。端的に私見で言ってしまうと、「この本は仕事として執筆したのではなく、何かに憑かれたように書き上げた」と言われているのである。
          ○
 今回岩波文庫版を読み直してみて、私が受講した文学の授業で大岡先生が強調されていたことは正に『うたげと孤心』の理論なのだったと再認識した。当時は意識しなかったが、調べてみると、私が教わった時期は集英社から上梓された年に当たっていた。
 もう一つ思うこと。それは、若し大岡先生が国文学者のような経歴を歩まれた方であったら、本書の発想は先ず出て来なかっただろうということである。大岡先生は詩人としての右眼で対象を主観的に捉えながら、研究者の眼力を持つ左眼で対象を客観化することが可能な方であった。この目配りは現代文学と古典文学、日本文学と海外文学、文芸と諸芸術間という、時間と空間を超えたより広い領域で行われている。
 大岡先生には、一九六七年から翌年に掛けて「中央公論」に連載された「芸術時評」を中心に編まれた『肉眼の思想 ―現代芸術の意味―』中央公論社という名著がある。三十代半ばの作品である。私は大岡先生の目配りを、同書の表題をもじって「複眼の思想」と呼びたいのだが、果たしてそれは可能だろうか?


大岡信『日本の詩歌 ―その骨組みと素肌―』
  岩波文庫(長瀧孝仁)

 
大学卒業後、かなり経ってからのことである。新聞紙上に大岡信氏がフランスの芸術文化勲章を受章されたという小さな記事を見付けて、違和感を持った。私の学生時代、大岡先生は自宅と大学と新聞社、出版社など主に東京都内で活動されていたからである。その受章理由も分からぬまま、今日まで来てしまったのである。今回本書に目を通し、「現代詩手帖 追悼号」に掲載された「大岡信 略年譜」を広げてみて、多少とも不明点が理解出来たような気がした。
 一九八一年度、当時学生が「外地留学」と呼んでいた大学の制度を使われたと想像するが、大岡先生は一年間完全休講され、北米から欧州へ、また北米へと移動して現地の大学で講演と詩の朗読活動を行われた。米国ミシガン州では偶然が重なって、トマス・フィッツシモンズと英語で連詩を作成。ここからはご自身が『うたげと孤心』巻末に付された「この本が私を書いていた」で言われるように、この連詩が評判となって、ベルリン、ロッテルダム、パリ、ヘルシンキなどから連詩の誘いが相次ぐようになり、大岡先生の交友範囲が一気に拡大したのである。
 一九八〇年代後半からは海外での大岡信作品の翻訳紹介も盛んとなり、「詩集」「折々のうた」「古典論」等が英・仏・独・西・蘭・中・マケドニア・アラビア語で出版されている。本書も英・仏・独語に訳されている。日本ペンクラブの会長を務められたのもこの頃である。
          ○
 本書は、大岡先生が一九九四年と一九九五年にパリのコレージュ・ド・フランスに於いて日本文学を紹介する目的で行った五回の授業の講義録原文である。あとがきに拠れば、コレージュ・ド・フランスとは一般市民に広く無料公開されているフランス文部省直轄の高等教育機関だという。起源は十六世紀に遡るが、二十世紀の教授陣にはべルクソン、ヴァレリー、レヴィ=ストロース、フーコー、ロラン・バルト等が揃っていたという。
 大岡先生の講義は、東京の日仏会館館長を務められたベルナール・フランク氏の推挙によるものだった。日本文で完成したテキストをドミニック・パルメ女史が仏文に翻訳、大岡先生はこれを使ってフランス語で語られたのである。テキストの内容は、一九七一年の『紀貫之』、一九七八年の『うたげと孤心』、一九八九年の『詩人・菅原道真―うつしの美学』等に於いて為された日本の古典文学への深い考察を、端的かつ網羅的に纏めたものである。授業は回を追うごとに立ち見が出る程の盛況で、大岡先生のフランス語もかなりのレベルのものだったと聞く。
 本書は当初単行本として一九九五年に講談社から刊行された。次いで二〇〇五年には岩波現代文庫に収録され、今年岩波文庫にも収められた。私見ではあるが、これから大岡信古典論を読もうという人は、先ず本書を読んで一字一句まで頭に叩き込み、次に『紀貫之』、『うたげと孤心』、『詩人・菅原道真―うつしの美学』などの本論に取り組むのも一つの方法だろう。
          ○
 コレージュ・ド・フランスでの講義は高く評価されたようである。大岡先生は講義を終えた一九九五年に芸術院会員となり、その二年後に文化功労者、二〇〇三年には文化勲章を受章されている。そして、翌年二〇〇四年にはフランス政府からレジオン・ドヌール勲章オフィシエを授与されている。ナポレオンが制定したと言われる勲章である。
 高齢で文化勲章を受章する作家や画家、学者が多い中、七十二歳と比較的若くして大岡先生に栄誉が授与された理由は、次の点であろう。詩作・詩論の業績と独創的な日本古典論、長期間連載の「折々のうた」により広く国民に日本の詩歌を馴染ませた功績だけでも、文化勲章に充分値する。ここに、先述して来た海外での評価と日本文化を海外に発信したというプラス・アルファの要素が加わったからである。
 大岡先生とフランス語と言えば、思い出すことがある。授業中に「大学卒業近くになっても就職先が決まっておらず、読売新聞社の面接試験に出向いて行って『フランス語には自信がある。任せて欲しい!』とハッタリ言って、何とか滑り込みました」と語って、学生を笑わせておられたのである。今思い返してみると、その口跡とは裏腹に、大岡先生は大学卒業時点で相当レベルのフランス語を習得されていたようだ。その後十年に及ぶ新聞社外報部での活躍、日本橋の画廊を通じて知り合った海外現代美術作家との交流がこの事実を物語っている。
 ご自身『うたげと孤心』巻頭の「序にかえて」で言っておられるように、六年に及ぶ旧制一高文科丙類、東大文学部国文科での青春時代、頭の中にはボードレール、ランボー、ヴァレリー等の詩文が強く焼き付いていたそうである。恐らく、この時期に飛躍的な上達があったのであろう。

 Copyright © 2010 SURUGADAIBUNGEI All Right Reserved